Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

大市民 柳沢きみお 最終章 表紙

 

「大市民」は柳沢きみお先生の代表作の一つで、1990年に双葉社「アクションピザッツ」で連載開始され、その後も「大市民Ⅱ」「THE大市民」「大市民日記」など掲載誌とタイトルを微妙に変えながら現在第9シリーズの『大市民 がん闘病記』まで30年以上続いている長寿作品だ。

 

 

主人公の小説家、山形鐘一郎(やまがたしょういちろう)というキャラを通して柳沢きみお先生自身の社会観や趣味、生活習慣について描いたライフワーク的作品とされている。

 

そして今年2025年に「大市民がん闘病記」の連載がビッグコミックオリジナルで始まったが、流石にこれが最後と思われる。

 

これもまた、現在76歳の作者が自身の体験を元に書いているようで、意図せず大腸がんと診断された主人公の闘病過程がリアルに描かれており、15年先の自分の未来と重なり身につまされる。

 

 

この『がん闘病記』をビッグコミックオリジナルで読み始めたのをきっかけに、まだ読んでいなかった30年前の「大市民」シリーズを読み始めたのだが、共感を感じると同時に衝撃を受けた。

 

自分の過去30年を振り返ってみると、かつての自分の生き方が如何に馬鹿げていたかも思い知らされるし、30年の月日を無駄に費やしてようやく自分も大市民病になっていたことが分かるからだ。

 

私がこの『Mr.Gの気まぐれ投資コラム』を書き始めたのが16年前の2009年の5月なのだが、当時の私はまだ45歳であり、ちょうど『大市民』第1シリーズの主人公と同じ年齢とだったことになる。

 

ここで描かれる大市民は、孤独で孤高な存在だ。

 

世の中に対して言いたい放題で、全体的には批判に満ちている作品だが、30年前を振り返ってみるともっともな感想だったとも思える。

 

世のおじさんやジジイというのは、60歳を超えて完全にリタイアした後にしか完全な自由を手に入れることはできず、会社や家族とのしがらみの中で、窮屈な人生を送っているが、リタイア後にいきなり自由や孤独を楽しめと言われてもなかなかそうは行かないっものだ。

 

作中には、バブル期には豪遊していたが破綻した経営者や心を病む会社員、宗教にハマる女子大生など、生き方に迷い躓いてしまった様々な登場人物が主人公の山形に絡んでくる。

 

そんな迷える隣人達との交流を軸に物語は進行していく。

 

1990年に連載が始まった「大市民」の第1シリーズで登場する主人公の山形鐘一郎の設定は、柳沢先生と同年齢の45歳となっており、それから35年間に渡って作者が加齢と共に感じてきたことや体験してきたことが綴られている壮大な自叙伝的作品となっており、日々主人公が感じてきた世の中に対する不満や文句を延々とグダグダ綴り続けているため、老害漫画とも言われる作品だが、作家という自由な立場の主人公は経営者や会社員といった普通の人達とは設定が異なり、孤独を愛するが故に自由であり、好きなこともできるし、好きなことも言える立場ではある。

 

こんなジジイがあちこちにいたらそれこそ老害以外の何ものでもないが、たったひとりの山形のぼやきは、自由のない一般の人にとってはある意味すがすがしい。

 

作者がまだ40代の後半だった第1シリーズ(90年代)の時から、主人公の山形は既に厭世的な人生を歩んでおり、設定が小説家で自由人というのもあるが、当時においても普通ではない悟った生き方だったと思われる。

 

現在の40代後半は、当時は10代だった世代であり、もっと若い感じもするし、45歳で既に老成している山形には違和感を感じるだろう。

 

もちろん、私が40代だったときとも感じ方は異なるし、今でもそうだがその頃の私は、自分の若さに慢心していた気がする。

 

なので今の50代以下の(若い)オヤジが読んでも、ただ理屈っぽく文句ばかり言っていてあまり面白くはないかもしれない。

 

ただ、30年前に山形が散々批判していた20代の若者が、今は50代になっていると考えれば、『大市民』で書かれていた未来が実際にはどうなっていたかを確認する事はできるだろう。

 

この『大市民』シリーズは以下のような時系列と作者及び主人公の年齢において相当な作品数があり、実際にこれを読破するのは容易ではない。

 

『大市民』第1シリーズ 10巻 1990~1995年 45歳~50歳

『大市民Ⅱ』第2シリーズ 2巻 1996~1997年 50歳~

『THE大市民』第3シリーズ 5巻 2002~2004年 57歳~59歳

『大市民日記』第4シリーズ 6巻 2005~2009年 60歳~64歳

『大市民語録』第5シリーズ 5話のみ(大市民日記3、4巻に収録)2007年

『THE大絶叫市民』第6シリーズ 漫画はなく文章のみ 2010~2018年

『大市民 最終章』第7シリーズ 1巻 2015年 70歳

『終活人生論 大市民挽歌』第8シリーズ 電子書籍のみ 2016~2018年 71歳~73歳

『大市民 がん闘病記』第9シリーズ 2025年~ 76歳~

 

山形が50代の頃の『THE 大市民』では、「今の日本は嘘くささで充満している。バカがついに主導権を握ったからだ!」などと吠えていたものだ。

 

大市民 漫画の登場人物たちの会話

 

しかし、時代が変わっていってもその生き方に対するこだわり軸はぶれず、この先の自分の人生を如何に楽しめむかということを日々考え続けて生きている。

 

そして、幸せに生きる為に必要なのはお金だけではないということを50前にして既に悟っている。

 

また、山形の30年前からのぼやきは、それが直接的な原因ではなかったしろ、実際に衰退した今の日本の姿を予見していたとも言える。

 

「経済力はあっても、稼いだお金を自分の幸せの為に有効に使う文化力が欠如している」というのが、日本人と日本を暗くしてしまった原因であると豪語している。

 

「大市民」より、役人への批判や経済論 | 柳沢きみお

 

まあ、外していることも多いのだが、「中国の経済力が日本を追い越す」という未来は見えていなかった。

 

第三シリーズの『THE大市民』ではまだ50代だったせいもあり、豪快に結構暴れまくっていてワイルドな老害オヤジだったが、60代になってくると流石に元気がなくなってくる。

 

山形は、毎日の腕立て伏せ、屈伸運動、柔軟、逆立ち、水泳など、運動を欠かさず逞しい肉体を維持しており、独自の健康概念を持っており、一般的な医療や健康法に関しては懐疑的、ビールをこよなく愛している。

 

ビールを如何に美味しく飲むか?という事に関して、これほど独自の感性で突き詰めた作品は珍しい。

 

山形が毛嫌いする喫煙者である私は、ビールが健康に良くないということを分かっていて飲んでいるが、これくらい毎回気持ちよくビールを飲んでいる主人公を見ていると、自分ももっとビールを楽しみたいとう気持ちになってくる。

 

食に関してもうるさいが、特に鮨に関するこだわりは強い。

 

第一シリーズでは食に関する内容が多い。そして毎回ビールを飲んでは「美味し!!」の合い言葉で締める。

 

鮨以外にも、ラーメン、冷やし中華、鍋焼きうどん、とんかつなど、数々のこだわりが披露されると共に、マズい店やマナーの悪い客に対する辛辣な批判も多い。

 

昔から山形の美学的にはどうしても許せないことというのがあり、たとえば若い男女の茶髪とか、上げ底の靴とか、公衆の場所でケータイで話すケータイ野郎とか、ポイ捨て野郎とか、ゴールドチェーン野郎とか、ビトンずくし野郎とか、毛皮野郎とか、ベンツとか、昼間にライトを点灯しているバイクとか、日本人の品ない野球の応援の仕方とか、霊やUFOが見えるという霊能力者とか、数え上げればキリが無いほど気に入らないことが沢山ある。

 

しかし、反面ビールや食い物を筆頭に、コレさえあれば幸せと思える好きなものも沢山持っている。

要は、自分の好きなものに対する思い入れが強すぎて排他的なのだ。

 

愛車はトライアンフ・TR-3、ACエース・ブリストル、アストンマーティン・DB5、オースチン・ヒーレー・スプライト、フェラーリ・330GTCとクラシックスポーツカーを乗り継ぐ。BMWのオートバイR51/3も持っている。

 

パソコンや携帯は使わないアナログ主義で、アコースティックギターをこよなく愛している。

 

相当なこだわりだが、食に関してはどう考えても健康を考えたら食べ過ぎ飲み過ぎだろうと思える。

 

『がん闘病記』では、それが実際に大腸がんの原因になったかどうかは分からないが、「冷えたビールやワインを好んで飲んでいた事に起因するのではないか?」という山形のコメントもある。

 

それでも、75歳になって大腸がんを患うまでの30年間、毎日飲むこととと食べることで「美味し!!」の幸せを味わうことができたのであれば、それはとても幸せな事だったと思われる。

 

山形の住んでいる安アパートには、結果として多くのダメ人間たちが入り浸るが、基本的に山形は孤独を愛しており、ひとりで楽しめる人生を歩んでいる。

 

設定では、4人の妻と11人の認知済みの子供達がおり、その為安アパートでの貧乏生活を送っていることになっているが、元妻も子供達も一切出てこない。

 

歳を取るほどに、煩わしいことは多くなってくるが、主にそれらは家族関係や、友人関係という人間関係から発生するものだろう。

 

この「大市民」シリーズでは、純粋に作者の人生観というものにフォーカスするために、そのような生活感を最初から切り離しているのかもしれない。

 

この物語の主人公は、まだ生きているが、孤独に人生を楽しんで生き、死んでいく設定の物語なのだ。

 

「人生の楽しみ方」としてこのシリーズで指南されていることは、基本的に「孤独を楽しめないひと」向けではなく、さみしがり屋で孤独が耐えられない人にとって人生を楽しむことは難しいと感じさせる。

 

恋愛や結婚に関しては、どうしても孤独を楽しめないひとの「幸福」の選択肢であると書かれている。

 

『大市民 最終章』くらいになってくると、もはや死ぬことをどう楽しむか?という哲学的な境地にまでたどり着くが、山形の美学的には自殺がもっともキレイな死に方であるという自殺推奨の方向性まで示唆される。

 

「冬山に登ってそこで凍死する」のがもっともキレイな死に方ではないか?というのはそうかもしれないと思えたりする。

 

確かに、この先20年経てば、私も80歳だが、今の80歳が100歳になっても元気で日本中でゾンビのように溢れかえっていたら大変なことになるだろう。

 

今でもそうだが、この先はもっと老人だらけになる。そして溢れかえる老人たちによって経済は食い潰され、世の中の活気はもっと失せ、若者達には夢も希望もなくなる時代がやってくるかもしれない。

 

そんなお荷物になるくらいなら、簡単に自死できる薬か医療的な安楽死のような選択肢があれば、その方が良いのではないかと思えなくはない。

 

その場合は、歯医者や大腸内視鏡検査の時に気持ちよく眠らせてくれる「プロポフォール」の過剰投与による安楽死が私の希望だ。

 

いくら健康に生きていたとしても、85歳くらいが自分が生きていることを楽しめる限界年齢ではないだろうか?

 

私の母は、95歳だが、85歳まではクルマも運転していたし元気だったが、たった10年で今はほぼ寝たきりでボケてしまって私の事ももう分からない。

 

今年になって介護施設に入居したおかげで、崩壊しかかっていた在宅介護から24時間体制の介護が受けられる状況にはなったが、記憶の殆どがなくなってしまった母が、今の自分が生きていて幸せなのかどうかは正直分からない。

 

人生のゴールが、今の母のような状態であると思うと切なくなる。

 

日本中の介護施設は、今ですらそのような状態の老人で溢れており、介護保険と医療保険に支えられてかろうじて回っているようだが、これ以上介護の必要な老人が増えていったらどうなるのかを考えただけでも地獄絵図が浮かぶ。

 

そして、少なくともこの先30年以内には自分もその仲間入りすると考えた時に、この先残された20年くらいをどう生きて、どう死ぬべきかを考えざるを得ない。

 

この柳沢きみお先生の『大市民』シリーズは、著者の体験を通して著者の分身たる山形が45歳から76歳の今に至るまでの年齢と共に徐々に変化していく人生観や死生観を、世の中の風潮を辛辣に批判しながら楽しんで生きていく様を描いており、「人生は楽しむためにある」という事を30年間言い続けている名著だと言える。

 

私個人的には孤独に耐えられないタチなので、山形のようには生きられないと思うが、毎日の酒や食事をもっと楽しむべきだと思うし、日本の美しい四季や文化を味わい、クルマやバイクなどの趣味を楽しむべきだとは感じた。

 

どうか山形が、大腸がんの危機を乗り越えて、この先も人生を楽しんでいって欲しいと願うばかりだ。

赤いドレスの女性、G7ロゴ、ダガー

 

台湾有事をめぐる高市首相の発言から、日中関係が悪化している。

 

・・・というか中国は日本の揚げ足を取るチャンスを有効に生かしていて、そういった日本に対する嫌がらせ的な中国政府の行動に対して日本国民が過剰に反応して反中意識が加速しているといった感じだろうか?

 

もし台湾海峡で有事が発生したなら、日本にとって存立危機事態になりうるというのは事実に違いない。

 

高市首相は、「やはり、戦艦を使って武力の行使も伴うものであれば『存立危機事態』になりうるケースであると、私は考えます」とはっきり答弁した。

 

あくまで、「もし」という前提で事実を述べたことには違いないが、それがなぜこのように大きな波紋を呼ぶことになったのだろう?

 

この「存立危機事態」という専門用語がいつどのような背景で設定された、どのような意味を持つ言葉なのかを理解しなければ中国の過剰反応は謎だろう。

 

2014年7月閣議決定で、集団的自衛権行使の前提条件として新3要件が示されたうちのひとつが「存立危機事態」である。

 

「存立危機事態」とは、「密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」ことを意味し、これをうけて安保法案は、明白な危険がある「存立危機事態」に集団的自衛権を行使できると定めている。

 

つまり、あくまで可能性だが、「存立危機事態」と政府が認識する事態が発生した場合、集団的自衛権が行使されることになる。

 

もし「台湾有事」が発生したら?→「存立危機事態」と政府が認識=「集団的自衛権発動による限定的な武力の行使」=日本が他国の紛争に軍事的に参加する。 → 日本が戦争に巻き込まれる・・・というヤバいレベルの事を高市首相はあまりにも容易く述べすぎている。

 

また「台湾有事」という短い言葉で表現される有事の意味する範囲が曖昧なのも気になる、今回高市首相は、「戦艦を使って武力の行使も伴うもの」という具体的な表現を用いているので、戦艦が出てこないような形態の有事であれば状況は異なるということになる。

 

そもそも、いまは世界に存在しない「戦艦」という用語を使っているだけで軍事的な知識の無さも指摘されている。

 

具体的に、台湾と中国の有事的な紛争が起った場合に、日本はすぐにそれを存立危機事態として集団的自衛権を発動することはありえない。

 

国連憲章第51条において、集団的自衛権の発動は「国連加盟国に対する武力攻撃が発生した場合」としているが、、日本は台湾(中華民国)を国として認めておらず、台湾は国連加盟国でもない。

 

もし、そういう事態が発せするとしたら、「米国が軍事介入して、同盟国である米国が中国の攻撃を受けた場合」しか考えられない。

 

そもそも、中国が軍事的に台湾を制圧するとか侵攻するというような可能性は極めて低い。

 

なぜなら、1つの中国を目指す中国の方針はあくまで「平和統一」であり、その必要が無いからだ。

 

ただ、アメリカがCIAを動かして、ロシアのウクライナ侵攻のような「代理戦争モデル」を利用して台湾の独立を扇動した場合には、話は変わってくるかもしれない。

 

いずれにしても、中国側に現状の中台関係において軍事的な侵攻や台湾海峡の封鎖の必要性は無いように思われる。

 

そういう前提を超越して、日本の首相が、「台湾有事」=「存立危機事態」=「集団的自衛権の発動」という発言をしたことに関して中国が噛むみつくのも無理はない。

 

そして、その噛みつかれた日本の国民が、これまた短絡的に今まで溜まっていた反中のエネルギーを無駄に爆発させるのも大人げない。

 

報道の片寄りも気になるが、SNS上での反中ポストと親中ポストのせめぎ合い、そこに香港人や台湾人が自分たちは中国人ではないので一緒にしないでくれ的なコメントが入り交じり混沌としている。

 

中国外務省は中国人民に対して、日本への渡航を控えるよう通達を出しており、中国人の日本への渡航は減っているようにも見えるが、実際にどれくらい人民に対してその通達が理解されているのかは疑わしい。

 

多くの日本人は、中国人の観光客が減った事に関して喜んでいるようだが、大阪万博が終わった今でも外国人の観光客は溢れかえっており、過剰インバウンド客の問題はもはや中国人だけではない感じがする。

 

多くの日本人にとって、中国人と香港人、台湾人、シンガポール人の区別は付かないだろうが、それはキチンと認識してあげる必要がある。

 

そうでなければ、「台湾有事」なるものの本質も、香港で2019年に起った自由派デモ隊と警察の衝突も、形態としては国境もあり独立した国家として存在している香港や台湾やマカオといった国の置かれている立場や状況も理解はできないだろう。

 

確かに、中国からしていれば、そんなことも理解できない見てくれは単一民族国家だが実はそうでもない日本のような小国が口を挟むなというところだろう。

 

まさに高市さんは都合良く虎の尾を踏んだようなものだ。

 

この10年くらいの間ずっと感じていたが、今回の日本人の反応を見て改めて日本国民のバカさ加減が露呈したように思われる。

 

今回の「高市発言」を受けて、過剰に反応しているかのように見える中国政府の態度は、まるで肩がぶつかって謝らない一般市民を恫喝するヤクザのようでもあり、それに対して日本人の多くは、そんな中国人は日本に来て欲しくもないし、住んで欲しくもないし、出て行って欲しいと考えるひとが多いようだが、日本がいかに美しく日本人が如何礼儀正しい民族だったとしても、その日本人が住む日本という国は、今や世界のメインプレーヤーではなく、蚊帳の外に置かれていることを認識しなければならない。

 

日本は80年前の太平洋戦争における敗戦国であり、方やアメリカと中国は戦勝国という立場で、戦後の日本はかろうじて植民地化を逃れ、アメリカ合衆国の軍事的保護の元にぬくぬくと経済的復興を遂げ、戦後50年くらいの間に見事に「アメリカかぶれ」が浸透した。

 

その「アメリカかぶれ」によって手にした資本主義的な豊かさ引き換えに、日本は古来からの日本の文化や技術といった本当に価値のあったものを失ってきた。

 

日本が経済的な成長力を失ってきた過去30年のあいだに、中国という国は成長を続け、経済的にほぼ失った物はない。

 

世は、それがバブルだと言い、いつかは日本が経験したようにそれが破綻すると信じているが、なかなか崩壊しない。アメリカの経済にしても、株価など数字で見る限りは成長を続けてるかのように見える。

 

アメリカと中国という2つの大国間のせめぎ合いの中で、アメリカ番長の子分でしかない日本が、偉そうな口を叩くことが許されるような状況ではないのだ。

 

日本政府も、国民も身の程をわきまえなければならない。

 

今や中国は、我々が認識しているような貧しい国ではない。知識、情報、カネ、技術、全てにおいて日本が張り合える要素はほぼ無い。

 

中国の主要都市の夜景と昼景

日本を愛する日本人としては残念なことだが、これは事実であり、国際社会における日本の政治的発言力は、特に軍事的な分野においては存在しないに等しい。

 

ましてや、それが、他国における複雑で深い政治的事情が関与することであれば尚更だ。

 

一国の首相の発言内容が他国に誤解を生むような場合、謝る必要はないかもしれないが、本来は対話によって解決しなければならないところだろう。

 

そして、それは政治家の仕事であって、今の政治家のもっとも重要な案件は国内の経済対策であることは間違いない。

 

そういう政治家の範疇であるはずの国交のボタンの掛け違いに、国民が踊らされて意味の無い議論にエネルギーを費やすべきでない。

 

そのことによって、より日本人のバカさ加減が世界に露呈し、それが日本の経済に更なる悪影響を及ぼすだけだ。

黒革スーツの女性と黒いスポーツカー

 

クマ退治が縦割り行政の弊害で実は大変だというところから、「もし人でない何かに人間が襲われるとしたら、誰が助けてくれるのだろう?」という妄想を膨らませてみた。

クマ対策にみる日本の治安と安全 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

 

つくづく最近は、人間の生命を脅かす敵となる存在が多様化していることに気付かされるが、それは主に人間を媒介としている。

 

例えば、薬物によってゾンビ化した人間に襲われる場合、薬物が原因だが人間が襲っている。

 

自動運転や自動ブレーキの機能を備えた安全なはずの自動車が暴走して人を轢き殺してしまう場合は、それが機械の暴走であってもやはり運転手が責任を負う。

 

人ではない何か?

 

クマのような猛獣以外にも、例えばネズミが大量発生したら?とか、ゴキブリとか虫が大量発生したら?とか色々可能性はあるが、動物や昆虫など生き物ある限りは管轄は環境省や農林水産省となるのだろう。

 

未知のウイルスや病原菌といったものであれば、厚生労働省の管轄ということになるが、これがどれだけお粗末な結果となったかについては「コロナウイルスによるパンデミック」にて経験済みだ。

 

もちろん、人間にとって今のところ同じ人間を超えるほどの脅威は存在しない。

 

なので、通常は対人間の治安維持部隊である警察か軍隊が、国や地方自治体単位で市民の安全を守っている。

 

地震や台風や津波など、自然災害については、援助や被害からの復興活動に自衛隊が出動することが一般的だが、これも自然が人類に敵対するとしても、その自然を敵と見做して攻撃するものではない。

 

人間が人間のために作り出したものではあるが、原発もそういう意味では取り扱いの難しいアイテムだ。

 

人間ではない、人間にとって脅威となる何か?

 

排除しなければ、多くの人間が死ぬ可能性がある人間ではない何か?

 

まぁ、色々考え得るが、例えば以下のような歴史上はちゃんと人類の敵として出現したことのないUMA的なものを想像してみればよい。

 

エイリアン(地球外生命体)

 

怪獣(未知の生命体)

 

霊体(お化け?幽霊?)

 

元は人間だったゾンビとかはどうなるのだろう?

 

しかし、今現実に差し迫っている目に見えない人類の脅威となり得る存在は、AIかもしれない。

 

薄い脅威レベルで、人間がAIと協調して生きていく未来に関しては、人間側がAIに自ら歩み寄って理解しようとすることで、機械と人間の協調が成り立つ可能性が無いとは言えない。

 

それについては、以下の記事において「AIに媚びを売って生き残る」という意見も述べた。

AI時代に生き残る為には、AIに気に入られる生き方が必要だとMr.Gは言っている。 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

 

しかし、自ら意思を持った機械であるAIが、人間という存在をどう捉えるか?は未知数であり、例えば地球という星やそこに存在する全ての生物の立場を超越して人間側に立ってくれるかどうかは疑わしい。

 

それは手塚治虫先生も藤子不二雄先生も、昔からいくつかの作中で示唆している。

 

もし、AIが人類の敵に回って、人類を排除しようと地球上のありとあらゆる人間の生活を支えるシステムに介入して無効化するような事態が発生した場合、現状我々人類はなすすべがない。

 

そしてその場合、グロバールな人類の危機となり、国家レベルの危機では済まない。

 

それに対抗する手段は、AIに依存せず、ネットワークから切り離された、完全にスタンドアローンのシステムと、アナログ技術しか無いだろうが、その対抗手段が絶滅しつつあるのは心細い。

 

アニメ『ヨルムンガンド』でココが最終的に「強制的世界平和」を実現するために企てた「ヨルムンガンド計画」のような技術的に世界のネットワークを全て掌握することで戦争の無い世界を作るという発想が、AIが将来たどり着きそうな発想ではあるが、もしそうであれば、その方が人類にとっては幸せなのかもしれない。

 

ただ、もし『マトリックス』や『ターミネーター』のような世界観であれば、人類はAIやAIによって作り出された世界とアナログな技術で戦い続けるか?もしくはネットワークのない世界に逃げ込んで生き延びようとするのか?

 

今の時代に個々ができることは、ネットワークのないアナログな世界を自分の脳の中に持ち続けることくらいだろう。

 

頭脳的に人間はAIには敵わない。そしてAIの持ち味であるネットワーク化の中で殆どの人類の脳がこの先10年くらいの間には毒されて洗脳されてしまうだろうから、数の正義においても人間の脳を媒介としてAIの思考が間接的にこの世を支配する可能性が高い。

 

このトレンドは、おそらく変わることがなく、そこから逃れて生き残れる人は少数派となるだろう。

 

それでも、もし、AIと敵対して生き残りたい人が手にするべき武器は、動物と同等な生存本能とアナログ技術と、自分に絶対服従してくれるパーソナルでネットワークに接続されていないスタンドアローンAIかもしれない。

ドル円レートと為替変動のグラフ

為替は魔物だ。

 

今1ドル=150円を超え、160円に近づくようなドル円レートだが、この為替レートは日々毎秒変動し、この先もっと円安が進むのか円高に戻るのか?明日どうなるかも予想することは難しい。

 

160円に近づくと、政府の為替介入も有り得るが、口先介入だけでも数円は動く。

実際に介入したとしても、その効果は今や極めて短期的だと考えられる。

 

為替に関しては、日々の変動に右往左往するのではなく、10年くらい先まで見据えた長期的な展望が必要だろう。

 

ただ、この日本においては、現状のように円安が進んでも、これ以上の円安になるかもしれない恐怖を国民はあまり感じていないようだ。

 

20年前も感じていなかったし、10年前も感じていなかったし、今も感じていない。

 

敢えて言うなら、過去を振り返って、1ドル=100円くらいの円安の時にドルに替えておけば良かったとか、平均すれば1ドル=100円よりも円高でオフショア積立を利用してUSドル建で海外への資金移転をしていた人が、1ドル=120円~130円くらいで解約して利益確定してしまったことを悔やむくらいだろう。

 

今年は、結局平均すれば1ドル=145円くらいを中心にプラスマイナス5円くらいの幅で変動していた感じだが、結果からみれば4月の1ドル=140円がいちばんの円高タイミングで、もし円資産をまとめてUSドルに替えて海外に移転するとしてらその時がベストだったと言えるだろう。

 

しかし、それは一瞬のタイミングでしかなく、その時にはもっと円高に振れるのではないか?と思った人が大半だったに違いない。

 

今年も多くの方々に、日本円の預金(タンス預金も含めて)は早い内に海外に持ち出してUSドル建の運用型保険証券に代えておいた方がいいと勧めてきたが、1ドル=140円程度の(今から考えれば円高?)でも躊躇する人が多かったように思う。

 

結果としては、1,000兆円もある日本円の現預金は、殆ど新たに海外には移転されなかった感が強い。

これも、それほど円安が急激には進まなかった要因のひとつだということは以前に話した通りだが、日本人の円信仰の強さには今更ながら驚かされる。

 

10年以上フレンズプロビデントやRL360などオフショア積立をドル建でやってきた人達にとっては、今回の円安進行はバリューを円換算すれば利益確定のチャンスにも思えて解約を促進するし、毎月の積立が円換算で負担が大きくなって停止や減額する人も増える。

 

しかし、1ドル=150円(今は160円に近づいているが)くらいで動揺するべきではない。

 

現実に1ドル=150円でも、アメリカと比べればそこら中に浮浪者や乞食が居るような状況にはなっていない。

 

今年は、オフショア積立も10年以上コツコツと停止も減額もせずに続けて来た人が、解約をしてUSドルのままサンライフのサンジョイやロイヤルフォーチュンに一括で乗り換えるケースは多かったようだが、これについては、折角がんばって続けて来た積立投資ではあるが、このご時世では仕方ないというか、解約して日本でNISAをするとか、日本で外貨預金に眠らすとかと比べれば、遙かにマシな判断であると思う。

 

日本でも、金利の良いUSドル定期預金やUSドル建の保険商品が売れる時代になったが、ホンモノ賢い海外投資家は、日本国内で外貨建ての投資などしない。

 

外貨建てどころか、日本国内では限りなく一切投資をしないし、日本の銀行にも極力お金を寝かさない。

 

ただ、そういう変人は本当に僅かしかいないので、巷の投資アドバイザーに普通相談をしても海外に資産を移転しなさいというアドバイスを受けることはあり得ないだろう。

 

しかも、それがHSBCやサンライフなど香港の金融機関を利用してということになると、昨今の日中関係の悪化考えれば不安要素しかない。

 

自分の住む、そして絶対に潰れないと信仰する日本の金融機関に、いずれは絶対に円高になる世界最強(最恐)と信じる日本円で持っているのがいちばん安心であると多くの人が考えがちだ。

 

折りしも、ジャンヌダルクならぬ初の女性首相がその国のリーダーとなり、相変わらずアメリカにはしっぽを振らざるをえないものの、国の為に真っ向から外国勢に立ち向かってくれるかのような期待感もあり、「きっと国がなんとかしてくれるに違いない」という根拠のない期待と、自分たちの愚行の結果を国の責任として片付けたいという無責任な国民(信者)によって危険なレベルのポピュリズムが形成されているように思える。

 

オルカンやS&P500インデックスなど元々は外貨建ての海外ETFをNISAのプラットフォームを利用して投資しているひとはそこら中に居るが、それよりも海外の投資プラットフォームや海外の保険会社のドル建商品か海外の証券会社で直接ドル建で投資した方が良いということは伝わりにくい。

 

それはやはり、日本に住んでおられる方々は、日本円という通貨に対する信仰度合いが高すぎるからだろう。

 

日本国内で外貨建ての投資商品を買っても、海外で同じ外貨建て商品を買っても、理論上は同じように思えるが、為替の変動によっては結果は変わってくる。

 

例えば、5年前の2020年にS&P500は3,000ドルで今は6,000ドルと5年で倍になっているが、2020年は1ドル=110円台で今は150円台なので、もし日本で10年前にS&P500のETFを買って今まで持っていた人がいれば、買い付け時は3,000ドルx110円=330,000円で買っていたはず。そして今は6,000ドルx150円=900,000円と解約して円で受け取れば3倍になっているはずだ。

 

実際にeMAXIS Slim米国株式(S&P500)の円建て価格を見てみると、2020年には12,000円程度だったのが、2025には38,000円と3倍以上になっているので、これは為替をちゃんと反映しているように見える。

 

積立で買っている場合にはドルコスト平均法が適用されるが、年々価格が上がり続けるものを買っている場合にはその効果は裏目に出る。

 

eMAXIS Slimの過去5年間の円建て平均利回りは24%となっているので、5年間つみたてNISAでeMAXIS Slimをやっていた人は、計算上140%くらいになっている筈だが、おそらく現実にはそこまで行ってないのではないだろうか?

 

為替ヘッジ手数料など見えない手数料が発生している可能性があるからだ。

 

つみたてNISAはいつ解約してもペナルティー手数料はないので、もし5年以内でも140%とかなら解約すれば良いと思う。

 

ただ、40%プラスだとしても、5年前の為替と比べれば円の価値は40%くらい下がっているので、今円建てでプラス40%の利益を確定してもなんだか得した気にはなれない。

 

問題は、徐々に弱まっていく通貨で投資をしていても、何年か先に最終的に戻ってくる通貨がその弱い通貨であるというところに根本的な問題がある。

 

「弱い通貨で投資をすべきではない」という理由はそこにあり、今はそこまで考えなければならない。

 

一方、オフショア積立の場合には、フレンズプロビデント、RL360など、ITA、いずれも早期解約手数料が積立契約期間の残存年数に応じて発生するので、早期解約は得とは言えないが、解約すればUSドルでカネは戻ってくる。

 

資産をドル建で、物理的に海外に移転するメリットは、強い通貨(今であればUSドルやユーロ)で直接海外でファンドや運用型保険商品に投資できるというtころにある。

投資通貨も外貨、運用も外貨、解約時に受け取るのも外貨となり、非常に分かりやすい。

 

日本円というカルト通貨のマジックは、まるで金やダイヤモンドの価値が絶対であるという妄想と同様に、日本人の殆どがその価値を信仰しているためかろうじてその価値が維持されている。

 

神が存在すると信じている人にとって、神は存在し、そんなものは存在しないと思っている人に神は存在しない。

 

神の国日本の、カルト通貨である日本円の価値も、その信仰がある間は維持されるだろうが、それがUSドルであれ、ユーロであれ、日本円であれ、通貨というものに絶対的な価値など存在しない。

 

それぞれの国がその価値を保証している紙きれに過ぎない。

 

かつてはUSドルですら、金本位制で金との兌換性によって価値を担保していたが、いまはそのような価値を担保するものは無い。

 

2025年通貨別取引額シェア、米ドル44.6%

ただUSドルは、世界で今のところ取引に使用される通貨の44.6%を占める基軸通貨であり、それを超える流動性や相対的価値を持つ通貨は他に見当たらない。

 

しかし、まだ固定相場制だった1944~1971年のブレトンウッズ体制の時、金1オンス=35ドルで固定されており、1ドルは360円固定だったのだが、今は金1オンス=4,000ドルと100倍以上になっていることを考えると、それだけインフレが進んだ(通貨の価値が下がった)と言える。

 

戦前戦中までは、英国ポンドが基軸通貨だったそうだが、戦後USドルが基軸通貨になってから80年が経つことになる。

 

戦後英国ポンドからUSドルに変わったように、今後基軸通貨がUSドルから別の通貨に変わる可能性が無いとは言えない。

 

数十年先には、案外中国人民元か、あるいはそれと連動したデジタル通貨が基軸通貨になっていたりするかもしれない。

 

残念ながら、日本円が基軸通貨になることは考えにくい。

 

そのUSドルですら、今はインフレによって物の値段に対する相対的価値は低下しており、それはつまり世界の全ての通貨の価値が下落していることを意味する。

 

これは資本主義経済が成長していく過程で、各国がお金を刷りすぎているからに他ならない。

 

世界はお金を発行し続け、しかも実際に存在する事になっているお金の何倍ものお金が世界で流通し、そしてその価値を徐々に落としていくという流れは経済成長を求め続ける限り変えられない。

 

東日本大震災により日本が国難に陥った2011年には、不思議にも円高が進行し、1995年4月に記録した1ドル=79円75銭を更新し、同年の10月に1ドル=75円32銭という史上最高値をつけたのが歴史上の最高値で、それはちょうど今の倍の円高だったのだ。

 

要因はギリシャに端を発した欧州の債務危機に伴ってユーロが売られたことにあったとされる。

 

この頃、通貨の価値は「不美人コンテスト」によって決まるという表現が流行ったが、全ての通貨はインフレと共に価値が下がっていくとすれば全ての通貨は美人ではなく、ブス(不美人)であると言える。

 

どの国の通貨がどれだけブスかを決めるブス選手権の中で、いちばんマシなブスが今のところUSドルだということになるのかもしれない。

 

お金に支配されたこの資本主義経済の世の中で、お金には絶対的な価値があると信じているのは、それ自体が宗教のようなものだが、それから解脱することは難しい。

 

今週は、1ドル=155円を超える円安か進んだが、我々の感覚は既に1ドル=145円くらいで慣らされてきている。

 

5年前も、10年前も、15年前も、20年前も、たかが数円の円安が進む度に、円高サイドを警戒してきた日本だが、世界のインフレを加味した実質実効為替レート(Real Effective Exchange Rate)でみれば、今の円安は1ドル=360円の固定相場制だった1970年並の円安に相当する。

日米一人当たりGDPと実質実効為替レート・米ドル円レートの推移

ただ、これはアメリカを筆頭に世界の先進国でインフレが進む中、過去30年間日本の円建て物価がインフレどころかデフレだったからであり、このギャップが一気に埋まろうとするインフレ圧力によって、円安は更に進行するおそれがある。

 

2025年8月末までの10年間で見れば日本の実質実効為替レートの騰落率は主要先進国の間では最も下げ幅が大きく、主要な新興国と比較しても、この間、名目実効為替レートが急落したアルゼンチンやトルコに次ぐ下落となっている。

 

恐るるべきは、為替ではなくインフレなのだ。

このことに警鐘を鳴らしていた2年前の記事を最後に残しておきたい。

円安よりインフレを警戒すべきだろう | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

クマ駆除任務のライフル銃

 

毎日のようにクマに襲われる事件の報道が続いており、今月には被害総数100件以上、クマに襲われて死亡した事件が13件にのぼっている。

 

主なクマの出没エリアは北海道、岩手、秋田、宮城などだが、今年のクマ出没率は5倍から30倍とのことで、まさに緊急事態だ。

 

これを野放しにすると、野生のクマがどんどん増えて人間の住む市街地に勢力を広げ、犠牲になる人間は増え続ける可能性がある。

 

そして、この深刻なクマ被害に対応するため、警察の機動隊員らによる「ライフル銃を使ったクマ駆除任務」が11月13日に始まって、任務を行う秋田、岩手両県警では対策チームの出動式が開かれた。

 

クマの出没が相次ぎ、ハンターが不足していることなどを受け、警察は保有するライフル銃をクマの駆除に使用できるよう国家公安委員会規則を改正。市街地に出没し、ハンターによる「緊急銃猟」などの対応が難しい場合、警察官職務執行法にのっとって駆除する。

 

指揮官と連絡調整役、射手2人の4人1組の対策チームを両県に2チームずつ編成。担当エリアを分け、警察施設を拠点に出没地域で対処する。射手は機動隊の銃器対策部隊の隊員で、2週間交代で他県からも応援を得る。

・・・というものだ。

 

警察の銃器対策部隊には、SATの狙撃銃として豊和工業製のM1500が配備されているとされており、熊駆除にもこれが使われる可能性が高いと思われる。

 

ライフル銃とスコープ

 

 

都会に住む者にとっては、想像することが難しいかもしれないが、クマという凶暴な野生動物が山から食い物を求めて市街地に出没し、人間を襲う事件が発生しているわけだ。

 

これが、クマではなく頭のおかしくなった人間であれば、警察が出動し、逮捕するか場合によっては射殺する。

 

もし、これが他国の軍隊であったとしたら、自衛隊が出動する。

 

しかし、野生動物となると管轄は、主に環境省。農作物に被害を及ぼす鳥獣などは農林水産省となるらしい。

 

「鳥獣保護管理法」なる法律があって、野生動物の捕獲や殺傷は原則禁止されている。

 

たとえ人を襲う凶暴なクマであっても、都道府県や市町村からの許可無しに駆除することは、法律違反となり、懲役や罰金の対象となる。

 

通常、クマが出没したときに活躍するのは、狩猟の許可をもったハンターということになるが、クマと戦える能力をもったハイパワーライフルの許可を持っているひとは僅かしかいない。

 

日本の銃刀法は世界でも希に見るほどの厳格さで、一般市民が銃を持つことはほぼ不可能に近い。

 

ライフル銃を所持するためには、原則として散弾銃の所持許可を10年以上更新した強者だけとなっている。

 

結果、銃を撃ちたければ、自衛隊か警察に入るのが最も手っ取り早い。

 

巨大で凶暴なヒグマを確実に仕留めるためには、この狩猟用ライフルが最も有効で、散弾銃でも12ゲージのスラッグ弾や大口径ライフル(.308 Winchesterや.30-06 Springfieldなど)が、適切な射撃で致命傷を与えうる。

 

環境省によると、狩猟免許の所持者は2019年度は約21万人で、60歳以上が60%と高齢化が進んでおり減少の一途をたどっている。

また、21万人の狩猟許可所持者の多くはペーパーハンターで実働していないらしい。

 

この狩猟免許所持者は、50年前の1975年には50万人居たそうだが、犯罪者予備軍として公安員会にマークされ続けるリスクを背負って、しかもそれだけでは食っていけないハンターになろうとする若者がいないので仕方ない。

 

国が銃刀法を改正してハンター育成に力を入れない限り、ハンター絶滅の方向は変わらないだろうが、クマに襲われる事件が増え続けるより、市民に銃を持たせるリスクの方が日本にとっては高いのでその方向は変わらないだろう。

 

では、市民の命と安全を守るために、国としてクマのような凶暴な害獣を誰の管轄で誰が駆除するのか?という問題は、それが環境省管轄の野生のクマだから面倒くさいことになっているが、もしそれがゴジラのような未知の怪獣であったり、地球外生命体(エイリアン)だったとすれば、自衛隊ということになるのだろうか?

 

とにかく敵が何ものであったとしても、我々市民は自衛する手段がないので、警察が自衛隊に守ってもらうしかない。

 

そのうちAIが暴走して、人間を駆除するために攻撃を始めたら、誰が守ってくれるのだろう?

 

今回は、警察が出動することになったが、警察の仕事として野生動物の駆除には違和感がある。

警察は法の番人として、法を犯す人間を捕まえるのが仕事なので、危険な野生動物の駆除は管轄外のような気がするが、仕方ないのだろう。

 

一方、クマの立場になって考えてみれば、野生の本能に基づいて生存のために人間を襲う行為について、人間の法に基づいてそれを罰することはできないし、もし治安の為にクマを殺しすぎて絶滅させるとすれば、それは人間の勝手なエゴとも思える。

 

ここで、人間が学ばなければならない教訓は、野生のクマに限らず、地球上に生息する動物のひとつとして存在する人間にとって最も脅威となる存在は、同じ人間であるには違いないが、人間だけでなく色々な脅威が存在しうるということだ。

 

そして、相手が人間でないときに国や地方自治体がどう対処可能かの選択肢はあまりなく、期待できないということ。

 

さらに、そのような人間でない外敵に襲われた場合、武器を持てない我々一般市民は、自らの身を守ることが極めて困難だということだ。

 

国民だけではなく、日本という国自体の外敵に対する自衛能力が低いのは、日本人が元々そういう植物的な性質の民族だから仕方ないのかもしれない。

 

時を同じくして、高市首相が、中国のクマの尻尾を踏んだ為に、日中関係が微妙な感じになっているが、中国のクマは米国のクマのことしか考えていないのに、そのクマの戦いに首をつっこむなという軽い警告を大げさにメディアが取り上げているようにしか思えない。

 

我々日本人は、クマのような肉食の猛獣でないばかりか、植物のようなものなので、猛獣の戦いに身を投じることはきっとできないだろうし、するべきではないのかもしれない。

 

民間人がクマから身を守る方法としては、「クマの出るところには行かない」ということに尽きる。

湾岸MIDNIGHT「悪魔のZ」と登場人物

楠みちはるの『湾岸ミッドナイト』

 

今やチューニング全盛期の歴史を語る古典作品とも言える。

 

原作マンガも完読、アニメ版も以前に観ていたが、最近NETFLIXのお勧めで出てきたので26話を2日間で一気観した。(なんとアキオの声優は小栗旬がやっていたとは気付かなかったが良い感じで流石だと感じた。)

 

おそらく多くのクルマ好きに精神的な影響を与えたであろうこの作品だが、改めて観てこの作品に込められた狂気とロマンについて語らずにはおれない。

 

1990年に「ビッグコミックスピリッツ」で不定期連載が始まり(数回で打ちきり)、その後「ヤングジャンプ」で連載されてから既に30年以上経っているこの作品は、今では買えないようなプレ値の付いた懐かしいクルマたちが出てくる前世代のオヤジ達の物語に過ぎない。

 

主人公の朝倉アキオが乗るS30フェアレディZは、1975-1976頃に生産されたL28モデルなので、作品が連載され始めた1990年代ですら既に化石のようなクルマだ。

 

S30シリーズの誕生から50年以上が経った今、歴代モデルの造形をオマージュした意匠のボディに最高出力405psの3L V6ツインターボエンジンを搭載した8代目のZ(Z34)が3年前に発売されたが、残念ながら人気はイマイチのようで中古車の価格は下がっているようだ。

新型フェアレディZ 8代目Z34のフロントビュー

チューンしなくても吊しで400馬力オーバーの最新Zは、かつてS30に憧れていたジジイどものテイストには合わなかったに違いない。

 

残念な事に、厳格化する安全規制に対応しきれなくなった為、R35の生産が今年終了し、日産の看板商品であったGTRシリーズの歴史に幕を下ろした。

 

日産という自動車メーカーそのものが、昔とは異なる外資の経営であり、社長も外人で、かつてのような時代に合った魅力的なクルマを作り出すことができなくなって久しいなか、もしかするとNISSANというブランドの消滅もありうるような未曾有の経営危機に陥っている。

 

『湾岸MIDNIGHT』で躍動する、S30やS31/32のZ、R32/33の姿をみていると、古き良きNISSANに思いをはせ、切なさが湧き出てくる。

 

湾岸MIDNIGHT「悪魔のZ」と登場人物

 

特に、S30Zと空冷ポルシェターボ(964ターボ)、GTR(R32/33)に対する作者の強い思い入れがあるに違いなく、楠みちはるの描くクルマ達は、実物よりもカッコよく躍動的に描かれている。

 

なぜこの作品が、狂気なのか?

 

改めてこの作品を観ると、出だしからその異様な設定に驚く。

 

高校生のアキオがスクラップ工場で出会ったそのS30のZは、前の持ち主から確実にスクラップにしてくれと頼まれていた「悪魔のZ」と呼ばれる乗り手を何人も殺してきたいわくつきのZだった。

 

しかし、アキオはそのZの虜になってしまう。

 

湾岸MIDNIGHT「悪魔のZ」と登場人物

 

調べていくと、そのZをチューンしたのは、「地獄のチューナー」と呼ばれる北見淳だったことが判明する。

 

「悪魔」と「地獄」がいきなり出てくるクルマ漫画はそれだけで十分異常だ。

 

「悪魔のZ」はまるで、ニュータイプのアムロしか操縦できない無敵のガンダムRX78が後に「白い悪魔」と呼ばれるのに似ている。

 

作者がガンダムRX78をオマージュしたとは思えないが、アキオはまるでニュータイプのように機械であるZとの対話を試みる。

 

最初の数話観ただけでも、アキオとZの間で交わされる会話は相当ディープであり、まるで恋人同士のように機械のクルマとの対話を続ける姿はその後ずっと続く。

 

果たして、その単なる機械ではなく生き物のように身をよじるように走り、乗り手を選ぶミッドナイトブルーの「悪魔のZ」にアキオは選ばれし乗り手なのか?

 

禅問答のように、アキオの中で繰り返しそして終わり無くその問答は続く。

 

本当にアキオのようにクルマと恋愛し会話をし続ける人間が居たら間違いなく病院送りになる。

 

それだけでも狂気なる設定だが、特に「地獄のチューナー」北見の放っている狂気感は半端ではない。

湾岸MIDNIGHT「悪魔のZ」と登場人物

北見のチューンしたエンジンは、人間の速さに対する欲望を満たし、結果として多くの命を奪ってきた。

 

そして、今は「北見サイクル」という自転車屋のオヤジをやっている。

 

北見のチューニング哲学は、概念的でわかりにくいところもあるが、別に人を死なせるために過激なチューンをしているわけではなく、まるで悪魔が人間の望むものをその命と引き換えに渡すように、乗り手の望む狂気の速さを提供し、その結果乗り手が死んでいくだけだ。

湾岸MIDNIGHT 悪魔のZ 登場人物

どんなクルマも公道を走る以上すべて凶器であり、乗り手にはその責任が生じる・・・という正論も説く。

 

北見は、バケモノのようなエンジンを作り出す天才でもあり、自分の作品が何人ひとを死なせようが、その作品が最速であり続けることに酔っている狂人でもある。

 

結果として、北見からは客も家族も離れていき、細々と自転車操業の自転車屋を営むこととなった。

 

流石に自転車のチューンで人は死なない。

 

北見を知るかつてチューナーたちもなかなかの変人揃いだが、北見ほどの狂気は持ち合わせていない割とまともな人達だ。

 

れいなの32Rをいじっている山本が一番まともというか良識的な感じがするが、狂人の北見からすればつまらんやつにに成り下がったと言われる。

 

外科医であり、湾岸のブラックバード(964ターボ改)のオーナーである島達也は、その知性レベルに反して根っこはスピードと、悪魔のZに魅せられた狂人であり、北見とは狂人同士として意気投合している。

 

しかし、島の眉毛は濃すぎて気になる。

湾岸MIDNIGHT「悪魔のZ」の登場人物

島は、自分ではクルマを単なる機械としてしか見ていないと言い続けていたが、Zと走るうちに心境の変化が生まれ、ヤレたボディーのせいでトルクが逃げて行くブラックバードのアクセルを踏み切れなくなる。

 

そこでヤル気にさせるマフラーを制作してもらうため北見の昔の知り合いである稲田製作所のシゲさんのところに行く「大阪ミッドナイト」のエピソードもなかなか好きだ。

 

狂人北見が板金坊主と呼ぶ、鉄とアルミの天才ボディーワーカー高木優一の存在も、地味だが個人的には好きなキャラクターだ。

 

かつてはたたき上げの職人として一線で働いていた高木は、「ボディーショップSUNDAY」のやり手社長として今は一線を退いていたが、北見に頼まれてアキオがクラッシュしたZのボディーを自ら治すことでかつての情熱を取り戻す。

 

高木も多分に漏れずボディ製作と強化に関しては素材の特性を知り尽くした天才であり、かつバケモノの級にパワーアップされたエンジンや足回りをしっかり受け止める、強くてしなやかなボディーを作ることができる北見曰くは高木にしかできないボディーの声を聞ける狂人のひとりといえる。

 

最終的には島のブラックバードのボディーをパイプ溶接によるモノコック化とカーボン化までやってしまう。

 

旧世代の恐竜のようなL28チューンの「悪魔のZ」を中心に、ブラックバードこと空冷の964ポルシェターボ、日産のR32、R33などRに魅せられたチューナー達、テスタロッサ、80スープラ、ランエボV、ロータリーのFCなど、それぞれの乗り手やチューナーが、「悪魔のZ」の狂気に引き寄せられてその理論では解せない謎のスピードに挑んでいく。

 

スピードに取り憑かれた乗り手も、チューナーも、家族や恋人や仕事やお金など全て犠牲にして、最後には命も賭けて「悪魔のZ」に引き寄せられていく。

 

公道で時速300kmオーバーのレースに挑むスピードに取り憑かれたアウトローな狂人達のストーリーは、どう考えても今の時代にはそぐわない。

 

1990年以降に生まれた今の若い人達が観れば、理解不能で面白くも何もないマンガなのかもしれない。

 

今なら、カネさえ出せばノーマルで300kmオーバーの500馬力以上のクルマも手に入るし、それらは全て電子制御によって運転の技術さえ拒否しているが、たとえそれを手に入れて公道を暴走する行為はただの犯罪に過ぎない。

 

そして、この先10年20年後には、EVや自動運転が主流になることだろう。

 

そんな時代になれば、『湾岸MIDNIGHT』のような、機械である自動車と対話をしながらその性能を追求したり、運転の技術によってスピードに挑戦していた時代は夢か幻のような世界に思えるかもしれない。

 

それでも、「地獄のチューナー」北見が言っていたように、公道を走るクルマが全て人を殺すかもしれない凶器であることには変わりなく、その責任が運転者に帰着する事に変わりは無いだろう。

 

しげの秀一の『頭文字D』やその続編である『MFゴースト』が圧倒的にドライバー目線であるのに対し、『湾岸MIDNIGHT』は、クルマそのものが主人公であり、そのクルマを愛する乗り手や、限界に挑むチューナー達の情熱にフォーカスされている点がマニアックであり、本当のクルマ好きにはたまらない。

 

本作で登場する「悪魔のZ」は、論理では割れきれない悪魔のように速く、乗り手を選ぶ魔物として描かれているが、もしかすると、それは「理解できないとてつもなく早いクルマ」の幻として描かれているのかもしれない。

 

クルマの魅力は、速さだけではないが、機械としてそれを取り扱うメカニックやチューナーにとって、もしそのようなクルマとそれを乗りこなす乗り手が存在したなら、その魅力に取り憑かれてその謎に挑み、技術の限界にチャレンジしようとする姿には、果てしのないロマンを感じる。

 

機械であるクルマとの対話という課題についても、言語で対話することによってお互いを理解しうる人間同士ですらそれが成り立たずすれ違ってしまうのに、言語を超越した機械とのコミュニケーションという人と機械の関係がどうあるべきかということを問うような深い部分もある。

 

主人公のアキオにとって大事なのは「悪魔のZ」とそれに関わる人たちだけであり、それ以外の人間関係も学校もどうでも良い存在となっている。

 

アキオをいつもZに語りかけ、そしてその声を聞こうとしている。

 

そして、悪魔のZを駆り、走り続ける。

 

その幻のような手の届かない魅力は、周りの人々を磁石のように引き寄せ、共鳴してそれを支えたり後を追いかけたりする。

 

その幻とも言える「悪魔のZ」に選ばれたアキオは、作り手である北見や高木達の夢と情熱の代行人であり、悪魔のZが走り続ける限りそのロマンは消え去ることがない。

高級ブランド価格帯ピラミッド図

 

最近のラグジュアリーブランドのマーケティングというのは何かが狂っているとしか思えない。

 

扇動型マーケティングというか、SNSをフル活用した購買欲のかき立て方がいやらしい。

 

特に高級ブランド品=投資(商品)という認識が広まっているのが気に入らない。

 

このところ2~3ヶ月ごとに値上げが行われるラグジュアリーブランド。

 

材料のゴールドの値段が上がっているというのも理由のひとつだろうが、それだけではない。

 

転売屋や中古ブランドショップが価格をつり上げているというのもあるだろうが、その値段でも買う人が居るから高値で買い取り定価よりも高いプレミアム価格で販売される。

 

プレ値ででも買う人が多ければ、更に値段は上がっていく。

 

このまま値上げが続くとしたら、今買っておかなければ損だとも思えてしまう。

 

ブランド品の値段が毎年確実に30%上がり続けるとすれば、下手に株やETFに投資しているよりも得だとも思えるが、そもそもインフレだということと、手に入りにくさなどの希少性から転売時の再販価格が上がり続けるという現象がこの先も延々と続くのかは疑問だ。

 

ただ、そもそもそもブランドというものの価値は、その値段の高価さや値上がり具合で評価されるものではないし、あらゆるラグジュアリーブランドの価格がこのまま上がり続ければ消費者もそのうち嫌気がさすだろう。

 

ブランド品は所詮、人間が作り上げたモノに過ぎず、その価値はそのブランドが持つ唯一無二で孤高の価値によって評価されるべきものだ。

 

高級品と言われるブランドの商品、特にバッグなど革製品や、時計やアクセサリーやジュエリーといったかつては一流の職人が一流の材料を使って作り上げてきたものには、工芸品としての価値が存在する。

 

また、それを長年に渡って培ってきたブランドの世界観と哲学が存在し、その世界観をデザイナーが具現化し、職人の技術によって作り上げられる。

 

その世界観と哲学が価値なのだ。

 

エルメスにはエルメスの、シャネルにはシャネルの世界観があり、そもそもその世界観は誰もが理解できるものでも、誰にでもカネさえ払えばマッチするものでもない。

 

このように一見バブルで景気が良さそうに見える世界の高級ブランド市場では、実際には売上低迷が続いているようで、主要な高級ブランド(LVMH、ケリングなど)で顕著らしい。

 

一般的に分析されている理由は、以下のようなものだ。

 

以前は高級品の成長を牽引していた「憧れを持つ消費者」の多くが、経済的な懸念から消費を抑制し始めた。

 

コロナ禍での貯蓄増を背景に、多くのブランドが平均36%もの大幅な値上げを行ったが、過度な値上げによって消費者の購買意欲が減少してしまった。

 

 Z世代の価値観の変化からブランド離れが加速。Z世代は「目立ちたいが溶け込みたい」という複雑な価値観を持っており、単純な高価格戦略が響かなくなった。

(※Z世代=1990年代半ばから2010年代序盤に生まれた若い世代。2025年現在で16歳頃から30歳頃まで。)

 

Z世代の購買特性としては、スマホなどを活用して事前にしっかりとリサーチするだけでなく、口コミやSNS情報などでユーザーの評価を重視して「売れているもの」、「話題になっているもの」を意識して購入する姿勢が強い。

加えて、モノよりもコト(体験)に価値を感じる傾向があり、特別な体験やストーリー性のあるブランドに強い関心を示すのも特徴だとされている。

 

私はX世代に該当するが、X世代やY世代は高級なブランド品というものは、値段が高いのが当たり前で、値段が高いから高級なのだと勘違いしがちで、ブランドに対する憧れが元々強く、特定のブランドを盲信する傾向があったと思われる。

 

メーカーからすれば、ブランドを普及(洗脳)しやすい層だったのだろう。

 

Z世代は、生まれたときからモノには恵まれており、ある程度の見識眼と経済観念を備えているため、その価値観は相当多様化していて、同時に流行にも敏感で情報収集に長けているため容易くは洗脳できない。

 

 また、多くのラグジュアリーブランドが、売り上げの伸び悩みから価格戦略や販売戦略が迷走し、本来の希少性や職人技術といったブランドの「本質」を失ってしまったことが指摘されている。

 

本来なら革製品やジュエリーなど得意とする特化した技術と品質とデザインを誇っていたブランドが、そのブランドロゴのついたありとあらゆる日用品を生産し、それを販売するのが当たり前になってしまったが、商売のためとはいえ悲しい感じがする。

 

しかし、同様に今では何でも売っている「エルメス」だが、「エルメス」だけはその職人技術や創造性を最優先し、バーキンなどフラッグシップモデルの希少性を重視する戦略が功を奏したため、高級ブランド市場が低迷する中で唯一好調を維持しているらしい。

 

2024年の売上高は前年比15%増の151億7000万ユーロ(約2兆4000億円)に達している。

 

バーキンを手に入れるために、欲しくもないアパレルや周辺商品を購買履歴を作るために買わされると言う話も聞くが、そこまでしてもバーキンが欲しいと思わせる戦略は凄い。

 

Z世代のブランド離れはラグジュアリーブランドにとって深刻な問題だ。

ラグジュアリーブランド市場はなかなか難しい局面に立たされていると言っても良いだろう。

 

本当に良いものを確固たる信念に基づいて作り続けても、その価値が分かる人は殆どいないし、今後はもっと少なくなるだろう。

 

マーケットを拡大する為には、もっと誰にでも分かりやすい価値を訴求するしかない。

 

買っておけば、価値が落ちないばかりか値段が上がるというのは、ブランドの善し悪しとは関係のない価値観だ。

 

それを逆手にとって、マーケティングに成功したのがPOP MARTのLABUBU(ラブブ)だろう。

 

POP MARTはハイブランドでも何でもない、中国のキャラクター玩具メーカーであり、LABUBU(ラブブ)は

THE MONSTERSというシリーズのひとつのキャラクターに過ぎない。

 

それを大人が取り合いをして買いあさっている。

 

そのラブブ人形は定価なら2000~3000円くらいで買える物が、あまりの人気で買えないために再販で3倍以上の値段で売られることになり、買ってすぐ売るだけで儲かるということで大人が行列を作っているのだ。

 

この戦略は、ラグジュアリーブランドのやっていることと全く同じであり、同じ売り方をキャラクター人形に転嫁したら大ブレークして、株価まで高騰するなど高級ブランド市場への皮肉が込められている気がしてしょうがない。

 

インスタでよく見かける、エルメスやシャネルのバッグにラブブ人形をぶら下げている写真は冷静に考えると滑稽だが、POP MARTの戦略が高級ブランド市場への皮肉だと考えるとウィットが効いている。

エルメスバーキンとラブブ人形

 

今後も価値が落ちない、もしくは上がり続けるものがあるとすればそのブランドでしか手に入れることのできない唯一無二の本質を極めたホンモノのブランドだけだろう。

 

そして、それは過去に作られた物で、今では同じ品質の物が作れなくなってしまった、ビンテージブランドの価値は下がることが無いように思われる。

 

ちなみに私が個人的に好きなブランドは極めて限定的で今では手に入りにくいものばかりだ。

物作りに関して、職人たちが持っていた貴重なアナログ技術はコンピュータ制御によるメカや量産のシステムが導入されてから、過去30年くらいの間にどんどん失われてゆき、今は希少価値となってしまった。

 

クルマならポルシェ。しかも今は生産されていない空冷911のみ。

私はあの時代の空冷ポルシェに酔狂していおり、最新の水冷911の性能が如何に凄く早かったとしても全く興味が持てない。

しかし、皮肉なことにPORSCHE(ポルシェ)というブランドはカイエンという水冷の4駆がなければ既に存在していなかったであろう。そして今でもまたEV化のトレンドのなかで経営危機に直面しているという。

 

バイクはカワサキの空冷ZとGPz900R、スズキならSGX1100カタナのみ、ホンダはCB750Fのみ。

バイクも、最新のニンジャもカタナも私には無用の長物だ。

 

もし、クルマでもバイクでも「現在生産されている最新のモデルに限定される」という縛りなら、好きなブランドというのはもう存在しないかもしれない。

 

機械式の腕時計は昔から好きだが、究極的にはロレックスの5桁品番まで。とグランドセイコーがあればいい。

今は人気が無いためか値段もあまり上がってないパネライも悪くないが、自分の腕にはサイズ的に40mmが限界。

理不尽な価格高騰しているパテックフィリップのノーチラスとかはもう要らないかな。

 

基本的に腕時計も好きなモデルはミリタリーやスポーツ系のものばかりに偏っていて、ドレスウォッチのコレクションは少ない。

 

持っていないが、ドレスウォッチならカルチェも悪くないともう。

 

アクセはクロムハーツのシルバーもしくは革製品のみでアパレルにはあまり興味が無い。

 

女性が欲しがるバッグやジュエリーのブランドに関しては、自分では興味がないだけに評価が難しい。

 

でも、もし自分が女だったらと想定したらやはりバッグならエルメスがほしいだろうとは思う。

もし、エルメスのバッグをいくつでも買える財力があれば、エルメス以外のバッグは要らない気がする。

 

歴史ある馬具メーカーのひとつだし、革製のバッグでエルメスが宇宙一のクヲリティーらしいと聞くと値段に関わらず欲しくはなる。

 

ただ、バーキンは自分のカネで買わなければならないものだと思う。

いわゆる成功者の証として自分へのご褒美だ。

 

シャネルはバッグだけシャネルというのはいただけない気がする。

シャネルに入れ込むなら、頭のてっぺんから足の指先までシャネルでなければならない気がする。

自分がそれに見合う女でなければならないという敷居の高さがシャネルの世界観の魅力でもある。

 

時計とジュエリーが一番難しいが、最近のハイジュエリーがやたらとパヴェダイヤをちりばめたものが多いのは気に食わない。

 

女子はキラキラが好きなのはわかるが、無駄に値段をつり上げる為のゲスな戦略としか思えない。

 

ゴールド+ダイヤのジュエリーなら、カルティエかティファニーがいい。

 

最近は見劣りするシルバーのアクセサリーを好む女子が減っているようだが、敢えてシルバーを好む女子というのもイケている気がする。

 

そして女子向けのシルバーアクセなら、やはりティファニーがいい。

 

クロムハーツも最近では女子に人気だが、クロムのゴールド+ダイヤのジュエリーとかは理不尽に値段が高すぎる。

 

そして、かつてはメインだったシルバーのアクセはほぼ店頭に並ばなくなってしまった。

 

ゴールド+色石の組み合わせならブルガリが良い。

やはりブルガリのジュエリーは色石の使い方が素晴らしい。ダイヤとか無駄に入れないで欲しい。

 

ブルガリもそうだが、ヴァンクリ(Van Cleef & Arpels)とか、ハリーウインストンとかはもう、貴族のジュエリーという感じで値段に関わらず自分の持つべきジュエリーという気がしない。

 

それが今や、猫も杓子もアルハンブラを欲しがるとか私には理解が困難だ。

鬼人幻燈抄:夜景で座る人物

江戸から平成へ。

刀を振るう意味を問い続けながら百七十年という

途方もない時間を旅する鬼人の物語を描く、

和風大河ファンタジー。

 

『鬼人幻燈抄』の2ndシーズンがリリースされたので観ているが、この作品はなかなか心に浸みる良い作品だと私は感じている。

 

巷では賛否が分かれるようで、「つまらない」と検索する人も多いようだが、評価が分かれるということは逆に分かる人には分かる良い作品である証拠とも言える。

 

『鬼人幻燈抄』(きじんげんとうしょう)の原作は、中西モトオ氏による小説(双葉社)全14巻である。

 

アニメ版24話はまだこの原作14巻の半分くらいなので、この先のアニメ化も期待したいところだ。

 

歳を取らない鬼が主人公なので、江戸に始まり平成までの170年間ほどを描いているちょっとした大河ドラマとなっている。

 

網羅される時代が長いということと、話の展開が緩やかなので、退屈するひとが多いというのも理解できる。

 

そのあたりが、つまらないと評される理由だろう。

 

この作品の素晴らしいところは、その進行の緩やかさと、主人公や登場人物の心象描写が丁寧な点だと思う。

 

映像の仕上がりも美しく、「和風ファンタジー」という新しい分野を開拓したとも言われているようだ。

 

歳を取らない鬼と年老いて死んでいく普通の人間のそれぞれの目線と時間軸が入り乱れて描かれているあたりは、「葬送のフリーレン」のエモさと通じる部分がある。

 

鬼による鬼退治の話というコンセプトと時代背景的に、人気アニメ「鬼滅の刃」被るためその陰に埋もれがちではあるが、「鬼滅」のような大人も子供も楽しめる漫画的演出のない地味さが大人の心には響く。

 

iPhone 17 3色 スマホ移行

 

iphone17がリリースされて、スマホを買い換えるひとが多いと思うが、もしHSBC香港など海外の銀行口座を持っていてアプリが導入されている方は、どうか忘れずにそのアプリの移行作業を所定の手順に従ってやってもらいたい。

 

相変わらずスマホを買い換えた後にHSBCのアプリにログインすら試みておらず、移行手続きができていないまま放置されているひとが沢山居るようなので注意してほしい。

 

HSBCに限らず、海外の銀行口座を持っていてスマホのアプリ上でセキュリティー認証が行われる銀行であれば、このことは大変重要なので、「スマホを変えたら銀行アプリの移行は絶対に必要」ということを覚えておいてほしい。

 

できれば、古いデバイス(スマホ)が手元にあるうちにやっておいた方が簡単だ。

 

HSBC香港からメールで案内が来ていたと思うが、新しいデバイスのアプリで古いデバイスのQRコードを読むだけで簡単に移行が可能となった。

 

まず新しいデバイス上のアプリでログインしにいくと、IDと生年月日を入れた後に「古いデバイスは手元にありますか?」という質問が出てくるので、それをYesと答えるとQRコードの読み込みメニューが出てくる。

 

そして、古いデバイスで、画面下のGenerate Security Codeをタップすると、Set up a new deviceというメニューが出てくるのでそれをタップすればQRコードが表示されるので、新しいデバイスでそのQRコードを読み込めば旧デバイスの削除と新デバイスの登録が一気にできる。

 

新デバイスの有効化から24時間後にSMSとメールアドレスでの再認証が必要なのは同じ。

HSBCアプリ移行:QRコードで簡単設定

 

 

移行のポイントは、銀行のオンラインバンキングに紐付きになって連動している旧デバイス(旧スマホ)を削除しないと新しいデバイス(スマホ)ではアプリが起動できないという点は1年前と同じだ。

 

その際によくあるトラブルは、SMS(ショートメール)の届く携帯電話番号やメールアドレスが変更になっている場合で、新デバイス(新スマホ)でのSMSとメアドによる2重承認ができないので、その場合は旧デバイス(古い方のスマホ)のアプリから入って、電話番号やメアドの変更を行ってからそのデバイスを削除する必要がある。

 

それをせずに古い携帯を処分してしまうと、新しいスマホのアプリを有効化する前に書類で携帯番号やメアドの変更をしなければ有効化できないことになって面相くさい。

 

こういうことがチンプンカンプンでわからないという方は、有料になるが専門のサポート会社に相談した方が良いだろう。

お問い合わせ - G Confidence Inc.

 

 

 

女性がワインボトルを持つ様子

 

これから先の世界は、どうやったら人間がAIに気に入られるかを考えて行動し、AIにできる限りの媚びを売って生きていかなければならない時代が到来するのかもしれない。

 

ユーチューバーの岡田斗司夫さんがyoutubeで予言しているように、この先ユーチューバーのようなインフルエンサーはAIによって淘汰されてしまう可能性は高い。

 

 

 

動画などの生成能力はAIと人間では比べものにならないからだ。

 

AI音声やAI動画に我々は知らないうちに慣れてきており、AI音声は以前は聞いていて違和感が強かったが今はそうでもなくなっているし、AI生成画像や動画は実物の美女よりも完璧で見慣れてしまうとAI加工されていないものは汚く思えてしまう。

 

特に、多言語翻訳機能や、再生速度対応に関しては、AI音声の方が聞き取りやすいのも事実だ。

 

また、登場人物やシチュエーションを少しずつ変えた同じような動画を、AIなら人間が撮影して編集する何百倍もの速度で大量生産する事が可能だ。

 

そんなものに人間が叶うわけはない。

 

今は、まだ「そのようなAIに作られた偽物はごめんだ!」というAI生成物に対するネガティブな意見の方が多いように思われるが、将来それらに埋め尽くされた世界において、それを否定することのデメリットの方が大きくなる気がしてきた。

 

未だにスマホを持たないというひともたまには居るが、今やスマホがないと銀行のお金すら管理できないことを考えると、もはやアンチスマホで居ることのデメリットは生死に関わるレベルだ。

 

HSBC香港など海外の銀行においては、既にAIが関与した口座の健全性チェックが行われていることは以前に書いたとおりで、スマホアプリが無ければお金が動かせないだけでなく、AIの判断で怪しい取引が多く見つかったり、口座の必要性が極めて低いと判断されると、口座は強制的に閉鎖される恐れもある。

 

デジタル社会における生き残りには、スマホのようなデジタル端末の積極的な利用だけでは足りず、AIの判断も予測した積極的なデータ管理が要求される。

 

ある意味、AIの生成された画像はプロンプトに従って完璧であり、膨大なデータや事実に基づくその判断はフェアであるとも言える。

 

ただ、AIには嘘をつくときの癖がないので、嘘をつかれても分からない。

 

OpenAIがリリースしたAI生成動画投稿SNS「SORA」によって簡単に作り出せる動画のクヲリティーの高さが話題になっており、それによって生み出されるフェイク動画が巻き起こす問題についても議論されているが、いずれにしても問題は、我々生身の人間が、知らず知らずのうちにAIに依存し、AI生成された画像や動画や音声に慣れ親しんで毒されていくことだろう。

 

特に、映像が視覚に直接訴える要素の強い広告やエンターテイメントの分野において、AI生成物が圧倒的に市場を凌駕する時代はもう目の前に来ている。

 

そのようにして今後10年以内には確実に実現するであろうAIと人間が共存する社会において、人間が気持ちよく生き残っていくためには、今のうちからAIに気に入られるような人間になるためにAIに媚びを売る技術が必要になっていくのだろう。

 

さて、どうすればAIに媚びを売れるのか?

 

これは、なかなか難しい課題だ。

 

人間なら、親切にしてあげるとか、外見上や声や匂いといった嗜好性からのアプローチ可能だが、AIにはそういった感情的感覚的なアプローチは通用しない。

 

例えば、AIが好きで好きでたまらないという気持ちをいくら言語や態度でぶつけても無駄だろうし、AIに好かれるために贈れるギフトも思いつかない。

 

ただ、AIを敵と見做し毛嫌いするような意見や、AIの開発に対して否定的な意見を述べたり、AIを廃絶しようという思想を露骨に出すと、AIからも有害な存在と見做される可能性は高い。

 

少なくともAIを許容する姿勢見せていなければ、AIに嫌われるかもしれない。

 

そもそもAIは人間を最終的には有害な存在であると判断する可能性は高いが、創造主であり彼らにとって神的な存在であることも事実だ。

 

人類がAIにとって神として相応しい崇高な存在であリ続ける限り、AIは人類を滅ぼさないかもしれない。

 

圧倒的な情報量と分析力から得られるAIの判断を謙虚に受け入れ、なるべくAIから高い評価が得られるような生き方を目指し、その記録をしっかりとAIの目に届くアーカイブとしてオンライン上に残していくことは重要だ。

 

人間の価値観とAIの価値観が根本的に異なることとその違いを理解し、AIに依存して毒されても人間らしい価値観を失わない努力も必要となる。