ソロモン王、そして彼のところに集まったイスラエルの全会衆が彼とともに、箱の前に行き、羊や牛をいけにえとしてささげたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできなかった。(第1列王記8:5)

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」。このことは数日前から自分の内に想いとして来ていました。

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」。今で言うと、どういうことなんだろうかと。

この「礼拝」ですが、よくよく考えると、どこからどこまでが礼拝なのか、わからなくなりますよね。一般的なプロテスタントの教会で育つと、「礼拝」ですぐにイメージするのは、牧師先生による「礼拝メッセージ」の方ですね。

しかし、誰もが理解できるように、例えば、イエス様が以下でおっしゃっていた「礼拝」とは、「礼拝メッセージ」の方ではなくて、真に、神に額ずく、心からの行為。心から、主への敬愛を示す所作、時間。交わりのための聖なる時間。聖霊様に満たされて過ごす至福のとき。イエス様だけのことを思い続ける永遠の幕屋の経験。そうしたものですよね。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)


この「霊とまことによる礼拝」。「礼拝に惜しげもなくお金を使う」とは、この「霊とまことによる礼拝」に惜しげもなくお金を使うということになるでしょうね。

そのお金の使い方とはどういうものか。

神殿建築。これに多大なお金を使う。これは過去にカトリックからプロテスタントまで、多くの教会が行ってきたことです。サグラダファミリアは今でも建設中です。金額で言えば、数百億円というオーダーでしょう。

数千億円になると、これがどうなるのか。「礼拝に惜しげもなくお金を使う」とは、数百億円の規模の教会建築にかかる費用を1桁上げる、ということとは違うでしょうね。いや、絶対に違うという感じがします。

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」。どういうことか。

例えば、プロ中のプロの音楽家を呼んできて、礼拝賛美を捧げる。発想法としては、ベルリン・フィルハーモニーを1年間、特別な契約をして、教会での礼拝賛美のために毎週毎週バッハを演奏してもらう。たぶん、数十億円の費用がかかるでしょう。場合によっては200億円ぐらい。(これは発想法として、ということです。少し大目に見てくださいね。) 

これが「礼拝に惜しげもなくお金を使う」ということになるのかどうか?

お花!礼拝に使う会堂にものすごくたくさんのお花を世界中から運び入れて、もうお花のすばらしい匂いで誰もがうっとりするぐらいの会堂にする。そして、音楽も、上のベルリン・フィルほどではないにせよ、すばらしい礼拝賛美の方々に演奏していただく。何と言いますか。消えていくものに惜しげもなくお金を使う。冒頭のソロモンの数え切れない羊や牛の捧げ物に近い費用のかけ方。これが「礼拝に惜しげもなくお金を使う」ということになるのかどうか?

なんとなく、違うという感じがしますね。限りなく近いですが、ややずれているという感じです。霊的な感じがしません。

献金はどうか。集まる全ての方々のすべての献金を合計すると、ものすごく膨大な金額なる。そういう礼拝。これもやはり違うでしょうね。

と書きながら、黙示録の中に、完全な礼拝の様が記してあるのを思い出しました。

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」

また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、

二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。


「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録4:8-11)


聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。これは、礼拝の中の主への賛美としては、比類のない言葉ですね。

「礼拝」のギリシャ語proskuneóの意味を確認すると、「至高のものの前でひざまずき、地面にキスをする」とあります。神の前に思わず出てしまって、どうしていいかわからずに、はっとひざまずき、そうして頭を地面になすりつける。そういう感覚でしょうね。ラテンの国のサッカーの選手がよく、ゴールが決まると地面にひざまずいて地にキスをしていますが、あれは文字通りのギリシャ語原義の礼拝ですね。クリスチャンなのだと思います。

イエス様と弟子3人で山に上って、白い雲のような父なる神が現れた時に、ペテロが興奮してしまって、幕屋を3つ作りましょうか?と提案する場面がありますね。あの反応も、フォーマリティという意味では難がありますが、一種の礼拝のような反応ですね。崇高なものが出現したので、とにかくひたすら何か恭順を示すことがしたいという反応。

すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。(マルコ9:5-6)


「言うべきことがわからない」、「恐怖に打たれた」…。ほんとうの主を目の前にすると、おそらく、最初は驚愕してしまって、言葉が言えなくなるでしょうね。

優れた賛美リーダーが導く40〜60分のスポンテニアス・ワーシップの中では、盛り上がる時ももちろんあるのですが、静まって静まって、どこまでも、聖なるものの中に浸る、というような場面も出てきます。持続時間で言うと、40分のうちの最大で10分程度。こういう時間があると、その中では、ひたすら聖なるものの前に額ずきたいという気持ちになります。ひたすら頭が下がる。偉大なものを前にして、自分がひたすら、いと小さきものになる。

「礼拝に惜しげもなくお金を使う」とは、どうも金銭的なものを惜しげもなく使うというよりは、その礼拝に向き合う態度。それが、こころを注ぎだしている。その注ぎだし方が半端ではない。礼拝にいのちを捧げる、というような姿勢。そういうことでしょうね。お金以上のものを注ぎ出す。

締めのみことばが浮かびました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

これですね。これ以外に、「礼拝に惜しげもなくお金を使う」礼拝はあり得ませんね。

イエス様のお名前を賛美します!

後記。

以下のRick Pinoの"Holy is Our King"は、上で引用した黙示録4章の場面をそのまま現代賛美歌にした曲です。

 

 

これは名曲です。これは、真剣に集中して聴いていると、涙が出ます。無数の天使が飛び交うなかをイエス様が天から降ってくる…再臨のシーンが眼前に広がる感じがあります。

 

ハレルヤ!

 

 

Photo courtesy of Sentinelle del mattino International