タイトルは「ドキハキ」の1コーナータイトルです。
今週の「多恵ちゃんにたのもう」で取上げたのは、
「もう何十年前に大学を卒業しているのに、まだ試験が出来ないこわ~い夢をよく見ます。私の心理状態はどのようなものなのでしょうか?」というメールです。
答えにはなってないのですが、
実は私も大学を卒業して30数年経つのに未だに、
「同級生たちはとうに卒業しているのに、ある授業の単位だけ取れなくて、
一人だけ取り残されて四苦八苦している」
という夢を見るというお話をさせて頂きました。
そして、それは1970年前後の同志社大学文学部英文科で教鞭をとってらした
シュレイダー先生の授業だと・・・・・・。
シュレイダー先生の紹介を番組でも少しお話させていただきましたが、分かりにくかったのではないかと思いますので、もう一度ここでご紹介しておきます。
5,6年前に先生がお亡くなりになったというニュースに触れ、その時も書かせていただきました。
それは・・・・・・。
こんなニュースを見つけた時です。
米・脚本家レナード・シュレイダー氏死去 |
た米映画「蜘蛛女のキス」(1985年)や日本の「男はつらいよ」シリーズの一部作品を手掛けたことで知られる米脚本家、レナード・シュレーダー氏(62)がロサンゼルスの病院で心不全のため2日に死去したことが4日、分かった。AP通信が伝えた。 シュレーダー氏は、がんなどのため健康状態が悪化していた。 米ミシガン州の敬虔なキリスト教カルビン派の家庭に生まれたシュレーダー氏は、同派の大学やアイオワ大で学んだ後、著作業入り。69年から70年代にかけ日本に滞在し、大学で米文学を教えた。作家の三島由紀夫氏に出会うなど、日本文化に傾倒した。 「タクシードライバー」(76年)の脚本で知られる弟のポール氏との共作も含め、主な原作、脚本は「ザ・ヤクザ」(74年)、三島氏をテーマにした「ミシマ」(85年)など。「男はつらいよ・寅次郎春の夢」(79年)では、山田洋次監督らとともに脚本を担当した。近年は南カリフォルニア大などで脚本を教えた。 (共同) |
[ 2006年11月05日 13:34 スポニチ速報記事 ] |
「1969年から1970年代日本に滞在し、大学で米文学を教えた。」とこの記事にありますように、先生は京都に居られました。
同志社大学文学部英文学科で教えてらっしゃいました。
私はその時の生徒です。
先生のことは忘れられません。
何故かというと、私が大学で受けた授業の中で、一番難しい授業だったからです。
何で、こんな難しい授業を取ったのかとずいぶん後悔しましたよ。
今ではもう何を習ったのかもあまり覚えていませんが、週に一度は必ず先生の授業を受けていました。
先生は絶対日本語を話さなかったので(先生が当時あまり日本語を解からなかった可能性もあるのですが・・・)
まず、何を言っているのかを聞き取ることから難儀したのを覚えていますし、時々質問をしてきて私を当てるんです。
もうムチャクチャ答えてクラスのみんなの笑いをとったこともあったなあ~~と今懐かしく思い出されます。
ある時、先生はレポートを書かせ、それにABCと点をつけるのですが、面接付きでして、先生の部屋に一人ずつ入って評価を貰ったことがありました。もうドキドキものでして・・・・・・
忘れもしません。貰った評価はCでしたわ
卒業の時にすべての履修科目の評価が表にして出てくるのですが、このCは燦然と輝いていましたよ
そんな怖いイメージの先生でしたが、それは単に私ができなかったというだけのことなのですよね。
そんなこんなで未だに夢にでてくるのです。
62歳言う年齢にちょっとびっくりしています。
と言うことは当時先生はまだ25,6歳だったんだ~~と・・・・・・
そういえばあ~~先生の奥さんは私たちの先輩でして・・・・・・
先生はまだ若かったんですよね。
その後、帰国されてからの活躍はいつも教え子として誇らしく思っていましたし、あのアカデミーのシュレイダーに習ったというのは私の自慢です。
多恵子