毛沢東の文革大虐殺8 | 産経新聞を応援する会

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宋永毅編『毛沢東の文革大虐殺』177頁以下



湖南省・道県 農村大虐殺----------------------------犠牲者4519

(後編)



橋頭郷橋頭村の周文棟とその妻・陳蓮娥とふたりの息子・周輝の3は芋掘りをしている最中に、とつぜん公社の周生産隊長ら10数人に取り押さえられて、穴倉に押し込められ火のついた稲藁を投げ込まれ焼き殺された。その後、周生産隊長らは焼き殺した周文棟には他に二人の子供がいたことを思い出し、部下に連れて来るように命令した。お母さんが待っているよと告げられた姉の8歳の周大妹は弟を負ぶって付いてきた。待ちかねていた周隊長は二人をまだ燻っている穴倉に投げ入れた

無残にも一家五人が生きたまま焼き殺されたのである



 周隊長らはその足で、殺された周文棟の家に行き、飼われていた豚、鶏、鴨を料理して食べつくし残った食料を持ち帰り皆に分配した



 虐殺された周文棟元人民解放軍の兵士で教師をしていたが、1957年の「反右派闘争」の時、「しばしば提言をした」ために右派のレッテルを貼られ、教師を解任され、村で農業に従事していた。




*或る男は貧農の子、女は地主の子、ふたりは縁があって結婚し、中睦まじく暮らしていた。しかし、文革の嵐のなかで、夫は公社の民兵として働いていた。ところが、妻は実家に帰っている時、元地主の父親家族は捕まえられ彼女も一緒に捕まえられた夫は妻が縛られているのに助けもせず、あろうことか妻の殺害には率先して手を下した




*唐長鳳という老婦人1人手で子供4人を育てたが、3人の息子と4人の孫がすでに殺され、いよいよ自分もある日処刑場に連行されていた

終点の少し手前で唐長鳳のスボンの紐が切れてしまいズボンがずり落ちて

しまい、下半身が丸見えになった。彼女は本能的に思わず声を上げ、股を閉じ、その場に座り込んだが、両腕は後ろに縛られており如何することも出来ずに、民兵に、私はあなたのお婆さんかお母さんと同じくらいの年だが、後生だからズボンを上げさせておくれ、閻魔様に裸で会うなんてさせないでおくれと、これ以上の哀れさはない表情で懇願したが、民兵は、毛主席は、革命は人をお客さま扱いすることではないと仰っていると、せせら笑った



*文革では殺害の下手人は報酬が貰えた。額は人民公社の懐具合でまちまちであったが、1人を殺害すると現金2,3穀物5キロくらいだった。


それ目当てに、地元では鼻つまみのゴロツキが志願することもあった。





*寧遠県における殺人の特徴は、一家ごと殺し、しかも皆殺しにして後腐れないようにするということだった。

県全体では1092人が殺害され、全国2番目の多さだった。




*1985年に或る殺害犯人にその動機を尋ねたら、よどみなくスラスラと答えた。

 「あいつらは我々を搾取した階級だ、敵だ。」

 「あいつらの子供たちだって搾取に加わったではないか」

 「人は生きている限り性懲りもなく早晩同じ事をくりかえすものだ。

 毛主席の言葉に間違いがあるはずはない

 「上から殺せと言われたから殺した。

 今だって上からの命令があれば殺すだろう(終わり)