ピグ恋~ピグから始まった最後の恋~ -9ページ目

或る夏の記憶(8)


「最近お嬢の様子変じゃないっすか?」
「勝彦今頃気が付いたのか」
「だって飯のおかわりしたら沢庵一切れ分の飯しかよそってくれなかったんだぜ」
「心ここに非ず。食欲がない。心の表れだな」
「なんだよヤッさん、また訳のわかんね―こと言って一人で楽しんでやがる」

そんな会話をよそに「ご馳走様でした」と、すくっと席を立つアキヒトに「こっちにも食欲のねえ奴がいたか。夏だねぇ」と矢島が沢庵をポリポリ噛みながら云った。


それからというもの、更はどうすることもできず今までの様に振る舞しかないと心がけてはいたものの、巷の噂話に疲弊していた。
無論、アキヒトとアマタの両者に気持ちが揺れるといったものではなく、天秤にかけられたものは【父の夢】と【アキヒト】のはずだったが、アマタとの婚儀の噂は忽ち世間に広がり、マーケットで出くわす顔見知りに「更ちゃんおめでとう」とか「よ!アマタ夫人、今日は良い鯛が入ってるけどどうだい?」などと言祝ぎを浴びせられ、ついにはアマタがどれだけ良い男でそんなアマタと結婚できる更は幸せだと悟られたりもした。


確かに「待つ」というアマタの言い分は不思議なものだった。
最初こそアキヒトへの思いは風邪を引いたようなものだと扱われている気になり、その申し出は罪滅ぼしのつもりだと思っていたが、月日が経つにつれ鷹揚と振る舞うその態度に実は更とアキヒトが結ばれることを陰ながら見守っているのではないかと思うほど、アマタから焦りや嫉妬といったものが垣間見れなかった。


当然、在らぬ婚儀の噂はアキヒトの耳にも届いたようだが、アキヒトは益々仕事に熱中せざるを得ないとばかりに少しの時間でも図面と睨み合う姿が窺われた。


「あらアマタ君、いらっしゃい」

母の言葉に米を研ぐ手が止まる。

「どうも夜分にすみません。スイカ持ってきました。皆でどうですか」

玄関先で涼しげな着流し姿のアマタがスイカを掲げて立っていた。

折り悪くこんな食事時に来なくても。と更は内心思っていたが、

「丁度良かった!明日は休みだ皆で飲もうって話してたところだ」

勝彦の余計な言葉で更は背中の辺りに汗が滲むのを感じた。

母と一緒に台所に立ちそれを振る舞おうと食堂に行った更は、スイカを乗せた盆を落としそうになる。

アキヒトとアマタが肩を並べてぎこちなく酒を酌み交わしているのだ。

「おぉ~スイカスイカ!」

更の手から落ちそうになった盆を勝彦が待てないとばかりに奪い去りテーブルに載せるまえに一切れつまむ。

「おやおや妙なことになったなぁ」

矢島は煙草を灰皿に押し付けると、居間でテレビを観ていた妹と弟に声を掛けた。

「おいおめえら。花火やるぞ」
「やった!お母さんいい?」
「良かったわね。ヤっちゃん、子供達お願いします」

洗い物を終えた多枝子は割烹着で手を拭いながら云う。

「おい、更。おめーも来い。いいだろ多枝ちゃん」
「ええ、更もいってらっしゃい」

なんだかこちらも妙なことになった。と、更は思いながら米研ぎの手を休めた。



水を張ったバケツと手持ち花火のセットを持って〝大工村〟の人々が通勤に使うワゴン車が停まる駐車場に赴いた。

矢島は胸ポケットからマッチを取り出して付属されている蝋燭に火を点けると「ほら、おめえら好きなだけやれ」といって幼い妹たちを促し、少し距離を置いてしゃがみ込んだ。

更は矢島の意図を感じとりスカートを折りたたんですぐ隣に腰をおろす。

「おまえ昔、こんな小っさい頃に一人で吉祥寺にいって親父に引っ叩かれたことがあったよなあ」

唐突な思い出話に驚くものの、乏しい外灯の光に矢島の表情は汲み取れない。

「おまえは昔っから人一倍好奇心旺盛でなんでも自分でやりたがるそんな奴だったよ」

更はコクリと頷く素振りで続きを促した。

「それがいつの間にか、いい子ちゃんになっちゃったなあ。それも仕方があるまい。こんなちいせえ妹や弟ができちまったんだから。大人になるしかなかったんだろうよ。いつの日か自分の気持ちをしまい込む癖がついちまったんだろうな」

もはや独り言のように続く矢島の話だが、自分を見てくれている人がいると思うとどことなく更の心は温まった。

「おっ!やってるな!」

暗闇に放たれた声の主は勝彦だ。

「隼人、おまえ俺のところから打ち上げ花火もってこい」

弟分にそう云いつける勝彦に妹たちが歓喜の声を上げ纏わりついている。
更にとってはそれが微笑ましく幸福な光景だった。


「俺は今のおまえを見るのがシンドイよ。おまえは家や男に縛られる女じゃねえ。人生ってのはなぁ。誰のもんでもねえ。おまえのもんだ。好きなように生きればいいさ。でもな、日向だけを歩くなんて無理なんだ。陰を背負って生きてこそ人生ってやつじゃねえか。例え棘の道でもよ。てめえの納得した道なら棘で負った傷が自信になって、てめえを生かしてくれるってもんだ。なあ更よ、恐れねえで若ぇうちに沢山傷をこさえておけ」


矢島は胸ポケットをゴソゴソやると「あぁタバコ切らしちゃったな。ちょっくら買ってくるわ」といって立ち上がると、都はるみを口ずさみながら暗闇に溶け込んでいった。

今夜はきっとそのまま行きつけの小料理屋にでも足を運ぶつもりだろう。

更はなんだかおかしな気持ちになってクスリと笑いを零す。
父親代わりという肩書を背負った矢島なりに、更の重圧を軽減しようとしてくれたのだった。


「おい!アマタとアキヒトさんもやるってよ!連れてきた!」

隼人の声が駐車場に響き、更は苦虫を噛み潰したような形相になった。

慌てて立ち上がり妹たちの傍に近寄ろうとすると、酒を汲みあった所為かいつの間に結託したような着流し姿のアマタといつもの襟ぐりの伸びたシャツのアキヒトに挟まれていた。


まったくもって男心なんて理解できないわ。と、更はため息を零し花火の明かりに照らされる二人の表情を恐る恐る覗き見る。

どこか晴れ晴れとしたような表情に、ますます更は困惑するのであった。


「た~まや~!!」


真夏の夜空を三人で見上げた不思議な光景は打ち上げ花火のように鮮烈に脳裏に焼き付いた。




――――

「いつも仕立ての良い三つ巴姿のアマタだけど、着流し姿のアマタは本当に素敵だったわ。あ、アキヒトさんもね、スラリとした身丈でいつもジーンズに襟足の伸びた白いシャツなんだけどそれがとてもよく似合っていたの。今思えば二人とも本当にイイ男だったわねぇ」


ご婦人は窓の空に打ち上げ花火を浮かべているのか、少し頬を赤らめた。


「矢島さんは背中を押してくれたんですね」

「ええ。あの時のアキヒトさんの仕事に対する姿勢は獣のように貪欲で、誰もが目を見張るものがあった。それはもう水を得た魚のようにね。矢島のヤっちゃんもそんなアキヒトさんを間近でみていたからね、アマタと結婚して家に入るよりも、アキヒトさんと小松建業を切り盛りして行く姿を私とアキヒトさんに展望してたんだろうねえ・・・」




その言葉尻は不穏な空気を漂わせ、ご婦人の曇り行く表情にゴクリと唾を飲み込んでいた。

目前に広がる暗雲に覆われた空のように。



――――


つづく