或る夏の記憶(6)
― ただ生きる。
毎日職人の為に早起きをして弁当を作り、電機工場で課せられた割り当てをこなし、家に帰って台所で母の隣に立つ。
そんな私にもいつか幸せが降り注ぐはず。
いつか誰かの気まぐれが私を拾い上げ幸せにしてくれる。
それもまた『ただ生きる』と同義語のような気がしてくると、自分が痛く不憫に思えてきた。
「探し物をみつけることが俺の生きる糧だったのかもしれない。人間は金の為には働けない生き物だな。金は目標を遂げるための手段に過ぎないと改めて感じながら労働していたよ」
更は思う。
自分が何者かも分からずに過ごした日々を、アキヒトの苦悩を。
それは空虚で計り知れない闇を彷徨う絶望に似た日々に違いない。
だが、それと私の人生のいったいどの辺が違うというのか。
目的を失ったアキヒトが自分の人生そのもののように思えてきた。
陰りのある眼差しの意味を知った更は、自分が光になりたいと思った。
アキヒトを照らす光に。
「アキヒトさん、大工の仕事は好きですか」
伸びた前髪の隙間から更を覗く瞳は依然として陰りを帯びていた。
「なぜだろう。仕事はまだまだだけど、新しいことを矢島さんに倣う度、昔に体得したような、体が感覚を覚えているようなんだ」
いつか矢島が「筋がいい」と父にこぼしていたのを聞いたことがある。
ゴロゴロと空が鳴ると一瞬にして影が落ちポツポツと足元に染みができはじめた。道行く人がバタバタと軒先を求め駆けてゆく。
アキヒトは誰かの救いで生きてゆける性(さが)を持ち合わせている。多くは語らなかったが、病院で懇意にしてくれたという看護婦さんもきっとこんな気持ちで、いやもっと女を全面に出しアパートに居てもいいと語ったのであろう。それを遠慮したというアキヒトの真情こそが人を惹きつけるとも知らずに。
惹かれる。それは抗うことが困難なほど。例えればそれは太陽が放つ強大な引力とか、遠い過去に約束された巡り合せのような力で。
「私は、待つばかりの日々でした。誰かに選ばれる日を待ちながらも、他の誰かに盗られてしまうのではと怯え、自由な時間が欲しいと思いながらも、良い娘だと言われるように振る舞う。私はそんな自分にずっと違和感がありました。人が云う幸せが自分の幸せなのかどうか。与えられたものの中で生きることは、果たして自由と呼べるのかどうか。望んだものの中で生きてこそ、本当の自分、本当の自由があるような気がしてならないんです」
ゆっくり頷くアキヒトの呼吸を感じた更は、
「過去を取り戻したいですか」
膝の拳をギュっと握りしめ勇気を振り絞った。
「未来を、これからだけをみつめて生きるわけには行きませんか。
―― 私と一緒じゃ駄目ですか」
そら恐ろしさを感じた。
相手の顔色を窺わず、心中を忖度することもなく感興のままに吐露しているという自分と、こんなにもアキヒトを慕う気持ちに。
「私と一緒に旅を続けてくれませんか」
雨の滴が佇む二人を濡らす。
それは次第に荒々しく降り注ぐと、そこに、世界にたった二人しか居ないような錯覚を抱かせた。
アキヒトの手がそっと振るえる更の肩にやり自分の方に手繰り寄せる。
その表情から陰りは消え新たなる決意を浮かばせていた。
もはや二人に思いを伝える言葉は要らなかった。
アキヒトは思う。
自分が誰なのか、どこへ行き、何をするべきか、何も分からず行く当てもない。
途方に暮れていた先に光をみた。
女神と見紛うほど燦然と輝く君は眩しくて、眼を細めたほどに。
君を生きる糧にしたい。
君と共に生きる。
――――
なんだか自分の話を聞いているようで恥ずかしさがこみ上げる錯覚を覚えながらも、頭の片隅で説明のしようがない運命や宿命といった因果を思い浮かべていた。
「アキト・・・いやアキヒトさんと結ばれたんですね」
感慨深く言うあたしにご婦人は遠い地に思いを馳せるような表情を浮かばせながら「おや、雨・・・・」と、窓の外に広がる空模様に表情を曇らせた。
「あぁ、そういえば局地的な雨が降るってニュースで言ってました」
「そうね。人生って言うのは日向ばかりは歩けないのよね・・・」
――――
つづく