もうすぐGは59回目の誕生日を迎える。
いよいよ50代最後の1年に突入するのかと考えるとなんだか憂鬱だ。
まあ、還暦を迎えても、70代でも元気で魅力的なジジイは沢山いるが、もう若くはないということは事実であり、それを受け止めなければならない。
還暦を前にして、困ったことに自分にはその年相応の風格というか、重みが感じられない。
来年には還暦を迎えるという実感が全くない。
むしろ、50代になってから30代40代の時と比べても気持ちが若返っていると感じるくらいだ。
私はこの現象を自嘲的に「おっさんの幼児化現象」と呼んでいるが、自分だけなのか良く起こることなのかはよく分からない。
精神は若返っている(幼児化している)のに対し、肉体は確実に老化していていっており、まるでニュータイプとして覚醒したアムロ・レイの能力とスピードにガンダムの機体がついていかずに苛立つような現象が起こっている。
肉体と精神が噛み合わなくなっていくことは、とても悲しいことだ。
がんで亡くなった友人が、最後に「もうこんな身体は要らない」といって逝ったことを思い出す。
幸い自分には病気もなく、比較的健康な方だが、それでも目は老眼で見えなくなり、耳も徐々に遠くなり、歯もインプラントが必要になり、筋力も精力も衰えは隠せない。
そして、どんなに努力をしても、これから死ぬまでにそれらが根本的に改善されていくことはない。
精神も肉体も若くあろうと努力することによって、同世代の他の人たちよりも10歳くらいは若く見えるように維持して行くことは可能な気がするが、それは状態の保全であって、能力が向上するわけではない。
ネットで「精神が子供のまま老人になったヤツほど気持ちの悪いものはないという」いうような趣旨の記事を読んだが、何故オッサンやジジイが気持ち悪いのか?についてその理由に妙に納得してしまう自分が居る。
そして、できればそんな気持ちの悪い老人にはなりたくはないと思ってしまう。
それでも精神は幼児化が進み、肉体は衰えていくという現象のジレンマにはなかなか逆らえない。
今更尊敬されたいとか、威厳を持ちたいとか、組織的における地位や名誉みたいなものに固執する気はない。
せめてその存在が他人から観て不愉快なものではなく、面白いとか、愛おしいと思えるような年の取り方をしたいものだ。
若くて面白い奴というのは、理屈抜きに面白い。
面白くないオヤジとかジジイというのは、この世に溢れかえっているが、年配で面白いひとというのは、知識豊富で面白いことを色々知っていても、それを他人に押しつけず、第三者目線で常に他人から観て面白くあろうとしているひとかもしれない。
この数年の間に、いろいろと今後の自分の人生について思いを馳せた結果、いちばんの問題点は、やはり欲望や興味の欠乏というか飽和だろうと感じている。
あんなことやこんなことをしたいとか、行ってみたい、見てみたい、触ってみたい、食べてみたい、といった本質的な欲求や興味が昔ほどは沸いてこない。
これは老化というか、歳をとるとある程度仕方がないことだが、良い面で見ると、若い頃よりも今の自分を受け入れていて、今に満足し、感謝しているということなのかもしれない。
多くの人は、歳をとると元気であるなしに関わらず、そうやって毎日今を感謝して、ひとになるべき迷惑をかけないように安らかで平穏な余生を送ろうとするのかもしれないが、私の場合は生きていく上でどうしても必要なエネルギー源として、やはり興味力と闘争本能というふたつは譲れない気がする。
特に、「興味力」という事に関して以前にお話ししたが、物事に対して興味を失っていくことは非常に問題であると感じている。
若さを維持するためには「興味力」が必要 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム (ameblo.jp)
しかし、この「興味力」の重要性は特に老人に限った話ではない。
ある意味、今の若者たちの興味力は我々世代よりも弱く、今の老人よりも冷めていてより老人らしいと言える。
ジジくさい説教になるが、それに耐えうる肉体をもった若いひとたちほど、もっと世の中に興味を持っていろんな事に果敢にチャレンジしてほしいものだ。
「できないであろう事に無駄な努力をしない」という、ある種のプログラムが教育過程で埋め込まれたのではないか?と思えるほど、若年層の諦め感というか老成度は著しい。
最近「ゾン100(ゾンビになるまえにしたい100のこと)」というアニメと実写版を観たが、世の中がゾンビだらけになって明日は我が身という状況になってようやく自由を手にする主人公の壊れっぷりがなかなかシュールで面白い。
ブラック企業に就職したせいで、たわいもない「したいこと」ができずに社畜化した若者が、ある日突然ゾンビだらけの世の中になることで、「したいこと」を見つけていくというストーリーだが、還暦を前にした私も「いつゾンビになるか分からない状況」と考えるべきなのかもしれない。
アメブロの統計によると、私のブログを読んでくれているひとの半分は50代以上らしい。
そして男女比では興味深いことに6割が女性となっている。
50代を振り返ってみて、自分としてはやりたいことも十分できたし、趣味の世界も充実していたので後悔もなく、第2の青春を謳歌したような気分ではあるが、還暦を前にして感じるこの憂鬱は、大学を卒業して就職する前に感じたような「自由な遊び時間の終わり」とは全く異なるものだ。
どちらかと言えば、小学生くらいの時に近所の友達と遊んでいて、日が暮れて遊び時間が終わる感じに近いかもしれない。
子供たちには、「また明日」があるが、老人たちには今と同じ明日はない。
いま50代の方々の多くは、会社でそこそこの役職を与えられバリバリ働いていたり、経営に関わっていたり、仕事に相当な時間を取られているに違いないが、もし十分なお金があれば誰かのためにする仕事は辞めて50代のうちにやりたいことをやった方が良いかもしれない。
50代の第2の青春を楽しまない人生は非常にもったいないと感じるし、あなたもいつゾンビになるかわからないのだから(笑)
以下は、5年前の2018年12月(54歳の時)に書いた記事だが、それからの5年は結構自分の心のテンションを上げる努力はそれなりにしてきたつもりだし、その事に満足もしている。
あなたはどんな事で心のテンションが上がりますか? | Mr.Gの気まぐれ投資コラム (ameblo.jp)
ここでは、心のテンションが上がってアドレナリンが出るものというのは、自分にとっては何かへの挑戦や戦い、闘争といったものに関連していることが分かる。
戦いを挑み続けることは、年齢と共にキツくはなってくるが、「戦いと勝利」以上に自分を満足させてくれるものは他に見当たらない。
ただ残念な事に、カネと時間を費やして手に入れたり、経験してきたことというのは、肉体や愛情、友情、組織の繋がりや忠誠心など失っていくものが増えるにつれて、どれだけ足掻いても全体としては失っていくものに負けてしまいそうに思えてくる。
どんなに努力をしても、得るものと失うもののバランスは崩れていき、そしていずれは全てを失うのだ。
これは、「無常」というものなのだろう。
世の中も人も、世界は常に変わっていく。
自分の得るものや失うものも自然の摂理であり、そういった無常を柔軟に寛容に受け入れられることが大人(ちゃんとしたジジイ?)になるということかもしれないが、まだそこにはそれほど寛容になれない。
まだまだ私は知りたいことや経験してみたいこと、学ばなければならないこと、探求して極めたいことは沢山あるが、仮に物ではなく思い出や経験を沢山持ったとしても、自分がそのソフトやデータベースを保有できる年数が少なくなっているのも残念だ。
次世代にそういった経験を引き継ぐことができるのがいちばん理想的ではあるが、我々の世代と若い世代ではOSのバージョンが違いすぎていて我々の古いソフトもデータも適合しないばかりか、そもそも不要だと思われている可能性が高い。
それどころか、「なにも残さなくていいから、我々の未来を少なくとも壊さないようにして欲しい」と思っていても不思議はない。
今年の3月に71歳という若さで亡くなられた坂本龍一さんが好んだというラテン語の一節、
「Ars longa, vita brevis」(芸術は長く、人生は短し)は「人の命は短いが、優れた芸術作品は死後も後世に残る」という意味らしいが、何百年も残り続ける芸術作品と比較すれば、ひとの人生など無常で儚いものであるという意味にも取れる。
それでもひとは、世を捨てずにその無常を受け入れ、そして無常と闘って生きて行かなければならないのだ。
自分の中で、心が求める物は、たぶん継続的な何かとの戦いやそれに勝利することによって得られる興奮なのかもしれないと感じている。
ヒトをヒトとしてヒトらしく生かすのは、興味力だと思うが、肉体的にも精神的にも、ただ生きるということ自体が戦いだとも言える。
自分では既に何もできなくなっている93歳の母親を見ていると、この無常の世界で、いつまでどのように生きているかも分からず、ただ死ぬまで延々と生きていくこと(神によって生かされていくこと)をひたすら受け入れていくという事も大変な戦いだと思いしらされる。
この59歳の誕生日を前にして、60歳以降にも生きている限り「何かと戦い続けること」を決意し、そして粛々と毎日戦い続ける50代最後の1年にしたいと思う。
老若男女を問わず、これから先は、戦わずして安閑と生きて行けるような世の中ではないだろう。
戦いを放棄すれば、去りゆくのみ。
戦っても勝利の美酒に浸れるのは僅かしかいない。