アタマで考えないようにすると、ほんとうに考えることができます☆ | 札幌 家庭教師・物語作家わたなべ~小どもたちへの手紙~

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心の深い部分に根ざした勉強法や、発想法などを提案しています
(現在は何気ない日常をアップしています)

こんにちは。

 

 

改めて、これからのこのブログは、基本的に

 

 

①小どもたちとお話しする手紙と、

②日々の指導(小どもたちとの関わり合い)から感じたこと、大切に思えたこと

 

 

の二本立てを軸にしたいと思います。

 

 

また、「凡人の教育論」と題して、教育ってほんとうに何なのだろう、

というところを考える記事も書いていきたいと思っています。

 

 

今日は上の番号でいえば②のお話ですニコニコ

 

 

ふだん指導しているお子さんたちで、数学にせよ国語にせよ、

悩む問題にあたると、頭でず~っと考えに考えて解こうとするひとがいます。

 

 

その根気はすばらしいものですし、そうやって実際に解き進められることも多いです。

 

 

でも、そういう悩ましい問題にぶつかったときのひとつの作戦は、

口で言っても手で書いてもいいので、とにかく何か吐き出すことなんですよね。

 

 

ビジネスや芸術の分野でもよく耳にする話ですけど、

やっぱり勉強でも有効です。

 

 

手を動かしてみると、計算の途中まではできたり、

漢字でも途中まで書けたり、どこがちがうのかよく見えるようになります。

 

 

たとえばピアノの練習で、じっくりと考えに考えて

弾き始めることはほとんどありませんよね。

 

 

確かに曲の展開や味わいを検討する時間はあると思いますが、

指の運びがうまくいかないからといって、考え込むことは少ないはずです。

 

 

それが勉強だと、自分の頭のなかでウンウンとうなって考えてしまう。

 

 

どうしてなのでしょう??

 

 

このあたりも、「教育」って何なのか、ということと関連しそうですけど、

自分のなかで考え込むことがよしとされてきた、という面はあると思います。

 

 

算数や数学の問題を解く場合も、暗算がかっこいいとか、

途中の計算式もキレイに積み重なったところだけをノートに残しておくとか。

 

 

試行錯誤は頭のなかで済ませて、外へ表現するのはなるべくその結晶だけ。

 

 

もちろん、科目の学習や試験においては、判定したい能力や

評価したい部分が決まっているので、

回答があまりごちゃごちゃしていては困りますよね。

 

 

 

 

でも、きっといまここを読んでくださっているあなたも、

きみも、気づいたことがあると思いますが、

 

計算や取り組んでいる物事がどんどん進んでいるときって、

あえて考えようとしてはいないではないでしょうか。

 

 

数学なら、ザクザク進める問題を解き進めていて、

難問にぶつかって、ふと考え始める。

 

 

お仕事でも、バシバシ作業を進めていて、何か面倒なスケジュール調整が

必要な部分にぶつかって、ふと考え始める。

 

 

たいていはどちらの場合も、解答集をみたり、

相手に連絡を取ったりして、また活動が流れ始めます。

 

 

だから、最近すごく思うのですが、

考えること自体実は難問なんじゃないか、ということです。

 

 

自分でも表現が難しいので、言い直してみるのですが、

 

 

難しい問題にぶつかって、「難しいなあ、さてどうしたらいいんだ……」

と考えること自体が問題を難しくしているような気がしてなりません。

 

 

例えば数学で、複雑な関数の問題にぶつかったとき、

自分が知っている範囲、あるいは検討できる範囲の作業をして、

 

 

糸口が見つからなければそれで終わり、でOKではないでしょうか。

 

 

できるものとできないものがありますし、

できなかったものは解答と照合して勉強すれば充分です。

 

 

「分からないなぁ、どうやって解くんだ?

あの話が関わるのか?それともあっちか?」

 

 

と悩み始めると、いくらでも考え込むことができてしまいますよね。

 

 

とにかく早く行動しよう! などとオススメするわけではないのですが、

考えるにしても、頭の外でいろいろやってみるのがよいかもしれない。

 

 

というお話でした。

今日もお付き合いいただいて、ありがとうございます爆  笑

 

 

 

わたなべ

 

 

 

 

 



 

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