東京都の多摩地方、埼玉南部地域には、中小の河川が流れています。

多摩川という大きな河川が秩父地方から多摩地方へ、そして大田区、川崎市へと流れています。群馬、埼玉の山地からは荒川が流れて、東京の北部・東部を流れてきます。文字通りの荒れる川です。

 

多摩地域の河川は、多摩川や荒川の支流となります。

我が家に近い東久留米~新座市、朝霞市へは「黒目川」が流れています。その川は、新河岸川へ、さらに荒川と合流し、東京湾へと流れて注ぎこみます。上流のいくつもの河川の浄化は、海の浄化に直接につながっています。

 

ぼくが小学校現場教員だった時は、朝霞市で黒目川の流域に勤務する学校でした。川の流れが学区内にありました。

ただ、1980年代、90年代は、都市河川の荒廃、水質の悪化が進みました。

子どもたちの知る黒目川は、かつて生活に使われた面影もない汚い川になっていました。だれもその川に近づく人はいなく、学習の場にする実践もありませんでした。

 

人々の無関心が、川の水質の汚れ、荒れを生んだのです。

その川への関心を育むことを、教育実践の重要な課題として、この川に向きあいました。そこで手ごたえを感じました。

(この様子については、ブログでも何回か紹介しています。その一部より)

 

 

 

 

 

 

 

「からぼり川」通信に文を書く

さて、6カ月間の思わぬ形で入った小学校で2年生の担任生活。

この学校には、学区のへりに空堀川が流れていました。

見ていると、かつての黒目川と同じではないか、そう見えました。

そこで、学年のメンバーと話し合い、「からぼり川であそぼう」という実践をつくりました。

 

その時、かっつての学びの体験を生かして活動をつくりました。

この川には、「空堀川に清流を取り戻す会」(がたろう)の活動を継続している方たちがいました。「がたろう」さんたちとコラボして学ぶことは、地域や川を知らないぼくには一番の近道だと考えました。

 

小学校での活動が終わったあと、会のSさんから、通信に、文章を書くことを求められました。小学校での助っ人活動が終わったばかりだったけれど、字数をはるかにオーバーした文を寄稿しました。

 

その通信『からぼり川』№116号が届きました。

 

 

 
 
これが掲載された文です。下の方に文を転載しました。
 

からぼり川であそぶ

  ~青葉小学校 2年生の子どもたちと

          霜村三二(青葉小元講師)

 ひょんなことで青葉小へ

 私は小学校教員をはるか以前に退職した後、若い教師たちの支援を続けていました。各地での教員不足の状況は知っていましたが、まさか自分に青葉小の方から担任の依頼が来るとは思いませんでした。ただ、全生園を学区に抱える青葉小学校の教育実践にはかねてより関心を持っていたので、産休代替の依頼の声を聞き、逡巡したものの「青葉小なら」と5月初めから2年生の担任になる決意をしました。人権教育を大事にしてきた学校で、その末端で自分も学ぶことができればという思いがあったからです。

 

 実際の現場に入ってみると、コロナ禍をくぐって学校の変化は大きく、制約もあり、戸惑いながら浦島太郎の心境で日々子どもたちと向き合うことになりました。

 それでも子どもたちと一緒にいると、かつて小学校の担任した時の喜びを思い出します。それは決まったカリキュラムをなぞる学びだけではなく、目の前の子どもたちと地域に根ざす実践をつくることができた自由さが学校にあったからでした。

 

 地域とつながる実践をつくりたい

 いま地域に根ざし、「楽しい授業」をつくりたいと思っても、学校での様々な課題が多くて、ゆっくり実践することはとても難しくなっています。それでも青葉小の教職員はとても努力しています。2年生の学年メンバーと協力し、私もその中の一人として実践に加わりました。

 

 2年生は春先から「町たんけん」という学習に取り組んでいました。しかし、この町たんけんは困難に直面していると感じていました。かつての青葉商店街は、町たんけんのメインの場所でしたが、商店が目立って少なくなり、学びの場所とするのは難しいのです。子どもたちにとってのくらしに関わる場所という面が少なくなっていました。

 さらに全校を上げて取り組んでいた学区内にある全生園という人権学習、自然学習の場が、コロナのために入園することができなくなったために、低学年からの継続した取り組みに困難が生まれていました。地域の中で子どもたちは育つのに、地域とつながる学習が成り立ちにくいということは、大きな問題です。

 

 からぼり川であそぶことの意味

 青葉小では2年生の9月の生活科学習の中に「からぼり川であそぶ」が計画されていました。しかし、学区の際(きわ)を流れる空堀川であそぶことを自分事にするという意味づけは曖昧なままだと思いました。子どもたちにとっての「町」(自分たちの住む地域、くらし)と言うものの捉え方の難しさがあるからです。そのためにも、「なぜ空堀川であそぶのか」を明らかにしながら、先ず授業する私たち教師の問題意識を問い直したいと考えました。

 

 学区の際を流れているためにこの川に関わることは普段はありません。「川あそび」もほとんどの子どもたちが未経験です。子どもだけでなく、大人たち(保護者も教員)も同じです。

 歴史的にみると、この地域一帯のくらしは、川と深いかかわりがあったことがわかります。秋津から恩多原一帯の地域(現在の青葉小学区)のかつての住民たちにとって、生活、農耕の暮らしには、川の存在は大きな関わりがありました。川幅の狭いかつての空堀川は、生活のための利水という反面、豪雨の際には何度となく氾濫をしてきました。災害となれば、否応なしに関わりが生じます。住民要求もあり、河川改修によって、空堀川はコンクリート3面になり、流域の樹木や草木は減少し、更に川幅が広がることによって直線的な流れになりました。結果として、この川は、流域からの湧水も少ないために、水が無い空堀状態が恒常化するようにもなっていました。

 

 上水の整備などもあり、住民の暮らしでも川の存在は自然と軽視されるようになります。

昭和30年代、40年代の高度経済成長、さらにこの流域の宅地開発などにより、多くの都市河川がそうであったように、川は荒れ、汚染が広がりました。湧水の少なかった空堀川は、生活排水、下水などの流入によって、他の河川と比べても汚染度が高くなり、一時期は、東京の河川の中でもワーストワンの汚染度になってしまいます。通常は水の流れのない空の状態の川であったことが汚染状況の改善につながらなかったのです。

 

 一方、「川が死んだ」などと言われた状況に対して、流域住民の中から川を蘇らせようという運動があちこちで起きました。みなさんの会もそうですね。その努力に敬意を持ちます。

 

 長い時間軸で川あそびをつくりたい

 私はかつて埼玉県朝霞市の現場教師だった時に「黒目川」での川あそび実践をつくったことがありました。空堀川での実践イメージにこの時の体験を生かしたいと思いました。

 それは、地域で川の浄化運動に取り組む方たちとつながりながら学びをつくるということです。黒目川実践には10数年という時間がかかりましたが、いまではそれは地域実践として定着しています。春夏秋冬、川遊びのひとたち(市民・子どもたち)が集う川なりました。

 

 空堀川でのあそびのことも、実践するにあたっては、このような時間軸を意識することが必要だと思いますが、学区職員の異動が短い期間で行われる現状ではなかなか難しいのです。

 けれど、子ども時代の体験のなかに、空堀川であそぶことを、タイムカプセルのように埋め込んで置く意味は、実は大きいのではないでしょうか。この川を甦らせようとする人たちがいることを知っておくことなど、子どもたちを「SDG‘s」の実践に気づかせる点で必要だと考えるからです。

 

 ひとびとの無関心が「川の死」を生んだのだから、様々な場面で「関心を持つ」機会を創らねばならないと思います。子どもたちは「あそぶ」体験をすることに意味があると考えます。川の歴史や課題など先々の学びの課題となるでしょうから。

 

 今回一つだけ、新たに提起したのは、保護者の方たちに空堀川でのあそびを受け止めてもらいたいと考えたことです。これは、大きくは子どもたちの育ちの根っこにつながることではないかと思います。子どもたちが懸命にあそぶ姿に触れる事を通して、学校と保護者の共同の視点を生み出すだろうと考えます。

 

 今回の授業実践は、迷いと戸惑いと共にありましたが、それでも、子どもたちの「川であそぶことは楽しい」という思いにつなげることができたと思います。これもひとえにご協力いただいたみなさんのおかげです。ありがとうございました。

 

   スター  スター  スター

(当日、平日午前中という時間帯であったにも関わらず、30人を超える保護者の方たちが。子どもたちの活動を、楽しそうに見守っていました。90人弱の子どもたちの学年です。)