★映画のMIKATA【29】平川雄一朗監督「ROOKIES-卒業-」★映画をMITAKA… | 流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

流石埜魚水の【特選映画】、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・

都市生活者の心と言葉を掌にのせた小説、電脳化社会の記号とイルージョンを巡る映画、都市の孕むシンボルと深層を探るエッセイ、街の風景と季節の色を彩る短歌…。小説と映像とエッセイと短歌をブログに・・・掲載します。

川藤幸一:佐藤隆太/安仁屋恵壹:市原隼人/ 御子柴徹:小出恵介/新庄慶:城田優 /関川秀太:中尾明慶 /若菜智哉:高岡蒼甫/ 平塚平:桐谷健太 /岡田優也:佐藤健/湯舟哲郎:五十嵐隼士 /桧山清起:川村陽介/川上貞治:武田航平 /別所真澄:永井浩介 /千葉卓真:勝野洋/他


原作:森田まさのり「ROOKIES」(集英社)/映画「ルーキーズ 卒業」小説版:浜崎達也 /脚本:いずみ吉絋/主題歌:GReeeeN「遥か」/プロデューサー:佐藤善宏、東信弘、津留正明、秋山真人/音楽:羽毛田丈史、高見優/製作2009年東宝
上映時間 :137分/公式サイト;http://rookies-movie.jp/index.html



流石埜魚水の阿呆船、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・



●「番宣」効果は物凄い…。

ルーキーズ「ROOKIES」は、2000万部を突破した森田まさのりさんのマンガの原作をドラマ化されたものです。荒廃した私立高校、二子玉川学園に一人の熱血教師・川藤幸一(佐藤隆太)が赴任してきます。彼は、不良たちのたまり場と化した野球部の顧問となり、不良たちと衝突しながら、…夢にときめけ、明日にきらめけ…と、気力をなくし野球部員たちに檄を飛ばし、弱体化した野球部を鼓舞して彼らの青春をときめかします。学校からも見捨てられた野球好きな不良たちと、過去に傷を持つはみ出し者の熱血教師が「野球」と出逢い、甲子園出場の「夢」を目指すという感動のストーリーです。


私も以前、テレビドラマはよく見ていました。テレビの最後回後編(平川雄一朗監督)は記念として未だに私のHDDに残しています。今回の「卒業」は、映画版ルーキーズはその続編で、、ニコガク野球部の「最後の夏」が描かれています。「ROOKIES 卒業」は凄い人気です。


先日の5月30日に劇場公開された「ROOKIES-卒業-」」(平川雄一朗監督)は、予想通りに大ヒット。30日、31日の2日間で約98万7000人の観客を動員。興行収入12億円以上という興業記録を残しました。私も早速、封切り後の、映画サービスデー日」に朝早くから駆けつけました。が、驚くような長蛇の列で、とうとうキップは完売。第一回目の上映は残念ながら見れませんでした。


それもその筈…。TBS系列のあっちこっちのテレビ番組に「ルーキーズ」のメンバーが頻繁に出演し、スポット広告はたびたび流れ、古い番組を再放送しているのだから、「番宣」効果は物凄い…。繁華が街路には「ルーキーズ」の大きな看板が踊っていました。若者たちの関心を集め、話題になる筈です。近頃、洋画にしても邦画にしてもテレビのスポット広告が多くなりました!


●「ROOKIES 卒業」の周辺の状況は。

一方では昨年の、アメリカのリーマンブラザースに端を発する金融危機から、世界経済は急速に失速して不景気を通り越して、金融恐慌という言葉さえ使われてます。アメリカの自動車産業は、GMを初めとして三大メーカが赤字倒産の憂き目を見てます。日本の完全失業者数は346万人に達し,完全失業率は5.%を越えました。巷では前代未聞の大量の失業者があふれています。2兆円強の営業黒字を計上して活況を呈していたトヨタ自動車は、09年3月期には4600億円の赤字に転落、下請の自動車部品工場は軒並み経営不振に陥っています


政治の無策に若者と中年は無力感を抱いています。テレビ画面の臨時ニュースのテロップは、人身事故による列車の不通と遅延を伝え、毎年3万人をさらに大きく越える自殺者の記録を更新しようとしています。国内には閉塞感による不気味な雰囲気が漂っています。未だに記憶に新しい秋葉原刺殺事件からはや一年。自動車の派遣従業員が突然の解雇にわれを失い、秋葉原で無差別刺殺事件が起こりました。今更のようだが、世の中は殺伐としている…。 


他方では、豚インフルエンザ(H1N1)の新型ウィルスの感染がメキシコやアメリカ、ヨーロッパ、東南アジアまで拡大して、国内でも神奈川県川崎市の学校でも感染者が見つかり、さらに東京都の正則がまた休校です。WHOは11日に、新型インフルエンザの警戒度を世界規模の大流行「パンデミック」と判断、警戒レベルを「フェーズ6」へ引き上げました。


北朝鮮tが核弾道ミサイルへの開発を疑わせる発射実験を実施してNATOに緊張を強いています。日本を初めロシア、中国など各国は北朝鮮経済制裁を検討、アメリカは再び北朝鮮のテロ支援国家指定を再考、国連の安保理事会でも北朝鮮船舶の船内査察等の警戒を強めています。1989年6月4日に民主化を求めて天安門に集まった学生や市民に対して「暴乱」として軍が発砲鎮圧した。天安門事件の20周年の集会に対して、政府は報道規制、厳戒態勢まで敷きました。

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●映画は社会のイデオロギーさえ映しています。

そんなの映画を見ることと関係あるの…?と、皆さんは胡乱に思いますが、私は、映画もまた社会のイデオローを映していると思っています。


歌謡曲は時代模様を色濃く反映しますが、映画もまた時代の世相を如実に反映しています。歌謡曲のメロディーと歌詞は人びとの吐息を映し、映像表現もまた、市井の人びとの喜怒哀楽の表情を映します。いやむしろ映画は、社会のイデオロギーさえ映しています。


「青春」映画の全盛期というのは、ある特別な世相の雰囲気を持っています。「青春」時代のアイデンティーを通して、時代が再び新しい「時代」の価値観を模索している「上げ潮」」のような時期ではないでしょうか。青春の姿を問うことによって、私たちはどのように生きればよいのか…?と模索しているのです。この時代に意義のある「青春」とは何なのだろうか…?と、青春の意味を問うことは、この時代に生きているこの私にとって「生」の意味を再構築しようとすることでもあります。


時代の価値観は」「経済」と密接に繋がっています。経済の崩壊と共に、この時代のこの「私」とは、誰なんだろうか…?と、さまざまな存在理由を再び求めている時代ではないでしょうか。


●「ROOKIES-卒業-」のラストシーンは、感動のカタルシスが心をしびらせる…。

テレビドラマの最終回は、夏の甲子園・東京予選大会の4戦目を迎えるニコガク野球部のドラマチックなシーンが続くのだが…。川藤 先生は、スポーツ紙に生徒を殴って辞職した過去を暴露され、予選のベンチに座り監督の采配を振るうことができなくなってしまった。試合を前に、安仁屋 と 若菜と関川 は、不良グループに絡まれ負傷する。その暴力事件に対して、高野連は予選で負けた時点で1年間の公式試合出場停止という厳しい処分を下す。後のないギリギリの崖っぷちに立たされたニコガクナインの対戦相手は、あの 江夏 (上地雄輔) が率いる目黒川高校のナインであった。キャプテン御子柴 は、「道を切り開くものは自身と勇気だ」という川藤の格言で檄を飛ばす。主審は「プレイボール」と叫び、試合開始のサイレンがjグランドに鳴り響く…。


それから…。二子玉川学園も春になり、2年生だったニコガク野球部のメンバーは、劇場版「ROOKIES-卒業-」では3年生へ進級します。


学園の卒業式と、お礼参りと称して教師に暴力を振う卒業生の校内風景からドラマは始まります。野球部の面々も3年生に進学して、川藤先生も教師に復帰します。


甲子園への「夢」はどうしたのだろうか…? ニコガク野球部に新しく赤星と濱中という新入生2人が入部します。メジャーを目指すと言い放つ野球の才能にあふれた赤星(山本裕典)と、ニコガク野球部では補欠選手の平塚をヒーローとして崇める濱中(石田卓也)が、野球部に加わり、新入部員と伴に甲子園を目指して再び歩き始めます。高校野球、「今」たけなわです…!


ドラマのクライマックスは、夏の炎天下で始まった夏の甲子園予選。ニコガク野球部の前に安仁屋にとって因縁のライバル、強敵の笹崎高校のエース・川上が立ちはだかる。川上の豪腕、変化球にエースの安仁屋も三振する…。打倒川上に燃えてバッターボックスに立ったキャッチャー若菜の指にボールが当り骨折…。足を負傷してベンチにいた御子柴が若菜の替わりにキャツチャーマウンドに座る。


順調に予選の一勝一勝、勝ち上がったニコガク野球部は、とうとう後一歩で甲子園へ進出という予選決勝まで勝ち進みます。ここで因縁深い笹崎高校と対戦する。この決勝を控えた時期に赤星が不良にからまれ、赤星をかばった御子柴が骨折する事件が勃発。


映画「空中ブランコ」では一癖ありそうな悪役を演じていた渡部篤郎が、ルーキーズでは、ダラダラの競馬好きで、自堕落でヨレヨレスなポーツ新聞記者役で出演しています。彼は試合を観戦しながら、いつも皮肉なコメントをニコガクナインに吐いてました。しかし、野球に青春を賭けたニコガクの不良たちが奇跡をおこした…。9回裏の最後の最後に安仁屋が逆転の快打を放つ。ドラマのクライマックスらしい奇跡で甲子園に勝ち進む…。映画の観衆の誰もが、最後のシーンにジーンとくる…。感動のカタルシスが心をしびらせる…。


●「ルーキーズ」は極めてまじめな教育論の映画です。

青春ドラマではあるのだけれども、若者たちに何故こんなに人気があるのだろうか…? ちょっと分析してみたくなりました。


アンケートによると、男女比は女性が約7割で、年齢別では20代が28.9%、16~19歳が23.9%、12~15歳が、15.7%と、20歳までの若い世代が70%近くを占めています。でも30代も15.7%、40代も11%と、結構、幅広い年齢層の支持を集めているという。


「ROOKIES-卒業-」は、高校野球という爽やかなスポーツ映画、スポーツで青春を燃焼するという「青春ドラマ」ではあるのだけれどもでは、極めて教育現場の荒廃という「教育問題」を含んだ映画ではないでしょうか…?さらに、もう一つ。余りにアメリカ社会に類似してきた日本の「格差社会」、、「ワーキングプアー」の社会に対して、日本的な古い価値観に押し帰そう、揺り戻そうとするイデオロギーも多分に含んでいるのではないか…と、私は思っています。


「反貧困」(岩波新書)で湯浅誠氏は、こう書いてます。

…うっかり足を滑らせたら、どこにも引っかかることなく、最後まで滑り落ちてしまう。このような社会を、私は「すべり台社会」と呼んでいる。日本社会は、今どんどん「すべり台社会」化しているのではないか。このことは、働いても生活保護基準(最低生活費)以下の収入しか得られない「働く貧困層(ワーキングプア層)」を考えてみると、はっきりする。非正規雇用が進んだ後に労働市場に出ていった若者たちにとって、正規雇用職に就くことはかつてよりづっとすいる難しくなっている。正規雇用のパイが減っているのだから当然だ。非正規で働けば働けば、より高い失業リスクにさらされる。派遣労働の合間、または企業業績の影響で、失業の憂き目に遭うことがある。しかし彼/彼女らの多くは、非正規であるがゆえに雇用保険に加入しておらず、失業しても失業給付を受けることができない。…「すべり台社会」の中で足を滑らした多くの人たちが、いま貧困状態に立ち至っている。…年収2〇〇万円未満という人が1〇〇〇万人を超えている。…「昔はみんな貧乏だった。それでも頑張ってきたんだ」「世間は厳しい。甘えるな」「おれだって大変なんだ。あんただけじゃない」ーこうした言葉は、日常的に耳にする。そのとき人は概ね、いかに客観的な状況が大変だったとしても、本人の心がけ次第、頑張り次第で道は開ける/我慢できる、という神話を反復している。それは多くの場合、自分が頑張ってきたことを認めてもらいたい、という承諾の欲求に根ざしているが、素直にそれを表現できない人たちは、しばしばそれを他者に対する叱責として表現する。…「自分も頑張ってきたんだから、おまえも頑張れ」という言い方は、多くの場合、自分の想定する範囲での「客観的状況で大変さ」や「頑張りに」限定されている。そのとき、得てして自他の”溜め”の大きさの違いは見落とされる。それはときに抑圧となり、暴力となる。…。「溜め」とは、著者によれば、…外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割…を果たすもの。


日比谷のテント村の村長としてマスコミに登場し、突然注目の的となった湯浅誠氏は、実はバリバリの学者肌、実践派の政治学者。アメリカの政治。社会学者から端を発した格差社会、貧困ビジネス、ワーキングプアーの問題…。日本もアメリカ社会に似てきました。


さて、今年18歳で高校を卒業して、あるいは22歳で大学を卒業して社会に一歩踏み出した途端に、既に学歴や企業のランクによって給与体系や賃金の差や待遇の格差がついてしまっている「格差社会」の矛盾、働いても生活できない不平等、一度病気をしたら失業生活と最低生活を余儀なくさせられる社会制度…。多くの若者は唖然とし、将来に希望を抱けなくなっています。


あるいはひとたび転職した途端に、社会のすべり台を転げ落ちるように、パートや派遣労働で、低賃金で「3k」の非正規雇用の仕事を転々とする他に就職できない冷たい現実。企業利益のため、こうした現実をさらに狡猾に利用する企業は後を絶ちません。若者たちはかなり困惑して、貧困に喘いでいます。何時からこんな社会体制になっていたのか、誰がこんな社会体制と仕組みを作ったのか、学校生活を卒業した十代二十代そこそこの若者たちには、想像できないアメリカ的なマネー主義の現実です。


古い日本的な雇用形態の代名詞は、年功序列と終身雇用と家族的な職場でした。これが崩壊した後に、セイフティーネットが政治でカバーされずに、却って企業を優遇するパート労働や派遣労働を促進するような法律が成立して、非正規労働は、都合のよいときに雇用され、都合のよいときに解雇する労働市場があたり前のように広がりました。


映画「ルーキーズ」で描かれた不良高校生たちと、熱血教師・川藤との間に生まれた信頼関係は、教育現場に「今」あって欲しい理想的な「教師」の姿であると同時に少なくても、教育現場は社会とは違う価値観が流れる空間であって欲しいという願いもまた描かれているのではないか…!


十代の中学生たち・高校生たちは、教育現場から既に失われた理想の教師像を求めています。川藤先生の口癖、…夢にときめけ、明日にきらめけ…と、不良生徒を鼓舞しながら、廃部寸前の野球部を立て直していく姿に感動するのは、こんな教師がいるならば…という10代の若者たちが追いかけている教師の姿ではないだろうか…?と思います。


川藤幸一は、ドラマの中で激情して、よく格言を生徒に伝えます。今回の映画劇場版も頻繁に格言が飛び交います。諺や格言は、時間のふるいにかけられ、日本文化の中で生き残った古い価値観を体現しています。古い諺やおなじみの格言には、日本的文化が大切にしてきた倫理や道徳が含まれています。「ルーキーズ」で川藤先生から檄を飛ばされる諺や格言は、日本的な価値観へ揺り戻そうとするイデオロギーが含まれています。


ウィキペディア (Wikipedia)の中でドラマに用いられた諺と格言が載っています。残念ながら、映画版のそれはメモできませんでしたが…。http://ja.wikipedia.org/wiki/ROOKIES


「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃく いずくんぞ こうこくのこころざしをしらんや)」(出典『史記』 - 『陳渉世家』、『漢書』 - 『項籍陳勝伝』) …
小鳥には大鳥の心を計り知る事ができない。つまり、小さな人間には偉大な人間の志は理解できないという意味(第1話)。
「小人閑居して不善をなす(しょうじん かんきょしてふぜんをなす)」(出典『礼記 - 大学』) …
徳の至らない人は暇があるとつい悪い事をしてしまう。言い換えれば、目的を持って頑張っている人間は、悪い事をしている暇は無いという意味(第12話)。
「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかい そにしてもらさず)」(出典『老子』) …
天は網の目はとても粗く、何かと通り抜けてしまうものだが、悪事は見逃さない。悪い事をすれば、必ず天罰が下るという意味(第17話)。
「人一度之を能くすれば己は之を百度す(ひと ひとたびこれをよくすれば おのれはこれをひゃくたびす)」(出典『礼記 - 中庸』) …
人が一度する時は、自分はそれを百度繰り返して努力すれば、必ず向上するという意味(第38話)。
「遠き慮なき者は必ず近き憂いあり(とおきおもんばかりなきものはかならずちかきうれいあり)」(出典『論語 - 衛霊公』)…
遠い将来を考えずに目先のことばかり考えていると近い将来必ず困ることになるという意味(第45話)。    

「怒りは無謀を以て始まり、後悔を以て終わる(いかりはむぼうをもってはじまり こうかいをもっておわる)」 …
ピタゴラスの言葉。ビーンボールに怒った若菜を窘めるために川藤が発した(第46話)。
「男子志を立てて郷関を出づ 学若し成らずんば死すとも帰らず 骨を生むるあに墳墓の地を期せん 人間いたる所青山あり(だんしこころざしをたててきょうかんをいづ がくもしならずんばしすともかえらず ほねをうむるあにふんぼのちをきせん じんかんいたるところせいざんあり)」(出典『將東遊題壁(著:月性)』 )…
男子が志を立てて故郷から旅立つからには目的を成就しない限り2度と故郷の地を踏むことはできない。死んで骨を埋めるのに墓が必要だろうか。世の中いたるところに青く美しい山々があるというのに。という詩。安仁屋が怠慢プレーを戒めてもらうため川藤に自分を殴ってくれと頼んだ時、川藤が殴る前に発した(第171話)。



現役教師である諏訪哲二氏は、日本の教訓に含まれる日本的文化の精神的「普遍性」や、道徳や倫理を教育の場で教えることを勧めています。彼はこう書いてます。


…いま、教育を駄目にしているもっとも大きな原因のひとつに、生徒に「外」から教育や教訓を施すことは、個性を壊すことだという迷信がある。…いま、日本社会の精神性において、日本的な普遍性というものはどこにも存在していない。日本的な普遍性は「金」だけである。人びとはみな目先の生活だけに追われて、「生活こと」だけに意義を認めている。要するに、「個」を越える精神的なものは見向きもされない…  (「反動的!学校、この民主的パラダイス」より。JICC出版局)


諏訪氏の過激な日教組批判を差し引いたとしても、政治に迎合した倫理・道徳ではなく、生きる指針としての「倫理・道徳」が消え、義務教育の現場か忌避された「今」、生徒個々が、授業や教師に何らかの生きる指針を求めている、「哲学」への欲求というものがある…という見解は、正論ではないでしょうか。


●不良映画が全盛の「今」、成熟の祈りなのか。

映画の中でも、近頃、学校を舞台とした不良の登場する青春映画がつぎつぎと封切られます。


関西のお笑い芸人の品川ヒロシが、自分の青春時代を小説化して、自らが監督、脚本を務めて映画化した自作自演の映画「ドロップ」。不良が横行する鈴蘭高校のトップの座を争う暴力抗争と、ライバルの鳳仙学園とのヤクザまがいの縄張り争いをする映画「クローズZEROⅠ・Ⅱ」。小栗旬らアイドルが黒いボンタンをまとい、学校の廊下や教室で暴れまくる血の気の多い不良を演じる。学校内に巣食う手に負え不良たちと、ヤクザの娘である女教師が演じる「ごくせん」。甲子園を目指してマウンドで奇跡の暑い熱戦をくり広げる「ルーキーズ」もまた≪不良映画≫のひとつと言えるのではないか…。何故?こうも≪不良映画≫に若者たちは共感するのだろうか…?


映画会社の宣伝による洗脳の功績か?それとも世間の風潮か?それとも若者の心に感動の嵐を起こすのか? それとも、若者へアピールする何かが≪不良映画≫に内在するのか?不良映画が全盛の「今」、若者たちへの成熟の祈りが、そこにはあるのではないか…!


そう言えば、ミュージーカルの「ウエストサイド物語」もまた、≪不良映画≫でありました。ニューヨークの下町を舞台に、。「アメリカ人」の少年ギャング団「ジェット団」と、新参のプエルトリカンの少年ギャング団「シャークス団」の2つの少年ギャング団が、なわばりを巡って抗争します。その犠牲となる男女の恋と死を描いたミュージカルです。「マリア Maria」「トゥナイト Tonight」「アメリカAmerica」「クール Cool」「一つの手,一つの心 One hand, one heart」「乱闘 The rumble」「アイ・フィール・プリティ I feel pretty」「サムホエアSomewhere」「あんな男に~私は恋している A boy like that/I have a love」等々、音楽家のレナード・バーンスタインの作曲した数々の懐かしい名曲を生んだミュージカルでした。


不良映画が全盛の「今」、それが意味するものは、社会不安や世の中の不安定に置かれている若者たち、子供たちへの「成熟」と「幸福」への祈りなのではないだろうか…?


●川藤幸一は「父性」の象徴ではないか?
現役教師の川上亮一氏は「学級崩壊」(1999年、草思社)で、教育現場ばかりではなく、社会そのものに「父性」の復権を求めています。


≪父性の力こそ学校を支える≫の章で、

…最近は世の中どこでも、子どもへの接し方が母性的になっているようだ。しかし、学校の場合は特に、父性的な要素がひつようである。…おおざっぱに言って、学校では父性的な要素が七割ぐらいないとだめだろう。家庭はその逆で、母性的な要素が七割、父性的な要素が三割ぐらいかもしれない。…と言ってます。


「ルーキーズ」は、勿論父性的要素にあふれたドラマです。仲間幸恵がヤクザの娘というドラマ設定で教師役を演じている「ごくせん」では、仲間の役割は、父性的な意味を持った役を演じています。「ルーキーズ」では、川藤幸一が「父性」の象徴のような存在です。


不良の映画には不思議に「家庭」が描かれてません。父親も母親もほとんどスクリーンに登場しません。学校が崩壊する前に、家庭の崩壊が既に進行しているのではないだろうか…。不良映画の流行は、教育現場が単に荒廃している社会現象が映画化されているばかりではなくて、学校の外の「社会」も、社会の中の「制度」も、生徒が成熟する基盤である父と母と子どもが暮らす「家庭」もまた崩壊していることを意味しているのではないのだろうか?


「ROOKIES-卒業-」を見た私の感想は、今、川藤幸一先生を通して、日本的な価値観と、「父性」の復権が求められているのではないか…と、思いました。では、「母性」はどこにあるのか?失われた「母性」は、復権しなくてよいのか?別の疑問が私自身生まれてきます。が、改めて島田洋七原作の映画「佐賀のがばいばあちゃん」で、この点を書きたいと思います。

流石埜魚水の阿呆船、★映画のMIKATA★映画をMITAKA・・・ 私は下記アドレスでブログ≪アーバン短歌≫を掲載しています。映画とはまた異次元の言語空間です。今、梅雨のアジサイをテーマに短歌を載せてます。宜しかったらお立ち寄りください。

http://sasuganogyosui.at.webry.info/