一月初めに、東京都の多摩地区のある小学校に行って、リクエストに応えて、若い人たちと一緒に『モチモチの木』を授業教材として読みました。

(「国語」教科書の4社には、3年生教科書のすべてに斎藤隆介『モチモチの木』が掲載されています。光村…3月、東京書籍…11月、学校図書…11月、教育出版…11月。同じ教材が「国語」教科書全社に掲載されているのは、他には4年生の新見南吉『ごんぎつね』です。どちらも国民的物語教材とも言えます。)

 

昨日、akiraくんから、そこでぼくが話したことについて、質問も兼ねた連絡が来ました。

「参加したIくんが、迷っている」というのです。

「指導書には、豆太の年齢を五歳と書いてあるのに、指導書の縛りと違った展開をすることへの不安を感じています。」と。

 

そうなのか、それほど現場の人たちへの「教科書縛り」「指導書絶対」させようとする圧が強いんだろうな、そう思いました。ぼくがよく使うフレーズで言うならば、「学びを教科書にとじこめる」でしょうか。

ぼくも、しばらく現場に踏み込んだから、そのことには無頓着ではいられません。

しかし、教材本文自体から考え、授業者の教材研究を何より大事にしたい。

 

akiraくんからのLineには、指導書の資料も添付されていました。なるほどね。

指導書などを絶対視しないことこそ、教材研究では最も大事だと考えて話してきたので、もう少し丁寧に語っておく必要があると考えました。

教材を読むことの重視という意味を書いておきます。

 

さまざまな授業実践や教材研究を読んでみた時、ぼくには不思議なことがありました。

教材文を読むとき、教師として読む際に、子どもの学びのために読むことが重要な動機になっています。

しかし、その点からみると、指導書や実践記録には納得のいかないことがありました。

以下、そのことを書きます。

 

「もう五つにもなったのだから」

   ――これはどういうこと?

「モチモチの木」の語り出しを読んでください。

ぼくはこの部分の読み方に「誤解」があるのではないかと指摘してきました。(と言っても、「国語」の研究者でもないぼくが書いたことなど、たかが知れているのでしょうが。)

 

 おくびょう豆太

 

 まったく、豆太ほどおくびょうなやつはない。もう五つにもなったんだから、夜中に、一人でせっちんぐらいに行けたっていい。

 

「モチモチの木」を読むとき、この書き出しはとても重要だと考えます。

ここで示される豆太という人物像を、語り手はどう示しているか。じさまの心情の意味を探るうえでも、丁寧に検討したいと思います。

 

豆太を「おくびょう」と語っています。そして、それはじさまの気持ちとして語ります。

「五つにもなった」というのに「夜中に」「一人で」せっちんぐらい行けたっていい」というのです。

 

この物語の場所は、山奥の一軒家です。そこに住むじさまと豆太。おとうは死に、おかあもいません。孫の豆太はどれほどに可愛いことか。不憫でもあるし。

語り手はそこで地の文で「もう五つにもなったのに」と語るのです。あたかもじさまの気持ちに寄り添っています。

じさまからすれば、夜中であっても、一人でせっちんに行けるは当たり前だろう、そう語っているかのように読めます。

 

ここでの「五つ」(五歳)を、そのまま受け止めて読んでいくという指導書や実践に、ぼくは”おいおい”と思うのです。

この創作民話の『モチモチの木』の物語の時代においての「五つ」という観点が抜け落ちています。

 

しかし、それでいいのでしょうか。

まず「五つ」と書かれていますが、これは民話風の語りですから、年齢の数え方からすれば、この五歳は、数えの五つと考えるのが当然でしょう。

子どもたちにとって、「数えの五つ」ということは、説明をしなければ理解できないことです。

さまざまな実践記録、教科書の指導書を見ても、この<数えでの五つ>について述べたものを見たことがありません。(どこかにそのことについて触れたものがあれば、教えてください。)

 

「数えの五歳」と「満五歳」の違い

数えの年齢は、満年齢とは大きく違います。

数えの年齢では、誕生した日を一歳として、次の元旦の日に歳をとる、つまり二歳になるという数え方をします。だから、例えば十月に生まれた子は、二か月後には数えの二歳ということになります。満ならばまだ1歳にもならない2か月なのに。この数え方こそ昔の数え方(この物語の背景です)です。

数えの年齢と、満年齢とでは、おおむね1年の違いがあります。

だとすれば、「五つ」というのは「ほぼ四歳」と考えるべきであり、読者の子どもたちには丁寧な説明をして、年齢のイメージを訂正しなければなりません。

豆太の「五つ」は、満でいえば三歳から四歳ということになります。

 

そのことを押さえれば、「もう五つにもなったのだから」ということの押さえ方は、この「モチモチの木」を学習する(読む)(光村「国語」教科書三年生の一月の配当教材)子どもたちからすれば、多くの子が八歳(一部七歳)になっているのだから、実際の豆太ははるかに幼く、小さな子だということがイメージできます。

ましてや、物語で書かれるように父親も、母親もいない子どもだというのです。

 

けれど、指導書にも、様々な実践記録に描かれた豆太は「五歳」のままで解釈されて、スルーされています。

 

ぼくが実践した時のことは、ブログにも書いています。

「おくびょう豆太」という中見出しの背景にある、じさまの豆太への思いに複雑さに、もっと寄り添った音読こそ必要でしょう。字面にだけ引っぱられないじさまの思いも読むためです。

そのことが、後半の展開にもつながります。

じさまの病気のときに「勇気を出したこと」、でも「また元のおくびょうな豆太に戻ったこと」の、豆太のイメージとこの物語のテーマにも、深くつながるからです。

 

<かつての実践記録より>

子どもたちに、この部分を子どもたちに音読してもらいます、平板です。

語り手の語りですが、ここは「じさま」の気もちを読みとることができます。

 

「豆太ほど」「おくびょうなやつ」「まったく……ない」「もう五つにもなったのに」「一人で」「せっちんぐらい」「行けたっていい

こう並べてみると、なんと情けない子だというじさまの嘆きが見えてきます。

 

「じさまの気持ちを考えて読んでごらん」

こう呼びかけたとたん、読み方が一変しました。

しかし、そう憎々しげに読んでいいものでしょうか。じさまは豆太のことをそんなふうにホントに思っているのでしょうか。

 

豆太のことを考えてみよう

もう五つ」といいますが、ここは数え年なのです。つまり、四歳の子です。ここは子どもたちの中にはない知識なので、数え年というものを説明します。

実際は「まだ四つ」だと知ったら、「夜中に一人でせっちんに行け」という方が無理な話でしょう。

 

子どもたちの中には、家(小屋)の外にある「せっちん」のイメージはありません。

ぼくは友人の家のせっちん(便所)が家の外にあり、灯りもなかったという体験を持っていますから、そこを語ってあげます。

農家のせっちん(便所)は、大小便を肥料として利用するので、よくいえばオープン、早く言えばあけっぴろげでした。

高校生であったぼくでさえ、夜のせっちんは恐ろしいものでした。こちらは落っこちる危険がありましたしね。

 

こうしたぼくの体験話には子どもたちはすごく集中しました。

 

この後での読みは、豆太を突き放すような音読にはなりません。

二人の人物のそれぞれの気もち、さらに背景を知っていけば、音読がそんなに平板ですらっと行くはずはないのです。

 

さらに、じさまはただ嘆いているのではないでしょう。

このあとで述べられるように、豆太の育っている事情を思うと「かわいそうで、かわいかったのです。だから、ここにはじさまが豆太を愛おしく思っている気もちが込められます。

 

二人の人物のことを思って音読する

――これは難しいことのようですが、これこそが物語を読むオモシロサです。文章の字面を追うだけではなく、自らの中に二人の人物をとりこんで行くとき、自分にとっての「モチモチの木」が見えてきます。

 

思い出せば、実際にぼくの聴いた斎藤隆介さんの語りは、孫がかわいくてしょうがないというじさまそのもののようなものでした。

ぼくもその年だから隆介さんみたいに読めるかナ。

 

数えの五つ(実際はまだ四歳)だとしたら、夜中に(夜は灯りもない、獣の鳴き声だって聴こえる)屋外にあるせっちん(雪隠とは、トイレなどという代物とは大違いです。無頓着に「トイレ」などと解説することなどは、ぼくには違和感があります。濵口邦夫の*『便所掃除』をぜひ読んでみてください。下にあります。)に一人で行くなんて、無理だろうということは、子どもたちだってわかります。

 

 

深い解釈を子どもたちの読みを追求する

Iくんが持った「不安」は、実は学校現場を覆います。教材解釈を深めてオリジナルな授業をすることこそが必要なのに、「指導書」や「指導者」にのみ従うことが求められます。

(以前に、『スイミー』の授業を絵本を使って進めたHくんが、「何やってんの!指導書のどこにそんなやり方するのッ」と、学年主任から叱られたということもありました。これもまた愚かしいことで、同じことでしょう。)

 

未熟さがあっても、子どもと向き合う教師の真剣さこそが必要であり、そこから深い学びが生まれ出ます。

もちろん不充分さ、力のなさはあっても、誠実に教材と子どもたちに向き合います。

それらの実践と思索を書きましょう。独りよがりにならないために。

こういう文章も読んでください。

物語を学ぶのであり、指導書にそって、可もなく不可もなく、破綻もない授業をしていくことではないいんです。

 

「五つ」か、「4歳」かという解釈、このことで他の方から意見をもらえたら、うれしいなあ。