大阪城から豊国廟(京都)へ豊臣国松くんの魂に導かれて | 親身な霊視でお悩みを必ず解決します

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ただ今東京です❣️

対面鑑定は東京です

🤗🤗

 

 

お伝えするのに

間が空いてしましました💦

大阪出張(7/10〜13)で

巡礼した時の模様

大阪城完結編🏯

お伝えしたいと思います✨


 

はじめからご覧いただく場合

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよ舞台は

大阪城から京都へ

 

 

今日のキーワード

豊国廟(ほうこくびょう)

豊臣国松(とよとみくにまつ)

 

 

豊臣秀吉公(とよとみひでよし)の墓所

豊国廟(ほうこくびょう)

 

豊臣国松のお墓(享年8歳)

「国松公御墳墓(くにまつぎみごふんぼ)」

 

 

豊国廟(ほうこくびょう)へたどり着くまでのみちびき✨✨✨


7/11(月)大阪在住のマダムY子ちゃんからモーニングルーティン「大阪城あさんぽ🐕」へお誘いを受けて初大阪城公園🏯へ


マダムY子ちゃんと愛犬キューちゃん🐕



公園内に建てられていた石碑「石山若宮三吉大明神」が目に入ってきました。


刻まれた若宮の二文字に強烈に惹かれて その日のうちに調べてみると「豊臣国松(以下国松くん)」という人物に辿り着きました。

 

image


国松くんのお父さんは 豊臣秀頼公です。

お母さんは秀頼の側室 伊茶。

お母さんが正室ではなかったので 庶子(しょし)という表現で呼ばれています。

 

Q1:

なぜ国松(くにまつ)くんと呼ぶの?

 

A1:

わずか8歳で 六条河原で処刑 斬首(ざんしゅ)されて亡くなっているからです。

 

大坂夏の陣で 大阪城が落城した際に脱出しますが 京都伏見辺りで 徳川軍に捕らえられて 六条河原で処刑(斬首)されました😣


徳川軍にしてみれば 豊臣家を滅亡させる目的がありました。


戦国時代。戦に負けたら子供でも 男子は殺される運命にあったことは仕方のないことだったのかもしれません。

 

国松くんが眠るお墓は 京都の阿弥陀ヶ峯の豊国廟(ほうこくびょう)の敷地内に建てられています。


左側が国松くんのお墓。右側が秀吉公の側室 松の丸殿(京極竜子)のお墓。


ちなみに 国松くんと秀吉公は生前対面はしておりません。

秀吉公の死後 国松くんは誕生しているからです。

 

そうだ❣️若宮 国松くんに会いに行ってみようということで✨大阪出張最終日7月13日(水)午前。


大阪(淀屋橋駅)から京阪電車に乗車をして 最寄駅 七条駅へ到着しました。



出口4番を出て 京都国立博物館や三十三間堂を通り過ぎて 京都女子大学の方向へ向かって歩いて行きました。



七条駅から阿弥陀ヶ峯の豊国廟までは 私の足で歩いて約30分かかります。

 

そんなに歩きたくないあなたには赤いバス(京都急行)がおすすめです😆



京都女子大学行きPrincess Line(プリンセスライン)に乗車をすると 豊国廟の間近まで行くことができます。

 

 

東大路通 東山七条の交差点までくると左側には豊国廟参道と彫られた大きな石碑が建っています。





この先に京都女子大学の建物。さらにその奥に豊国廟はあります。


京都女子大学の校舎とPrincess Line(プリンセスライン)の停留所


バス停を横目にみながら 両側の駐車場の道をまっすぐ進むと石段が見えてきます。





上がり切ると豊国廟入り口の鳥居に到着します。



 

Q2:

なぜ廟(お墓)なのに鳥居があるの?

 

A2:

現在は豊国神社が管理しているからです。

豊国神社と豊国廟は 少し離れた場所にありますが 豊国神社飛地境内となっています。

 

 


鳥居をくぐり約100m歩くと左側に社務所が見えてきます。



この真後ろに 国松くんのお墓「国松公御墳墓(くにまつぎみごふんぼ)」はあります。

 

社務所には神職さんが一人いらっしゃたので この場所へ来るまでの経緯「大阪城公園内で石碑 石山若宮三吉大明神に刻まれた若宮の二文字に強烈に惹かれて調べてみると 豊臣国松という人物に辿り着いたこと」を伝えました。


すると豊国神社及び国松くんのお墓や豊国廟についても丁寧に説明をしてくださいました。

 

録音しておいたので 文字に起こしたものをお伝えします🤗

 

はじめに蝉の鳴き声が聞こえてきました。

 

現在全国には9ヶ所の豊国神社が残っています。

大阪城内ある豊国神社は「ほうふくじんじゃ」と読みます。


大阪と滋賀 福岡にある3ヶ所の豊国神社は「ほうふくじんじゃ」と読みます。

残る6ヶ所にある豊国神社は「とよくにじんじゃ」と読みます。


ここは京都の豊国神社の管轄なので「とよくにじんじゃ」と呼びますが京都の地元のかたも「ほうふくさん」と呼んだりします。

 

ここから蝉の音に加えて 社務所の軒先に吊るされていた風鈴の音がものすごく大きな音になってきたので 少し聞き取りづらくなりました。

 

徳川の時代になって 豊国神社はものすごく減らされましたが 現在 全国に「とよくにじんじゃ」・「ほうふくじんじゃ」と呼ばれる神社は9ヶ所存在しています。


その中で唯一ご遺体の眠る場所はここ(豊国廟)です。




さらに風鈴の音が大きくなってきました。

 

豊臣秀吉公は京都の伏見城で亡くなっています。享年63歳でした。 


本人(秀吉公)の遺命でこの場所(京都)に埋葬されています。

 

国松君(ぎみ)は 大坂夏の陣で大阪城から脱出したのですが 京都の伏見の方で 徳川軍に捕まりまして 処刑(斬首)されてしまいました。


末代(まつだい)の男の子なので仕方がないのですが・・・。

 

依然として風鈴の音は大きくて鳴り止みませんでした。

 

国松君(ぎみ)が眠るお墓は左側の小さな方です。右側の大きなお墓は松の丸殿(まつのまるどの)という女性のお墓です。



ざっくりというと 国松君(ぎみ)のおばあちゃん的な存在なんです。秀吉公のたくさんおられた側室のお一人なんです。

 

ここで風鈴の音は止んで  蝉の鳴き声だけになりました。

 

残念ながら 秀吉公は国松君(ぎみ)お孫さんの存在すらご存じではないんです。

息子秀頼公が18歳の時に誕生した子供が国松君(ぎみ)なんです。

秀吉公の死去後に国松君(ぎみ)は誕生していますので。

 

ここで再び 風鈴の音が大きくなってきて 聞き取りづらくなってきました。

 

国松君(ぎみ)の横に眠っておられる松の丸殿は 秀吉公の側室なのですが 秀吉公とは親子以上に歳が離れていました。


国松君(ぎみ)には別に乳母はいましたが おばあちゃん的な立場で可愛がっていたそうです。

 

松の丸殿と国松君(ぎみ)は血のつながりは全くないのですが 国松君(ぎみ)が可哀想な最後を遂げられたので「自分が亡くなったら天国でお守りをしてあげたい。横に眠りたい」という希望があって 並んで眠っておられます。


横から見た国松くんと松の丸殿のお墓


 

松の丸殿は天寿を全うされて 徳川の時代になってからお亡くなりになっています。

 

蝉の鳴き声も風鈴の音も止まりました。

 

二人がこの場所で並んで眠るようになったのは明治時代に入ってからになります。それまでは別々な場所で眠っておられました。

 

ここで再び蝉の鳴き声が大きくなってきて 聞き取りづらくなりました。

 

豊国廟は元は豊国社(とよくにやしろ)として秀吉公の死後 創建されました。

 

大坂夏の陣で大阪城が落城。慶長20年(1615年)豊臣家が滅びると 徳川幕府の命令で 立ち入り禁止となり 長い年月誰もお墓参りに訪れることができなくなりました。

 

元々秀吉公のお墓は立派なものはありませんでした。


現在の豊国廟は明治31年(1898年)豊太閤300年祭に際して 豊国会によって 全国からの募金によって整備されました。


高さ約10メートルの巨大な五輪石塔は 築地本願寺などを設計した伊藤忠太氏によるものです。



 

秀吉公のお墓が修復されたので 国松君(ぎみ)と松の丸殿のお墓も約300年近い時を経て この場所に移されて並んで眠ることができました。

 

松の丸殿のお名前は亡くなられたときのお名前です。 

元々は京極竜子(きょうごく たつこ)さんといいまして 良家のお嬢さんだったんです。


ですので 松の丸殿のお墓は立派で 国松君(ぎみ)のお墓とバランスが悪い感じで並んでいます。



 

最後に神職さんがおっしゃられた言葉がとても印象に残りました。

 

何かを感じられて ここへお参りに来られるのは女性が多くて  秀吉の眠るお墓まで約500段の石段を昇られて上に行くと 不思議な体験をされる方もいらっしゃいます。











秀吉公のお墓から向かって左側には清水寺を眺めることができるのですが あの角度で清水の舞台が見られるのは珍しいと思います。



ちょうど一年半ほど前で改修工事を終えられたんです。

 

明治の大改修の際に 秀吉公の棺は大きな焼き物の壺のようなものに座観式 座っておられるかたちで収められていました。


私どもでも解らないのは 

Q3:

なぜ秀吉公は棺の中で 北西の方角を向かって拝んでいたのか?


A3:

謎なんです。




さて私の不思議体験といえば✨✨

秀吉公のお墓を前にして 手を合わせた時に「死んだらおしまいなんだよ」という声が聞こえてきたことです。



正確には不思議というよりも 健康で生きていることの大切さを教えて下さったように伝わってきました✨✨✨

 

天下を取っても人間死んだらおしまいなんだ」となんともいえない気持ちになりながら 秀吉公のお墓を背に清水寺を眺めていました。


 

大阪城へあさんぽに連れて行ってもらい 城内で石碑に刻まれた若宮の二文字を見て「若い王子さま」を弔っているのかなと思い 調べてみると秀吉公の孫 国松君(ぎみ)にたどり着きました。

 

大阪出張最終日(7/13)の朝 京阪電車に乗車をして 京都 阿弥陀ヶ峯に眠る秀吉公と国松君(ぎみ)のお墓参りをすることができました。

 

国松くんはとても元気で利発な男の子だったのかなと想像します。


令和の世の中に生きていたら 学級委員になってクラスをまとめたり 社交的で好奇心旺盛だったのかなと想像します。

 

京都伏見で徳川軍に捕らえられて 六条河原で処刑(斬首)された哀しい最後を迎えました。


わずか8歳で運命を受け入れて豊臣家の人間として責任を果たしたのかなと思うと 悲壮感よりも生き方について 国松くんは力強く教えてくれているように感じてきました。

 

国松くん 大阪城からおじいちゃんの眠る豊国廟へ導いてくれてありがとう🌷


国松くんの魂と出会わなければ あなたのおじいちゃん秀吉公のお墓に手を合わせることも 豊臣家の人々を知ることもありませんでした。

知る機会がなければ きっとあまり良い印象を持たないまま過ごしていました。

 

また大阪城へあさんぽにも行きますし ここ豊国廟を訪れたら遊んでね🤗その日まで🌈


ご縁に感謝

さされいこ


次回のあさんぽへつづく

【完】

 

 

 

 

 

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東京の台所2

(2021年5月26日配信)

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