待望のアニメ版「左ききのエレン」が今期から公開されていたのを知りアマプラで一気観した。
「天才になれなかった全ての人へ・・・」という副題のついたこの作品。
天才とは、生まれつき備わった努力だけでは到達できないような卓越した才能や0から1を生み出すひらめきや創造性をもったひとのことを言う。
つまり、天才として生まれなかったひとはどんなに足掻いても天才にはなれないわけなので、主人公が「天才になろうとする」行為は、神への冒涜として「イカロスの翼」に例えられる。
しかし、だれも無謀に自分を信じて天才を目指さない世の中など面白くもクソもない。
かっぴー原作の漫画をアートな友人に勧められて全巻読破していたが、1巻目から泣けてくるほどの熱量の多さだった。
アート界における「スポ根」漫画と評される事もある。
かつて自分の秘められた才能や努力がいつか実ることを信じて疑わずに駆け抜けてきた日々、そしてその頃渇望していた「なにものか」になれるはずだった自分が、どうなっていったか?
世の中には天才と言われるひとは僅かしかおらず、その僅かな天才たちですら、その才能を開花させることができるかどうかは運と努力にかかかっている。
生まれながらにして天賦の才能を持たないものたちが、いくらその選ばれた天才たちですら針の穴を通り抜けるような確率で成し遂げることができない偉業や名声に憧れたところで、それが達成される可能性はほぼ無いといって良いだろう。
ただ、その「何者か」になる事に憧れてそれを追い求めることを誰もしなければ、そもそも才能があろうが無かろうが、偉業を達成し天才として評価される人間は生まれてこない。
この「左ききのエレン」という作品は、天才が主人公ではなく、その天才に憧れを抱き無謀にも天才に挑戦しようとする「天才になれなかったひとたち」が天才との関わりの中で自分の人生を見つけ出していく物語だ。
エレンという左ききのアーティストは天才だが、天才の持つ矛盾や苦悩を抱え持っていてアートで食って行けず死んでしまった父親のトラウマから当初は絵を描くことから離れていた。
その才能に火を付けたのは、天才ではない朝倉光一という無謀にも天才になろうとする努力家の凡人の熱量だ。
また、エレンの才能を世に解き放つ手助けをしたのは、やはり努力家で知能レベルも高いが天才では無い幼友達の加藤さゆりだ。
当初は朝倉に自分を重ねてみたが、自分の立ち位置に近いのはさゆりだと後でわかった。
自分には「何もない」と感じているさゆりは、エレンのプロデュースに人生を賭ける決意をする。
また、登場する天才のひとりであるモデルのあかりは、天才であるが故に、自分がモデルとして頂点を極めるのは27歳であると分っており、27歳で人生を終わらせようとする。
美の頂点を極めたあとに、モデルとして、もしくは天才として、その後の自分の人生に存在する意味は無いと感じるのだろう。
その感じ方は、天才にとってはリアリティーがあるのかもしれないが凡人にはとても理解できない。
そして、その頂点を極める瞬間をカメラに収めようとする天才フォトグラファー佐久間威風も狂気に満ちたている。
例えば、大谷翔平という野球選手は間違いなく天才だろう。
そして、その偉業は誰もが認めるもので、一点の曇りすら感じられないパーフェクトガイだ。
多くの野球選手を目指す子供たちが、大谷翔平に憧れているには違いないが、果たして大谷翔平を超えようと真剣に考えている選手はいるのだろうか?
フィギュアスケートでは、羽生弓弦も天才だったかもしれない。
羽生選手の背中を追い続けてきた宇野昌磨は、羽生弓弦の存在がなければあれほどの成長を遂げることはできなかったかもしれない。
ウィキペディアによれば、宇野昌磨は5歳の時に、名古屋スポーツセンターで偶然遭遇したやはり天才の浅田真央に「一緒にフィギュアスケートをやろうよ」と言われたことがきっかけで始めたというが、やはり運命は天才と天才に憧れる人間によって操られているとしか思えない。
かつて浅田真央とキムヨナの戦いを観て、キムヨナは悪魔に魂を売った天才にちがいないと感じた。
芸術やスポーツの世界において、天才がその才能を開花させ、歴史に名を残す確率は、数万~数十万分の1(0.0001%以下)と言われている。
それほど、生まれ持った才能を開花させる事は困難であり、才能だけでなく努力と運の絶妙なポートフォリオがなければ不可能だということが現実なのだ。
しかし、それだけ不可能に思える事であっても、ひとりの天才が夢や希望や憧れを次世代に与え、それを追い求める天才と天才ではない人達がいれば、その熱量が新たな天才を生み出していくのだ。











