「大市民」は柳沢きみお先生の代表作の一つで、1990年に双葉社「アクションピザッツ」で連載開始され、その後も「大市民Ⅱ」「THE大市民」「大市民日記」など掲載誌とタイトルを微妙に変えながら現在第9シリーズの『大市民 がん闘病記』まで30年以上続いている長寿作品だ。
主人公の小説家、山形鐘一郎(やまがたしょういちろう)というキャラを通して柳沢きみお先生自身の社会観や趣味、生活習慣について描いたライフワーク的作品とされている。
そして今年2025年に「大市民がん闘病記」の連載がビッグコミックオリジナルで始まったが、流石にこれが最後と思われる。
これもまた、現在76歳の作者が自身の体験を元に書いているようで、意図せず大腸がんと診断された主人公の闘病過程がリアルに描かれており、15年先の自分の未来と重なり身につまされる。
この『がん闘病記』をビッグコミックオリジナルで読み始めたのをきっかけに、まだ読んでいなかった30年前の「大市民」シリーズを読み始めたのだが、共感を感じると同時に衝撃を受けた。
自分の過去30年を振り返ってみると、かつての自分の生き方が如何に馬鹿げていたかも思い知らされるし、30年の月日を無駄に費やしてようやく自分も大市民病になっていたことが分かるからだ。
私がこの『Mr.Gの気まぐれ投資コラム』を書き始めたのが16年前の2009年の5月なのだが、当時の私はまだ45歳であり、ちょうど『大市民』第1シリーズの主人公と同じ年齢とだったことになる。
ここで描かれる大市民は、孤独で孤高な存在だ。
世の中に対して言いたい放題で、全体的には批判に満ちている作品だが、30年前を振り返ってみるともっともな感想だったとも思える。
世のおじさんやジジイというのは、60歳を超えて完全にリタイアした後にしか完全な自由を手に入れることはできず、会社や家族とのしがらみの中で、窮屈な人生を送っているが、リタイア後にいきなり自由や孤独を楽しめと言われてもなかなかそうは行かないっものだ。
作中には、バブル期には豪遊していたが破綻した経営者や心を病む会社員、宗教にハマる女子大生など、生き方に迷い躓いてしまった様々な登場人物が主人公の山形に絡んでくる。
そんな迷える隣人達との交流を軸に物語は進行していく。
1990年に連載が始まった「大市民」の第1シリーズで登場する主人公の山形鐘一郎の設定は、柳沢先生と同年齢の45歳となっており、それから35年間に渡って作者が加齢と共に感じてきたことや体験してきたことが綴られている壮大な自叙伝的作品となっており、日々主人公が感じてきた世の中に対する不満や文句を延々とグダグダ綴り続けているため、老害漫画とも言われる作品だが、作家という自由な立場の主人公は経営者や会社員といった普通の人達とは設定が異なり、孤独を愛するが故に自由であり、好きなこともできるし、好きなことも言える立場ではある。
こんなジジイがあちこちにいたらそれこそ老害以外の何ものでもないが、たったひとりの山形のぼやきは、自由のない一般の人にとってはある意味すがすがしい。
作者がまだ40代の後半だった第1シリーズ(90年代)の時から、主人公の山形は既に厭世的な人生を歩んでおり、設定が小説家で自由人というのもあるが、当時においても普通ではない悟った生き方だったと思われる。
現在の40代後半は、当時は10代だった世代であり、もっと若い感じもするし、45歳で既に老成している山形には違和感を感じるだろう。
もちろん、私が40代だったときとも感じ方は異なるし、今でもそうだがその頃の私は、自分の若さに慢心していた気がする。
なので今の50代以下の(若い)オヤジが読んでも、ただ理屈っぽく文句ばかり言っていてあまり面白くはないかもしれない。
ただ、30年前に山形が散々批判していた20代の若者が、今は50代になっていると考えれば、『大市民』で書かれていた未来が実際にはどうなっていたかを確認する事はできるだろう。
この『大市民』シリーズは以下のような時系列と作者及び主人公の年齢において相当な作品数があり、実際にこれを読破するのは容易ではない。
『大市民』第1シリーズ 10巻 1990~1995年 45歳~50歳
『大市民Ⅱ』第2シリーズ 2巻 1996~1997年 50歳~
『THE大市民』第3シリーズ 5巻 2002~2004年 57歳~59歳
『大市民日記』第4シリーズ 6巻 2005~2009年 60歳~64歳
『大市民語録』第5シリーズ 5話のみ(大市民日記3、4巻に収録)2007年
『THE大絶叫市民』第6シリーズ 漫画はなく文章のみ 2010~2018年
『大市民 最終章』第7シリーズ 1巻 2015年 70歳
『終活人生論 大市民挽歌』第8シリーズ 電子書籍のみ 2016~2018年 71歳~73歳
『大市民 がん闘病記』第9シリーズ 2025年~ 76歳~
山形が50代の頃の『THE 大市民』では、「今の日本は嘘くささで充満している。バカがついに主導権を握ったからだ!」などと吠えていたものだ。
しかし、時代が変わっていってもその生き方に対するこだわり軸はぶれず、この先の自分の人生を如何に楽しめむかということを日々考え続けて生きている。
そして、幸せに生きる為に必要なのはお金だけではないということを50前にして既に悟っている。
また、山形の30年前からのぼやきは、それが直接的な原因ではなかったしろ、実際に衰退した今の日本の姿を予見していたとも言える。
「経済力はあっても、稼いだお金を自分の幸せの為に有効に使う文化力が欠如している」というのが、日本人と日本を暗くしてしまった原因であると豪語している。
まあ、外していることも多いのだが、「中国の経済力が日本を追い越す」という未来は見えていなかった。
第三シリーズの『THE大市民』ではまだ50代だったせいもあり、豪快に結構暴れまくっていてワイルドな老害オヤジだったが、60代になってくると流石に元気がなくなってくる。
山形は、毎日の腕立て伏せ、屈伸運動、柔軟、逆立ち、水泳など、運動を欠かさず逞しい肉体を維持しており、独自の健康概念を持っており、一般的な医療や健康法に関しては懐疑的、ビールをこよなく愛している。
ビールを如何に美味しく飲むか?という事に関して、これほど独自の感性で突き詰めた作品は珍しい。
山形が毛嫌いする喫煙者である私は、ビールが健康に良くないということを分かっていて飲んでいるが、これくらい毎回気持ちよくビールを飲んでいる主人公を見ていると、自分ももっとビールを楽しみたいとう気持ちになってくる。
食に関してもうるさいが、特に鮨に関するこだわりは強い。
第一シリーズでは食に関する内容が多い。そして毎回ビールを飲んでは「美味し!!」の合い言葉で締める。
鮨以外にも、ラーメン、冷やし中華、鍋焼きうどん、とんかつなど、数々のこだわりが披露されると共に、マズい店やマナーの悪い客に対する辛辣な批判も多い。
昔から山形の美学的にはどうしても許せないことというのがあり、たとえば若い男女の茶髪とか、上げ底の靴とか、公衆の場所でケータイで話すケータイ野郎とか、ポイ捨て野郎とか、ゴールドチェーン野郎とか、ビトンずくし野郎とか、毛皮野郎とか、ベンツとか、昼間にライトを点灯しているバイクとか、日本人の品ない野球の応援の仕方とか、霊やUFOが見えるという霊能力者とか、数え上げればキリが無いほど気に入らないことが沢山ある。
しかし、反面ビールや食い物を筆頭に、コレさえあれば幸せと思える好きなものも沢山持っている。
要は、自分の好きなものに対する思い入れが強すぎて排他的なのだ。
愛車はトライアンフ・TR-3、ACエース・ブリストル、アストンマーティン・DB5、オースチン・ヒーレー・スプライト、フェラーリ・330GTCとクラシックスポーツカーを乗り継ぐ。BMWのオートバイR51/3も持っている。
パソコンや携帯は使わないアナログ主義で、アコースティックギターをこよなく愛している。
相当なこだわりだが、食に関してはどう考えても健康を考えたら食べ過ぎ飲み過ぎだろうと思える。
『がん闘病記』では、それが実際に大腸がんの原因になったかどうかは分からないが、「冷えたビールやワインを好んで飲んでいた事に起因するのではないか?」という山形のコメントもある。
それでも、75歳になって大腸がんを患うまでの30年間、毎日飲むこととと食べることで「美味し!!」の幸せを味わうことができたのであれば、それはとても幸せな事だったと思われる。
山形の住んでいる安アパートには、結果として多くのダメ人間たちが入り浸るが、基本的に山形は孤独を愛しており、ひとりで楽しめる人生を歩んでいる。
設定では、4人の妻と11人の認知済みの子供達がおり、その為安アパートでの貧乏生活を送っていることになっているが、元妻も子供達も一切出てこない。
歳を取るほどに、煩わしいことは多くなってくるが、主にそれらは家族関係や、友人関係という人間関係から発生するものだろう。
この「大市民」シリーズでは、純粋に作者の人生観というものにフォーカスするために、そのような生活感を最初から切り離しているのかもしれない。
この物語の主人公は、まだ生きているが、孤独に人生を楽しんで生き、死んでいく設定の物語なのだ。
「人生の楽しみ方」としてこのシリーズで指南されていることは、基本的に「孤独を楽しめないひと」向けではなく、さみしがり屋で孤独が耐えられない人にとって人生を楽しむことは難しいと感じさせる。
恋愛や結婚に関しては、どうしても孤独を楽しめないひとの「幸福」の選択肢であると書かれている。
『大市民 最終章』くらいになってくると、もはや死ぬことをどう楽しむか?という哲学的な境地にまでたどり着くが、山形の美学的には自殺がもっともキレイな死に方であるという自殺推奨の方向性まで示唆される。
「冬山に登ってそこで凍死する」のがもっともキレイな死に方ではないか?というのはそうかもしれないと思えたりする。
確かに、この先20年経てば、私も80歳だが、今の80歳が100歳になっても元気で日本中でゾンビのように溢れかえっていたら大変なことになるだろう。
今でもそうだが、この先はもっと老人だらけになる。そして溢れかえる老人たちによって経済は食い潰され、世の中の活気はもっと失せ、若者達には夢も希望もなくなる時代がやってくるかもしれない。
そんなお荷物になるくらいなら、簡単に自死できる薬か医療的な安楽死のような選択肢があれば、その方が良いのではないかと思えなくはない。
その場合は、歯医者や大腸内視鏡検査の時に気持ちよく眠らせてくれる「プロポフォール」の過剰投与による安楽死が私の希望だ。
いくら健康に生きていたとしても、85歳くらいが自分が生きていることを楽しめる限界年齢ではないだろうか?
私の母は、95歳だが、85歳まではクルマも運転していたし元気だったが、たった10年で今はほぼ寝たきりでボケてしまって私の事ももう分からない。
今年になって介護施設に入居したおかげで、崩壊しかかっていた在宅介護から24時間体制の介護が受けられる状況にはなったが、記憶の殆どがなくなってしまった母が、今の自分が生きていて幸せなのかどうかは正直分からない。
人生のゴールが、今の母のような状態であると思うと切なくなる。
日本中の介護施設は、今ですらそのような状態の老人で溢れており、介護保険と医療保険に支えられてかろうじて回っているようだが、これ以上介護の必要な老人が増えていったらどうなるのかを考えただけでも地獄絵図が浮かぶ。
そして、少なくともこの先30年以内には自分もその仲間入りすると考えた時に、この先残された20年くらいをどう生きて、どう死ぬべきかを考えざるを得ない。
この柳沢きみお先生の『大市民』シリーズは、著者の体験を通して著者の分身たる山形が45歳から76歳の今に至るまでの年齢と共に徐々に変化していく人生観や死生観を、世の中の風潮を辛辣に批判しながら楽しんで生きていく様を描いており、「人生は楽しむためにある」という事を30年間言い続けている名著だと言える。
私個人的には孤独に耐えられないタチなので、山形のようには生きられないと思うが、毎日の酒や食事をもっと楽しむべきだと思うし、日本の美しい四季や文化を味わい、クルマやバイクなどの趣味を楽しむべきだとは感じた。
どうか山形が、大腸がんの危機を乗り越えて、この先も人生を楽しんでいって欲しいと願うばかりだ。























