ブログに連載している『スイミー』シリーズでも、『スーホの白い馬』シリーズでも、原作絵本を活用しようと呼びかけてきました。そして、その実践も当ブログに綴ってきました。
 

原作絵本を使って授業をすることの意味については、

①そもそも絵本として創作された経緯から、
②「国語」の「読解」授業が、文(のみ)を読むことに偏していることをただすことから
と主張しています。
 
教材を学ぶことを「教科書に閉じこめる」必要はないと言うことです。
 
「スイミー」の場合は今も教科書のイラストはレオ・レオニ自身のもが使われています。ただし極めて限定して枚数も少なく。
「スーホの白い馬」の場合は、光村教科書の絵は原作者の赤羽末吉氏の絵ではなく、リー・リシアンの描いたものに数年前から変更されています。
 
こういう事情のもとでは、「教科書信仰」ともいうべきものが蔓延る学校教育の場で、原則絵本を使うことの「躊躇」があります。
(実際に新任教師のミノルくんは、原作絵本「スイミー」を使った授業を行ったところ、指導教員に叱られています。「指導書にないことはするんじゃない!」と。)
 
そのエピソードを『教育』誌のコラム「『学校メガネ』をはずしてみたら」に書きました。
 

「『学校メガネ』をはずしてみたら」

2019年1月号

 

考えることを止めたら、かしこさを失うのだ

      霜村 三二

 

『スイミー』は絵本を使って

 『教育』2018年5月号特集に『スイミー』が取りあげられ、ぼくは我が意を得たりと読みました。特集のなかで、児童文学研究者の宮川健郎さんが、『スイミー』学習に原作絵本を使うことを勧めます。

 ぼくは自分の授業でも、同じ主張をしてきたので、得意になって周りの人に「原作絵本を使った授業をしよう」と呼びかけました。(ブログ「さんにゴリラのらぶれたあ」ではシリーズで実践を紹介しています)

 

「ボーッと生きてんじゃねえよ!!」

ぼくの、この主張に「なるほど!」と納得した小学校教員2年目ミノルくんが、絵本を使って『スイミー』学習に取り組みました。そして、「めっちゃ、子どもたちが集中して、楽しく学びあいました!」と報告してくれました。

しかし、表情が晴れません。聞いてみると、学年主任にはひどく怒られたといいます。ナンデ?学年主任言うに「教科書の指導書に絵本を使うなんて書いてないでしょ!」だって。開いた口が塞がりません。周りでこの話を聞いていた若い人たちは、自分たちも「指導書絶対」という指導の押しつけを受けているので、「そうだよねえ、絵本使うなんて許されないかもね…」と諦めの声を発します。

チコちゃんじゃないけれど、ぼくはその指導的なベテランたちに怒ります。

「ボーッと生きてんじゃねえよ!!」

 『スイミー』の絵本を手にとって見てください。作者のレオ=レオニはイラストレイターなので、『スイミー』は絵とことばを一体として表現する絵の本として出版しました。だから表紙も含め16場面の絵とその場面に添えられたことばが『スイミー』の世界です。

一方、教科書(光村版)では5場面の絵(挿し絵という役割)しかありません。つまり、『スイミー』をことばのみで読むというかなり歪な(こういう過激なことをいうから怒られる…)学びになります。

 

かしこさはどっちだ!?

ミノルくんが、「子どもたちはかしこいです、スイミーみたいに」と語ったときに、ぼくはすごいと思いました。

教科書では省かれている表紙のタイトルがあります。絵本には次のようにあります。

「スイミー ―ちいさな かしこい さかなの はなし―」と。

そこに書かれている『スイミー』の副題にアプローチしたミノルくんのクラスの子どもたちを褒めたい。

例えばこの場面。絵本を使って学んだからこそ子どもたちはスイミーのかしこさに気づきます。

「おそろしいまぐろ」が「ミサイルみたいにつっこんできた」結果、赤い魚たちは一匹残らず飲み込まれます。「にげたのはスイミーだけ」。

では「どうしてスイミーだけがにげられたのか」―それを考え合います。本文にはこうありました。

「およぐのはだれよりもはやかった。」

教科書のことばだけで学習している子どもたちなら、このことばを根拠にしてしまいます。「はやくおよいだから」と。

けれど、絵本を見ると…なんと、この時のスイミーは、一匹だけ赤い魚たちとは別方向に逃げているのです。そのことを子どもたちは発見します。考えれば、当然です。ミサイルみたいな(!)速さで突っ込んできたまぐろから、いかに速く泳ぐスイミーでも逃げ切れるはずがありません。1匹だけ、みんなとは違う深い海の方に逃げたことがスイミーの命を守ったのです。

これこそがスイミーのかしこさの現れです。スイミーのかしこさはこの後も絵やことばで描かれますが、教科書のみの学習では、ことばにのみ限定することで見逃すのです。若いミノル先生と子どもたちは、それを絵とことばを一体に学ぶことによって、気づいていきました。それは、まさにスイミーがかしこさを獲得して行ったようです。

ぼくは、この指導に当たった教員の教材観の貧しさの背景に「教科書・指導書」絶対という捉われを見ました。

ベテラン・指導的立場という地位に胡座をかくとき、誰もが本当のことを見失う怖さ。何のために『スイミー』を読むの?教科書あるからなんて答えてるようじゃ、またまたチコちゃんに叱られるよね。『皇帝の新しい着物』(「裸の王様」です)と全く同じ。かしこくないねえ。

「スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。」(本文より)考えることこそかしこさの根っこにあります。スイミーや子どもに学びたい。

(参考までに)

「スイミー」という題名の下に副題があります。教科書にはないことばです。

「ちいさな かしこい さかなの はなし」

ほら、絵を見ると一目瞭然でしょう。スイミーだけが海の底の方に逃げています。

 

『スイミー』でさえこうなのだから、今は絵の変わった『スーホの白い馬』の原作絵本を使うなど、より強烈な指導にあう可能性があります。情けないほどの硬直性。
 
では教科書はどう扱うか
全員に絵本が手渡せればよいのですが(ぼくの勤めていた地域の図書館では「集団借しだし」制度があり、全員に絵本を持たせることは可能でしたが、これは例外ですね)、どうしても教科書を使わざるをえません。
それなら教科書は使えばいい。こちらまで硬直した姿勢で向かうことはありません。
 
ただ、「絵を読む」活動も入れます。これは黒板前に一冊の絵本を掲げ、文字で読む場面の絵をそこに示しておけばいいのです。ことばと共に絵を読みます。
場面ごとにことばをタンテイするだけでなく、絵もタンテイします。
あらたなぼくのキャッチコピーです。「物語を教科書にとじこめない!」
原作絵本がある場合にはという限定つきですが。
 「スイミー」もね。