皆さん こんにちは。

 

最初に神の霊を授けられた人とは、どんな人だったのでしょうか。

 

🌿旧約聖書 創世記 二章七節 (参照)

主なる神は地表の塵で人を形創られました。それから、鼻の穴に生命の息(神の霊)を吹きかけられました。そして、(神によって)人は生きる者となりました。

 

最初にアダムが神に息(神の霊)を吹きかけられ生きる者となりました。しかし、神の御命令を守れず死を招くことになりました。

アダムは神と共に、どのように過ごしていたらエデンの園から追い出されず、死を招くことがなかったのでしょうか。

 

神の霊を授けられ、アダムとは異なり、神と共に神の住まい幕屋建築を成し遂げた神に奉仕する人々がいました。

 

旧約聖書の出エジプト記二十五章から神が住まわれる聖なる所、幕屋の建築指示が書かれています。

神はイスラエルの人々に神に真心から献納物を持ってくるように命じられます。

イスラエルの人々から受け取る献納物にも指定があり、その献納物で幕屋とすべての祭具等も神の御命令通りに造らなくてはなりませんでした。

そこで神は,それらを人々が完全に成し遂げるためにイスラエルの人々の中から名指しで呼ばれ、彼らは知恵と叡智と知識が授けられ、神の霊に満たされて仕事に従事します。

ユダ族のべツァルエル、ダン族のオホリアブ、そして心に知恵のあるすべての人々神の霊が授けられています。特に『技術的な仕事に熟練した』人々の心に神は知恵を授けられました。

個人に既に備わっていた、工芸技術に熟練している人を神はイスラエルの民から選んで神の霊を授けられ、神に奉仕する人にされています。技術を習得した者でも個人の力だけでは到底無理なことでも神と共に働くことで成し遂げられます。神に逆らい、御命令を人が遵守しなければ完全な幕屋は造れません。神と人間の協同作業が必要でした

 

旧約聖書 出エジプト記 三十一章 一節〜十八節 <新共同訳> 

主はモーセにこう仰せになった。

見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。

わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。

わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる。

すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、その箱の上の贖いの座、幕屋のすべての祭具、机とその祭具、純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台、祭司アロンのために織った衣服と祭服、アロンの子らが祭司として仕えるときの衣服、聖別の油、聖所でたく香ばしい香である。彼らはわたしが命じたとおりに作らねばならない。

主はモーセに言われた。

あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。

あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。

安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。

六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる

イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。

これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。

主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。

 

🔵では、神が人間に求められる、心に知恵がある者とはどんな人のことでしょうか。

 

🌿旧約聖書 申命記 十章十二節〜十三節 (参照)

そして今、イスラエルよ、あなたの神、主は何を求めておられるのか。それは、あなたの神、主を畏れ彼(神)の道すべてに従って歩み、彼(神)を愛し、心を込めて、魂を込めてあなたの神、主に仕えること。主なる神の掟と彼(主)の法を守りなさい。わたしは、この日、あなた達に命令するのは彼らの益になるためではないか。

 

心に知恵ある人とは,神を畏れ、分別があって神の道を歩み、神を愛し、心を込めて魂を込めて喜んで忠実に神の御命令(律法、掟、戒め)を遵守する人で、この心にある知恵に従って神のため、神の民のため、隣人のために真心から奉仕する人だと考えました。

しかし、御命令を守ることができなかった場合は、アダムと同じ末路となります。

アダムは神より人間のエバと共に生きることを選んだので、罪が入り、死ぬ運命になりました。

アダムは神の御命令を遵守することを第一と考え、神と共に生きる者となっていたならば、死を招くことなく、エデンの園を追放されることもなかったと考えました。

 

この幕屋建築が、現代を生きる神の民に、神を畏れてそのすべての道に従って歩み、神を愛し、心を込めて魂を込めて神に仕えれば、聖なる神殿が心の中に完成することを教えてくれていると考えました。

また、神との共同作業で築き上げていく聖なる神殿で、現在まだ建築途中で、死ぬまで築き上げていくものだとも考えました。

 

🟡ここで、幕屋建築以外の御命令で、永遠の契約『安息日の遵守』があります。

 

たとえ神が住まわれる幕屋建築中であっても、神が人間のために安息日を制定してくださり、働き続けることなく週の七日目の土曜日を安息日として心身共に休めることができて、また元気に働けるようになるのです。この安息日は絶対遵守しなければならない神と人間の永遠の契約のしるしです。

 

新約聖書 マルコによる福音書 二章二十七節〜二十八節 <TR日本語訳>

そして、彼らに言われた。「安息日は人間のゆえにできたのです。人間が安息日のゆえに、ではありません。それで、人の子は安息日の主でもあるのです。」

 

上記のように、神との永遠の契約なのですから、旧約聖書だけでなく、新約聖書にも安息日遵守が記されていますので、

現代でも神との永遠の契約、第七の日の土曜日の安息日は有効です。創世記二章一節から三節で神が第六の日に仕事を完成され、第七の日に仕事から離れ安息なさって祝福し、聖別されたことからイスラエルの民だけでなく、すべての人との永遠の契約でもあります。

 

安息日の重要性について分かりやすい、キリスト道のブログ主の記事☟

引用ここから一部抜粋〜

一般的に普及しとる辞書には大抵、土曜日を調べると、土曜日は週の第七日とあります。そして、日曜日は週の第一日と定義されとる。

日本語以外の他の言語で第七日について調べると、英語のSaturdayは、古代ローマ神話の農耕神Saturnus(サトゥルヌス)から来てるのが分かる。

しかし、ドイツ語のSamstag、イタリア語のSabato、フランス語のSamedi等の他の多くの言語では、ヘブライ語שַׁבָּת‎(安息日)から由来しとるんや。

そして、旧約聖書を基にしているユダヤ教の人たちはモーセの律法に従ってます。彼らの習慣を見ると、金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日としています。この日没については、以下のとおり、聖書に記述があります。

 

旧約聖書 レビ記 二十三章三十二節(拙訳)

日没から次の日没まで安息を守らなあかん。

 

旧約聖書の内容は、キリストが来てから新約聖書だけになり、旧約聖書にあるモーセの律法も終わったことだと主張する者がいます。しかし、聖書をもって、このサタンの主張を粉砕できます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 五章十七節〜十八節(拙訳)

我が来たんは律法や預言者を廃止するためやと考えたらあかん。廃止するためやのうて、実現しに来たんや。確かにあんた方に言うておく。すべてのことが起こるまで、天地が滅びるまで、律法から一点一画も消えることはない。

 

主イエスが上記のとおり仰ったのです。律法、即ち、モーセの律法は決して無効になってへんのや。天地が滅びるまでというのは、キリストの再臨の時までです

 

世俗的な欲求である、あなたのしたい事をするべきではないし、火をたいてはならないので原則的に料理やガス使用の入浴等も安息日にすべきではないとはっきり聖書に書かれています。

サタンは、神と人との関係を憎んでいます。神がサタンよりも人間を大事にするからです。

引用ここまで

この記事のコメント欄で二十二番、二十八番、三十四番でブログ主が回答されている内容も重要です。

 

🔵しかし、神の律法、掟、戒めをすべて遵守するには自分自身の力だけでは到底無理だと思いませんか。どうしたら遵守できるのでしょうか。

 

それは、エレミヤ書で預言され、イエス・キリストの十字架での贖いによって新しい契約で完成され、神の種を持つ神の民の心に神の律法、掟、戒めを遵守できるように聖霊によって書き記されます。

 

エレミヤ書三十一章の新しい契約について詳しく解説された動画☟

 

聖霊の力によって遵守できるようになりますが、ここで注意点があります。
 
こちらの☞キリスト道のブログ主の記事『主イエスを模範として従う生活』をご覧ください。
引用ここから一部抜粋〜

人間が聖霊を求める動機としてよく陥りがちな過ちですが、自分の救いのことばかり考えているようでは与えられません。そのような動機ならば、自己愛、利己主義等といった自己犠牲をしない人だからです。散々私が非難してきたことです。他者や神に奉仕するために聖霊を求めなければなりません。自分自身のためではなく、父なる神のため、主イエスのために働き、失われた羊を救うため、邪悪な世にキリストの義を示すためでなければ、到底無理です。

引用ここまで

 

そうですね。

自己愛や利己主義等で自己犠牲をしないのでは神は喜ばれませんし、神は人の心の中まで見通されるのですから、到底、聖霊を授けられることはありませんね。

 

🔵聖書の「書き記す」と言う働きについて

 

書写の技術も神の霊を注がれ知恵を授けられ、それによって神の御意志を正確に書けると考えています。

聖書には,モーセの十戒やヨハネの黙示録等で、神が記した石板を書き記す、神が語られた言葉を書物に書くと記された箇所があります。神の御言葉を書き記すのですから、モーセもヨハネも元々書く技術力等が非常に高かったのでは…と考えました。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録二十一章五節 <TR日本語訳>

そして、御座に座っておられる方が、こう言われた。「見よ、私はすべてのものを新しくする」そして彼は私にこう言われた。「書きなさい。これらのことばは真実で信頼できるものだからである」

 

神の御意志を正しく書き記す書写の働きは、神の霊が心に宿らなければ、とても成し得ないことだと思います。書き記すためにモーセは四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかったのですから。

*他にも旧約聖書の一つとも言われているエノク書で、エノクが天の書記官に任命されていたり、天使の話すことを書き写したりしていたことが記されています。
また、旧約聖書続編エズラ記(ラテン語)には、サレア、ダブリア、セレミア、エタヌス、アシエルの五人は速記のできる人々で 五人の者には悟る力を与えられ、彼らは、それまで知らなかった文字で、次から次へと語られたことを書き取り、四十日の間座り通しで、昼間は書き続け夜に食事をしたと記されています。エズラは神の霊によって知力、知恵に溢れ、昼間は語り、夜も黙ることなく四十日の間に、九十四巻の書物が記されたとあります。

神の霊が注がれなければ、到底完成できない働きですね。
 

🌿旧約聖書 詩編 百二編(十八節)十九節 (参照)

これは、来たるべき将来の世代のために書き記されたのです。

民は、あなたの神、主を讃美するために創造されたのです。

 

 
先人が未来の人々に残してくれた聖書を通読し、神の聖なる者となり、神のため、隣人のため、神の民のためにも奉仕できるように共に励みましょう。

皆さんに平安がありますように。

 

以上