ラグビー日本代表 李承信選手 124 (国籍がどこでもひとつのチーム 日本を勝たせるために蹴る) | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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ラグビー日本代表 李承信選手 120 (【日本代表】代表候補合宿に参加) 

 

ラグビー日本代表 李承信選手 121 (日本代表メンバーに選出されました) 

 

ラグビー日本代表 李承信選手 122 (今日の試合結果は?日本代表で先発!対イングランド戦) 

 

ラグビー日本代表 李承信選手 123 (李承信が語る「超速ラグビー」イングランド戦振り返って)

 

 

↑の続き

 

 

 

(引用元:Yahooニュースより)

 

 

ラグビー選手・李承信

 

 

 

 

 

↑Yahooニュースより

 

 

 

朝鮮学校出身で初のラグビー日本代表となった李承信。ラグビーの代表チームは国籍を重視しない所属協会主義が特徴だ。さまざまなルーツを持つ選手たちが、自分のルーツを大切にしながら、ひとつのチームとして戦う。多様性を体現するスポーツにおいて「実力で誰よりも上手く蹴れるように」と語る承信は試合ごとに進化する姿を見せている。

 

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ラグビーワールドカップ(W杯)2023が閉幕した直後だった。神田の羊ホルモン料理店「大笑」で絶品のラム肉をつつきながら、安英学(アンヨンハ・45)が言った。

 

「彼の生き方は僕にとっても誇らしいですよ。自分のルーツやアイデンティティーを大事にしながら、お世話になった日本の方のためにも闘いますというのを公言して本名でプレーしている。在日の次の世代の生き方なのかなと思います」

 

 安は在日三世として生まれ、サッカー選手として現役時代はJリーグでプレーしながら、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の代表として活躍してきた。話題に上っているのは、李承信(リスンシン・23)。同じく在日コリアンで韓国籍であるが、ラグビーの日本代表としてW杯のサモア戦に出場していた。途中出場ながら、弱冠22歳の若さで違和感なくゲームに入り、適応力の高さを見せつけていた。

 

 日本のパスポートを有しない者が日本代表になる。これは国籍主義のFIFA(国際サッカー連盟)と対照的に、所属協会主義をとっているWR(ワールドラグビー)のレギュレーションの大きな特徴である。ラグビーの場合は国籍が異なっていても「出生地が当該国であること」「両親または祖父母のうち一人が当該国出身」「当該国で連続5年以上居住している」「通算10年以上居住」という条件のうち一つを満たせば、その国の代表選手としてプレーできる。安は祖国の南北分断を認めない朝鮮籍という属性を大切にしていた。ゆえに日本国籍や韓国籍の取得に動くことはなく、北朝鮮代表としてプレーするために平壌に渡り、そこで認められて最後はW杯南アフリカ大会に出場している。在日のアスリートがまったく異なる環境の本国で受ける苦労は小さくなく、それでも無名な時代からたたき上げで北朝鮮代表でのプレーを完遂した安が、日本代表でプレーする承信をどう見ているのか?

 

冒頭の言葉はその質問をぶつけた答えである。 ■ラグビー強豪校でなく片道2時間の朝鮮学校へ  店主の西原在日(にしはらざいひ・56)もこう言った。「ラグビーは在日の子にとってはええスポーツですよ」。明治大学ラグビー部で、副キャプテンを務めた西原は大阪・鶴橋出身の二世である。大工大3年のときに高校ジャパンに選出されて、ニュージーランド遠征に参加したときのことがその後の人生に大きな影響を与えたという。「僕は国籍は韓国でしたけど、正直、ほんまに自分は韓国人なんかなとモヤモヤしていた。韓国人なら、祖国の兵役に行かないとあかんのか。でもそんなんできるわけないし。一方で日本代表になってもええんやろか。そんなふうに悩んでいるときにニュージーランドに行ったら、相手はサモアやトンガの出身の選手がニュージーの代表ユニフォームを着て試合に出てきた。ああ、これでええんや。俺は俺でええんやと。自分の生き方も決まった瞬間でしたね」  パスポート主義は、国家の選択をひとつに迫られることになる。特にマージナルな存在のマイノリティーや先住民の選手にすれば、どこかを選ぶことで喪失感を持つこと、あるいは同胞からバッシングを受けることさえありうる。ダブルの選手などにとってもひとつの選択を強いられる制度でもある。しかし、国籍や国境にこだわることなく、居住している国や地域のために様々なルーツを持つ選手がひとつになって戦うことができるラグビーは、極めて自然にプレーに入っていける。  朝鮮学校初の日本代表である李承信は、まさに新しい在日の形として存在している。  2015年暮れ、同級生の徐和真(ソファジン・24)は「ほんまにあいつは来るんやろか」と思っていた。7人制ラグビーをしていた小学生の頃から、承信のプレーは突出していた。体格差が大きくなる中学生になっても、際立ったランとパスのスキルで3年生を凌駕(りょうが)していった。関西では強豪で鳴らしていた徐の東大阪朝鮮中級学校も、承信のいる神戸朝鮮初中級学校には、ボコボコにされた。高校進学時になると、同世代では別次元にいる承信を、幾多の日本のラグビー強豪校が特待生を条件に勧誘してきていた。アスリートとしての環境を考えるならば、高校無償化の対象から外されるなど、国連も問題視する差別に晒(さら)され、生徒数が減少し続けている大阪朝高に来るよりも全国大会の優勝実績のある日本の学校を選んだとしても不思議ではない。しかし、承信はラグビー経験のない生徒も交えてチーム作りをしなくてはならない学校(ハッキョ)に来た。

 

「強豪校に行けば、容易に花園に行けますよね。でも自分にとっては同じルーツを持つ仲間たちと、朝鮮学校として強くなるプロセスに意義を感じていました」  実家の神戸から東大阪の大阪朝高まで片道で2時間かかるが、いつも朝練習は一番乗りだった。  当時、外部日本人コーチとして大阪朝高の指導に当たっていた元慶應義塾大学キャプテンの野澤武史(たけし・45)は承信が入学してきたときの衝撃を覚えている。 「凄(すご)いのが入ってくるというのは聞いていたんですが、最初からものが違っていました。秋にやった東福岡との試合で1年の承信だけがどんどん相手を抜いてトライしていく。キッカーを任せたらその精度も高い。普通はテクニックのある選手は身体を張らないものですが、タックルにも躊躇(ちゅうちょ)なく行く。しかも常に目標意識が高かったから、同期も彼に引っ張られて強くなっていきましたね」  日常生活も含めた意識の高さは徐も感じていた。承信はいつも練習前にトップスピードを出すための初速の練習を一人でしていたのである。「『これが俺の課題や』と言うんです。『1歩目2歩目の速さを極めて相手との距離を詰められれば、身体の小さい俺でも体格差を埋めることができる』と。ラグビー脳は当時から高かった。それでいてエースやのに部室や階段の掃除も率先してやるんで、オフザピッチの模範にもなってくれていました」 ■身体が震えて足がすくんだ 自分に向き合って得たもの  自らがどんな選手なのか、謙虚に把握した上で課題に取り組み、同期の人望も厚い。 「だからコーチとしては手がかからない選手でした。一番上手いんだけど、自分にボールをよこせという選手ではなくて、むしろパスがさばけるんでどんどん配球するんです。ただ彼がパスをすると自分より能力が低い選手にボールが渡ることになるから、それについて話をしましたね」(野澤)  2016年、全国高校ラグビーの大阪府予選が始まると、このスーパー1年生を野澤たち指導者は隠すことにした。第一地区の決勝相手と目される東海大仰星には当たるまで見せるなというのが合言葉だった。満を持しての決勝で承信は初めて先発を果たした。花園出場をかけた試合は接戦となり、10対12のスコアで残り2分となった時点で仰星が反則を犯した。スタンドで応援していた徐たち、朝高応援団は盛り上がった。  

 

 

 ここで承信がペナルティーゴール(3点)を決めれば逆転。残り時間から見てもラストのプレーで勝利は手に入る。すでに承信は周囲を驚かすには十分な活躍を見せていた。それまで得意のキックを2本とも決めていたのである。承信なら、決めてくれると誰もが思った。ところが、蹴らなかった。蹴れなかったのである。そうなったのは、「ここで外したら、自分のキックで、3年生たちの高校ラグビーを終わらせてしまう。そう思ったら、蹴ると言えなかったんです」(李承信)。  補助金が打ち切られたことで朝鮮学校の施設は老朽化する一方だった。日本の強豪校とは比べものにならない苛烈な環境の中で大阪朝高の先輩たちは、チームを支え牽引(けんいん)して来た。その人たちの競技者半生を背負うというプレッシャーから、普段の彼からすれば、決まる可能性の高い位置であったが、足がすくんだ。大阪朝高はペナルティーキックではなく、モールを選択した。しかし力勝負では、押し込むことが出来ず、ボールを奪取されてそのままノーサイドの笛を聞いた。悲願の花園行きのチケットは零れ落ちた。今、承信は淡々と振り返る。 「あのときの僕は身体が震えて蹴っても入る気がしなかったんです。躊躇してチャレンジが出来なかった自分がいた。でもそこに向き合うことで得たものが大きかったです」  高校卒業後は帝京大学に進学するが、これを1年で中退する。学校に不満があったわけではない。世界のトップチームと対戦する度にその差を痛感し、自身の成長のために海外に留学してのプレーを望んだのである。選んだのはラグビーを国技とし、W杯優勝3回を誇るニュージーランドだった。  しかし、その矢先、世界的なパンデミックが降りかかった。コロナの蔓延(まんえん)によって渡航が叶(かな)わず、留学が潰(つい)えて所属チームが無くなってしまった。失意の中にいたときに声をかけてくれたのが、神戸製鋼コベルコスティーラーズ(現・コベルコ神戸スティーラーズ)のチームディレクター福本正幸(56)だった。幼少期から馴染(なじ)みの深い地元のチームからのオファーを受け、入団が決まった。 (文中敬称略)(文・木村元彦) ※記事の続きはAERA 2024年7月15日号でご覧いただけます

 

 

 

 

 

■前回アップした分■

 

 

 

(引用元:#コベルコ神戸スティーラーズ Xより)

 

 

■プロフィール

李承信(り・すんしん)/2001年1月13日、神戸市生まれの21歳。176センチ・85キロ。在日コリアン3世で、幼稚園から朝鮮学校に通う。父親と2人の兄の影響で、4歳からラグビーを始める。小中はサッカー部に所属しながら、ラグビースクールに通う。神戸朝鮮初中級学校からラグビー強豪校の大阪朝鮮高級学校に進み、3年時には花園に出場。高校2年時から高校日本代表に選出。帝京大学に進学し、ジュニア・ジャパンの主将を務める。大学を辞めてニュージーランド留学を決意もコロナ禍で渡航できずにいたが、縁あって2020年にコベルコ神戸スティーラーズに入団。加入2年目のリーグワン元年にチームの副将として13試合に出場(11試合先発)。代表キャップ数は「9」。※2023年8月15日現在

 

 

(引用元:Yahooニュース ミョンウの記事より)※単独インタビューに応じてくれた李承信(写真提供・コベルコ神戸スティーラーズ)

 

 

 

 

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(引用元:ラグビーリパブリックより)