或る夏の記憶(7)
アキヒトは更に誓った。
過去は振り返らない。
これからは前だけをみて生きる。
一人前の大工になって親父さんや矢島さんに認められるよう努力する。
そしていつか自信が持てた時、二人の事を親父さんに認めてもらおう。
看護婦さんに借りたお金を返しに行くと云ってバス停まで更を見送ったアキヒトは傘の波に紛れて消えていった。
濡れてしまった衣服をハンケチで拭きながら更はその影をいつまでも追う。
ブルっと背筋に寒気が走った。
それは通り雨に濡れたせいではなく、今しがたアキヒトの思いを知り、二人は相思相愛だったと悦びを噛みしめ、まるで自分がアキヒトの探し物になれたような気がしていたのに、その体温から離れてしまうだけで今まで不安にも思わなかった事に怯えている自分にだった。
か弱い不安は増長し心臓はまるで別の生き物のようで、火口でグツグツと煮えたぎるマグマみたいに熱情の赤を浮かび上がらせる。
これが恋というものなのね。
通り雨は過ぎ去り舗装されたばかりのアスファルトから湯気が立ち込み辺りは霞に覆われている。
あの人は必ず帰ってくる。
自分に何度も言い聞かせながらバスを降り自宅への歩みを急いだ。
いつもの日常に溶け込んでしまえば、少しは不安も紛れるだろう。
玄関の扉と開けると、賑やかな男たちの声にいつもとは違う声色が紛れ込んでおり一気に現実に引き戻された。
「アマタ君、さあもっと飲んで。そのイギリスとやらの話を若い衆にも聞かせてやっておくれよ」
―― アマタ!!
更は慌てて玄関の全身鏡に自分を写し、身なりを整えながらもひきつってしまう頬を隠せないでいる。
「おお、帰ってきたようだ。更、何してやがるんだ早くこっちに来い」
「お頭、久方ぶりの再会でお嬢は緊張してるんですよ!」
平常を装うとそればするほど、何かがぎこちなくなりそうでいつまでたっても土間から上がれずにいると、
「親父さん、すみません。場の空気を壊して申し訳ないのですが、今日は更に用事があったもので。それにこれから両親のところにも顔を出さなければならないので」
「あぁそうだったな。アマタ君、疲れているところ引き留めて悪かったね。お父上に何卒宜しくとお伝えして、どうかうちの娘をひとつ良しなに」
父の固い口調に違和感を覚えるものの、アマタが辞去して玄関に向かってくることが分かり、更は益々そこから動けずにいた。
気配に観念し見上げると、その表情はどこか憂いに帯びている。
「ちょっと付き合って」と、更の肩に手を掛けたアマタは、
「先に着替えてきな。オレは外で待ってるから」
更は濡れた衣服を抑えながら「ただいま」と小さく云って自室に飛び込む。
はあはあと、息が切れた。
どうやら吉祥寺の町中で更とアキヒトが逢っていた事は父親に告げ口していないようだ。無論、アマタは賢い人でそんなことで人を脅かしたりするような人間ではないが。
濡れたブラウスを脱ぎ半袖シャツに袖を通す。と、男たちの話声が聞こえてきた。
「お嬢もこれでやっと幸せになれますね」
「なんだい勝彦、ここでの生活が不幸せみてえじゃねえか」
「いやいやお頭、そういう意味じゃないですけど、想い人と一緒になれるなんて幸せな事じゃあないですか。おいらの田舎の姉ちゃんは見合いさせられて好きでもない男の元に嫁ぎましたからね。あぁ不憫な人生だ」
「バカ者。お前が勝手に不幸を決めつけるな」
不憫な人生・・・か。更はため息と共に吐き出した。それは父の言う通り人が決めつけることではない。だが、結婚という一生に一度の大事なことを自分で決められないことは、痛く悲しい。
アマタに会ったら伝えよう。
「私には好きな人がいます」と。
「でもお頭、これで小松建業も安泰ですね。アマタのお父上の会社と太いパイプができれば食いっぱくれなくて済む!あぁこれで俺も八重ちゃんと結婚できたら人生バラ色だ」
「そうだ、これから益々忙しくなるぞ。沢山稼いで故郷に錦を飾れ」
一瞬、後ろから激しい衝撃を覚え今しがたの決意が小さく揺れた。
私がアマタと結婚することによって、アマタのお父さんが経営する大元締めからの受注が増えるということらしい。
飴色に漱こけた柱に手をやるとヒンヤリと冷たい。
先ほどの雨が漏れたようで更の部屋にも誰かが桶やタライを並べてくれていた。
早くこの借家から出たかった。
父の夢は東京に土地を買い、自分の家を持つことだ。
その為に家族全員で肩を寄せ合い慎ましく生きてきた。
その生活を自分の一存で変えるかも知れないと思うと、腰がすくんで動けなくなってしまった。
「更?アマタ君待ってるんでしょ」
母が襖の向こうから呼ぶ。
誰もがアマタとの結婚を望み、誰もがこの家から出て不自由のない生活に身を置きたいと私に期待を寄せているように思え、泣き出したくなった。
居間にいた皆に顔を見られぬよう通り過ぎ足早に表に出る。
「俺はちょっと小便行ってくるぞ」
立ち上がった庄吉を見届けて、タバコをふかしながら矢島が云う。
「どうだかな」
「何?ヤッさん?」
「いやあね、俺はどうもね」
「だからなんだよヤッさん、勿体ぶらずに教えてくれよ」
「おめーらになんか教えねえよ!ただな、更は大人しく中流階級のご身分で満足するような女じゃねえってことだ」
勝彦は矢島の云っている意味が分からずキョトンとしていたが、思うところがあったらしくふて腐れながら云った。
「なんだよ。お嬢とアマタの婚儀に反対なのかよ」
「そんなことを云ってるんじゃねえ。ただ俺は、あいつは誰よりもお頭の性分を引き継いだ女だってことだ」
通りに出ると凛とした出で立ちのアマタがこちらに向かって笑いかけてきた。
「日本は蒸し暑いな」
そう云いながら更に小さな小箱を手渡す。
「実はイギリスの土産じゃないんだ」
アマタはまっすぐ更を見つめていたが、そこに何が入っているかを覚った更は顔を上げることができずにいる。
「やっぱり、昼間一緒に居た男と恋仲か」
ため息ともとれる言葉を吐き出すや否や、更の体を抱きしめた。
「待たせたんだな。オレが悪かった。今度はオレが待つ。」
それはとても情熱的な抱擁で、アキヒトの体温が奪われるような気がした更は泣き出しそうになった。
「違うの、そうじゃないの・・・」
更の震える声を聞き取ろうと両肩を持って顔を覗き込むアマタに勇気を振り絞り決然と言い放つ。
「待たないで。アマタは私が待ちくたびれて他の人にいったと思っているかもしれないけど、そうじゃないの。こんな気持ち初めてなの」
しばらくの沈黙のあとアマタは観念したように天を仰いで云った。
「こんなこと言いたくはないんだが」
誰に向かって云っているのか分からないような声でそういうと、
「イギリスに経つ前、親父に宣告していったんだ。帰ったら更との婚儀の話を進めるってな。既に親同士の盟約も交わされているだろう。困ったな」
「そんな!酷い。私には何も言わなかったじゃない!」
「ああ、すまなかった。だが更もすっかりそのつもりだと」
「駄目よそんなのズルいわ」
とうとう両手で顔を覆って泣き出した更に困惑するアマタだが、
「オレが時間稼ぎする。オレの都合で先延ばしする分にはご両親も納得してくれるだろう。だから、更は焦らなくていい。オレは待っているから」
この世の終わりとばかりに泣きしゃくる更を抱き寄せるアマタ。
二人の姿をバス停を降りたアキヒトが見ていることなど、更は露にも思わずにいた。
――――
このロマンスは小松更さんという人のものだと自分に言い聞かせながらも、やっぱりアマネとはそうゆう運命だったのかなどと、アマネとのすれ違った日々を思い浮かべ日頃嫌悪にしている「運命」などという言葉を都合よく持ち出していた。
あたしが生まれる前の似たような名前と境遇の人たちが繰り広げる三角関係はなんだか身につまされる思いになる。
禁断の箱、パンドラを開けてしまうような畏怖を抱きながらも続きを聞かずにはいられない。
――――
つづく