便所掃除    
       浜口国雄
  扉をあけます。
  頭のしんまでくさくなります。
  まともに見ることが出来ません。
  神経までしびれる悲しいよごしかたです。
  澄んだ夜明けの空気もくさくします。
  掃除がいっぺんにいやになります。
  むかつくようなババ糞がかけてあります。

  どうして落着いてくれないのでしょう。
  けつの穴でも曲っているのでしょう。
  それともよっぽどあわてたのでしょう。
  おこったところで美しくなりません。
  美しくするのが僕らの務です。
  美しい世の中もこんな所から出発するのでしょう。

  くちびるを噛みしめ、戸のさんに足をかけます。
  静かに水を流します。
  ババ糞に、おそるおそる箒をあてます。
  ポトン、ポトン、便壺に落ちます。
  ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。
  心臓、爪の先までくさくします。
  落すたびに糞がはね上って弱ります。

  かわいた糞はなかなかとれません。
  たわしに砂をつけます。
  手を突き入れて磨きます。
  汚水が顔にかかります。
  くちびるにもつきます。
  そんなことにかまっていられません。
  ゴリゴリ美しくするのが目的です。
  その手でエロ文、ぬりつけた糞も落します。

  朝風が壺から顔をなぜ上げます。
  心も糞になれて来ます。
  水を流します。
  心に、しみた臭みを流すほど、流します。
  雑巾でふきます。
  キンカクシのウラまで丁寧にふきます。
  社会悪をふきとる思いで、力いっぱいふきます。

  もう一度水をかけます。
  雑巾で仕上げをいたします。
  クレゾール液をまきます。
  白い乳液から新鮮な一瞬が流れます。
  静かな、うれしい気持ですわってみます。
  朝の光が便器に反射します。
  クレゾール液が、糞壺の中から、七色の光で照します。

  便所を美しくする娘は、
  美しい子供をうむ、といった母を思い出します。
  僕は男です。
  美しい妻に会えるかも知れません。



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真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)は、1966年10月に第1刷という奥付にあります。ぼくがこの本を手にしたのは、69年大学生になったときだったような気がします。そのころは学生は「岩波新書」を読むことが“常識”でした。

この『詩の中にめざめる日本』には、84人の詩人の詩が紹介されています。
それらはほとんどが名も無い民衆の詩であり、真壁仁による丁寧な注釈が付されています。
山田今次『あめ』、森春樹『指』、大関松三郎『虫けら』、竹本源治『戦死せる教え児よ』、村井安子『チューインガム一つ』などはこの詩集で知りました。

この新書本のなかで、最も衝撃的だったのは、浜口国雄『便所掃除』でした。

浜口は国鉄労働者。文章など書いたこともなかったといいます。
その浜口は、戦後の労働者たちが生活を綴る運動に関わる中で、実体験に基づく詩を書きました。

「トイレの神さま」という曲が少し前に流行りましたが、そこでほんわか歌われていたこととは、まったく違う詩の世界です。
圧倒的なリアルさ。トイレなどではありません。往時の公共の場所にある「便所」はまさにこの通りでした。

「詩とは美しいことばで書かれるものだ」という方には、信じられない表現世界です。
けれど、この詩の「美しさ」は際立っています。

かつて6年生の子どもたちと「便所掃除」を読んだことがあります。子どもたちにとっては衝撃的な出会いとなりました。

その時子どもたちに紹介したのが茨木のり子さんの文章でした。「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)には茨木さんのやわらかな、ふかい解説があります。

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(以下「詩のこころを読む」の引用より)

 便所掃除が詩になるなんて、西洋の詩神が知ったら腰をぬかすでしょう。そういう意味からも、この詩はきわめて斬新、前衛的、堂々として、詩であります。いろんなアンソロジー(詞華集)にも入っていますから、たくさんの人に愛され、今まで残ってきたことがわかります。

 「どうぞこの人に、姿かたちも気立ても美しい、人もうらやむ楚々とした新妻が表れますように……でなかったら、怒っちゃうから、もう」はじめて読んだとき、そういう祈りが心の底から湧いてきたのでした。


 詩の全体は手仕事の順番を追って、無駄なく見たまま、やったままを、一つ一つ自分で確かめるような形で書かれています。「です、ます調」で書いたのも一区切りずつの労働のリズムを伝えて、よく生きています。けれどこの詩が、

 社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます

あるいは、
 
 クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします

のところで終わっていたとしたら、読んでまもなくわすれてしまい、今に至るまでこんなに強烈に覚えてはいないでしょう。詩ではないと思ったかもしれません。
 そうです、「便所掃除」を詩たらしめたものは終りの四行なのです。ここへきて飛躍的にパッと別の次元へ飛びたっています。飛行機にたとえていうと、一つ一つの労働描写のつみかさねは、じりじり滑走路をすべっている状態で、だんだん速度をはやめ、或るとき、ふわっと離陸した瞬間が終りの四行なのです。


 いつも思うのですが、言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえません。じりじりと滑走路をすべっただけでおしまい、という詩でない詩が、この世にはなんと多いのでしょう。

 第一行で、すでに中空高く舞い上がり、行方もしれずになりにけり、という本格派もあり、今まであげてきた詩からも、いくつも探しだせるでしょう。詩歌を志す人は、大半の努力を第一行で舞いあがることに注いでいるようにも思われるのです。そこが散文と違うところで、重装備でじりじり地を這い、登山するのが散文なら、地を蹴り宙を飛行するのが詩ともいえます。「便所掃除」は散文的な言葉のつみかさねからおしまいに、もののみごとに飛翔し、誰の目にもあきらかな離陸をやってのけているので、よい参考になります。

 便所を美しく娘は
 美しい子供をうむ といった母を思い出します。
 僕は男です。 
 美しい妻に会えるかもしれません。


 大きなひろがりを持った男らしい詠唱(アリア)です。
 けれどこの終連がどんなによいからといって、もしこれだけだったとしたら、感銘はうすいでしょう。前半の物に即した描写がしっかりしていたからこそ、この部分が生きたのです。

 そして、汚いものでも十分詩になり、詩語という特別なものは何もなく、ふだんの言葉が昇格するだけで、詩の美しさは結局それを書いた人間が上等かどうかが、極秘の鍵をにぎっているらしい……そんなこともいろいろ教えられます。

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「便所掃除」をよむと、作者の正義感と初々しさが、ぼくのようなオジサンのこころも熱くします。
茨木のり子さんのことばも、やさしくしみます。

(№973の記事)