以下の投稿を書いていた9月5日時点では、スポンテニアス・ワーシップがどういうものかもよくわからなかったし、それがクリスチャンの信仰生活にどのようなインパクトを与えるものかもよくわかりませんでした。しかし…。今では、これなしでは…新幹線のない東京大阪間の移動のようなものですね(^o^)

この投稿を書いている時に偶然めぐりあったジェン・ジョンソンの賛美リードによる"What A Beautiful Name"(3番目の動画)が、私の人生に大きなインパクトを与えていたりします。礼拝の本質をわからせてくれました。以下を書いていた時にはまだわかっていなかったです。

 

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ベテル・チャーチの音楽レーベルであるベテル・ミュージックに所属するミュージシャンを色々と聴いています。なお、ベテル・ミュージックは同教会の礼拝賛美部門という基本的な性格があり、その礼拝賛美活動をビデオとして、CDとして外部に広めています。その外部に広める形が、音楽業界で一般的な「レーベル」になっているという構造。

 

アマンダ・クックがすごいです(動画6分)。

 

"You Make Me Brave" - Amanda Cook

 

テクノからジャズまで女性ボーカルものばかり聴いていた時期が15年ぐらいありました。そういうリスナー暦を持っている者にはこの声、歌、サビの盛り上がり感はツボすぎます(^o^) 再生回数50回超間違いないしのヘビロテ・ソング。

 

この動画は日曜日の礼拝賛美の時のものではなく、女性のためのクリスチャン特別集会の際に行われた記念ライブの収録で、動画入りCDが市販されているようです。

 

スタジオ収録版、歌詞入りのバージョンは以下(動画4分)。

 

 

歌詞は、イエス様が私を勇気づけてくれたので、私はあなたの恵みの中に恐れずに入る。そして、あなたの恵みの大きな波に次ぐ大きな波の中に入って、その波を浴び、あなたの存在をダイレクトに感じ取る、という大意です。

 

このアマンダ・クックは、礼拝賛美を行う際の賛美リードとしての賜物に優れているようで、すばらしい礼拝賛美の45分もの動画があります。

 

日曜礼拝の一環として行う30分〜60分の賛美を"Soaking and Prayer Music"(聖霊に浸り祈りを捧げる音楽)として括りだして丸ごとYoutubeにアップする動きが一部で見られます。

 

これは、その教会で取り組んでいる主の臨在を仰ぐ礼拝賛美を、外部の方にも経験してもらう意味があります。音楽が主体である礼拝賛美は、動画としてネットでシェアしても、その礼拝賛美の霊的な実体を、外部の方に経験してもらいやすい特性があるからだと思います。わたしもこの種の動画を見ていて、臨在を感じ始めて、両手を挙げて礼拝賛美モードになることがよくあります。

 

たまたま目に飛び込んできた以下の動画は、1曲だけの礼拝賛美シェア動画ですが、主の臨在が現れる状況をよく伝えています(動画15分)。

 

 

賛美リードのジェン・ジョンソンの口からは時々異言も聴かれます。

 

そして、後半でひとりの女性が出てきて語り始めるのは、この礼拝賛美で主の臨在に触れて、突き動かされるようにして前に出てきた主任牧師ビル・ジョンソン夫人、ベニ・ジョンソン(「ハッピーインターセッサー」の邦訳がある)による証しです。この内容はすばらしいので、後日、要訳を上げます。

 

その後にすばらしすぎる賛美になっていきます。

 

賛美リードのジェン・ジョンソンもすばらしいですが、

 

主がすばらしい。

 

このようなすばらしい賛美礼拝をもたらしてくださるのは主です。

 

こういう動画はどんどんシェアされてしかるべきでしょう(^o^)

 

ハレルヤ!

 

主の栄光を賛美します!


 

以下は改題して再掲する投稿です。オリジナルは2016年10月15日付けで投稿した「聖霊に満たされて、ひたすら満ち足りる」。日本社会にある同質化傾向から来る苦しみは、カウンセリングでなんとかなるものではなく、イエス様の救いによってのみ真の自由が得られる、ということを述べています。長いのは、これ1本でこの話題を完結させたかったからです。

 

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しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(第1テモテ6:6)

 

◎終わらないカウンセリング

 

学校でも職場でも地域でも、日本では同質化傾向が強いことは、誰もが説明不要の事実として知っていると思います。

 

40人の中学校のクラスがあったとして、そのうち、数人は30数人の、ある種「かたまりとなった心的傾向」にうまく入って行くことができず、それがため、30数人からは仲間はずれにされ、色々な時にストレスを感じることとなります。いじめにも遭うかも知れません。

 

どの集団にも確率的に数%程度は、その集団の中に溶け込めない人がいるものです。しかし、日本の社会の色々なところに根強くある同質化傾向は、その溶け込めない人をも無理くり溶け込ませようとし、それができないとわかると、仲間から閉め出します。

 

この時、閉め出されたA君、Bさんが、自分に大いなる自信を持てる才能とか、優れた身体能力とか、特殊が技能があれば、仲間から締め出しを食らっても、さほど心的ダメージにならず、割と淡々と生きていけます。学校を卒業したら、自分に合った大学なり、専門学校なりに入り、自分自身にとって、もっとも幸せだと思えるキャリアを歩むこともできるでしょう。

 

Courtesy of Toomore Chiang

 

けれども、A君やBさんが、まだ若くて、自分の美点もよくわからず、クラスの30数名の同質化の圧力で毎日、ひぃひぃ言うような状況にあるとき、けっこうこれは大変です。学校に通う毎日が、責め苦の日々となります。この心的圧迫は、人からは見えないため、時によっては親でさえ、明確に感じ取ることができないため、「なんでこの子は、こんなにまで学校でストレスを感じているのだろう?」(ポカーン)という風になることもあるかと思います。しかし、当人にとっては、ものすごい問題ですし、それも毎日毎日やってくるストレスですから、ある程度の水準まではガマンして学校に通うことができたとしても、その水準を超えるストレスが続く状況だと、もう学校には通えないということにもなるでしょう。

 

これと同種のことが、職場でも起こります。社風、あるいは会社のカルチャー、価値観。組織全体を覆う心的な同質化傾向が、自分にとってどうしてもなじめない場合、登社拒否になったり、職場を変えるということになるでしょう。

 

こうした課題を解決するために、世の中的には、専門家によるカウンセリングや、病院では神経内科とかいった、とりあえずは相談に乗ってくれる職能の人が存在しているわけですが、多くの場合は、当たらずも遠からずと言うか、1年通っても2年通っても、「完璧に救われてハッピー!」という風にはならず、重いものを抱えながら生きていく、という風になるかも知れません。

 

大学や専門学校生の頃に、バンド、演劇、アパレルデザイン、ヘアスタイリスト、ファインアート系の色々、書くこと、ソーシャルメディアでの自己表現など、自分の良いところを表現の形で外に出せるきっかけがつかめると、それ以降はそれが自己実現のメインの器となり、日本社会の同質化傾向からはあまりストレスを感じない人生の道を歩むことができる…。そういうラッキーな選択ができるようになる人もいるでしょう。

 

しかし、そうではない人もいるわけです。

 

私は、20歳の時にインドに行って、ドラッグをやりまくって、その上、現地の多神教の偶像礼拝的な渦の中に巻き込まれてしまった経験があり、それまでは普通の小学生、中学生、高校生、大学生でやってきましたが、それ以降は、ものすごく特殊なものを抱えた、誰にもうまく説明できない、日本の社会の同質化傾向の中にはまったく入れないという状況になってしまいました。

 

その頃、ユング派の秋山さと子氏の指導を受けた、ユングから見ると愛弟子(CAマイヤー)の弟子(秋山さと子)の弟子(私がユング派の分析系カウンセリングを受けていた女性の方)、すなわちひ孫弟子にあたる方に、3年程度か、毎週土曜日に伺って、45分程度、色々のお話をするというカウンセリングを受けていました。ですが、結果としては、あんまりさっぱりしたものにはなりませんでした。

 

夢を書いて持って行って、アンプリフィケーション(増幅)と呼ばれる、夢の中の諸要素についておしゃべりをしながら、その文脈を作るというような作業や、箱庭に色々のものを並べて、並べ終わってから私が説明したり、カウンセラーの方から質問を受けてそれに答えたり、といったことをやっていました。

 

当時、翻訳されていたユングの本はほぼすべてしっかりと読んでいました。その中でも、ユングの晩年の大著である「心理学と錬金術」には、「分析治療は終わらないものだ」ないしは「分析治療は、クライアント(カウンセリングを受けている人)においては、どこまで行っても終わったという実感が持てないものだ」というニュアンスのことが書かれていて、当時も「ああ、そういうものなのか」とうっすらと感じ取っていたということはありました。要は、セラピーはエンドレスなのです。

 

最相葉月が一昨年かな、出版した「セラピスト」では、そうした欧米が起源のカウンセリングの各派の発展の道筋をたどりながら、日本の高名な分析心理学者(ユング派)、アドラー派、その他の大家の方々に取材し、彼女自身も取材の過程で自分の問題を明るみに出していくという、かなり力の入った内容になっていました。それでもやはり結論から言うと、この種のカウンセリングは多くの場合、終わらないのですね。

 

で、何が言いたいかと言うと、ほんとうの自由というのは、やはり、イエス・キリストから来る自由しかない、というのが、私が、上記のインドのあれこれから35年程度生きてきて、得た結論です(うち15年強がクリスチャン人生)。35年ですからね。すごいですよ(笑。イスラエルの民が荒野をさまよった40年間にも匹敵しようかと言う年数です。

 

◎日本の社会の同質化傾向のキモ - 日本教的なもの

 

日本が特殊な社会だと言うつもりはありませんが、おそらくは、徳川幕府300年間の間に、各藩における地域社会システムの統治の手法が確立し、地域社会の隅々にまで行き渡り、村や町の和を乱すような人が出にくい社会になっていったのではないかと推察します。和を乱すというのは、社会構成員の大多数が「良し」としていることに異を唱えること。和を乱すことはよくない。和を乱した者は社会から除外せよ。そういうメカニズムが定着したのでしょう。当時のキリシタンがその最大の被害者だったと思います。

 

倒幕から明治維新にかけて、日本の国家レベルにおいて、旧弊な社会統治システムは刷新されました。この頃は、色んな人が色んなレベルで「これが日本にとっての『良し』」ということを真面目に議論し、社会改革に動くことができました。この頃の日本は、同質化傾向がきわめて弱まった時期ではなかったかと思います。


その後、大正には随分と自由な気風が--それも舶来のものでしたが--都会に浸透した時期があったようです。「モボ」「モガ」が話題になった時期ですね。昭和に入ってだんだんと、軍主導の統治システムが確立していきました。同質化傾向が最高度に強まった国家神道と国体が形づくられて、多くの人が犠牲になりました。日本にいた、ないし連れて来られた外国人の方々も、相当な辛酸をなめさせられたことでしょう。そして、日本は戦争に負けました。

 

戦後の混乱期は、とにもかくにも、多くの人たちが生きていくのに大変で、同質化傾向もへったくれもなかった、良い意味でのカオスがあったと思うのですが、高度成長期を経て、日本が復興するにつれて、企業社会や学校において、再び同質化傾向が威力を増すようになったと考えています。

 

日本にある同質化傾向の特徴を挙げると、次のようになるかと思います。

 

・ルールは暗黙のものである。明文化されていない。ルールをあうんの呼吸で理解できないと、無粋な奴だと見下される。
・社会の成員全員がその同質化傾向を受け入れて当然、という思考をベースに持つ。異なる考えを持つ少数派を認めない。
・その時代、時代で、同質化傾向の表層部分は「ファッション」のように手替え品替え、様相を変える。例えば、80年代のバブル期のらんちき騒ぎや、近年の新卒者の就職活動の現実など。
・ルールに背くと、何らかの罰を受ける。場合によっては、その共同体からはじき出される。

 

これは、目に見えるレベルの話ですね。

 

クリスチャンになって10数年、この同質化傾向には、霊的な側面があると、いまはハッキリと感じます。


聖書的には、聖霊を初めとした聖書的な霊でないものは、汚れた霊(evil spirit)か悪霊(demon)です。日本の同質化傾向の背後で動いているのは、もちろん聖書的な霊ではないので、悪霊ないしは汚れた霊ということになります。

 

この同質化傾向が、一種の「宗教」であると考えればわかりやすいでしょう。便宜的に「日本教」と呼ぶことにします。


日本教では、大多数の社会構成員が崇拝する目に見えない神がいます。聖書的な神ではないので、日本教の神と呼ぶことにしましょう。聖書的な観点では旧約の時代のバールみたいな神です。

 

日本教の神は、それに従順である限りにおいて、その社会において、その組織において、構成員を優遇してくれます。しかし、日本教の神以外の神を崇拝している人は、優遇されないグループに入れられてしまいます。

 

また、日本教の神は、寛容ではありません。裁く傾向がかなり強いです。なので、日本教のルールを守らない人には、苛烈な裁きが下ります。また、社会の構成員同士が裁き合います。裁き合う中で、社会の統制を保っているところがあります。

 

また、不祥事を嫌います。不祥事があると、日本教の神は、その構成員全員とともに、呵責なく裁きます。よくメディアで、芸能人などが謝罪が要求されたり、企業の経営者が新聞・テレビのカメラの前で統一的な作法に従って、同じ角度で頭を下げるということがあります。不祥事を起こすと、あのような社会的な裁きがあります。


このへんは、日本人社会の心的傾向というレベルを超えて、構成員の大多数が憑かれている悪霊によるものだと考えると、わかりやすいと思います。

 

日本教の神は、構成員の1人ひとりに悪霊を送っていて、その悪霊が各人をやいのやいのと掻き立て、謝罪を迫ります。不祥事を起こした人を裁くことによって、その宗教共同体は生き生きとした命を保っている(スケープゴートですね)。そんな様子があるようですね。

 

このように、日本教という目に見えない宗教的な枠組みがあり、社会の構成員の1人ひとりに、悪霊を送っていて、裁きによって統率している。そういう風に考えると、冒頭で述べた、学校や職場で少数派である人が受けるストレスの意味がよく理解できるように思います。


また、多くの場合は、社会への不適応を抱えて、専門家のカウンセリングを受けても、問題の本質が霊的なものであるため、カウンセリングによる解決に導かれにくい、ということの構造も見えてくるように思います。

 

聖書になじんだ方には、日本には目に見えない律法主義のような霊的な活動があり、それは新約の救い主イエス・キリストが介入してこないと、本来的な解決である霊的な救いには至らない。そのように説明するとわかっていただけるかと思います。

 

◎ほんとうの自由はイエス・キリストから

 

聖書には、主イエス・キリストを信じることによってもたらされる「ほんとうの自由」に関する記述がいくつもあります。

 

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:16〜21)

 

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31〜32)

 

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)


イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:34〜36)


かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(第2コリント3:15〜17)

 

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

 

この、イエス・キリストを信じることによって得られる自由は、本質的な、根源的な、最終的な、霊的な自由であるため、日本社会の至るところにある同質化傾向の縛り、くびき、拘束、ある意味で奴隷のようになることを強いること…。そうしたことからの完全な自由をもたらします。35年苦しんできた私が言うのですから、間違いはありません。

 

◎聖霊に満たされて、ひたすら満ち足りる

 

そして、この話には、まだ続きがあります。イエス・キリストが主であると信じ、告白し、水のバプテスマを受けてクリスチャンになった後で、すべてのクリスチャンは、聖霊のバプテスマと呼ばれるものを受けるチャンスがあります。


私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1:8)

 

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)

 

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(マタイ3:11)

 

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(ルカ3:16)

 

この聖霊のバプテスマを授けていただくと、「聖霊に満たされやすいからだ」になります。パウロは、この「聖霊に満たされやすいからだ」のことを「神の宮」、「神の神殿」と呼んでいます。

 

神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(第2コリント6:16)

 

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(第1コリント3:16)

 

自分の内側に聖霊の満たしが起きやすくなると、例えば、次のような経験をするようになります。

 

・日曜日の礼拝に出席した後、自宅に帰るまでの間に、賛美、礼拝の間に受けた聖霊、感じ取った主の臨在、現れた主の栄光の「残影」のようなものがからだじゅうに満ち満ちて、ぼーっとしながら、感激しながら、この世のものではない喜びに浸りながら、てくてく歩く。
・何の前触れもなく、歩いている自分の内側に、聖霊が満ち満ちて、ある種の陶酔状態が訪れる。多幸感に包まれる。
・物質的な意味で、あるいは経済的な意味で、何かが不足していたり、乏しい状態にあるとしても、霊的な喜び、天的な豊かさが内に満ち満ちるので、ひたすら「満ち足りた」こころもちになる。

 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(第1テモテ6:6)

 

そうなのです。聖霊様が満ち満ちて下さることによって、目に見えるものや物質的なものが、豊かにあるかないかにかかわらず、「ひたすら満ち足りている」という実感を持つことができるようになります。これは実にすばらしいことです。

 

上で述べた「自由」のさらに先にある、とほうもない充実感とでも言いましょうか。

 

そういうことを経験するようになると、日本教の枠組みが強く動いている社会や集団の中に入っていく際にも、自分においては、主イエス・キリストにあるバリヤーのようなものが働いて、そこにいても常に喜びがある、本来的な自由を感じ取ることができる、ストレスなんか全然関係ない、周囲の日本教の方々にも、イエス様の名によって祝福を与えることができるようになる、隣人として愛することができるようになる。そういう善循環が始まります。

 

それもこれも、イエス様が十字架でご自身を犠牲の子羊として捧げられたことによっていただける、無制限の恵みのゆえです。

 

ということで、主イエス・キリストにある自由!ハレルヤ!

 

 

ソロモン王、そして彼のところに集まったイスラエルの全会衆が彼とともに、箱の前に行き、羊や牛をいけにえとしてささげたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできなかった。(第1列王記8:5)

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」。このことは数日前から自分の内に想いとして来ていました。

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」。今で言うと、どういうことなんだろうかと。

この「礼拝」ですが、よくよく考えると、どこからどこまでが礼拝なのか、わからなくなりますよね。一般的なプロテスタントの教会で育つと、「礼拝」ですぐにイメージするのは、牧師先生による「礼拝メッセージ」の方ですね。

しかし、誰もが理解できるように、例えば、イエス様が以下でおっしゃっていた「礼拝」とは、「礼拝メッセージ」の方ではなくて、真に、神に額ずく、心からの行為。心から、主への敬愛を示す所作、時間。交わりのための聖なる時間。聖霊様に満たされて過ごす至福のとき。イエス様だけのことを思い続ける永遠の幕屋の経験。そうしたものですよね。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)


この「霊とまことによる礼拝」。「礼拝に惜しげもなくお金を使う」とは、この「霊とまことによる礼拝」に惜しげもなくお金を使うということになるでしょうね。

そのお金の使い方とはどういうものか。

神殿建築。これに多大なお金を使う。これは過去にカトリックからプロテスタントまで、多くの教会が行ってきたことです。サグラダファミリアは今でも建設中です。金額で言えば、数百億円というオーダーでしょう。

数千億円になると、これがどうなるのか。「礼拝に惜しげもなくお金を使う」とは、数百億円の規模の教会建築にかかる費用を1桁上げる、ということとは違うでしょうね。いや、絶対に違うという感じがします。

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」。どういうことか。

例えば、プロ中のプロの音楽家を呼んできて、礼拝賛美を捧げる。発想法としては、ベルリン・フィルハーモニーを1年間、特別な契約をして、教会での礼拝賛美のために毎週毎週バッハを演奏してもらう。たぶん、数十億円の費用がかかるでしょう。場合によっては200億円ぐらい。(これは発想法として、ということです。少し大目に見てくださいね。) 

これが「礼拝に惜しげもなくお金を使う」ということになるのかどうか?

お花!礼拝に使う会堂にものすごくたくさんのお花を世界中から運び入れて、もうお花のすばらしい匂いで誰もがうっとりするぐらいの会堂にする。そして、音楽も、上のベルリン・フィルほどではないにせよ、すばらしい礼拝賛美の方々に演奏していただく。何と言いますか。消えていくものに惜しげもなくお金を使う。冒頭のソロモンの数え切れない羊や牛の捧げ物に近い費用のかけ方。これが「礼拝に惜しげもなくお金を使う」ということになるのかどうか?

なんとなく、違うという感じがしますね。限りなく近いですが、ややずれているという感じです。霊的な感じがしません。

献金はどうか。集まる全ての方々のすべての献金を合計すると、ものすごく膨大な金額なる。そういう礼拝。これもやはり違うでしょうね。

と書きながら、黙示録の中に、完全な礼拝の様が記してあるのを思い出しました。

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」

また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、

二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。


「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録4:8-11)


聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。これは、礼拝の中の主への賛美としては、比類のない言葉ですね。

「礼拝」のギリシャ語proskuneóの意味を確認すると、「至高のものの前でひざまずき、地面にキスをする」とあります。神の前に思わず出てしまって、どうしていいかわからずに、はっとひざまずき、そうして頭を地面になすりつける。そういう感覚でしょうね。ラテンの国のサッカーの選手がよく、ゴールが決まると地面にひざまずいて地にキスをしていますが、あれは文字通りのギリシャ語原義の礼拝ですね。クリスチャンなのだと思います。

イエス様と弟子3人で山に上って、白い雲のような父なる神が現れた時に、ペテロが興奮してしまって、幕屋を3つ作りましょうか?と提案する場面がありますね。あの反応も、フォーマリティという意味では難がありますが、一種の礼拝のような反応ですね。崇高なものが出現したので、とにかくひたすら何か恭順を示すことがしたいという反応。

すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。(マルコ9:5-6)


「言うべきことがわからない」、「恐怖に打たれた」…。ほんとうの主を目の前にすると、おそらく、最初は驚愕してしまって、言葉が言えなくなるでしょうね。

優れた賛美リーダーが導く40〜60分のスポンテニアス・ワーシップの中では、盛り上がる時ももちろんあるのですが、静まって静まって、どこまでも、聖なるものの中に浸る、というような場面も出てきます。持続時間で言うと、40分のうちの最大で10分程度。こういう時間があると、その中では、ひたすら聖なるものの前に額ずきたいという気持ちになります。ひたすら頭が下がる。偉大なものを前にして、自分がひたすら、いと小さきものになる。

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」とは、どうも金銭的なものを惜しげもなく使うというよりは、その礼拝に向き合う態度。それが、こころを注ぎだしている。その注ぎだし方が半端ではない。礼拝にいのちを捧げる、というような姿勢。そういうことでしょうね。お金以上のものを注ぎ出す。

締めのみことばが浮かびました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

これですね。これ以外に、「礼拝に惜しげもなくお金を使う」礼拝はあり得ませんね。

イエス様のお名前を賛美します!

後記。

以下のRick Pinoの"Holy is Our King"は、上で引用した黙示録4章の場面をそのまま現代賛美歌にした曲です。

 

 

これは名曲です。これは、真剣に集中して聴いていると、涙が出ます。無数の天使が飛び交うなかをイエス様が天から降ってくる…再臨のシーンが眼前に広がる感じがあります。

 

ハレルヤ!

 

 

Photo courtesy of Sentinelle del mattino International