監督:森淳一/原作:伊坂幸太郎/脚本:相沢友子/撮影:林淳一郎/美術:花谷秀文/編集:三条知生/音楽:渡辺善太郎/製作:2009年日本映画/上映時間:1時間59分/配給:アスミック・エース/プロデューサー:荒木美也子、守屋圭一郎 /
主題歌:『Sometimes』S.R.S /公式サイトhttp://jyuryoku-p.com/
奥野泉水:加瀬亮 /奥野春:岡田将生/奥野正志:小日向文世/夏子:吉高由里子/山内:岡田義徳 /葛城由紀夫:渡部篤郎/奥野梨江子:鈴木京香/
作品の中に、作家のパーソナリティーが強烈に表出する作品があります。作家の好きな映画とか、印象に残った絵画とか、心地よい音楽とか、興味のある文学とか、関心をひいた逸話とかが、作品に投影されています。伊坂幸太郎が「重力ビエロ」」(2003年、新潮社)に散りばめているさまざまなエピソードは、伊坂作品に独特な陰影と、伊坂ワールドに深みと魅力を与えています。小説に埋め込まれているさまざまなエピソードは、映像化のときに、監督と脚本家の手腕と裁量によって、取捨選択されます。
小説の面白さと映画の面白さは、それぞれ別々でありながら、しかし作家の「真意」が映像の背後からオーラのように見えることがあります。映画を見ることと、小説を読むことの大きな違いはあるにしても、いい作家といい監督、面白い小説と面白い脚本は、ともに爽やかな感動を残してくれます。、「重力ピエロ」を観賞した私の、第一の感想です。
「春が2階から落ちてきた…」で映画と小説は始まり、「春が2階から落ちてきた…」で、小説と映画は終わります。メビウスの円環であるかのように…。
伊坂ワールドの原作「重力ピエロ」の円環は、「春が2階から落ちてきた…」の短い二つのフレーズの間には、さまざまなエピソードが埋め込まれています。高校の体育倉庫でのレイプ未遂、マイケル・ジョーダンのサイン入り野球バット、母の強姦と妊娠と連続レイプ事件、サーカスのピエロと空中ブランコ、仙台市内の連続放火事件とグラフィティアートの落書き、火山灰に埋もれた都市ボンベイの落書き、ネアンデルタール人とクロマニヨン人、原始人たちの洞窟壁画、春が入選した風景画と審査員、DNAの二重螺旋と細胞分裂とテロメア、ガンジーの「非暴力」、芥川龍之介の「トロッコ」と「地獄変」、コノハナノサクヤビメ」と日本神話、盲目のジャズ演奏家のローランド・カーク、ジャン・リュック・ゴダーの映画、オラウータンとゾウアザラシと人間のセックス、がん細胞とP53の遺伝子、桃太郎と親殺しの日本民話、母と競馬場の賭け勝負と馬券、シャガールの絵画、カッコウの雛と子育て…。エピソードの重層構造に謎が蔦のように絡み付いています。それが伊坂ワールドの小説の魅力です。
映画では削除されているエピソード、映画の骨子に採用されているエピソード、小説の中のエピソード、脚色されているエピソード…。まだまだここに書ききれないエピソードはたくさんあります。が、約2時間の映画に収めるために、エピソードの多くが削除されています。どのエピソードを映像化するのかは難しい創作の問題でもあります。それ程、伊坂ワールドのエピソードは重要ではないでしょうか…。それが彼の小説が、映像化が不可能といわれる所以なのではないでしょうか…。
このミステリー風映画・小説は、過去と現在に起こった事件が複線となって、一片一片のエピソードの断片は、ジグソーパズルのように全体とになり、全体は、僅か数十年の家族の断片の過去から、数千年の人間の真実が浮上してきます。全体の背後に人間の性とは?、家族の絆とは?芸術とは?愛とは?暴力とは?…読者の心に深い問いを残します。
遺伝子を研究する泉水(加瀬亮)と芸術的な才能を持つ春(岡田将生)は、仲の良い兄弟です。『それでもボクはやってない』(周防正行監督)で主演した加瀬亮は、遺伝子研究をする兄役・泉水を演じる。映画では、今年35才になる大学院生の設定です。原作では「ジーン・コーポレーション」という遺伝子関連企業に勤めるサラリーマン。 春の持ちかけた放火事件の謎に興味を持ち、謎解きに乗り出すことになる。現代において、DNAの遺伝情報と人の脳と宇宙は、人間に残された最後のフロンティアかもしれません…。
『天然コケッコー』(山下敦弘監督)でデビューした岡田将生は、市内に描かれたグラフィティアートの落書きを消す仕事をする弟・春役を演ずる。母親が連続婦女暴行犯に襲われた際に出来た子供が春。そのため彼は「性的なるもの」を嫌う。 誕生日がパブロ・ピカソの命日と同じであることから、ピカソの生まれ変わりだと父に言われ、ピカソに親しみを込めて「ピカッソ」と呼ぶ。
泉水・春の二人の兄弟の両親に扮するのは、癌と闘う優しい父役の小日向文世と、元ファッションモデルだった美しい母役を鈴木京香が演じる。 父は地味で目立たない平凡な地方公務員。母は既に亡くなっている。父母と泉水・春の四人家族の過去には、母を連続強姦魔にレイプをされ、春を妊娠したという暗く忌まわしい事件の記憶がありました。
物語の核は、二人の住む仙台の街で連続して起こる放火事件と、現場近くに必ず残されたグラフィティアートと、遺伝子情報の奇妙で意味ありげな符号の謎解きになる。
兄弟の事件を郷田順子( 吉高由里子)が、実は大学時代に春の追いかけであった「夏子」が、再び春と事件の謎を追いかけ廻わす。癌で入院中の父も、連続放火と奇妙な悪戯書きに興味を示す。私立探偵、実は腕利きの泥棒である黒澤も捜査を始める。
その奇妙な落書きと、その不可思議な連続と放火は、幸せそうに暮らす奥野一家の哀しい過去へと繋がっていった…。その謎は、奇妙な殺人で終わる。
映画は、元芸術家の郊外のアトリエに住んでいた父が亡くなった後、兄弟が養蜂作業を共同で行う風景で終わる。その時、春は父の部屋へ蜂の本を探して、二階から下へ身軽に飛び降りる。小説では、缶ビールを片手に屋根の上から下に飛び降りる。
母を襲った連続強姦魔で春の実の父親である葛城由紀夫(渡部篤郎)は、今は高級マンションに住み、売春斡旋を行う悪者で、「邪悪なる者」の象徴で登場します。春は一家が24年前に住んでいた廃屋に葛城を呼び出し、マイケル・ジョーダンのバットで葛城を撲殺して、家に放火する。一家の忌まわしい記憶は、炎と共に浄化され、燃え落ちるのでした…。
今、「青年」でいることは、喩えれば、人類数千年の進化の重みを背中に背負って、「現実」の重圧に押し潰されそうになりながら、足をフラフラよろけ、希望とイデアの地図を片手に、進歩の矢印を、一歩一歩歩いて行くようなものなのかも知れません…。シジフォスの神話よりも、もっと過酷な「現実」の重い石を肩で支えているのだろう。
この小説の題名にもなっている「重力ピエロ」は、落ちそうで落ちない、空中を危なっかしく飛ぶサーカスのピエロのエピソードから来ています。著者は、「現実」のさまざまな重圧に対して笑って耐えるほかはない…というのだろうか。
アクロバットする空中のビエロは、苦痛を軽々と背負い、挫けることなく道化る。
空中のビエロについてこう書いています。
…本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」春は、誰に言うわけでもなさそうにだった。「重いものを背負いながらタップを踏むように」詩のようにも聞えた。「ピエロが空中ブランコから飛ぶ時、みんな重力のことをわすれているんだ」続ける春の言葉が印象的だった…
…ああ、と春がうめくような声を上げたのは、空中ブランコがはじまった時だった。「落ちちゃう」春が首を曲げて、空中ブランコを見上げながら、心底不安げな声をだした。
…母の声がつづいた。「あんなに楽しそうなんだから、落ちるわけないわ」…柔らかい身のこなしでピエロはブランコを操るピエロは決して落下しないようにも見えた。「ふんわりと飛ぶピエロに、重力なんて関係ないんだから」「そうとも、重力は消えるんだ」父もそう言った。「どうやって?」私が訊ねる。「楽しそうに生きてればな、地球の重力なんてなくなる」「そうね。あたしやあなたは、そのうち宙に浮く」…
…ピエロは重力を忘れさすために、メイクをしたり玉に乗り、空中ブランコで優雅に空を飛び、時には不恰好に転ぶ。何かを忘れさせるために。私の脳裏には、家族全員で行ったサーカスの様子また蘇った。「そうとも、重力は消えるんだ」と言った父の声が響いていた。…
連続放火の現場は、母がレイプされた強姦魔が犯行を重ねた現場と一致していた。レイプ魔の現場を放火する春にとって、忌まわしい過去の記憶を浄化することでもあった。
/////////////////////////////////////////////////////////////////////仙台の市街に連続する放火魔の事件は、それ自体「放火」=犯罪という単純な犯罪図式では割り切れない、根の深いヒューマンな要素を孕んでいます。
さて、都市に発生する放火犯、都市に出没する放火魔の正体とは、何なんだろうか?都市に相次ぐ放火事件は、都市生活が生み出された魑魅魍魎なのだろうか?
多田道太郎氏が、『変身 放火論』(1998年、講談社刊)という面白い本を書いてます。日本文化史に残る江戸の大火事、「八百屋お七」の放火から、西鶴の「好色五人女」、近松の「曽根崎心中」、中里介山の「大菩薩菩薩峠」、三島由紀夫の「金閣寺」、村上春樹の「納屋を焼く」、「ノルウェーの森」までの文学作品を「放火」という視点から、さまざまな小説の、作者が埋め込んだ「放火」の叙述の意味を分析しています。多田道太郎氏は、「放火」あるいは火そのものに、人間の原初的な魂の発露を見つけているようです。
『都市型放火犯罪』(上野厚著、立花書房)は、神奈川県で発生した昭和46年から昭和55年までの10年間、放火犯109人、379件の都市型放火犯罪の特徴を調査、分類、解析した興味深い本です。従来、放火犯罪は農村社会での原始的な人間関係の軋轢から生じる復讐手段と見られてきましたが、昭和四十年代の神奈川県の放火を分析した結果、著者は、…放火犯罪は、農村型から都市型へと変容してきている…と言う。その変容の主体と原因と状況を、都市への流入者による放火、職場の人間関係のトラブルと、その葛藤解決の手段としての放火、コンクリートジャングルに囲まれた生活環境の中での放火を挙げています。
特に第2章の、幼児期から思春期までの放火犯罪の分析は面白い。ウィーン大学精神神経科のワグナー・ヤウレッグ教授と、米コロンビア大学医学部精神医学科のルイスとヤーネルの心理分析を援用しながら、幼児期のアニミズム的放火衝動や、少年期の抱く空想的・破壊衝動的火遊び、思春期独特の情緒的・精神的葛藤と、その緊張状態からの開放手段として魔術のような「火」を挙げています。思春期の心理的軋轢と、「無力性の補償行為」から、都市型放火犯罪はさらに進化しているのでは…。
「重力ピエロ」で著者が説明する「放火」論は、小説家の感性が「火」についての独特の解釈を加えているので、さらに大変面白いです。
…放火の動機で一番多いのが確か『不満の発散』だった。半分以上がそれだったな。で、次が『恨み』。その次が火事騒動を楽しむためだとか、痴情のもつれ。計画的な放火というのは珍しいんだ」…「火には浄化作用があるんだよ」父は、自分自身が火によって慰められた経験があるような口調だった。…
…「人は生まれつき燃やすのが好きなのかな」私は十代の頃、キャンプファイヤーを囲んだ時の、高揚感を思い返していた。…「燃え尽きる、と言う表現もあるくらいだから、何かをやり遂げた気分になるのかもしれない。火には達成感のようなものがあるんだろうな。これは日本人のせいかもしれないが、やはり火葬にすると諦めがつく」…そこで春が口を開いた。「火や火事には魔力みたいのがあるんだろうな・三島由紀夫の本で金閣寺に放火した青年の青春小説があるよね」
…「あの主人公の僧がさ、『金閣寺が焼けたら、世界は変貌する』と考える場面があるじやないか」
…「きっと人間が世界を変えるために使うのは火なんだ」春は、春は火や炎の話をしているのとは不釣合いの、涼しい顔をしていた。
…「聖書によればソドムの町は火で焼かれたんじゃなかったか」父が笑う。
…「神は火も使う」私はといえば子供の頃に聞いた話しを思い出していた。日本神話にコノハナノサクヤビメという登場人物がいる。彼女は妊娠した際に夫のニニギノミコトから「本当に俺の子が」と疑いをかけられ、それを証明するために産屋に火をつけた。「この中で無事に子供が生まれてきたら、あなたの子だと証明されます」とむちゃくちゃな理屈を展開したのだ。…
芸術を愛することは、性的なもの、暴力的なもの、ありとあらゆる感性的なものを含んだ「人間的な」ものを愛することでもあります。クロマニヨン人の子孫であることは、そうしたもろもろの人間的な感性と、私たちの精神の深層に隠された荒荒しい感情を引き受けることでもあります。「重力ピエロ」の著者はくり返し繰り返しネアンデルタール人とクロマニヨン人の洞窟絵画に触れています。
…ネアンデルター人とクロマニョン人の違いは何かわかる?両方とも狩猟に頼っていたし、道具も使っていた。…何万年かは、両者はともに地球にいたたんだ。違う動物なのに、共存していたのだ。けれど、ある一点、決定的な違いがあった…クロマニニョン人は芸術を愛したんだよ…
私たち現代人の心は、深化、或いは進化したのだろうか? または、「心」の進化或いは深化とは何なのだろうか? 私はこんな疑問にずっと拘っています。
かつてナチズムの嵐を経験した知識人は、ドイツの偉大な作曲家たちの妙なる楽の音を聴きながら、毒ガス室に罪なきユダヤ人たちを送った、野蛮で残酷なユダヤ人虐殺の苦々しい時代を味わった後で、洗練され教養のあるドイツ将校たちの人間精神の退化と荒廃と、人を真理へと導く「教養」を否定したのです。
この小説には登場しないタチアオイの花にまつわるエピソードが一つあります。美しい花の癒しの風景を逸脱して、歴史の頽廃と荒廃を歯止めする、人間の精神と教養の問題にまで触れるエピソードとなっています。
皆さんは、ハイビッカスに似た原色の大輪の花が、毎年、梅雨空の頃になると道路わきに鮮やかに咲いているのを見ることがありますか? 『花おりおり』(朝日新聞社)の第一巻には、こう書いてあります。
・・・人類が利用した最古の花の一つ。イラク北部で、六万年前のネアンデルタール人が手向けた花が出土した。おそらくインド、ミャンマーから山のシルクロードを経て、中国・四川省に伝播。唐代以前は、蜀葵(しょくき)の名で、一番の名花とされた。日本では、平安時代の唐葵(からあおい)から江戸時代に立葵(たちあおい)。・・・と。
梅雨時期kを明るく彩る、この華やでまっすぐ空に直立している大輪の花には、イラク北部のシャニダールの洞窟でみいだされた六万年前のネアンデルタール人の埋葬骨といっしょに、花粉が発見されたと言う驚くべきエピソードが残されています。
旧石器時代の猿人類には現代人と同じ死者を弔う「心」があるのだろうか…。好奇心あふれる疑問が誰しもが湧きます。
このネアンデルタール人の埋葬を発掘調査の隊長を勤めたソレツキ著の『シャニダール洞窟の謎』(蒼樹書房)があります。
・・・1960年の第4次調査で、シャニダールの洞窟先史学とその近辺のザヴィ・ケミ・シャニダール村の遺跡についての、私たちの知識はいちじるしく豊かになった。・・・シャニダール第4号のネアンデルタール人は、花と共に埋葬されていたという驚くべき発見もなされたのであった。・・・これは、繁華なバリの街中の実験室で、一人の古植物学者が、検査用として私たちが送った土壌標本を顕微鏡でのぞいているうちに、ようやく明らかにしたことなのであった。・・・シャニダール第4号は花と共に埋葬されたのではないかという、当初の推測は確信にかわっていった。こうしてついに<最初に花を愛でてた人びと>が誕生したのである。・・・
この花粉を分析した古植物学者のルロア・ダーラン夫人によれば、この人物は最期の氷河期の、五月下旬から六月初旬のある日、松のような潅木の枝と組み合わされた寝台に安置されて花が手向けられ、ここに埋葬されたという。顕微鏡には八種類の花の花粉と破片が発見されたが、恐らく小さくて鮮やかな野生の花が主で、ムスカリ類、キンポウゲ、タチアオイ、黄色いノボリギクではかったかと推測している。そして墓の中のタチアオイ類が極めて多数見つかったことから、タチアオイの根、葉、花、種子などが、歯痛や炎症の除去や、湿布や痙攣というふうに各種の役立つ薬に使われのではないかという。
人類史上の画期的な発見に触発されて、ネアンデルタール人と現代人の人類の系譜につながるホモサピエンに関して、ソレッキは推測をまじえた大胆な結論を出しています。
・・・それらはいわば、貧者のアスピリンとでもいえようか。シャニダールのネアンデルタール人たちが、花の装飾的特性と同時に薬用的特性に気づいていたかどうか、私たちにはわからない。しかし、自然と親しみながら働いていた原始人は、その長い生存期間中に、或る時、これらの植物の味試しをしてみたことがあったにちがいない。・・・ネアンデルタール人と関連して花が発見されたということにより、人類の普遍性と美を愛する心とは、私たちの種の限界をこえて広がっている、という認識に私たちは突如としてたちいたる。太古の人びとに、充分な人間的感情と経験があったことを否定することは、もはや私たちにはできないのである。・・・
私は、人類の「心」の問題、つまり猿人類でさえ死者を手厚く埋葬し、死者に哀悼の心を持っていたこと、まして現代人につながる系譜のホモサピエンスは、それ以上の優れた「心」的素質を持っていたことは、決して楽観的にはいえないのではないかと思います。いやひょっとすると、現代人はネアンデルタール人よりも残酷で野蛮で獰猛で好戦的な新しい「種」ではないのかという、現代人のイロニーさえ、私は浮かんできます…。
ニューヨークタイムスのジャーナリスト、ジョン・ダートンは、古人類学の豊富な研究と成果を縦横に活かつつ、冒険ミステリー風の小説、『ネアンデルタール人』(ソニーマガジン)を書いています。この考古学ミステリーは、パミール高原の未開の地で生き残ったネアンデルタール人と現代人が遭遇すると言う奇想天外な物語に仕立てられています。古人類学者のマットとスーザンの会話の中で、やはり≪シャニダールの花の埋葬≫に触れて、・・・ああ、あの説はマロンティックな妄想に過ぎないと思う。花粉があったのは偶然だろう。穴居動物の仕業か、断層の移動のせいだ・・・と、登場人物の考古学者に解説させいています。
死に関する一連の著書で有名な歴史家、アリエスは『図説死の文化史』(日本エディタースクール出版部)でこう述べています。・・・たしかなことは、人間が死者を埋葬する唯一の動物だ・・・と。「重力ピエロ」の著者と同じく、私は改めてネアンデルタール人の宇宙観が知りたくなりました。
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小説のラストシーンで、春は葛城をバットで撲殺した自分の罪を見つめて、…大きな毒を殺すために、別の悪いことをやってたんだよ…と、警察に自首しようとした。その時、兄の泉水は、…倫理とか道徳なんて犬に食わせてしまえばいいんだ…と、制止する。心のおもむくまま、人間の原初的な衝動を、倫理や道徳の上においているということなのか…?
人間における犯罪と暴力のエピソードは、ガンジーの非暴力の姿勢に触れて、二人は小説中のあちこちで会話しています。
…とにかく、人間ならではの「邪悪なるもの」が存在しなければ、春はこの世に生まれてこなかった。…春が敬愛するガンジーはこういったことがある。「人間の情欲を根絶するには、食べ物の制限や断食が必要である」…
依然、著者の暴力論は好く分らない部分が多く、まだ未熟である気がしました。ただ、これを理路整然と説明しては、感性を言葉で表現する小説でなくなってしまう…。
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