「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」 | 産経新聞を応援する会

産経新聞を応援する会

庶民万民を宝とされ「おほみたから」と呼ばれた皇室は日本のみ 陛下のもとに全ての国民は対等 法の下に対等です 人権は尊重されて当然ですが利権ではありません 産経新聞の応援を通して日本を普通の国にしよう


ねずさんのひとりごとより抜粋
--記事を抜粋--
最近の韓国で、もっとも嫌われている日本の人物の代表といえば、豊臣秀吉があげられます。
理由は、文禄、慶長の役(ぶんろく、けいちょうのえき)で朝鮮半島に攻め込んだからなのだそうです。
一方、この出兵に際し、日本と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。
彼らの言い分によると、李舜臣の戦いによって、日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれた日本は、半島からの敗退を余儀なくされたからなのだそうです。
まあ、韓国人にとっては歴史はファンタジーですから、そう「思い込みたい」気持ちもわからないでもありません。
けれど、事実関係はまるで異なります。
李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退しています。
また、慶長3(1598)年)年11月18日の露梁海戦(ろりょうかいせん)では、明国と朝鮮の連合軍の指揮を執りながら、日本軍の圧倒的な戦力の前に、戦死しています。
李舜臣によって、日本が海上補給路を断たれたという事実は、どこにもないのです。
そもそも、秀吉の朝鮮出兵についても、誤解と偏見がまかりとおっています。
戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、そもそも秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行なわれたか」について、きちんと踏み込んで書いているものはたいへん少ない。

おおかたは、秀吉の朝鮮出兵は、

 

◆秀吉が耄碌していたために起こした戦いだった、
◆秀吉の成長主義がひき起した身勝手な朝鮮征服の戦いであった、
◆戦いを好む戦国武士団を朝鮮、支那に追い払い殺して数を減らすための戦いだった


などと、ほとんど意味不明の解説がなされているようです。
まさに、木を見て森を見ず、です。
そもそも、仮に秀吉が耄碌爺であったとしても、当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
耄碌ジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。
秀吉の成長志向が招いたという解説にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強かった体制であり、領地がもらえなくても、それぞれの大名は、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて、戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。
では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ない、世の大名たちも、これに追従したのかが問題となります。
実は、このことを考えるには、日本国内だけの事情をいくら考えても答えはでてきません。
そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、そして朝鮮出兵をするに至った背景には何があったのか。
実はそこには、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国の内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。
(略)
この時代、世界全体を見渡せば、まさにスペイン国王が、世界を制した時代です。
世界の8割は、スペインの植民地となっていました。
そのスペインは、東亜地域では、ルソン(いまのフィリピン)に、東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を置いていました。
そして信長、秀吉の時代、スペインによってまだ征服されていなかったのは、東亜では、明国と日本だけとなっていたのです。
そのスペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことです。
日本では、宣教師のフランシスコザビエルの来日として歴史に記録されています。
当時のスペイン宣教師というのは、表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を持つ、僧兵軍団です。
実際のキリスト教の伝導とは異なり、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言って改宗させ、頃合いを見計らって、軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、ひいては植民地占領をしていたのです。
(略)
ところが唯一、日本が他の国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまにコピーし、それを量産してしまったことです。
気がつけば、日本の鉄砲所持数は、なんと、世界全体の半数を占める莫大な数になってしまいました。
宣教師たちも、さすがにこれには驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書にも、このことについては明確な記述があります。

 

 

スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。
よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。


(略)
彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、単純に、鉄砲の数が圧倒的で、とても軍事力で日本には敵わない、ということです。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」というのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。
一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。
ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。

さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。
ところが日本には、まるでそんなことに関心がない。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、一日も早く戦乱の世を終わらせることに尽きた。
だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第にあきらかにされてきています。
このことは秀吉も同様で、なぜ秀吉が人気があったかといえば、百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。
戦乱によって農地が荒されることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんとわかってくれている人物だったからこそ、秀吉人気はあったのです。
要するに、当時の日本の施政者にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもない。
ところが、日本が秀吉によって統一され、なんとかその治安と太平を回復すると、今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。
どういうことかというと、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやってきます。
スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。
従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。
ところが、スペインが明国を植民地として支配下におさめると、様子が違ってきます。
いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、スペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになる。
元寇の再来です。
これは驚異です。
となれば、その驚異を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができる。
(略)
さらにいえば、秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性は、まずありません。
一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。
これはつまり、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時にこのことは、もし日本が他国侵逼の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。
ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
これは我が国の安全保障上、必要なこと
、であったわけです。  (2)へ