原作絵本を使って授業をすることの意味については、
「『学校メガネ』をはずしてみたら」
2019年1月号
考えることを止めたら、かしこさを失うのだ
霜村 三二
『スイミー』は絵本を使って
『教育』2018年5月号特集に『スイミー』が取りあげられ、ぼくは我が意を得たりと読みました。特集のなかで、児童文学研究者の宮川健郎さんが、『スイミー』学習に原作絵本を使うことを勧めます。
ぼくは自分の授業でも、同じ主張をしてきたので、得意になって周りの人に「原作絵本を使った授業をしよう」と呼びかけました。(ブログ「さんにゴリラのらぶれたあ」ではシリーズで実践を紹介しています)
「ボーッと生きてんじゃねえよ!!」
ぼくの、この主張に「なるほど!」と納得した小学校教員2年目ミノルくんが、絵本を使って『スイミー』学習に取り組みました。そして、「めっちゃ、子どもたちが集中して、楽しく学びあいました!」と報告してくれました。
しかし、表情が晴れません。聞いてみると、学年主任にはひどく怒られたといいます。ナンデ?学年主任言うに「教科書の指導書に絵本を使うなんて書いてないでしょ!」だって。開いた口が塞がりません。周りでこの話を聞いていた若い人たちは、自分たちも「指導書絶対」という指導の押しつけを受けているので、「そうだよねえ、絵本使うなんて許されないかもね…」と諦めの声を発します。
チコちゃんじゃないけれど、ぼくはその指導的なベテランたちに怒ります。
「ボーッと生きてんじゃねえよ!!」
『スイミー』の絵本を手にとって見てください。作者のレオ=レオニはイラストレイターなので、『スイミー』は絵とことばを一体として表現する絵の本として出版しました。だから表紙も含め16場面の絵とその場面に添えられたことばが『スイミー』の世界です。
一方、教科書(光村版)では5場面の絵(挿し絵という役割)しかありません。つまり、『スイミー』をことばのみで読むというかなり歪な(こういう過激なことをいうから怒られる…)学びになります。
かしこさはどっちだ!?
ミノルくんが、「子どもたちはかしこいです、スイミーみたいに」と語ったときに、ぼくはすごいと思いました。
教科書では省かれている表紙のタイトルがあります。絵本には次のようにあります。
「スイミー ―ちいさな かしこい さかなの はなし―」と。
そこに書かれている『スイミー』の副題にアプローチしたミノルくんのクラスの子どもたちを褒めたい。
例えばこの場面。絵本を使って学んだからこそ子どもたちはスイミーのかしこさに気づきます。
「おそろしいまぐろ」が「ミサイルみたいにつっこんできた」結果、赤い魚たちは一匹残らず飲み込まれます。「にげたのはスイミーだけ」。
では「どうしてスイミーだけがにげられたのか」―それを考え合います。本文にはこうありました。
「およぐのはだれよりもはやかった。」
教科書のことばだけで学習している子どもたちなら、このことばを根拠にしてしまいます。「はやくおよいだから」と。
けれど、絵本を見ると…なんと、この時のスイミーは、一匹だけ赤い魚たちとは別方向に逃げているのです。そのことを子どもたちは発見します。考えれば、当然です。ミサイルみたいな(!)速さで突っ込んできたまぐろから、いかに速く泳ぐスイミーでも逃げ切れるはずがありません。1匹だけ、みんなとは違う深い海の方に逃げたことがスイミーの命を守ったのです。
これこそがスイミーのかしこさの現れです。スイミーのかしこさはこの後も絵やことばで描かれますが、教科書のみの学習では、ことばにのみ限定することで見逃すのです。若いミノル先生と子どもたちは、それを絵とことばを一体に学ぶことによって、気づいていきました。それは、まさにスイミーがかしこさを獲得して行ったようです。
ぼくは、この指導に当たった教員の教材観の貧しさの背景に「教科書・指導書」絶対という捉われを見ました。
ベテラン・指導的立場という地位に胡座をかくとき、誰もが本当のことを見失う怖さ。何のために『スイミー』を読むの?教科書あるからなんて答えてるようじゃ、またまたチコちゃんに叱られるよね。『皇帝の新しい着物』(「裸の王様」です)と全く同じ。かしこくないねえ。
「スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。」(本文より)考えることこそかしこさの根っこにあります。スイミーや子どもに学びたい。
(参考までに)
「スイミー」という題名の下に副題があります。教科書にはないことばです。
「ちいさな かしこい さかなの はなし」
ほら、絵を見ると一目瞭然でしょう。スイミーだけが海の底の方に逃げています。