或る夏の記憶(4)
玄関先で妹たちを連れた母とすれ違い「いってらっしゃい」と、浮かれていることを覚られないように顔を隠し小さく云った。
居間のカラーテレビの映像は演歌ショーを終え、東京都内で初めて歩行者天国が実施されたというニュースが流れる中、矢島は頬杖をつきながらコクリとしている。
前掛けをして台所に向かうと、洗い物は済んでいた。矢島を起こさないように小松家専用部屋を隔てる襖をそっと開ける。
両親の寝室を抜け自室に入ってやっと今しがたの出来事に顔を綻ばせた。
文机のテーブルランプの紐を引くとチカチカと音を立て仄かな明かりが辺りを照らす。更は薄い座布団の上で膝に腕を廻し天井を見上げた。
更がまだ幼い時は母と一緒に2階にあがり、職人達の布団を干す手伝いなどをしていたが、中学に入った頃厳格な父は2階へあがることを禁止した。
弟は今でも雨の日など、現場の仕事が捗らず暇を持て余した職人達と将棋などで退屈をしのいでいるが、常に風邪や怪我などで休んでいる職人もいて、父が不在の間に思春期を迎えた娘に何かあっては済まないという配慮から、更はそれ以来2階がどんな様子なのかを知ることはなかった。
アキヒトはもう寝ただろうか。
朝が早い。
瞼を閉じるとすぐにでも睡魔が襲い掛かってくるが今夜はいつもと違う。
勝彦が八重ちゃんを誘ってショーン・コネリーの007を観に行くことを羨ましいと思っていたが、ボーリングはそれ以上に嬉しい誘いだった。
銭湯の帰りで鉢合わせを装ってひと月。
ついにアキヒトからデートの誘いを受けたのだ。
ふと文机の上にある手鏡を手に取る。
アマタが異国の地で買ってきてくれた土産のそれはツルリと滑らかな楕円を描き光沢を放つ銀枠に薔薇の造形が施され、この辺りのマーケットでは見たこともない美しい手鏡だ。
更はそれを宝物のように大事にしてきたが、その夜はそこに映る自分を見る気にはなれなかった。
幼馴染ではあるが許嫁ではない。
幼いころから気心が知れた仲で寧ろ今では狎(な)れた関係に間延びした感はあるが、その存在は大人になってから特に、遠く感じるようになっていた。
半年前、羽田から飛行機に乗って英国へ旅立つアマタを、人目を忍んで見送った。
妙齢の女たちが一目でもアマタの目に自分を焼き付けようと我こそはと前に出でる様をみて鼻白く感じていたこともあるが内心は違う。
何度こんな思いをすればいいのだろうか。引きちぎられるような胸の痛みはいったいいつになれば慣れるのだろうか。あの時考えていたことはアマタの身を案じることではなく、自分本位なことだった。
年頃の娘は次々と嫁いでいる。誰かに守られた生活を営み、子供らに恵まれ、その成長を夫婦で見守りながら生涯を終えてゆく。それが思慕を寄せた人であるか否かは別としても、それを世間では幸せと呼んでいた。
大学を卒業後一流企業に勤めたアマタは将来を嘱望されている。
更との結婚話が噂されたとき建築屋の電機工場に勤める娘とでは身分不相応だとやじられた事もあったが、そんなときは決まってアマタは
「僕が一生を通じて守り抜くものは身分じゃない。生身の人間だ」
と、鷹揚に笑い飛ばしていた。
それが自分でありますようにと願うと同時に、同じように願っている女性がたくさんいることを知るたびに劣等感が覗き、そんな自分を打ち消したいと思っていた。
野心家のようで名利に恬淡(てんたん)な様が男女問わず好感を与え、品行方正な好青年と世間に評されているのを聞く度、身分だけではなく何か別のところで不相応なのだと嘆きたくなることもあった。
このまま母のように、朝早くから晩まで職人達の賄を作り、電機工場で細々と小銭を稼ぎ、いつの日か気まぐれに連れ去ってもらえる日を待つばかりだと思っていた日々があの日から一変した。
アキヒトが現れたあの日から。
アマタを思うと同時に浮かび上がる苦い感情は恋故のものだと思ってきたが、アキヒトへの思いを募らせそれをはっきりと認識することで更の世界は異国のどこよりも違ってみえたのだった。
―――――
「う゛ぅ・・・うぅぅぅん」
あたしは思わず唸り声をあげていた。
ご婦人の話を聞きながら脳みその襞(ひだ)に『輪廻転生』という四字熟語が浮かび上がる。
いやまさか。昭和40年初頭は祖母も母も生きてはいるが、死んでもいない。
輪廻転生という生まれ変わりにしては時代が近すぎる。
「同じ屋根の下、同じ釜の飯を食べて過ごす異性はたくさんいたけど、私が初めて異性を意識したのがアキヒトさんだったの」
偶然の産物としてご婦人のロマンスを、その人生を垣間見てみようとは思うがアマタに対する感情と自分がアマネに抱いていた過去の感情が酷似していてなんだか切なくなってきた。
「ええ。その気持ちはなんとなくわかります。
それでボーリングのデートはどうでした?」
―――――
『吉祥寺ボール』は駅前でバスを降り西荻窪方面に向かって線路沿いに歩くと、昼間だというのにけばけばしいピンクや黄色のネオンを放つ如何わしい映画館を過ぎた辺りにある。
その界隈は胡乱(うろん)な輩が昼夜問わず徘徊している退廃した地区で、地元の人間の特に若い娘がひとりで足を踏みいれる場所ではないとされてきた。
当然更もそのことは知っていたが、眼前を飄々と、それでいて紳士然と歩くアキヒトの頼もしさの陰に隠れ、すれ違う人となるべく目を合わさないように後をついて行く。
吉祥寺駅前に午後2時と書かれた紙片が前掛けのポケットから出てきたのは前夜のことだった。
約束をした翌日から季節労働者が増え同時に炊事も増えたため、銭湯で鉢合わせする機会がなくなり更の心は消沈していた。
他の職人の手前、相変わらずぎこちない関係のままだったが、そこへきて勝彦がアマタの話題を振るたびに、更は約束を反故されるのではないかと気が気じゃなかった。
いつの間にそこに忍ばせたのか手品のような早業と気障なやり方に、更の思いは真夏の太陽のごとくジリジリと焦がされていた。
自動ドアを抜けると、冷房の効いた館内にやっと胸を撫で下ろす。
振り返るでもなく受付と書かれた場所で何事かをしているアキヒトの後ろ姿を少し離れたところで目視したあと、辺りを見渡した。
「ストライク!」その声が聞こえてくる方を振り向くと、男女のアベックがハイタッチをしている。
男はパンタロンのズボンに襟付きのシャツ。グローブまで嵌めている。
女は髪をポニーテールに結わきそこにリボンを施し、ミニのスカートに水玉模様の襟のついたシャツといった出で立ちで、思わず母に誂(あつら)えてもらった質素な無地のスカートに更は気恥ずかしさを覚えた。
場所柄のせいか、日曜日だというのにそのアベックしか見受けられない。
「更ちゃんは、ボーリング初めて?」
ふいの問いかけにアキヒトがすぐ傍にいたことを知る。
「あ、ううん。一度、友達と」
「そうか。じゃあ話は早いな」
更は一瞬アマタのことをどう形容しようか悩んだが、口をついた言葉は「友達」だった。
向こうのアベックのように、ハイタッチをしたり奇声をあげることもなく、淡々とボールを放り投げ1ゲームを終えた。
隣のアベックは以前アマタと訪れた時の自分を見ているようだった。
アマタの口からでる言葉はどれも更のへたくそをやじるものだったが最後にストライクを出した時だけは自然にハイタッチをしていた。
最初こそその光景を思い出してはいたが、一投、一投と投げているうちに、隣のアベックに抱いた劣等感や、心の底に沈んでいた澱が流されていく感覚を覚え、次第に夢をみているような、アキヒトの為す行動のどれもが一瞬の幻のように尊い時間に変わっていた。
ボールが吸い込まれるように滑り、見事な音を立ててピンを弾きとばす様は疲弊しきった更を取り巻く環境の様々なことが弾かれるような爽快感を与え、振り返りざまのはにかむアキヒトの表情からは何か温かいものに包まれたような、得も言われぬ安心感を抱いていた。
恋が加速する。
レーンを滑るボールの如く加速して弾き飛ばす。
ふらりと現れたアキヒトは、拾ってきた猫達と同じように私を置いてふらりとどこかへ行ってしまうであろうか。
いや、アキヒトは違う。「ずっとここにいて」その言葉を伝えたらきっといつまでも私の傍にいてくれる。
もはやアキヒトが私を捉える視線の熱が違うことを感じていた。
アマタの話題には敢えて耳を澄まさないようにしているようにも思えた。
微かに触れた指先が互いの温度を高め合っていることを確信した。
いずれ幼馴染のアマタと結婚するであろうと言われてきた更が、恋の確信を得たのは生涯で初めての事だった。
「疲れただろう。喉乾かないか」
アキヒトは、自分と更のボールをひょいと持ち上げるとそれを元の場所に戻しながら云う。
「ううん、全然。むしろ爽快だったわ」
頷いたような素振りをしたアキヒトはコカ・コーラの自動販売機の前に行くと小銭を流し込んで瓶を取り出し手際よく詮を抜いて更に差し出した。
小松家ではどこからともなく骨が溶けるという噂を聞きつけた父によって飲むことを禁じられてきた。
『コカ・コーラ』が小松家の禁忌を破るように思えたが、アキヒトの行為を無碍にしたくはない。
「ありがとう」そういって一口含むと慣れない口当たりにむせ返りそうになった更をみてアキヒトは飾り気のない無防備な眼差しを浮かばせ微笑んだ。
――――
「コーラが恋の味ですね」
「ええ。あの頃のコカ・コーラは、薬のように苦くてほんとは飲めたものじゃなかったけどね、そうね、あれが恋の味だったのかもしれないわね」
――――
つづく