皆さん こんにちは。

 

真のキリスト者になるためには聖霊が必要です。

では、どうすれば神から聖霊が与えられるのでしょうか。

 

こちらの☞キリスト道のブログ主の記事『聖霊を受ける条件と悪霊の働き』をご覧ください。

記事には詳しく記載されていますが、理解しやすい箇所は以下です。

 

引用ここから一部抜粋〜

主イエスへの愛= 神の律法、掟、戒めの遵守(神への完全服従)

神から聖霊が与えられる

成長して完全な者となる

 

主イエスへの愛が無い = 神の律法、掟、戒めの不遵守(神への不服従)

聖書の真理を見聞きしても認めずに拒絶する

神から悪霊が与えられる

ますます悪化して最後には滅びる

引用ここまで

 

💡ここで疑問が浮かびませんか。

なぜ、主イエスへの愛が神の律法、掟、戒めの遵守なんだろうか。

 

答えはこちらの☞キリスト道のブログ主の記事『主イエスの受肉』をご覧ください。

 

引用ここから一部抜粋〜

主イエスは、我々に人間としての模範を見せられただけではなく、「人間は神の律法を守ることが出来ない。」というサタンの嘘を否定するために、地上で完全やったんです。

サタンは、「神は人間が守れないような掟を人間に与えた。だから、人間はその掟を破るのだ。」と神に主張し、神はそれに対する答えを与えなければあきませんでした。その答えが主イエスの受肉です。もし、主イエスが受肉して人性を取られへんかったなら、サタンは主イエスに対して、「あなたは神だから罪を犯さなかったのだ。」と反論するでしょう。実際は、主イエスは人間として地上に来られ、人間として誘惑や試練を受け、人間が出来る従順によってサタンを黙らせることができたのです。しかし、それでもサタンは、「主イエスが神としての力を使わなかったかは証明出来ない。」と主張するかもしれません。しかし、

主イエスは、罪の贖いのための犠牲となるだけに地上に来られたのではありません。人間が信仰によって神の律法、掟、戒めに従えることを証明する模範となるために来はりました。多くのキリスト者は、犠牲となった主イエスを愛していると口先だけで言うが、それだけではまったく不十分です。

主イエスは、我々が歩むべき道を示され、神に従順になれるかを教えられ、行動によって、どのようにして我々が神に従うのかを見せてくださいました。その主イエスの愛に気付いて、真似て行いで示すべきです。我々は主イエスを信じて、聖霊を受けて生まれ変わって、主イエスのように罪に打ち勝つ者になれるのです。主イエスの受肉という真理こそが、朽ちることのない福音であり、キリスト者の基礎を成すものです。

引用ここまで
 

記事を読まれ真実を知っていただけたでしょうか。

悔い改めできるのは大艱難に入る前までです。それまでに、主イエスの愛に気付いて悔い改め改善し、罪の赦しを求めましょう。

人は神への従順によって、聖霊を受けて、神が制定された人間にとって益になる律法を守ることができることを行いで示し、罪に打ち勝つ者になりましょう。

 

こちらの☞キリスト道のブログ主の記事『真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編』をご覧ください。

真のキリスト者の心の在り方や行いが先ですが、それに伴う衣装や被り物等を身に着ける意味についても詳しく記載されています。

そのコメント欄のブログ主の回答で四十五番目をご覧になれば、聖なる者が衣服に付ける青い房を正しく作る方法を知るにはどうしたらよいか…も回答されています。

 

引用ここから一部抜粋〜

にわかキリスト者は、主イエス・キリストの御言葉を曲解したり、世俗的な人間の都合の良いように解釈及び適用し、自己中心的であり、自分にとって都合の悪い部分には従わないので気を付けましょう。

にわかキリスト者は、主イエスの「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:31)という御言葉を悪用します。

にわかキリスト者は文脈を無視して一部だけ抜粋して正しいように見せかけるからです。

この手法は、荒野で主イエスを誘惑した時の悪魔の手口そのものです。

だから、にわかキリスト者らは悪魔の子なのです。

にわかキリスト者は、聖書の言葉の趣旨を無視しているのです。

上記聖句だけを抜粋して見せられれば、着る物なんて何でもいい、どうでもいいんじゃないかと思わされます。それこそが欺瞞なのです。

しかし、実際は衣服はどうでもいいという意味ではないのです。

31節の頭に「だから」とあります。

その前に説明があった上での結論という訳でこの言葉があるのです。

こういう細かい点を無視しないようにしてください。国語力が無い人というのはこういう点に気付かない人、無視する人です。

31節以前の説明で、特に29節の「栄華を極めたソロモンでさえ、これら花々の一つほどにも着飾っていなかった。」という箇所を踏まえて主イエスは衣服について思い悩むなと仰ったのです。

この「着飾る」という言葉ですが、これは何を着れば格好いいか可愛いか等ということを考え、数多くの選択肢から時間や手間をかけて選んで着るということです。外見が良い服を探すためにあちこちの店を見回ったり、鏡の前に立って、似合う、似合わない、格好良いか悪いか、どの組み合わせが合うか等と悩むことが不要ということです。

引用ここまで

 

聖句解釈をする時は文章の前後からも考え、悪魔に騙されず、自分に都合の良いような悪魔の誘惑に打ち勝ちましょう。

 

🔵神の御命令である律法、掟、戒めを遵守する『聖なる者』

 

🌿旧約聖書 民数記 十五章三十七節〜四十節 (参照)

そして、主はモーセに話し、言われました。「イスラエルの子らに話しなさい。いかなる時も彼らのために房を作り、彼らの衣服のに房を付けなさい。なぜなら、に付けた青色で組んだ房は彼らを聖別するからです。そして、あなたがそれを見る時、主のすべての御命令を思い起こします。そして、房を見る時、あなた自身の心と目の欲によって求めないようになります。そして、それはあなたがその後、姦淫しないように守ります。それを思い起こし、すべてのわたしの命令を守り、あなたの神に聖なる者なります。

 

🔵『縁』の漢字の成り立ち…OK辞典より 引用ここから一部抜粋〜

「重要なものだけ組み上げ記録する」の意味

引用ここまで

 

聖なる者が青い色の糸で組んだ房を縁に付けた力は凄いのですね。

 

聖なる者とは神の霊を持つ心が素直で、悪い考えを持っていない、いつも神の御意志に耳を傾け行動できる者で、神への愛故に神の御命令である律法、掟、戒めを守る者です。

そして、神の御命令の一つで青い房を付けなければいけません。

 

房の色が青色ではありませんが房を付けた日本人もいます。

こちらの☟動画の袖の房に注目してください。

 

 

動画で房を付けている方々が房の意味を正しく知っておられるかどうか分かりませんが、聖書に記された古代イスラエル人の服装を想像させますね。

 

旧約聖書のレビ記十九章から、神が民に聖なる者になるように、細部まで民にしてはならないことを列挙されています。人々が普段の生活の中で神の目に悪いことを行わず、他国人の模範となるように御命令されています。

 

🌿旧約聖書 レビ記 二十章二十六節 (参照)

あなた達はわたし(神)に聖なる者となります。なぜなら、わたしは聖なる主だからです。そして、あなた達を人々から引き離します。それは、あなた達はわたし(神)のものになるからです。

 

 

共に世俗の悪から離れ、聖なる者となり働きましょう。

皆さんに平安がありますように。

 

以上