ピグ恋~ピグから始まった最後の恋~ -14ページ目

或る夏の記憶(3)


職人全員の食事が終わってから小松家の食事が始まる。おかずの献立も職人達と分け隔てなく同じ釜の飯を食べるのが父、庄吉の理念であった。

「職人たちに働いてもらって我々小松家の生活が在る」という方針の元、決して驕ることなく謙虚に振る舞うように教育されてきたので、お嬢などとは呼ばれてはいるが世の中のそれとはまったく違った。


「あれ?ご飯もういいの?」
「うん、早めにお風呂に入りたいの。お魚は薫にあげるわ。ご馳走様でした。お母さん洗い物はあとで私がやるから水に浸しておいて」

更はさっさと前掛けを外し、用意しておいた下着や寝間着といった類を包んだタオルを抱え玄関の全身鏡に自分の姿を映して髪を梳く。

軒先の蚊取り線香が夏の夕暮れに微かな白い筋を漂わせている。

「これから風呂入るのに身だしなみか。夏だねぇ。おっと出ましたはるみちゃん!さよぉな~ら~さよぉなら~好きになった人~演歌はいいね。何って哀愁があるじゃねえか」

矢島は誰に言うでもなく口ずさみ、そんな更を一瞥する。

一方更はそれを気にも留めず毎晩夕飯を早めに切り上げひとりで銭湯に行く理由の種が尽きてきたと思いつつもそれどころではなかった。

大きな寸法の草履や地下足袋といった履物が乱雑に散らばった玄関で、赤いつっかけを見つけ出すとそれをカタカタ鳴らし「行ってきます」と同時に飛び出していった。



アキヒトがどんな人か、どこの生まれで、家族は何人いるのか、彼を取り巻く背景を知る者は更を含め誰ひとりといなかった。


それは三ヶ月前の新緑がまぶしい季節。
あちらこちらで道路の舗装工事が行われる埃っぽい道を、電機工場の仕事を終えた更は夕飯の支度に取り掛からなければならないと帰りを急ぎ自転車を漕いでいた。


眩しいほどの逆光に、棒切れかと思うほど細い人影がぼんやりと浮かぶ。
その姿が近づいてくると細長いジーンズに襟ぐりの伸びた白いシャツという出で立ちの男が路傍で立ち尽くしていた。
何事かと思いながらも急いで帰らないと夕飯の支度が間に合わない。
更は一瞥くれながら素通りしてから「キー!」というブレーキの錆びた音を立て慌てて止まった。
どうやら下駄の鼻緒が切れてしまったらしく往生していることが分かったからだ。
困っている人を見過ごせない性質の更は、自転車を足で後退させながら云った。

「鼻緒、切れちゃったんですか?」

この辺の人じゃないようだ。
男は切り損ねたようなボサボサの頭を掻きながら遠慮気味に頷いた。

「どこまで行かれるんです?」

少し考える素振りをした後、

「働かせてくれて、飯が食えればどこへでも」

低く透き通った声だった。

不思議な人・・・。

更はその返答に警戒するどころか、すぐさま興味と好奇心を抱いていた。

「だったらうちに来てください」

今度は男が呆気にとられたようで不揃いの長い前髪から覗かせた切れ長の目に困惑とも興奮ともとれる眼差しを浮かばせた。
見るからに更より年上でその風貌は碌なものを口にしていないのか荒んではいたが、黒猫みたいな、どこか人を近づけない凛とした高貴な空気を漂わせながらも人懐っこい眼差しの持ち主だった。


「うち、大工なんです。今は猫の手も借りたいぐらい忙しい時期ですし、賄付きで二階が職人さんたちの宿舎になっているので寝るのも困りません。さぁ後ろに乗って」

また拾い物をしちゃった。と、更は思う。かれこれ捨て猫を見かけるたびに拾っては庭先でご飯を与えその増え続ける様に両親だけではなくご近所からも疎んじられてきたが、今回は人間様だ。誰も文句は言うまい。


「お世話になります」

男は嬉々とした表情をしてから丁寧にお辞儀をし何か考える素振りをしたあと、鼻緒の切れた下駄を籠に突っ込み自転車のハンドルを更から手繰った。

「俺が運転するんで」

その距離に胸が跳ね上がりゴクリと唾を呑み込む。
男臭い環境に身を置く更だったがそれは幼馴染のアマタにも感じたことのない、異性独特の雄々しさと清らかさを同時に感じさせた。

荷台に腰を下ろすと男は前を向いたまま後ろ手で更の手を探り自分の腰を掴ませペダルに体重をかけた。

男の体温を感じた更は確信するように頷く。
人を疑ったり、陰で謗(そし)ったりするような血は流れていない。他人との共同生活にもすぐに慣れるだろう。
きっと父も喜んで引き受けてくれる。


「私は更です。小松更」

少し考える様子をみせた男は「アキヒト」と名乗った。

向かい来る夏の匂いを忍ばせて湿った風が土埃を巻き上げる。


「何も聞かず自分を雇ってください」

床に叩頭しながらアキヒトが云った。
父は黙ってそれを承諾したが職人たちは「お嬢がまた拾い物をしてきたぞ」「今度は人間だっていうじゃないか」「出所したばかりのやくざ者なんじゃないか?」などと面白がっていたものの、そもそも小松建業自体が烏合の衆なのだからとりわけ問題もなく、アキヒトの真面目に勤労する姿に妙な噂は自然と消えて更もどこか誇らしげな気持ちになっていた。




「更ちゃんいらっしゃい」番台の女将さんに小銭を渡す。
「今日も賑やかにやってるよ」男湯の方を顎で指し楽しそうに云う女将。

「いつも五月蠅くしてすみません」

大きな笑い声や、誰かを冷やかすような声が浴場に響き渡る。
湯船に浸かりながら、この壁の向こう側にアキヒトがいると思うと体の芯から熱くなりのぼせそうになった。

賑やかな声が収まって銭湯本来の静けさを取り戻した頃、脱衣所の壁に掛けられた丸い壁掛け時計で時刻を確認すると更は7時30分きっかりにそこを出て手際よく着替えた。
先に出ているはずのアキヒトが外で涼んでいるところに偶然を装って出会わす算段だ。

小さなテレビ画面にくぎ付けになっている女将さんに挨拶をする。

「いいお湯でした。また明日」

更は丁寧にお辞儀をしてからもう一度鏡に映る自分を確認した。
髪を一本に結わいて右肩におろし、衣服の乱れを整える。

暖簾を潜りガラガラと擦りガラスの戸を引くと既に日は落ち、蝉が羽を擦りつける暑苦しい音と同時にモワンとした湿気と熱気に覆わる。
満月のせいかいつもより空が明るい。
カランカランというつっかけの音を土間に響かせ石畳の階段を下りると、軒下の縁台で涼むアキヒトを捉えた。

「こ、こんばんは」

タオルを胸にギュっと抱き、よそよそしさを隠して頭をもたげる。

「うん」といって歩きだすアキヒトの隣に自然と並んでいた。

こうして銭湯帰りの道を一緒に歩くことが日課となっていたが、アキヒトが更を待っているのかは定かではなかった。

夕飯は美味しかったか。お弁当の量は丁度良いか。
話しかけるのもやっとの中、話題をひねり出すがアキヒトはそれに「ああ」とか「うん」とのらりくらりの返事をするだけだ。
ついに会話が途切れると更の家でありアキヒトの宿舎が見えてくる。

「じゃあ」たった二言で1日の楽しみが終わってしまうがそれでも更はアキヒトがどんな人物なのか、霞にかくれた瞳の奥を覗きたいという衝動は抑えきれず、それが確たる恋の表れではないかと胸を高揚させていた。

「じゃあ」

今日もその二言を放つと、一緒に玄関を潜るのはまずいと言わんばかりに歩調を速め、先に行こうとするアキヒトだったが、この日は違った。


ふと、どこからともなく吹いた風に近所の風鈴がチャリンと鳴ると下駄が砂利を弾く音が止まる。


「今度の休み、ボーリングでも行こうか」


外灯に照らされたアキヒトは、今まで見たこともない柔和な眼差しで更をみつめていた。

ドキリと心臓が跳ね上がるのを覚え「はい!」と二つ返事をすると「じゃあ、おやすみ」と今日もやっぱり先に玄関を潜るアキヒトだったが、更は天にも昇る思いで空を見上げる。


満月のせいでいつもより星の数が少ない夜空に、強烈な輝きを放つ一等星。

あるべき場所で輝くそれは遠い昔の約束事を届けるが如く大地に降り注いでいた。




つづく