大日本帝國憲法入門
  • 13Jan
    • 第2章 偏見(経験)(12) 〜 「自由(権)」総論 〜 (1)

      (1)自由(権)の概念 自由(権)とは多義的な概念である。憲法学に於いては、一般的には自由権とは、「政府からその対象とされた事柄について、干渉や妨害などをされないこと」と定義される。(*なお、以下に於いては「自由」と「自由権」について特に区別することはしない。両者を区別する必要が生じた場合は、改めて書き分ける。) 人はそれぞれ、異なる能力や性格、気質などを有している。生まれ、育まれて一人前となっていくのが、初めは家族、やがては学校や地域などの「社会」であっても、人は決して、それぞれの「社会」に於いて同質の人に育つわけではない。 確かに、特に家族などの「社会」に於いては、それが血統上に於いて同質の集団であることから、その同質性は他の「社会」よりも高いといえるが、それでも、家族もそれぞれ、その性格や気質などは若干の異なりを見せるのであって、全く同じというわけではない。(*ここで、このシリーズに於いて用いる「社会」の概念について解説しておく。ここでいう「社会」とは、「中間社会」を意味する。すなわち、國家の中にあって、個人を取り巻く諸々の集団の全てをいう。具体的には、家族、学校、地域社会、会社、所属する団体、身分などのことである。つまり、國家が個人の集合体であるとして、國家と個人の中間に存在するあらゆる集合体のことを「社会」という。)                      <國家>                         政府(中央・地方)                             ↓ ↑                                社会(*家族、地域、学校、会社、所属団体など)                            ↓ ↑                            個人  このようにして人はそれぞれ、有している能力や性格、気質などは異なるのである。そして、その異なる能力や気質などに応じて様々な活動に励み、ひいてはそれは國家の為になっていく。自由な競争は國民の間に勤勉と節制の精神を育んでいく。勤勉と節制をその生命とする國家ほど、強大な國家はない。 國民のそれぞれが有する多様な能力や気質は、すなわち國家の底力、國力である。國力とは、國民のそれぞれが己の能力を存分に発揮し、自由な競争を行うことによって増大する。自由な競争の行われないところには、怠惰と無気力が蔓延し、國力は低下し、ともすれば國家は滅亡の危機に至る。 自由とは、何かの為の手段ではない。自由とはそれ自体が最大にして最高の目的である。実に、自由な競争こそは國家の生命であり、自由こそは國民にとって、國家にとって至上の最高価値である。 勤勉と節制などの美徳は自由な競争によって育まれる。自由のないところに勤勉や節制はなく、自由のないところには怠惰と無気力、怯懦と頽廃が蔓延する。自由こそは、あらゆる美徳の母である。 このように、國民がそれぞれの能力を存分に発揮する為には、政府は國民の思想や振る舞いなど、その内心や行為のいずれにも、極力介入してはならない。このような介入は、政府が國家の力を毀損するのに等しいのだから。 従って、政府の役割(政治)とは、國民にその自由を最大限に享受させることである、といえる。つまり、政府の役割(政治)とは、國防と治安維持を任務とし、他は付随的で例外的なものとして、極度に限定されるべきなのである。 かようにして、「自由(権)」は、凡ゆる価値の中でも至上のものとして、その保障が徹底されねばならないこととなる。自由とは、物心両面で個人の生活を豊かにするのみならず、社会をも豊かにし、美徳の源泉ともなり、國家の生命そのものである。 (2)自由(権)の限界 かかる枢要な価値を有する自由権ではあるが、しかしながら、その保障に何らの限界もない、というわけではもちろんない。(1)に述べた「自由(権)」の趣旨に鑑みれば、自由とは放埓や恣意とは異なる、どころか、全く相反するものである。 自由とは、その起点に於いては社会でもなく、國家でもなく、個人に発するものであるが、個人が己の能力を存分に発揮し、その結果として己一人の為のみならず、ひいては社会や國家の為にもなっていくことを保障するものである。従って、己の為にも、社会や國家の為にもならないような振る舞いは、「自由」として保障されるものの範疇の外にあるのである。 すなわち、「自由(権)」の限界とは、個人、社会、國家、の何れかに対して害悪となる場合のことである。それは具体的にどのような場合のことなのだろうか。 まず、ここで想起せねばならないことがある。それは、「個人の人格」もまた、國家や社会に育まれた結果の産物である、ということであり、このようなものと無関係に人格を形成した者などいない、ということである。 いかなる天才といえども、その初期の教育は家族という「社会」に於いて行われる。やがてその場は地域や学校などへと移行する。 國家とは、単なる個人の集合体ではない。個人を育む家族などの無数の「社会」の集合体であり、なおかつ、現在に生きている人々のみならず、過去に生きていた人々(父祖)からの相続である。そしてまた、未だこの世にいない、これから生を受ける者ら(子孫)の継承すべきものでもある。 すなわち、自由とはその性質上、起点を個人に発するものではあるが、その個人を育むのは社会であり、ひいては社会の集合体たる國家である。従って、自由を抽象的に個人のみに属するものと把握することはできず、個人を生み出す母体たる社会や國家を前提に考えねばならないのである。 つまり、自由とはその存在を、社会や國家を前提に認められるものである。社会や國家を離れては凡そ、自由というものは成り立たない。社会や國家を無視した「自由」とは、それ自体が背理である。では、社会や國家を前提とした「自由」とは、いかなるものなのだろうか。 ここで再度、社会(家族、地域、学校、会社、所属する団体など)とその集合体たる國家とは、現時に於いて生存している人々のみで構成されているわけではないことを想起せねばならない。國家とは(そしてそれを構成している社会もまた)、父祖から現在生きている我々へと相続されたものであって、現在生きている我々は、これを子孫へと継承する義務を負っているのである。 従って、「國民」という概念もまた、単に現在生きている我々のみならず、父祖(過去の國民)と子孫(未来の國民)をも合わせたものなのである。従って、自由の限界もまた、この点を考慮したものでなければならない。この点は、後ほどまた解説する。

  • 12Nov
    • 第2章 偏見(経験)(11)日本人とは何か 〜 「血統の相続(世襲)」の法理 〜

      憲法学概説 第2章 偏見(経験)(11)日本人とは何かさて、これまで述べてきたことを敷衍し、まとめる意味も兼ねて、「そもそも日本人とは何か」についてごく簡単ではあるが、述べてみたい。すなわち、「日本人とはどのような人々のことなのか」「日本人の定義」について述べるのである。我が國は世界に於いて独自の國體を有するものではあるが、そうであっても、他国との何らかの関わりは、我が國もまた国際社会の一員たる以上は避けられないことである。諸国の間に伍し、この独立を保持していくには、「日本人とは何か」についての憲法学からの考究が不可欠である。以下、日本人とは何か、について簡略かつ明快に論じていきたい。ご一読をお願い申し上げます。(1)國家の三要素我が國は、数千年の歴史を有する世界最古の國家である。万世一系の皇室を戴く天壌無窮の國體については、これまで何度も随所で触れてきたので、ここで詳述することは控えたい。そして、國民という概念もまた、我が國のそのような性質に鑑みれば、現在生存している國民のみならず、過去の國民(父祖)、そしてこれから生まれ出ずる将来の國民(子孫)をも含むのである。すなわち、國民とは、父祖から現在、そして子孫に至る、過去、現在、未来の國民である。かつて我々の父祖はこの日本という國に於いて、各々その働きをなし、日本國を形成し発展させる一翼を担ってきた。我々の父祖は、天皇を中心として皇族、公家、武士、平民らが各々その分を守りつつ、有名無名に一切関わりなく、意図するや否やに関わりなく、我が國の形成を担い、道徳や慣習、伝統などの生成に寄与してきたのである。かくして、國民とは現在の國民のみならず、父祖と子孫を含むものであり、國家とは①國土、②過去、現在、未来の國民、③父祖から相続してきた道徳や慣習、伝統などの三要素の総体を表すものと定義できるのである。(2)血統の相続(世襲)の法理さて、現在に生きる我々もまた、日本人の一員として、その役割の大小はあれ、この悠遠なる営みに参加している。我々は父祖よりこの日本國を相続し、この悠遠なる営みに参加し、これを子孫へと継承する。父祖から相続した道徳や慣習、伝統などは、我々が日本人たる所以である。我々はこれを相続し、子孫へと継承するのである。父祖から相続したものは、これにとどまらず、國土も含まれる。このように考えてくると、國家とは父祖から相続したものであって、現在の我々はこれを子孫へと継承する責務を負うものである、ということが理解できよう。従って、日本国を相続し得る者(日本人)とは、父祖が日本人たる者に限定される、といえる。何故ならば、日本國がかかる歴史的な連続性を有する國家である以上、それを相続し得る資格を有するのは、必然的にその子孫に限定されるからである。全くの別の民族が、いきなり日本人たる資格を相続することはできない。これを、血統の相続(世襲)の法理と呼ぼう。すなわち、日本人とは、父祖が日本人たる者のことであり、つまり、父祖より日本人たる血統を相続した者のことである、と定義できるのである。(3)結語今回は非常に簡略に過ぎるとのご意見もあろうと思いつつも、「日本人とは何か」を端的かつ直截に述べてみたが、これは保守思想憲法学の観点から必然的に導き出される結論である。日本人とは、父祖より日本人たる血統を相続(世襲)した者のことであり、それ以上でもそれ以下でもない。相続(世襲)こそは、保守思想の最重要の要素であり、我々の脆弱な理性の及ばないものである。1、國民とは、現在の我々のみならず、過去(父祖)と将来(子孫)の國民をも含むものである。2、國家とは、①1、の國民、②父祖より相続(世襲)した國土、③父祖より相続(世襲)した道徳や慣習、伝統など、の三要素から成る。3、日本人とは、日本人たる血統を父祖より相続(世襲)した者のことである。このテーマについては、今後も引き続き採り上げていく。

  • 24Aug
    • 統治権と主権 〜 ご質問にお答え致します 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。政治 ブログランキングへ本日は、当初は憲法学概説の続きを掲載する予定でしたが、ご質問を頂いた件についてお答えしたいと思います。宜しくお願い致します。さて、先日の記事に於いて、大日本帝國憲法が天皇主権を否定している、ということをお話し致しました。端的には、大日本帝國憲法は、天皇主権に限らず、国民主権や人民主権といった、凡ゆる「主権論」を全面的に否定し、排斥しているのです。というのは、大日本帝國憲法とは、前回の記事でも述べた通り、「法の支配 Rule of Law(立憲主義 Constitutionalism)」に立脚する英米保守思想に基づく憲法典です。「法の支配」は、統治権を「法」の下に置く思想ですから、「法の支配」に立脚するところに於いては、「主権論」は全く、一切成立し得ません。「法の支配」と「主権論」は水と油の如く正反対であり、互いに全く矛盾し、排斥し合うものです。詳細は、前回の記事を参照して頂きたいと思います。さて、我が國に於ける一般的な憲法学では「主権」という言葉は、三つの異なる概念に用いられています。一つ目は、「我が國の主権は、北方四島から沖縄県にまで及ぶ」などという場合の主権。これは、実は、「統治権」というのと同義の「主権」です。これは、我が國の行政・立法・司法などの権限(天皇が総覧される)がこれらの領土に及ぶ、ということを意味しています。従って、この「主権」はあえて主権と表現する必要はなく、「統治権」といった方が分かりやすいです。二つ目は、「我が國はサンフランシスコ講和条約により、主権を回復した」という場合の主権。これは、「対外的な独立性」という意味です。つまり、国際法に照らして植民地や保護国などの態様ではなく、対外的に完全に独立を有し、如何なる国の干渉をも受けない状態、のことです。従って、この場合も、敢えて「主権」という表現をする必要はなく、「独立(性)」と表現した方が分かりやすいです。「占領憲法・占領典範は、主権が制限されていた間に於いて制定された故に無効である」という場合の主権も、この「独立(性)」の意味です。この主権は、「國家主権」ともいいます。三つ目は、「我が國に於いては、主権は天皇が有する」などという場合の主権。これが、天皇主権・国民主権・人民主権でいう主権であり、この場合の主権とは、国のあり方を最終的かつ終局的に決定する、最高にして絶対かつ無制限の力のことです。そして、前回の記事でもお話ししましたように、この「主権」は「法の支配(立憲主義)」とは完全に矛盾するものであって、大日本帝國憲法では完全に否定されているものです。この「主権」は「法の支配」を破壊するものであって、憲法学に於いては認めてはならないものです。従って、「主権」という言葉は、一つ目と二つ目の意味に於いてのみ用いることができるものであり、しかも、これらは他の言葉で言い換えることもできるものですので、もはや我が國に於いては「主権」などという誤解を生む、紛らわしい言葉を用いるのはかえって有害であるといえます。さて、以上の点を踏まえ、ご質問にお答え致します。先日の記事でもお話ししました通り、我が國がサンフランシスコ講和条約に於いて放棄した領土、つまり南樺太・千島列島(北方四島は放棄していません)・台湾については、帰属が未決定のまま、現在に至っています。従って、これらの領土については未だに潜在的に主権(この場合は統治権)が及んでいる、と解釈できます。なお、領事館を設けてしまっている以上、主権を放棄してしまったに等しい、とのご意見もありますが、いずれにせよ、帰属が未定である以上は、国際法上はどこの国の領土と決まったわけでもないので、依然として潜在的な主権は存在すると解釈できます。次に、「統治権」と「主権」の違いについてですが、「主権」を一つ目の意味に用いる場合に於いては、両者は同義であり、三つ目の意味に用いる場合に於いては、我が國に於いては天皇主権・国民主権・人民主権は認められませんから、両者は矛盾します。さて、「統治権」と「主権」を区別し、統治権は及ばないが、主権(潜在的ではなく)は現在でも及んでいる、という論について考えてみましょう。まず、この場合の「主権」とは、どのような意味でしょうか。「統治権」とは区別されている「主権」ですから、一つ目の「統治権」の意味の主権ではあり得ません。そして、ここでは日本國の独立性が問題になっているわけでもありませんから、二つ目の「独立性」の意味の主権でもありません。そうなると、この「主権」は、三つ目の「天皇主権・国民主権・人民主権」の主権を表していることとなります。すなわち、この「主権」とは、我が國に於いては憲法学上、認めてはならない意味の「主権」であるといえます。従って、「統治権」と「主権」を区別して統治権は及ばないが主権は及ぶ、とする論は、「天皇主権・国民主権・人民主権」など、「法の支配(立憲主義)」に反する概念を持ち込むこととなり、認めるべきではない、ということになります。「統治権」とは行政・立法・司法などの総称であり、これは「法の支配」には矛盾しません。しかし、三つ目の意味の「主権」は、「法の支配」に矛盾するのです。

  • 21Aug
    • 「天皇主権」を否定した大日本帝國憲法

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。政治 ブログランキングへ今週は、お盆休み明けということで、過去記事のご紹介をして参りました(笑)。来週からは、また、『憲法学概説』『皇室典範講義』『ルソー社会契約論を読む』の連載に戻りたいと思います。さて、本日は、大日本帝國憲法の理解に於いて比較的基本的な事柄でありながら、まだまだ知られていない、「大日本帝國憲法は天皇主権を否定している」ということについて、簡単にお話しします。既にご存知の方も、ぜひお読み下さい。「主権」とは、国のあり方を最終的に決定することのできる力であり、最高にして絶対的な、何ものの拘束をも受けない無制限の力です。この「主権」の概念を学問的に理論化したのが、フランスのジャン・ボダン(1530~96)でした。当時、フランス王国は王位を継承してきたヴァロワ家が断絶し、傍系のブルボン家のアンリ4世が即位するなど、時代の大きな転換期にありました。この後、ブルボン家はアンリ4世の子のルイ13世、孫のルイ14世の時代にかけて、絶対王制を確立し、王権を強大なものとしていきます。その上で役立ったのが、ボダンの主権論でした。王に主権がある(君主主権)とすることで、大きな力を持つ貴族などを抑え、王の力を強大ならしめていくのを理論的に正当化し、支えたのです。しかし、大日本帝國憲法に於いては主権論は完全に否定されています。この点、学校の教科書などでは「帝國憲法においては天皇主権が定められていた」などという解説がされていたりしますので、不思議に思われる方も多いでしょう。大日本帝國憲法が天皇主権を否定しているという根拠は、次の三つです。① 大日本帝國憲法は御告文に於いて、「皇祖皇宗の遺訓」に立脚したものである旨を述べていること。「皇祖皇宗の遺訓」とは、我々が父祖より相続してきた、天皇を中心とする道徳や慣習、伝統などのことです。この「皇祖皇宗の遺訓」を成文化したものが大日本帝國憲法の中心的部分である、ということなのです。このように、我々が父祖より相続した、天皇を中心とする道徳や慣習、伝統などに、行政・立法・司法などが拘束されることを憲法学では「法の支配」(Rule of Law)といいます。法の支配とは、英国に於いて発展した憲法原理であり、英米法の基本的精神です。さて、主権とは、何ものの拘束をも受けない、最高にして絶対の力です。しかしながら、大日本帝國憲法が立脚している「法の支配」とは、統治権の全てが「我々が父祖より相続した、天皇を中心とする道徳や慣習、伝統など」に拘束されることをいいます。つまり、何ものの拘束をも受けない、最高にして絶対の力などというものを完全に否定し去るのが、「法の支配」なのです。② 第4条に於いて、「天皇は憲法に従う」旨定められていること。大日本帝國憲法第4条は、以下のような規定です。「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」つまり、天皇は統治権を行使されるが、それはあくまでも大日本帝國憲法の条文に則って行われねばならない、ということなのです。大変畏れ多い言い方で恐懼しつつ申し上げるならば、天皇といえども憲法の規定を遵守されねばならない、とはっきり定めているのが、この第4条なのです。すなわち、この規定は、大日本帝國憲法が立脚する「法の支配」の精神を、条文に於いて明徴にしたものである、といえます。天皇といえども無制限にして最高かつ絶対の力をお持ちになるのではなく、皇祖皇宗の遺訓を遵守されねばならない、というのが第4条なのです。そして、これは、大日本帝國憲法の成立に関わらず、遥か昔から、歴代天皇陛下が遵守されてきたことです。③第55条2項に於いて「法律等の発効には國務大臣の副署を必要とする」と定めていること。第55条2項は、以下のような規定です。「凡テ法律勅令其ノ他國務ニ関スル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」つまり、法律や勅令などが発効するには、それが天皇の御名御璽を頂くのみでは足らず、あくまでもその担当の國務大臣の副署が必要であり、それがなければ効力を有しない、というのです。大日本帝國憲法が、天皇について主権を有すると認めているのならば、天皇の御名御璽のみであらゆる法律勅令等の発効を認めたでしょう。主権とは、無制限にして最高かつ絶対の力だからです。しかし、このように第55条2項は、天皇の御名御璽のみでは法律や勅令等は発効しないと定めています。これこそ、大日本帝國憲法が天皇主権を排除している根拠なのです。

  • 19Aug
    • 南樺太・千島列島・台湾は現在も日本の領土です(2) 〜 占守島の戦いから70年 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ昨日に引き続き、「分かりやすい領土問題( ^ω^ )(2)」台湾篇を掲載します。こちらも、大変ご好評を頂きました。ーーーーーーー今日は台湾についてお話しします。台湾も、現在も国際法上は我が國の領土です。実は、台湾については、カイロ宣言というものがあります。このカイロ宣言においては、「台湾などを中華民国に返還する」という文言があります。更に、我が國が受諾したポツダム宣言には、「カイロ宣言の条項は履行されねばならない」旨の文言があります。これらの文言を見る限り、カイロ宣言の条項を履行すべしとするポツダム宣言を受諾するわけですから、「台湾の領有權は、我が國から中華民国へと移った」ように思われます。しかし、国際法を正しく解釈すれば、そうではないのです。再び、サンフランシスコ講和条約の第2条を見てみます。【サンフランシスコ講和条約 第2条】(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。さて、サンフランシスコ講和条約とは、我が國がポツダム宣言を受諾した結果、連合国と我が國との間に締結されたものであり、これを以って我が國の主権を回復したものです。つまり、ポツダム宣言受諾の具体化こそが、サンフランシスコ講和条約です。そして、ポツダム宣言においては、カイロ宣言の条項は尊重されるべし(台湾その他を中華民国へ返還すべし)とされていたのが、サンフランシスコ講和条約においては、「台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」へと変更されています。つまり、これは、台湾の帰属についての連合国の態度の変化を意味するのです。連合国の態度は、ポツダム宣言受諾当時は、カイロ宣言の条項は尊重されるべし(台湾は中華民国へ帰属すべし)だったのが、サンフランシスコ講和条約締結時においては、日本は台湾を放棄すべし(台湾の帰属は未定である)へと変化した、と解釈できるのです。従って、我が國は、サンフランシスコ講和条約の調印国に対しては、未だ台湾の領有権を放棄したに留まり、南樺太・千島列島(注:いわゆる北方四島を含まない。北方四島の領有権は放棄されておらず、現在も我が國の領土である。)と同様、我が國の主権が潜在的に及んでいる、ということになります。しかし、中華民国はサンフランシスコ講和条約に調印していません。この点については、如何に考えるべきでしょうか。我が國と中華民国との間には、日華平和条約が締結されました。その第2条が以下です。第2条 日本国は、サンフランシスコ講和条約第2条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。つまり、日華平和条約においても、サンフランシスコ講和条約と同様、台湾その他の領有権の放棄のみが定められているだけなのです。従って、中華民国との関係においても、我が國は、台湾の領有権を放棄したに留まり、台湾に対して現在も潜在的な主権を有していることになります。しかし、ここで問題となるのが、第4条です。以下の条文です。第4条 1941年12月9日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となったことが承認される。この条文は、日本國と「中国」との間に締結された条約の無効を定めるものです。さて、そうであれば、台湾を我が國の領土と定めた下関条約も無効となり、従って、台湾は中華民国の領土である、と定めたものである、と解釈できるともいえます。しかし、この解釈には問題があります。まず、ここでいう「中国」とは、大陸に成立したどの国家のことをいうのか、明確ではありません。中華民国は清を辛亥革命により倒して成立した国家であり、「中国」が中華民国のことだとすれば、下関条約は無効ではないことになります。日華平和条約の締結国は中華民国ですから、このように解釈するのが自然です。また、仮に下関条約が、日華平和条約第4条で無効だとしても、あえて第2条において、わざわざ台湾の領有権を「放棄する」とのみ定めたのは、あえて中華民国による台湾の領有権を認めず、「放棄する」とのみ規定したのだ、と解釈できます。従って、第4条に照らしても、我が國は台湾の領有権を放棄したに留まり、台湾の帰属は未定である、と解されます。よって、我が國の國家主権は、現在も潜在的に、台湾に及んでいます。さて、問題は、いわゆる支那中共の領有権が、台湾に及ぶのではないか、という点です。これは、日中共同声明により、我が國政府が支那中共を「唯一の合法政府」と認める、としていることが、台湾の領有権を主張できる根拠となるのではないか、ということです。しかし、これは完全な誤りです。これは、1972年の日中共同声明以後において、そのような効果が生じるとするものであって、大東亜戦争時に遡って支那中共の存在を認めるものではありません。当時の交戦相手国は中華民国であって、支那中共は存在していませんでした。よって、支那中共は我が國と「講和条約」を締結し得る関係にはないことになります。よって、支那中共との関係においても、我が國の潜在的な主権は台湾に及んでおり、台湾の帰属は未定である、という結論になります。以上、検討した通り、我が國は台湾の領有権を放棄したに留まり、その帰属が正式に決定するまでは、その潜在的な主権は今なお及んでいる、ということになります。

  • 18Aug
    • 南樺太・千島列島・台湾は現在も日本の領土です(1) 〜 占守島の戦いから70年 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ本日18日は、大東亜戦争に於いて中立条約に違反して不法に侵略してきたソ連ロシアとの間に行われた、「占守島の戦い」が行われた日です。そこで、本日は、以前に公開して大変なご好評を頂いた「分かりやすい領土問題( ^ω^ )(1)」を再度掲載します。結論的にいえば、我が國は国際法に基づいて、直ちに千島列島と南樺太をロシア連邦に対し、返還請求できます。(北樺太についても、国際法上我が國の領土であると主張する余地がありますが、この点についてはまたの機会に譲ります。)実際の政治に於いて、直ちに以下のような事柄を主張していくかどうかは高度な政治的判断に委ねられるとはいえ、法的には南樺太・千島列島・台湾は現在も我が國の領土であることは疑いを容れません。ぜひ、ご一読下さい。ーーーーーーー2月7日は「北方領土の日」と、我が國政府は定めています。ということで、今日は、いわゆる領土問題について、我々日本人が必ず知っておくべき基礎知識を押さえておきましょう。実は、台湾・南樺太・千島列島は、現在も国際法上は、我が國の領土です。びっくりされるかもしれませんが、本当はそうなのです。国際法をちゃんと解釈すれば、そうなります。長くなりますので、本日は南樺太と千島列島についてお話します。台湾については次回にします。なお、以下のお話は、先日の勉強会でもお話しした内容と概ね同じですので、こちらの動画もご覧頂ければ理解が一層深まります。では、現在の日本の領土を、国際法に則って正確に確認してみましょう。まず、大東亜戦争前、この地域においては、日本の領土はポーツマス条約(1905年)によって決定されています。この条約によれば、日本の領土は、占守島以南の千島列島全島と、そして南樺太以南です。では、この条約が、それからどのように変更されたのか、を確認してみます。まず、大東亜戦争停戦前、ヤルタ秘密協定が、ソ連ロシアのスターリン、アメリカ合衆国フランクリン・ローズヴェルト大統領、大英帝国のウィンストン・チャーチル首相により結ばれました。その内容とは、主に、南樺太・千島列島・北方四島をソ連ロシアの領有とする、とするものでした(*北方四島、すなわち国後島・択捉島・歯舞群島・色丹島は「千島列島」には含まれない。江戸時代以来の慣例やロシアとの交渉の例より)。しかし、チャーチルはそもそも、ソ連と密約をむすぶこと自体に嫌悪感があり、討議に参加すらしていませんでした。従って、実質、スターリンとローズヴェルトの密約です。ヤルタ秘密協定は、ローズヴェルトが署名をしたものの、その内容はおろか、存在すらも、ローズヴェルト以外の誰も知りませんでした。アメリカ連邦議会もヤルタ密約の存在を知らず、副大統領で次期大統領のトルーマンは、大統領に就任してから初めて密約の存在を知り、驚愕したのです。当然、アメリカ政府は、このような密約は、ローズヴェルト以外の誰も知らなかったものであるから、アメリカ政府は関知しないものであり、ローズヴェルトが勝手に結んだものであるから、「ヤルタ秘密協定は不存在、または無効である」という立場を採るに至ったのです。そして、ヤルタ秘密協定を正式に「無効」としたもの、それこそが、サンフランシスコ講和条約なのです。アメリカのサンフランシスコ講和条約全権代表、フォスター・ダレスは、「サンフランシスコ講和条約とは、ヤルタ秘密協定の不存在を確認するための条約だ」とはっきり言っています。【サンフランシスコ講和条約 第2条】(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。このように、サンフランシスコ講和条約第2条では、千島列島と南樺太、そして、後述しますが、台湾について、我が國がその領有権を「放棄する」と定めているだけなのです。ソ連ロシアの領有とする、とは全く言っていません。つまり、アメリカ合衆国政府と、これに調印した連合国諸政府は、サンフランシスコ講和条約によって「ヤルタ秘密協定は無効である」と確認したのです。そして、帰属が未定なのであれば、その帰属は当然、後に調印諸国間の合議によって決定されることとなります。さて、このサンフランシスコ講和条約によれば、我が國の領土はどのようになったのでしょうか。まず、北方四島(国後島・択捉島・歯舞群島・色丹島)は、千島列島には含まれません。従って、これらはサンフランシスコ講和条約で放棄した「千島列島」ではないので、現在も我が國の領土です。次に、サンフランシスコ講和条約で放棄した南樺太・千島列島については、帰属は未定です。しかし、帰属が未定ということは、潜在的には未だに我が國の主権が及んでいる、ということなのです。帰属が正式に決定されてから初めて、我が國から、その国に対して、南樺太と千島列島の領有権が移転されることとなります。従って、サンフランシスコ講和条約に調印した諸国に対しては、潜在的には、未だに我が國が領有権を主張できます。では、サンフランシスコ講和条約に調印しなかったソ連ロシアについては、どうなのでしょうか。まず、ソ連ロシアが南樺太と千島列島の領有権を主張できるヤルタ秘密協定は、サンフランシスコ講和条約によって無効とされました。そして、ソ連ロシアは、日本が南樺太と千島列島の領有権を放棄する、としたサンフランシスコ講和条約に調印していません。ということは、ソ連ロシアに対しては、何と、「南樺太と千島列島を放棄する」効果すら、生じていないことになるのです!すなわち、国際法上は、我が國とロシアとの間においては、現在もポーツマス条約が有効ということになります。つまり、南樺太と千島列島は、現在も、潜在的ですらなく、我が國の領土である、ということです。我が國は、ロシア連邦に対しては、国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島と同じように、南樺太と千島列島の返還を要求できる、という結論になります。<まとめ>① 北方四島(国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島)は千島列島に含まれない。つまり、サンフランシスコ講和条約によっても放棄されていない領土なので、我が國の領土である。② サンフランシスコ講和条約に調印した国に対しては、我が國は、南樺太と千島列島を放棄している。しかし、これらの帰属は未定であるから、帰属が決定するまでは、潜在的な主権が及んでいる。③ サンフランシスコ講和条約に調印しなかった国(ロシア)に対しては、ヤルタ秘密協定が無効ないし不存在であり、しかもサンフランシスコ講和条約に調印していない以上、「南樺太と千島列島を放棄する」ことすら、生じていない。従って、ロシア連邦に対しては、南樺太と千島列島は現在も我が國の領土である。次回は台湾編です。台湾も、国際法上は現在も我が國の領土です。

  • 12Aug
    • 皆さまへお礼、そして8月30日(日)・大阪市での勉強会のご案内

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへいつもブログをご覧下さいまして有難うございます。昨日の正午、「大東亜戦争とは何だったのか」という記事を投稿したところ、一日の間に140件を超えるFacebookでのシェアがありました。大変、有難うございました。このブログを始めて四年になりますが、一日の間にこれほど多くの反応を頂いたのは初めてだと思います。今後も分かりやすく、しかもレヴェルの高い内容を目指す、という、このブログ開設当初からの方針を守り、良い記事を書いていきたいと思います。何卒宜しくお願い申し上げます。ーーーーーーー次に、先日もご案内しました、大阪市での憲法・保守思想勉強会のご案内です。皆様のおいでをお待ちしております。現在、安倍政権による安保法制などを通じて、憲法議論が俄かに加熱して参りました。当然のことですが、憲法問題について正しい議論をするには、憲法についての正しい知見を持たねばなりません。しかし、残念なことに、私たちが学校教育に於いて受けている社会科の公民授業、政治経済の授業、或いは大学での法学部や政治学部などに於いて受ける授業というものは、実は、その内容があまりにも、いわゆる理性万能思想(左翼思想)に偏り過ぎているのです。これでは、これまでに学校教育で受けてきた知見を元にして憲法問題を考えようとしても、バランスの取れた公平なものとは絶対になり得ません。私たちは、理性万能思想に立脚する知見やそれを編み出した学者などだけではなく、いわゆる保守思想に立脚する知見やそれを編み出した学者などについて、学ぶ必要があります。具体的には、ホッブズやロック、ルソーなどのいわゆる「主権論」(これは実は、左翼思想に属します)の学者とその説しか学ばない教育というものは、端的に申し上げれば偏向教育という批判を免れないのではないでしょうか。これらの学者とその説を教えるのはともかくとしても、そうであれば、絶対に、「主権論」の対極の思想である「法の支配」に立脚する、エドワード・コーク、アレクサンダー・ハミルトン、エドマンド・バークなどの英米保守思想の思想家らとその説を一切教えないというのは、どう考えても問題があります。そこで、来たる今月30日(日)は、理性万能思想(左翼思想)に偏重した思考に陥らず、公平かつ客観的に憲法問題を考えて頂くことのできる知見を身につけて頂くことを主眼に勉強会を開催します。勉強会の内容は以下の通りです。<前半>これまで皆さんが学んできた政治思想家の代表的な人物として、フランス(出生はスイスのジュネーヴ)のジャン・ジャック・ルソーの思想を取り上げます。ルソーの思想であり、現代の左翼思想に多大な影響を与えている、いわゆる「人民主権」「社会契約」「一般意思」などの概念とその意味するところを知り、その問題点を知ります。ルソーのみならず、いわゆる理性万能思想(左翼思想)とはどのようなものなのか、その一般的な点を知り、その問題点を知ります。<後半>前半に指摘した理性万能思想(左翼思想)の問題点を踏まえ、その問題点を克服し、解決している英米保守思想のエドワード・コーク(英国の法曹であり下院議員)やエドマンド・バーク(英米保守思想の父と呼ばれる政治思想家、下院議員)とその説を学びます。これを踏まえ、我が國の憲法問題をどのように考えるべきかを学びます。勉強会の内容は、概ね以上のようなものです。安保法制を始めとして憲法問題にご興味を持たれた皆さんのおいでをお待ちしております。山岸 崇の近現代史講座  正統歴史セミナー〔正伝協〕 近現代史~ 偏向を正す ~『これが正しい公民授業だ!』日時:8月30日(日) 14:00 ~ 16:00(開場 13:40)会場:大阪市立北区民センター・第1会議室 大阪市北区扇町2-1-27対象:一般(10歳以上)参加費:¥1,000円(資料代含む)受付:090-1079-8552(正伝協/よしかわ)*お申込受付はお電話にて。当日申込も会場にて受け付けております。

  • 11Aug
    • 大東亜戦争とは何だったのか

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ今年も、8月15日が巡って参ります。それは我が國にとって、大東亜戦争の停戦の日であり、我々が現在生きる「戦後体制」が始まった日でもあります。戦後体制、それは、GHQにとっては占領基本法であった占領憲法を、我が國が講和条約発効後もなお、今に至るまで、憲法典として運用してきてしまっている体制、のことです。GHQの意図としては占領基本法であったものを、憲法典として運用するのですから、様々な問題点が起こってきて当然です。第9条にしても、占領基本法であるからこそ、GHQは軍隊の不保持を定めたのです。占領憲法の問題については、触れると長くなりますので別の記事で述べたいと思いますが、今、現在の我々が為すべきことは、大東亜戦争の真相を直視することです。良い点は良いと評価し、同時に悪かった点は率直に反省して、これからの我が國の守りに役立てるべきです。人は過ちを犯します。どんな英雄でも必ず過ちを犯します。我々の父祖は立派な方々でしたが、しかし、同時に過ちも犯しました。それで良いのです。私が声を大にして申し上げたいのは、過ちを犯したからといって、我々が父祖を尊敬すべきではない、などということには絶対にならない、ということです。我々が父祖を尊敬すべき、感謝すべきなのは、立派なところもあり、しかし過ちも犯す父祖たちが、それでも必死の思いを込めて、私たちの為に國を守り、残して下さったこと。そんな私たちが父祖の恩に報いるということは、父祖の良い点は受け継ぎつつも、過った点は素直に直視し、我が國をこれから立て直していく為、考えていかねばならないということなのです。以下は、昨年の今頃、大東亜戦争について述べた記事です。今、ここに転載致しますので、ご一読下さい。以下の捉え方には、様々なご意見があろうと思います。皆様にとって、大東亜戦争を考える一つの参考にして下さいましたら幸甚です。大元帥先帝陛下と英霊の御前に。ーーーーーーーふりつもる み雪にたえて 色かえぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ (昭和天皇御製)来たる8月15日は、大元帥先帝陛下による「大東亜戦争終結ノ詔書」が、私たち臣民に対して公にされた日。三百万人以上に及ぶ戦没者の皆様、靖國神社にまします英霊の皆様、家族を思い、國を思い、特攻に赴かれた皆様、シベリアで、満洲で無念にも犠牲になられた二十万の婦女の皆様、極寒のシベリアで落命された五十万の男子の皆様。私たちの國體が揺らぐこと無く、今に至っているのは、大東亜戦争にて雄々しく戦われた皆様のおかげです。私たちが皆様のことを忘れることは、決してありません。誓って、万古不易の日本國を子孫に継承し、大日本帝國憲法の復元改正・皇室典範奉還を成し遂げ、我が國を再生致します。そして。私たちが拳拳服膺して忘れてはならないのは、聖断を下された大元帥先帝陛下によってこそ、國體は護持されたということです。支那事変、それに続く対米英蘭戦争は、併せて大東亜戦争と呼称されます。これらを準備し、踏み切ったのは近衛文麿・第34、38、39代内閣総理大臣でした。近衛文麿は、五摂家の一つである近衛家の当主であり、公爵でしたが、若かりし頃より社会主義思想に傾倒し、共産主義者であった河上肇助教授の元で学ぶ為、東京帝國大学哲学科を中退してまで京都帝國大学法学科に入学しなおしています。京都帝大卒業の翌年、近衛文麿は『英米本位の平和主義を排す』を著しています。ここで近衛文麿は、「持たざる国が持てる国のものを武力で奪うことは正当化されるのだ」と主張していますが、これこそは、「持てる国(ブルジョワジー)のものを持たざる国(プロレタリアート)が奪っても合法なのだ」ということで、まるでレーニンのプロパガンダ文書『帝国主義』そのものの主張をしているのです。近衛文麿のいう「英米本位の平和主義」、つまり現状存在している国際法による秩序とは、国際社会において自生的に形成されてきた国際慣習法と、国家間において取り決められた條約によって成り立っているものです。近衛文麿は、これを「英米本位」とすり替えることで、まるであたかも英米が世界を我が物顔に、好き勝手に壟断しているが如き印象を与え、対英米戦争は正しい戦争(聖戦)なのだ、と世論を欺いたのです。近衛文麿は、その腹心に、ゾルゲ事件で知られることとなるコミンテルンのスパイ、尾崎秀実(朝日新聞記者などを務める)を擁していました。ソ連ロシアに情報を漏らしていたゾルゲ事件で逮捕されるまで、尾崎秀実は当時の日本随一の論客として名をはせていました。そして彼は、あらゆる政治家よりも、官僚よりも、陸軍よりも、海軍よりも、支那事変拡大の旗を振り、世論に厳然と存在していた支那との早期講和論を圧殺したのです。この他にも、近衛政権には多くの左翼人士がいました。実に、近衛政権とは左翼政権であり、コミンテルン政権だったのです。この事情は、アメリカ合衆国においても同じでした。フランクリン・ローズヴェルト大統領は共産主義シンパであり、ハル・ノートを書いたハリー・ホワイトやアルジャー・ヒスなど、政権にはコミンテルンの工作員が多くいました。大東亜戦争とは、日米両國の政府が、コミンテルンに乗っ取られ、互いに共倒れの敗戦革命を起こさせるべく、ソ連ロシアによって起こされたものでした。真珠湾攻撃にしても、ローズヴェルトは攻撃があることを事前に知っていたにもかかわらず、当初はほとんどの米国民が日本との戦争など望んでいなかったので、日本への敵意を醸成する為に、わざと攻撃があることを現地の司令官に知らせずに、自軍の将兵を見殺しにしたのです。さて、近衛文麿が、昭和12年(1937年)、総理大臣に就任して真っ先に行ったことは、日本共産党の治安維持法で受刑していた者や、5・15事件、血盟団事件、2・26事件などで受刑していた者らの大赦運動でした。朝日新聞も、当時(昭和8年・1933年)、5・15事件の実行者らに対して「 止むに止まれぬ祖国防衛権行使(8月22日付見出し)」などと世論を煽り、助命嘆願運動を行っています。近衛文麿は、昭和8年(1938年)、国家総動員法を制定させ(広範囲の委任立法を容認させるものであり、天皇大権を侵すもの)、昭和10年(1940年)には大政翼賛会を結成させ(これは政党政治を否定するものであって大日本帝國憲法に違反)たのでした。これらは、明らかに大日本帝國憲法に違反するものです。近衛文麿によって企図され、実行された大東亜戦争は、大日本帝國憲法ひいては明治皇室典範をも破壊するものであったといえます。つまり、大東亜戦争を指揮した、コミンテルンに乗っ取られた我が國の政府は大東亜戦争前夜、またはその当初において、既に大日本帝國憲法の破壊に着手し、実行していたのです。そして、敗戦。GHQによる占領下において、大日本帝國憲法と明治皇室典範は、いわば、日米両國のコミンテルンの共犯により、破壊され、占領憲法と占領典範が成立することになります。我が國が、何故、如何に敗戦國とはいえ、永きにわたって「不法な侵略戦争をしてきた」「様々な戦争犯罪を働いてきた」という悪罵を投げつけられてきたのか。それは、大東亜戦争の真相を隠蔽する為に他なりません。すなわち、大東亜戦争とはロシア・コミンテルンが、日米両國政府を乗っ取り、互いに共倒れとなるべき戦争を起こさせて、我が國においては、大日本帝國憲法と明治皇室典範を破壊し、後々の革命の準備をさせたものであるのです。そして、ヴェトナムなど他の諸国においては、植民地支配からの独立などを名目に、それらの諸国を社会主義化し、ソ連ロシアの勢力範囲に入れていったものなのです。従って、「大東亜戦争は不法な侵略戦争である」という論はもちろん、「大東亜戦争は聖戦であった」という論さえも、どちらも、事実を見落としたものであり、誤った見方であるということになります。「大東亜戦争は、ソ連ロシア・コミンテルンに乗っ取られた日米両國政府によって行われた、社会主義勢力拡大の為の戦争であった」これこそが、大東亜戦争の真相です。ただ、決して誤解してはならないことがあります。それは、そうであったとしても、冒頭で述べたように、靖國神社の英霊の方々等、國を守る為に戦われた方々の戦いは、それでも、全く、何ら変わることなく尊く、有難いものです。何故なら、如何に我が國の政府がコミンテルンに乗っ取られていたものとはいえ、アメリカの軍隊が実際に攻めて来れば、國を守るためには戦わざるを得ません。その時点においては、まずは國を守ることが先決であり、大義です。これは、現代においてもいえることであって、たとえば、もしも我が國のその時の政権を支持しなくても、我が國が侵略を受ければ戦うでしょう。國と政権とは別のものです。政権を支持できなくても、我が國が侵略されれば戦わねばなりません。これと同じことです。大東亜戦争の真相がどうあれ、現代に生きる私たちは、國の為に戦われた方々に万斛の感謝を申し上げねばなりません。その方々のおかげで、國は守られているのですから。その意味では、大東亜戦争とは、自衛戦争としては正しい戦争であった、といえます。私たちが大東亜戦争から学ぶことは、同盟関係などを含む、正しい国際関係とは如何なるものなのか、そして、いつの時代においてもポピュリズム的熱狂に基づく政治は、結局は國の運営を誤ることが多い、ということです。このブログでは、また折に触れて述べていきたいと思います。四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ (明治天皇御製)

  • 10Aug
    • 憲法学概説(13) 第2章 偏見(経験)(10)「平等」は「自由」を破壊する

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ第2章 偏見(経験)(10)「平等」は「自由」を破壊するさて、本日は「平等」についてお話ししたい。いわゆる通常にいわれるところの“憲法学”に於いては「平等」とは「基本的人権」の一つとして必ず守るべきものとして取り扱われている。しかし、保守思想に立脚する正統の憲法学に於いては、「平等」は絶対に憲法原理として認めてはならないものであり、憲法学から追放すべき悪の概念である。何故かといえば、端的にいえば、「自由」を破壊するのが「平等」だからである。これについては、非常に驚かれる方も多いだろう。本日は、なぜ「平等」が「自由」を破壊するものであるのか、をお話しする。本来、この章では、「偏見(経験)」と呼ばれる、「個人や集団の理性によるものではない、自生的に発生してきたところの、父祖から相続した道徳や慣習や伝統など」を採り上げている。この「偏見」の総体が「憲法」である。従って、「憲法」ではない、それを否定し破壊する「平等」についてはここで採り上げるべきではないのだが、前回以前に「自由」について採り上げた関係上、注意を喚起する意図であえてここで採り上げておく。なお、「平等」はこれから述べるように、保守思想に属するものではなく、いわゆる左翼思想に属するものである。よって、『憲法学概説』第四章 左翼思想とは何か でも採り上げる予定である。さて、「自由」とは何をやっても構わない、好き勝手にする、という放縦のことではない。「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことであるが、更に具体的にいえば、「自由」とは、「法(Law)」の下に於ける自由、すなわち、「我々の父祖から相続してきた道徳や慣習、伝統など」の下に於ける自由のことである。これが正統の自由である。これこそは、エドワード・コークやエドマンド・バークらが承継してきた英米保守思想に於ける自由であり、また、我々日本人にとっての伝統的な「自由」の概念もまた同じである。なお、「自由」についての詳細は、 第1章 偏見(経験)(6)「法(Law)」の下の自由 以下の記事を参照されたい。このような制約を前提とした上で、人は己の能力や才能をそれぞれに生かし、働くことで國は発展する。各自が勤勉に働くことで、己が富むのはもちろん、國も富むのである。自由とは、勤勉や節制などの道徳をも育む、道徳の源泉であり、自由な社会は気品ある道徳が醸成される社会である。さて、人がこのように活躍する前提となる才能や能力、性格や気質、父祖から受け継いだ財産などというものは、生まれつきバラバラである。家柄や血統などというものも影響するであろう。これらのものは、各自が生れながらにして父祖から相続したものである。こうしてみると、各自が活躍する上での前提となる才能や性格、財産などの諸々は、皆それぞれバラバラであって、不平等である。人は生れながらにして平等である、というのは真っ赤な嘘である。人は生れながらにして不平等である、が事実である。そして、そのようにして國が成り立ってきたものであるにもかかわらず、我々の勝手でどうしてそれを、破壊して良いものであろうか。不平等を「是正」して「平等」にしようとすることは、取りも直さず國を破壊することになる。そもそも、不平等を無理やりに「平等」にしようとするということは、各自の勤勉や節制などの結果として生じた「格差」を否定することである。従って、勤勉や節制などの道徳は育まれることがなくなる。社会には倦怠と惰弱が蔓延し、國は衰退する。「格差是正」とは、國を破壊する悪のスローガンでしかない。自由は必然的に、社会に於ける自由競争を前提とする。自由な競争は、各自の能力や人格を練磨し、その國民を全体として向上させる。また、身分制度は「自由」を保障し、それを守る機能を有している。身分制度は上位の身分に属する者(貴族など)により大きな自由を、下位の身分に属する者(平民など)により少ない自由を保障するものである。つまり、身分によって保障される自由の「量」的差異は生じるものの、身分制度は確実にそこに、身分それぞれに応じた「自由」を保障するものであって、それを完全に剥奪することはない。何故ならば、それを否定して自由を剥奪することは、身分制度そのものの否定、破壊となってしまうからである。従って、身分制度を否定する「平等」を推し進めることは、「自由」を破壊することになる。この点については、この章の「身分制度」でも述べる予定である。ただし、ここで一つだけ、付言しておきたい。「法律の下の平等」という言葉がある。これは、全ての人間が法律上は公平に取り扱われる、という意味である。実は、この「法律の下の平等」という概念は正しいものであり、「自由」の概念とは矛盾せず両立する。というのは、「平等」とは、それぞれ各自異なっているものを、無理やりに、強制的に同じにしてしまう、同じに取り扱う、ということである。これは、上に述べてきたように「自由」と矛盾する。しかし、全ての人間を法律上は公平に取り扱う(法律の下の平等)、というのは、その法律の内容が父祖から相続した道徳や慣習などに反しないもの、つまり、正しいものであれば、その法律を対象となる人々に対して公平に適用する、ということなのだから、まさに法律の機能そのものであるし、そうでなければならない。従って、「法律の下の平等」は、「自由」とは矛盾しない。そもそも、これは「違うものを無理やり同じにする」という「平等」とは違うものなのだから、「平等」という言葉を使うのは不適切であり、「法律の公平性」などと表現するべきであろう。以上に述べてきた、「自由」と「平等」の関係を端的に述べてみよう。自由とは何か。自由とは、不平等のことである。

  • 06Aug
    • フランコ総統の生涯 〜 政治家とは何か 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ本日8月6日は、大東亜戦争に於いて、広島市に原子爆弾が投下され、多くの方々が犠牲となった日です。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、日米両國が過去の過ちを乗り越え、より一層、同盟と友好を強化していくことを切望致します。さて、みなさんは、20世紀スペインを率いた政治家、フランシスコ・フランコ総統(1892~1975)のことを知っていますか?スペイン王国は、建国以来幾つかの王家により統治されてきましたが、18世紀に入ってからはフランスのブルボン家の分家が王位を継承し、以後はスペインでもブルボン家が王位を相続して、現在に至っています。現在の国王はフェリペ6世陛下で、昨年2014年に即位されたばかりです。そんなスペイン王国ですが、一時、ブルボン家が王位を追われ、いわゆる左翼が国を乗っ取ってしまったことがありました。しかし、フランコは、見事にスペインを救い、ブルボン家に王政を復古させたのです。かつては南米に広大な植民地を保有していたスペインですが、20世紀には、経済危機にあえぐ、既に大国とは呼べない状態になってしまっていました。そんな中、1931年(日本では満洲事変があった年です)、左翼勢力による無血革命が勃発し、国王アルフォンソ13世陛下は退位を余儀なくされ、他のブルボン家一族共々、国外に亡命したのでした。ここに、いわゆる左翼勢力にによる「人民戦線政府」が誕生しました。しかし、これに対するスペイン国民の反発は大きなものがありました。そして、ついに、当時スペインの植民地だったモロッコ北部にいた軍隊が反乱を起こしたのです(1936年)。反乱軍を率いた人物こそは、後に総統となる、フランシスコ・フランコ将軍でした。フランコ率いるモロッコ駐留軍はスペイン本土に上陸、左翼人民戦線政府との戦いに連戦連勝していきます。これに呼応して本土でも反乱が勃発、スペイン内戦(1936~39)が始まったのです。スペイン内戦は、1939年にフランコ軍が首都のマドリードを制圧して終結、左翼人民戦線政府は敗北して崩壊しました。スペインの独裁者となったフランコ総統は、以後、1975年までの足かけ36年の長きにわたって、スペインを統治していくこととなりました。実は、「独裁者」といっても、フランコの場合はいわゆる左翼人民民主主義国家のような全体主義とは異なります。フランコ独裁政府は、「専制政体」とも呼ぶべきものなのです。全体主義と専制政体の違いを説明しておきます。全体主義とは、ルソーの思想に基づき、全人民に政治への参加を強要、強制します。ソ連ロシアや支那中共、北朝鮮などがその例です。しかし、専制政体とは、国家が全体主義へと落ち込むことを防止する為、あえて国民の政治への参加を制限します。つまり、専制政体は全体主義を排撃する為のやむを得ざる政体といえます。フランコ総統や、中華民国の蒋介石総統などがその例です。このように、全体主義と専制政体は外見上は非常に似通っているのですが、内実は正反対というよりもむしろ敵対している、といっても過言ではありません。事実、スターリンはフランコと蒋介石を蛇蝎のごとく敵視し、ありとあらゆる誹謗中傷を流して両者の名誉を毀損することに努め、コミンテルンに於いても両者を滅ぼすことが決議されました。さて、フランコ総統は欧州大戦においては中立を保持し、戦後に於いてはアメリカに接近して友好関係を深めました。そして、総統に就任して数十年、かつての人民戦線政府成立を支持し、左翼思想に感化されてしまっていた世代の人たちが死去していったのを見計らって、フランコは、ついにブルボン家に大政を奉還し、王政復古することを公表したのです。独裁者として振る舞うフランコは、当然ながら多くの憎悪を受けました。時に枢軸国に寄り、戦後はアメリカを中心とする西側陣営に属したフランコは、様々な毀誉褒貶を受けました。しかし、本心を一切明かすことなく、独裁者としての謗りを甘受してきたフランコは、最後に王政を復活させる一心で、その生涯をかけてきたのです。フランコは、外見上は独裁者としてスペインを私したように見えましたが、その本心はいつか必ず、ブルボン家にスペインを奉還することでした。古きよきスペインを取り戻すことでした。政治というのは、本心を決して明かし得ないことが多く起こり得ます。我々の日常生活のように、何でもかんでも開けっぴろげにして、言いたいことを言いたい放題に言っても問題ない、などということは、政治の世界ではありえないのです。目的に向かって、様々な誤解を受けつつも、淡々と着実に、何も言わずに歩んでいく。フランコは、自分の死後にアルフォンソ13世の孫、フアン・カルロス1世陛下が王位を必ず継承することを遺言して亡くなりました。フランコは、光輝ある由緒正しいスペイン王国を復活させた英雄でした。そして、真の意味での政治家でした。みなさんは、フランコ総統の生涯について、色々とご意見はお持ちだと思います。ただ、私は、フランコという一人の男の生涯を通じて、政治家とは何か、を感得して頂きたいと思い、ここにご紹介させて頂いた次第です。

  • 05Aug
    • 皇室典範講義(6) 〜 践祚即位 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ今日は、践祚即位についての規定を学びます。第二章  踐祚即位第十條 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク第十条 天皇が崩御された場合は、皇嗣が直ちに皇位を継承され、祖宗の神器を受け継がれる。天皇が崩御された場合、皇嗣が自動的に践祚(皇位を継承する)する、ということです。天皇の御位に誰もついておられない、などという事態が絶対に起こらないようにする趣旨です。祖宗の神器とは三種の神器のことです。践祚即位の際には、必ず三種の神器をも受け継がれることになっています。践祚とは皇位を継承することですので、元来は践祚は即位と同じでした。しかし、天智天皇が践祚の後、七年後にようやく即位の礼を執り行われたのを初めに、践祚の後暫くしてから即位の礼を執り行うことが多くなりました。このようにして、践祚と即位の礼が分離することが始まったのですが、三種の神器はあくまでも、践祚の時に継承されました。この条文は、長きにわたって践祚と即位の礼が分離していたのを改め、天智天皇以前の慣例である、践祚と同時に即位の礼を行うことを確認したものです。この条文は、もう一つ、非常に大切なことを定めています。それは、「譲位の廃止」です。天皇が生前に譲位される慣例は、聖武天皇や光仁天皇の頃から始まりました。この条文はそれを改め、天皇は譲位されることはなく、崩御されるまでは高御座(たかみくら)におられることが確認されたのです。第十一條 即位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ第十一条 即位の礼及び大嘗祭は京都で行う。第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ第十二条 践祚の後は元号を定め、その天皇の代に於いては以後はこれを新たに定めることをしないことは、明治元年の布告による。

  • 04Aug
    • ルソー『社会契約論』の正しい読み方(2) 〜 ルソーにとっての「自由」とは 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへこのシリーズではルソー『社会契約論』は、桑原武夫・前川貞次郎訳(岩波文庫)より引用します。本来なら『社会契約論』の冒頭から採り上げていくべきですが、初回ということで、ルソーの思想が端的に分かりやすく現れている箇所から始めましょう。また、傍線部は特に有名な箇所ですので、どこかで見たことがある、と思われる方も多いかもしれません。(以下引用)人民の代議士は、だから一般意思の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているのかをみれば、自由を失うのも当然である。(p.133)(引用ここまで)まず、ルソーの言説の特徴として、何の根拠もないことをいきなり断定的に言い切る、ということが挙げられます。ちょっと考えてみればおかしなことを言っているのに気づくと思われますが、多くの人は「ルソーという偉大な思想家がこんなことを言っている」と思ってしまい、何の批判もせずにルソーの説を受け入れてしまうのです。ここが、非常に気をつけねばならないところです。それにしても、ルソーのこのような手法は、プロパガンダの常套手段ですから、普段から気をつけておきましょう。さて、「一般意思」という言葉が出てきました。これは、ルソーの思想を理解する上で欠かせない概念です。しかし、初回の今回は、一般意思についてはひとまず置いておき、ルソーのいう「自由」について考えてみます。まず、ルソーは唐突に、「イギリス人は自由だと思っているが、それは間違いだ」などと言い出します。実際のところ、18世紀後半という時代に於いて、大英帝國は議院内閣制が完全に確立し、トーリー(保守党)とホイッグ(自由党)による二大政党制による立憲君主制は磐石のものとしてその広大な植民地を保持していました。大英帝國臣民は(人民ではありません)、エドワード・コークやマシュー・ヘイルらによって継承されてきた「法の支配」の下、身分制度に於ける「自由」を享受していました。「自由」は「平等」とは矛盾します。決して両立しません。というのは、自由とは身分制度によって政府の力が分散するところに生じるからです。詳細は、『憲法学概説』で展開したいと思います。それに引き換え、フランス王国は、ブルボン朝による絶対王政が進み、貴族らの力が弱まっていました。同時に、「自由」もまた、減少し、圧殺されていったのです。当時の大英帝國とフランス王国を比較してみれば、どちらの国民が「自由」に暮らしているかは一目瞭然でした。「君臨すれど統治せず」のハノーヴァー朝を頂き、貴族らの力の強い立憲君主制の大英帝國と、強大なブルボン朝を頂き、貴族らの力が減退していく絶対王政のフランス王国では、大英帝國の臣民の方が「自由」に暮らしていたのです。にもかかわらず、ルソーは「英国人民は奴隷だ」などと絶叫します。ルソーの言葉として有名なこの箇所ですが、こんなものは事実に反する、単なる誹謗中傷でしかないのです。つまり、ルソーは、「英国には身分制度が強固に存在している、平等ではない、だから英国人民は奴隷だ」などと言いたいのでしょう。しかし、身分制度こそは自由の源泉です。不平等こそは自由の証しです。それに、そもそも、自由と平等は別の概念ではありませんか。つまり、ルソーは、「平等」のことを「自由」だ、と、巧みに言葉の意味を転倒させているのです。これは、ニュー・スピークス(転倒語法)と呼ばれる洗脳技法です。転倒語法とは、言葉の本来の意味を逆さまにしてしまい、かつ、それを真実であると信じ込ませてしまう左翼のプロパガンダです。実は、ルソーは、この転倒語法の達人なのです。追い追い、見ていきましょう。この箇所は、次回も採り上げます。

  • 03Aug
    • 保守思想(憲法学)概説(12) 第2章 偏見(経験)(9)男女の違い(男らしさ・女らしさ)

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへいつとは知れぬ久遠の過去、高天原の天つ神々は、伊奘諾神と伊奘冉神に「この漂える國を修理(つく)り固成(かためな)せ」と詔されて、天の沼矛を賜った。伊奘諾神と伊奘冉神は天の浮橋にお立ちになり、天の沼矛を下ろしてコロコロとおかきまぜになると、その滴から淤能碁呂島ができた。お二人の神々は淤能碁呂島にお降りになると、天の御柱をお立てになり、更に八尋殿をお建てになった。お二人は天の御柱をお回りになり、深く、熱く愛し合い、夫婦となられ、大八洲と八百万の神々と、全てをお産みになった。伊奘諾神と伊奘冉神は、ただ皇室のご先祖にあらせられるのみならず、この國土の父母であらせられ、八百万の神々の父母であらせられるのである。我々は、今も伊奘諾神と伊奘冉神の愛に育まれて、この世にある。実に、我々の父祖の物語こそは、男女の愛の物語であり、それはただ過去の物語ではなく、今も続く久遠の愛の物語である。それは今のみならず、未来へと続く。過去とは今であり、それは未来でもある。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の君たるべき地なり。宜しく爾(いまし)皇孫、ゆきてしらせ。さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壤(あめつち)とともに窮(きわま)り無かるべし。」神々とその子孫である我々の間に於いて、凡そ男女の愛に勝るものはない。全ては伊奘諾神と伊奘冉神の愛から生まれ、そして今も、男女の愛は様々な事物を生み育む。そこには喜びも幸せもあれば、悲しみも不幸もある。それら全て含めて、神々の生みたもうたこの世である。さて、男女が愛し合い、男は女を守り、女は男を助ける。これは伊奘諾神と伊奘冉神の姿そのものであり、ゆえに男女の愛し合う様はそのまま神々の業である。男女はそれぞれ、その外見のみならず、その脳の構造さえも異なる。よって、その働き、能力もまた自ずと異なる。そして、男女はその異なりの故にこそ、忌み嫌い合うのではなく、相惹かれ愛し合う。凡そ、人は異なるものに対し、嫌悪を持つのが自然であるが、男女についてはこれは、全く当てはまらない。男女の違いこそは、お互いにお互いを神秘的で尊敬すべきものと思わせる。このような男女の外見上や脳の構造の違いは、男女によって形成されてきた社会(中間組織。追い追い後述する)や國の成り立ちに直接の影響を及ぼす。また、歴史的・伝統的に形成されてきた社会や國はまた、男女の違いに影響を及ぼす。かくして、國や社会のあり方と、男女の違いは互いに影響を与えつつ形成されていくのである。かかる男女の違い(男らしさ・女らしさ)とは、誰か特定の者や集団が、その理性で決定したものではない。男女の先天的な違いを前提に、歴史的・伝統的に自生的に形成されてきたものである。これこそまさに、フリードリヒ・フォン・ハイエクのいう自生的秩序(Spontaneous Order)であって、エドマンド・バークのいう偏見(経験)(Prejudice)そのものである。すなわち、男女の違い(男らしさ・女らしさ)こそは、我々の父祖から相続してきた道徳や慣習などそのものであって、不文の憲法(國體)の重要な要素を構成するものである。男女の愛は、如何に多くの崇高なものを育むだろうか。男女の愛は、相手を大切にし、尽くすことによって生じる智慧と、己を省みる心、そして己を相手の為に犠牲にし、相手を守る為ならば死をも厭わない勇気を育んでくれる。愛こそは、道徳の源泉であり、我々の命の源泉であり、我々が神々から相続したこの世の中で、最も崇高な様々なものの源泉である。夏、それは恋の季節だ。過去は今であり、今は未来である。「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の君たるべき地なり。宜しく爾(いまし)皇孫、ゆきてしらせ。さきくませ。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壤(あめつち)とともに窮(きわま)り無かるべし。」

  • 30Jul
    • ルソー『社会契約論』の正しい読み方」(1) 〜 序文 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ昨日の記事で、ルソーの著書『社会契約論』に対する批判・反論のシリーズを始める旨お伝えしましたが、早速、といっても週一くらいのペースではありますが、書いていきたいと思います。題名は、上記のように、「ルソー『社会契約論』の正しい読み方」にしました。もっと激しい、ストレートなものにしようかとも思いましたが、あまり感情に訴えるよりも、理詰めで淡々と、ルソー思想の不当性、おかしな点を明確に指摘していく、そんなシリーズにしていこうと思いました。このシリーズの趣旨は昨日の記事でも書いた通りですが、まず大前提として頭に置いていただきたいことは、マルクス・レーニン主義(社会主義・共産主義)というものは、左翼思想の一部分でしかない、ということです。従って、左翼思想を破砕するには、マルクスやレーニンの思想を批判することは、それなりに大きな意義はあり、決して無駄だとは思いませんが、やはりしかし、本当に根本から左翼思想を粉砕しようと思うのならば、マルクス・レーニン主義の土台であり根本である、デカルトやルソー、更にはヘーゲルなどの思想を批判せねばなりません。現在、時事問題その他でみられる、我が國を蝕んでいる左翼思想は、マルクス・レーニン主義というよりも、むしろルソー・ロベスピエール主義ともいうべき、もっと根本的なものです。社会主義・共産主義ではないので、単なる「反共」では通用しない点があり、やっかいなのです。このシリーズでは、『社会契約論』から、ルソーの思想を端的に表現している箇所を引用し、その引用箇所について「正しい読み方」という解説を施していきます。このシリーズをご覧になれば、ルソー・ロベスピエール主義という左翼思想の根本的な思想が把握でき、同時にそれに対する解毒剤をも入手することができます。社会主義・共産主義とは名乗らなくとも、左翼思想であることを見破ることができ、更にはそれに対する的確な批判ができるようになります。このシリーズは、このブログでも展開している『憲法学概説』と併せてご覧下さい。保守思想の基軸となる論を展開するのが『憲法学概説』、そして、進んで左翼思想を批判排撃するのが『ルソー「社会契約論」を読む』です。保守には、基軸となる思想が必須ですから、それに対する知識を欠くわけにはいきません。それがあってこそ、左翼思想への批判がより良く理解できると思います。批判や反論のみで基軸がない論は、説得力を欠きます。皆様のご愛読を宜しくお願い申し上げます。

  • 29Jul
    • マルクスよりもルソーを

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ今日はあまり時間がありませんので、短い記事を(笑)。といっても、内容は割と重要です。二十年以上前のソ連ロシアの崩壊と冷戦終結は、当時、「自由主義陣営は勝利した。社会主義・共産主義は滅んだ。これで、世界には戦争はなくなる。」などの、非常に楽観的な空気を國の内外に醸成しました。しかし、これが誤りであったことは、現在の我々の眼には明らかです。ロシアは支那との関係を強化しつつ、軍事力も増大させています。ウクライナへの侵略は耳目に新しいところです。我々が気を緩めれば、一瞬にして侵攻するであろうことは火を見るよりも明らかです。我が國は未だ、「戦後体制」からの脱却を果たせていません。占領基本法として運用されていた占領憲法を、サンフランシスコ講和条約発効後も、あたかも憲法典であるかの如く運用してきた結果、様々の問題を抱えています。それにしても、我が國に於ける左翼思想の蔓延は、ソ連の崩壊後にも顕著であることを考慮せねばなりません。ソ連の崩壊は、左翼思想の終焉、崩壊とはならなかったのです。一体、何故でしょうか。それは、色々な理由が考えられるとは思いますが、根本的には、左翼思想の根本は、マルクス・レーニン主義ではなく、ルソー主義ともいうべき、ルソーを中心とする思想であるということに尽きると思われます。つまり、ルソー主義を理論的に粉砕しなければ、左翼思想の蔓延は防ぐことなどできない、ということなのです。ルソーの思想を理論的に完全に破砕することに成功すれば、戦後体制からの脱却は大きく進むでしょう。そこで、いずれ、ルソーの代表的な著書である『社会契約論』を批判論破しつつ解説していくシリーズを始める予定です。『社会契約論』は、何の心構えも予備知識もなくそのまま読んでしまえば、左翼思想に洗脳されるように書かれています。非常に恐るべき書物です。エドマンド・バークの『フランス革命の省察』が保守思想のバイブルならば、ルソーの『社会契約論』は左翼思想のバイブルといえるでしょう。『社会契約論』を批判的に読むことで、左翼思想とは何か、我々は何に気をつけねばならないのか、明確に見えてきます。ご期待下さい。

  • 28Jul
    • 皇室典範講義(5) 〜 皇位継承の順序 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ本日は、皇室典範の第2条~第9条、皇位継承の順序についての規定を学びます。第二条 皇位ハ皇長子ニ伝フ第二条 皇位は皇長子に伝える。皇位継承の第一順位は、天皇の長子たる皇子です。第三条 皇長子在ラサルトキハ皇長孫ニ伝フ皇長子及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇次子及其ノ子孫ニ伝フ以下皆之ニ例ス第三条 天皇の長子がいないときは天皇の長子の孫に皇位を継承する。天皇の長子及び、その子孫がいないときは、天皇の次子たる皇子またはその子孫に皇位を継承する。以下、これに倣う。長子がいらっしゃらない場合は、その子たる孫に、これらの方々がいらっしゃらない場合は次子である方とその子たる孫に皇位を継承します。以下、これに倣います。第四条 皇子孫ノ皇位ヲ繼承スルハ嫡出ヲ先ニス皇庶子孫ノ皇位ヲ継承スルハ皇嫡子孫皆在ラサルトキニ限ル第四条 以上に於いては、嫡出である皇子を優先する。庶子である皇子については、嫡出である皇子が誰もいないときに皇位を継承する。第五条 皇子孫皆在ラサルトキハ皇兄弟及其ノ子孫ニ伝フ第五条 皇子及び皇孫が皆いないときは、天皇の兄弟とその子孫に皇位を継承する。第六条 皇兄弟及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇伯叔父及其ノ子孫ニ傳フ第六条 天皇の兄弟及びその子孫が皆いない場合は、天皇の伯叔父またはその子孫に皇位を継承する。第七条 皇伯叔父及其ノ子孫皆在ラサルトキハ其ノ以上ニ於テ最近親ノ皇族ニ伝フ第七条 天皇の伯叔父及びその子孫がいない場合は、それ以上に於いての最も近親である皇族に皇位を継承する。天皇の伯叔父に当たる方及びその子や孫に当たる方がいらっしゃらない場合は、それ以上に於ける最も近親でいらっしゃる方に皇位を継承します。前回の記事でも述べましたが、皇位の正統性とは、皇統に属する男系男子であること、以外にはありません。従って、男性皇族方は皆等しく、皇位を継承する正統性をお持ちでいらっしゃいますが、その順序はあくまでも、畏れ多くも当今の天皇からみて最も近親であらせられる方が優先します。第八条 皇兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス第八条 天皇の兄弟以上は、同等のお立場にあらせられる方々の間に於いては、嫡出でいらっしゃる方を優先し、庶子でいらっしゃる方を後にし、年長でいらっしゃる方を優先し、年少でいらっしゃる方を後にする。第九条 皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依り継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得第九条 皇位を継承される方が精神もしくは身体の不治の病をお持ちであらせられ、または皇位を継承するに於いて重大な支障をお持ちでいらっしゃる場合は、皇族会議と枢密顧問の審議を経た上で、前の数箇条の規定に従って皇位継承の順序を変更することができる。皇位継承の順序について、もしもこれを変更すべき必要があれば、それは皇室の内部に於いて自主的に決定されるべきものです。断じて、臣民たる我々の容喙すべきものではありません。臣下たる我々が皇位継承の順序について容喙することなど、不敬極まりないものです。第九条は、皇位継承について変更すべき事情が存在する場合に於いては、その変更は、上記の趣旨に則り、皇族会議と枢密顧問の審議を経て決定すべき旨定めています。

  • 27Jul
    • 保守思想(憲法学)概説(11) 第2章 偏見(経験)(8)「偏見」が自由を保障する

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ第1章 偏見(経験)(8)「偏見」が自由を保障する前述してきたように、憲法学上の「自由」とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことである。そして、それをもう少し具体的にいうならば、世界的にみれば、「自由」には概ね三つの形態があり、それは ①ルソー・ジャコバン主義の自由 ②ジョン・ステュアート・ミルの自由 ③英米保守思想の自由 であり、これらの中で正しい自由とは③の英米保守思想の自由であり、我が國に於ける歴史的・伝統的な自由の概念も、③に属するものである、ということであった。以上の詳細については、前回の『憲法学(保守思想)概説』の記事を参照されたい。さて、もう少し端的にいうならば、そもそも、③でなければ、「自由」などと称していても、実際には自由は全く保障されなくなる、ということなのである。①のルソーらの定義した自由は、それは全く口先だけの自由であって、実際には自由は全ての民から剥奪された。ルソー・ロベスピエール主義というカルト思想によって乗っ取られた革命フランスでは、ブルボン王家や貴族のみならず、フランス国民への大虐殺、法定手続なき処刑が日常茶飯事に行われたのである。また、②は、一見は非常に自由の保障に資するように見えても、肝心の自由を保障している仕組み、システムそのものを破壊してしまうものであるゆえ、場合によっては①に劣らず危険な考え方であるともいえる。ミルは、「英国のマルクス」と呼ばれる人物である。③は「父祖より相続した道徳や慣習、伝統など」という、自由の制限基準を示しており、また、それ自体が自由を保障する仕組み、システムをも守っているものでもある。これが、最も正しい「自由」である。端的にいえば、保守思想に基づく憲法学の最大にして究極の目的こそは、自由の保障である。真正の自由の保障こそが、保守思想憲法学の存在意義である。自由とは、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの範囲内に於いて許容され得る、各人の内心や行動の範囲のことである。すなわち、「法(Law)」の下の自由である。以前の記事で、「偏見(経験)」の代表的なものを例示列挙した。これらは例示であるから、他にも重要な「偏見」があり得るであろう。そのことを前提に踏まえつつ、保守思想の三大要素である「國體(憲法・時効)・「偏見(経験)」・「相続(世襲)」の関係を、以下に図示しておく。これについては、随所でまた採り上げて論じていく。【偏見(経験)】→→「偏見」の集合が「國體」→→【國體(憲法・時効)】・皇室                         父祖                              ↓・身分制度                        ↓                             ↓    ・國語                          ↓ ・家族            「國體」を子孫へと【相続(世襲)】させる・男女の別                        ↓                              ↓ ・自由市場経済                      ↓                              ・国際関係(外交・國防)                子孫そして、偏見(経験)とは、我々が父祖より相続してきた自由を保護し、守る機能を有している。偏見が破壊されることは、國體の破壊であり、それは自由の破壊である。自由とは、何らかの社会的制約を受けつつも、各人の有する思考や行動の許容範囲のことである。そうであれば、自由が保障される為の最大の条件こそは、まず、政府が強大な力を持ち過ぎない、ということである。更に、皇室や家族、自由市場経済などをはじめとする「偏見」が強固に存在していること。「偏見」は各人の理性に限界がある以上、これを守らねばならないものである。「偏見」を尊重するところに、他者への干渉は軽減される。ここに、「父祖より相続した道徳や慣習、伝統など(法 Law)」の下の自由が生じるのである。故に、「偏見(経験)」とは「法」のことである、と言い換えても良いだろう。

  • 24Jul
    • 再掲・8月30日(日)大阪市での勉強会のご案内

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ先日もご案内しました、大阪市での憲法・保守思想勉強会のご案内です。再度掲載致します。皆様のおいでをお待ちしております。山岸 崇の近現代史講座  正統歴史セミナー〔正伝協〕 近現代史~ 偏向を正す ~『これが正しい公民授業だ!』*現在、学校教育現場(公民授業)で行われている理性主義を基とした偏向教育の虚構を討つ勉強会です。 いわゆる偏向教育とは、ただ歴史教科書の分野に留まるものではありません。それは、実は公民教科書の分野にも及んでいます。 ホッブズ、ロック、ルソーなどのいわゆる理性万能思想への偏向は、國の行く末を誤らせることに留意すべきであり、我々は、エドワード・コーク、エドマンド・バーク、アレクサンダー・ハミルトンなどの保守思想をも学ぶことによって、初めて我々の正しい「自由」を守ることができます。 自由と平等は矛盾します。平等は自由の敵であり、自由は平等を排斥します。 我々の國と自由を守る為、必要な正しい公民知識とは。 今回は、これをテーマに勉強会を行います。日時:8月30日(日) 14:00 ~ 16:00(開場 13:40)会場:大阪市立北区民センター・第1会議室 大阪市北区扇町2-1-27対象:一般(10歳以上)参加費:¥1,000円(資料代含む)受付:090-1079-8552(正伝協/よしかわ)*お申込受付はお電話にて。当日申込も会場にて受け付けております。

  • 23Jul
    • 保守思想(憲法学)概説(10) 〜 第2章 偏見(経験)(7)「自由」とは何か 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ第1章 偏見(経験)(7)「自由」とは何かさて、話は最初に戻り、三つの相反し、排斥し合う憲法学上の「自由」である。まず一つは、フランス革命の理論的支柱となったフランス啓蒙思想、いわゆる理性万能思想(左翼思想)を代表するジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)のいう「自由」である。つまり、「自由、平等、博愛」の自由である。ルソーは、フランス王国臣民がその父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの「法」を否定し、そのようなものと断絶した、基本的人権と民主主義に基づく「自由」を提唱した。この「自由」は、立法者(独裁者)の意思を絶対とする人民主権思想に立脚する「自由」である。従って、この「自由」は、立法者の意思の絶対的制限下にある自由であり、その保障は限りなくゼロに等しいのである。フランス革命に於いて、「人権宣言」などが出されるも、そのような文言は事実上全く無視され、法定手続なき処刑、自由の剥奪、大虐殺が日常茶飯事に行われた。フランス革命やロシア革命、それに続くいわゆる人民民主主義諸国の誕生とそれら諸国に於いて起こった諸々の人類的大悲劇は、ルソーの「人民主権」とそれに基づく自由とは、暗黒の圧政をもたらすもの以外の何でもないことを明確に証明したのだ。そして、事は、他の主権論思想についても同じである。天皇主権や国民主権の思想は、人民主権と相対立するかに見えて、実は全く同根の、暗黒の圧政をもたらす思想である。「主権論」という、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの「法」を否定し、ある特定の人や集団の意思を絶対視する思想は、一人一人の「自由」を必ず圧殺し、消滅させてしまう。これについての詳細は、第三章「國體(憲法・時効)」で述べる予定である。この点、大日本帝國憲法は、第4条に於いて、「天皇ハ・・・此ノ憲法ノ条規ニ依リ」統治権を行使することが定められており、天皇といえども大日本帝國憲法とその背後にある「法」(皇祖皇宗の遺訓)を遵守せねばならないことが明文化されている。よって、大日本帝國憲法は、いわゆる天皇主権論を明文で明白に否定し、拒絶しているのである。さて、二つ目の「自由」とは、19世紀英国のジョン・ステュアート・ミル(John Stuart MiIl)のいう「自由」である。ミルは、自由を、「他人に害悪を及ぼさない限りに於いては何事もなし得ること」と定義した。我が國に於ける、いわゆる憲法学のテキストに於いては、この意味の「自由」が最もポピュラーと思われる。なるほど、自由をこのように定義するならば、ルソーのいう自由(またはホッブズの君主主権に於ける自由、ロックの国民主権に於ける自由)の如く、主権を持つものの絶対的な意思により、各自の自由が一方的に圧殺されてしまう恐れは少ない、といえる。自由自体の許容範囲を、主権を持つものの意思に全て委ねてしまう、ホッブズの君主主権、ロックの国民主権、ルソーの人民主権に比べて、ミルによる「自由」の定義は、「他人に害悪を与えないこと」という、一応客観的かつ明確な判断基準により、各自の自由の範囲を、他者の絶対的判断から守る機能を有しているからである。この観点からすれば、ミルの自由の定義は、ホッブズやルソーらの主権論による「自由」よりは格段に、各自の自由の保障に資するものである、と評価できるように思われる。しかし、これは大きな誤解である。「他人に害悪を与えない」という基準には、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などを保守する、という観点が全く欠落している。つまり、この基準によれば、他人に害悪さえ与えなければ、如何なる不道徳や伝統破壊なども行って構わない、ということになってしまう。そして、「他人に害悪を与えていない」という抗弁は、ともすれば、実際には他人に何らかの害悪を与えている事実を誤魔化し、見逃させる口実として使われている場合もある。かくして、ミルの定義による「自由」によれば、父祖より相続した道徳や慣習、伝統などの規範は、非常に巧みに破壊されてしまう。実に、ミルの「自由」こそは、緩やかで狡猾に行われる革命の手法なのだ。大いに警戒せねばならない。第三の意味の「自由」こそは、ミルではない、英米に於ける本流の政治思想、すなわち英米保守思想の定義する「自由」である。「法(Law)」すなわち父祖より相続してきた道徳や慣習、伝統などの下に於ける「自由」である。これが、正しい「自由」である。英米保守思想とは、概ね、16世紀英国の下院議員にして法曹家であるエドワード・コーク(Sir Edward Coke)に始まり、18世紀英国の下院議員エドマンド・バーク(Edmund Burke)によって大成されたものである。父祖より相続した道徳や慣習、伝統などを「法」として尊重し、命令も法律なども、全て、「法」に従わねばならない、とする「法の支配(Rule of Law)」なども含む。前回の記事でも解説したように、我が國に於ける歴史的・伝統的な「自由」の概念も、この系譜に属する。大日本帝國憲法の保障する「自由」も、「皇祖皇宗の遺訓(法 Law)」の下に於ける自由であるから、大日本帝國憲法の告文はこのことを確認したものであるといえる。英米保守思想については、これまでも随所で解説してきたが、この『憲法学(保守思想)概説』に於いても、第三章 憲法(國體・時効)で詳説する予定である。

  • 22Jul
    • 皇族会議と枢密院 〜 皇室典範は皇室の家法 〜

      ランキングに参加しています。何卒クリックをよろしくお願い致します。にほんブログ村政治 ブログランキングへ皇室典範は、皇室の家法です。元来、二千年以上にわたって我が國に於いては、皇位継承についての「法(祖宗の遺意)」は不文でした。そして明治維新に於いて、諸般の事情から、これを成文化して皇室典範としたのです。皇室典範は、明治19年(1886年)から明治21年(1888年)までの二年間にわたり、井上毅を中心に、伊藤博文と柳原前光の三名によって起草されました。この草案は、明治21年から翌22年(1889年)にかけて、枢密院で審議され、可決成立したのです。枢密院での審議には、明治天皇、議長として伊藤博文、副議長が寺島宗則、皇族方が伏見宮貞愛親王、有栖川宮熾仁親王、有栖川宮威仁親王、小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王が出席されました。大臣の参加は十名、枢密顧問官は十五名。総勢三十三名が審議に参加されたことになります。皇室典範は、皇室の家法であるがゆえに臣民の干渉を許しません。皇室は國體の中心であり、その神聖性と尊貴性に於いて、臣民がその家法に干渉することは、許すべからざる不敬であります。従って、皇室典範を止む無く改正せざるを得ない場合が出来するならば、その改正は、皇室典範の定めるところにより、皇族方ご自身の手に委ねられることとするのが、皇室典範が皇室の家法たる法的性質に最も叶うものです。皇室典範第62条 将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ之ヲ勅定スヘシこのように、皇室典範を改正するには、皇族方の合議体である皇族会議と、枢密院に於ける審議さえ行えば足りるもの、とされています。帝國議会の審議は必要ない、というよりも、むしろ帝國議会に於いては審議してはならない、ということなのです。帝國議会に於いて皇室典範の改正を審議することは、畏れ多くも皇室の家法たる皇室典範に対して、臣下が容喙することとなるわけですから、許すべからざる不敬という以外にありません。皇室典範第55条 皇族会議ハ成年以上ノ皇族男子ヲ以テ組織シ内大臣枢密院議長宮内大臣司法大臣大審院長ヲ以テ参列セシム皇族会議は、成年の男性皇族方が中心となって組織されています。まさに、皇室に関する事柄について審議するに相応しい機関といえます。同第56条 天皇ハ皇族会議ニ親臨シ又ハ皇族中ノ一員ニ命シテ議長タラシム畏れ多くも天皇は、皇室の家長としてのお立場から皇族会議にご出席され、これを監督されます。枢密院官制第1条 枢密院ハ天皇親臨シテ重要ノ國務を諮詢スル所トス枢密院とは、國家の重要な政策の決定について審議する機関です。従って、枢密院にも、畏れ多くも統治権を行使される天皇が自らご出席されます。因みに、「枢密院」とは、英国のPrivy Council を翻訳した名称です。このように、皇族会議と枢密院、皇室典範の改正を議論する機関の双方に、天皇は親臨なさいます。皇室典範が皇室の家法たる以上、当然のことといえます。さて、このように見てくると、現在“皇室典範”を称している占領典範が、言語道断不遜にも皇室から皇室典範の改正権を剥奪し申し上げていることこそ、許すべからざる不敬不忠の悪逆であること明白です。占領典範は皇室典範とは、到底呼べるものではありません。占領典範の不法性、不当性については、いずれまた取り上げます。