「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」 (2) | 産経新聞を応援する会

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(略)
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。
対するスペイン総督府にしてみると、これはきわめて腹立たしいことだけれど、すでに無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。悔しいけれど、放置するしかない。
すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはルソンのスペイン総督府です。
日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、東亜最大の政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。
しかも、海を渡った朝鮮出兵ということは、いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。
さらにスペイン総督府は、同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈物も持参している。
いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。
けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。
スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ、というのです。
そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ、というのです。
この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買うことがわかって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
けれどおそらくこれは後者ではないかと私は見ています。
さて、コポスの遭難のおかげで、秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。
文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこのとき、たまたま在マニラの支那人約2000人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。
スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、またたく間に支那兵を殲滅してしまいます。
日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。
けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。
ゴメスは、なんとか時間をかせごうとします。
そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返す中で、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。
名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
けれど、秀吉は聞く耳を持たない。
ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。  (3)へ