ピグ恋~ピグから始まった最後の恋~ -12ページ目

或る夏の記憶(5)


ボーリング場を出ると蝉の音が熾烈を極め、うだるような暑さが蜃気楼のように滲む。
慣れない冷房の効いた場所からの温度差に体が対応できなかったのか、クラリと眩暈がしてフッとよろめくとアキヒトが更の手首を掴んで自分の方へ抱き寄せた。

更の体が無駄のない頑強な体躯にすっぽり隠れアキヒトの鼓動と吐息を微かに感じすぐさま距離を置く。
顔を上げることができないでいる更はもう一度強い引力に引き寄せられるように感じ、抗うのをやめようとした瞬間アキヒトの力が緩む気配を感じて顔をあげた。

その視線は遠くにあった。

バスが土埃を巻き上げ去った辺りをみていると、その向こうから強い視線を感じる。


― アマタ。


「こっちを見ている。知り合い?」


色白の肌は端正な顔立ちを一層引き立て印象深い。
真夏だというのにシャツに三つ巴のベストという出で立ちだがハイセンスな着こなしの所為か涼しげにみえる。
誰もが流行に左右され長髪にしているこの街で、油で整えられた短髪が知性と生まれ持った品の良さを醸し出していた。

とてもじゃないけど話しかけられない。と、更は思いアキヒトの問いに小さく頷き幼馴染のアマタだと告げようとすると、

「アマタ!いつ帰ってきたの!
羽田まで迎えに行く約束だったじゃない!もう・・・」

黒塗りの四角い車から清楚な白いワンピースを翻し、テレビの中の女優さんが被っているような縁の広い帽子の女性がそれを遮った。


いつか車好きな職人が云っていたが、あれはトヨタのセンチュリーに違いない。
所謂、本物のお嬢様だ。


更は顎をあげ手首を掴んでいたアキヒトの手を逆につかみ「行きましょう」と踵を返した。

それは夏の強い陽射しだったのかそれともアマタの熱い視線だったのか、更はジリジリと焦げ付く感触を背中に受けながら当てもなく歩き出した。


どのくらい歩いたのだろう。
木の電柱に打たれた住所表記はいつしか杉並と書かれていた。

「更ちゃんってわかりやすいな。ちょっと木陰で休もうか」

悪戯にアキヒトがそう云って、更はやっと我に返ったようにその声を受け足をとめた。
誘われるように公園の長椅子に腰を掛けると、

「彼が幼馴染で許嫁のアマタ君だね。なかなかの好青年だ」

好青年・・・そんな、あの一瞬でそんなことが分かるはずはないと闇雲にそれを否定しようとするとアキヒトが云う。

「更ちゃんと一緒に居る俺に会釈してきた」

更は言葉を喉につまらせる。
アマタのその余裕な態度が憎々しいが、アキヒトの声音を察するに、皮肉さは微塵もなく本心からそう云っているように感じた更は誰よりも幼稚な態度をしていたのは自分だったと恥じた。

「でも、許嫁ではありません。皆が勝手にそう云ってるだけです」

スカートの上で震える拳を抑えつつ俯きながら云うと、

「そうかな。火のないところに煙は立たないって云う諺もあるぐらいだ。仕事でヨーロッパに出向するまえに噂話で既成事実を作っておきたかったのかもしれないな」
「既成事実なんて!そんなのありません」

言下に言い返すも幼稚な行動の一部始終を見ていたアキヒトにはもはや適わない。

「幼馴染の許嫁。君たちの育ってきた環境こそが既成事実か」
「そんな・・・私は」

蝉がちいさくジリっと鳴いた。


「更ちゃんはさ毎日、八面六臂の大活躍だな」

アマタの話題から前触れもなく褒められた更は急に褒められ胸を鷲掴みにされたような思いを受けながら「いいえ、そんな」と小さく否定した。
「朝昼晩と寝る間を惜しんで俺たちの賄作りと妹弟の世話の他に電機工場にも勤めて立派だよ」

ふいに自分のことを語るアキヒトに恥ずかしさが込みあがる。


「そんな、私の事よりアキヒトさんのことも・・・」

「ああ、俺のことも話しておくべきだな」


更は「やっとだわ」と破顔しそうになるのを堪え胸の内で呟いた。
寡黙でどこか陰りのあるアキヒトとボーリングといった活発な運動はどこか倒錯しているように感じていたからだ。
同じ屋根の下で寝食を共にした三ヶ月「貴方の事をもっと知りたい」という思いは留まることを知らず今にも破裂するばかりだった。


「俺は探し物をみつける旅をしていた」

更は拍子抜けしたように「旅?」と訊きかえしていた。

開襟シャツの胸ポケットからショートホープを取り出し火をつけたアキヒトはそれを深く吸い込むと、吐き出した流煙が更にかからないよう顔を背ける。

ゆったりとした間をもって続きを急ごうとしない。それは煙草を味わっているからかそれとも言葉を選んでいるからか。

更を支配していた風向きは不安を引き連れて襲い掛かる。

探しているのは人?それとも物?
実態のあるものなのか、又は心の安息といった目に見えないものなのか。


「バイクと小さなボストンバックで東京にきたような・・・」

アキヒトは頭を抱える素振りをした後、意を決したような表情を萌す。

曖昧な口ぶりに一層胸騒ぎを覚えた更は「ような?」と質問の焦点を定めると「ああ、多分・・・」アキヒトは焦げ落ちるタバコの先を見つめながら続けた。


「更ちゃん、君に拾ってもらう前までの記憶が俺にはないんだ」


― 記憶がない。


感情が彷徨う。喜怒哀楽どれにも当てはまらず眉間に皺が寄るのが分かった。
三ヶ月前、野良猫のようにふらりと現れた頃からの記憶を辿っていくと、飾り気がなく、物事に無頓着な様が確かにそれを裏付けていた。

「気が付いた時には病院で―」


アキヒトは二本目のショートホープに火をつけて続けた。


俺はどうやら入院しているらしい。

腕には細い針がさされ頭と足に白い包帯が巻かれていた。
体の怪我は軽かったものの、頭部の打ち所が悪かったようでそれまでの記憶を失った。
車で通りかかった人が病院まで届けてくれたのはいいが、身元を証明するものや財布などといったものがなく思い出そうとすると激しい痛みに襲われた。
無一文の俺はそこから出るしかなかった。
懇意にしてくれた看護婦の一人が、俺と同じようにバイクで事故に遭い亡くなった息子さんのものだと云って服をくれ、記憶が戻るまで自分のアパートに居てもいいとまで言ってくれたがそれは遠慮した。

代わりに治療費と入院費の一切を借りて。
今の稼ぎはすべてその女性に返金するためで、それも今日で終わる。


唯一俺の中に残る記憶「探し物をみつける」という事が強迫観念の様に俺を突き動かし病院を遁走(とんそう)したが、何を探したらいいのかさっぱり分からない。


アキヒトは鼻梁の先に煙を吐き出しながら、木漏れ日を眺めて云った。

「探し物がなんなのか。もうそれすらも分からずにただ生きている」



――――

記憶喪失なんて映画か韓国ドラマにしかないことだと思っていたが、ご婦人の話ぶりからそれが本当かどうかを探るのは野暮だと感じた。

「サラちゃんは今幸せよね?」

唐突な質問に脳内を昭和から一気に平成に戻して「はい」と言うと、

「何か、さっきからたまに陰りのある表情をするけど、悩みでもあるの?あるなら私にも聞かせてくれない?」

ご婦人の射抜くような視線にドキリとしながら、なぜか自分でも不思議なほど素直に開陳していた。

「あたしは物書きになりたいんです。ある媒体で物語を発表していたのも春先に完結して、次の創作に入っているのですが・・・。自分のステップアップの為に顔文字や画像はなく・・・あぁつまり小説を意識して文字だけで表現することに挑戦したいのですが、既存の・・・というか楽しみにしてくださっている読者さんたちに受け入れてもらえるかどうか不安で・・・先に謝っておきます。今の小松さんのお話も頭の中で勝手に文字にしていました」

「受け入れてもらえるか不安。みんなの期待に応えられていないのではないかという不安。それで、難しそうな顔をしていたのね」

あたしは俯き頷いた。

「影踏みね」と言ってからご婦人はふふふと笑った。

私のロマンスを物語にしてくれるなんて素敵だわ。
サラちゃん、
照らしてくれる光があるから影ができるのよ。サラちゃんは必死に影を踏みつぶそうとしているみたい。挑戦している姿を見てくれている人が光。受け入れてくれない人を追うなんてまるで影踏みみたいでしょう」


影踏み・・・かぁ。

「不安は影・・・ですね」
「そう、光があるから影ができる。挑戦しようとするサラちゃんの姿勢もまた誰かの光になっているはずよ。何よりもいけないことは、途中で諦めること。最後までやりきる姿をきっと誰かが見て貴方を照らしてくれているから、影踏みはもうやめて自信をもって綴りなさい。」


ご婦人の励ましに顔をあげ、あたしは「はい!」と意気揚々に返答をしてロマンスの続きを促した。



つづく