金銭で図られる経済的な「富」はともすると、それを得た人間の天賦の才能だけによるものだと語られることが多い。
その人だけが持ちうる運。たまたま好運だったから、と。
それこそそういった人達は、金銭では計り知れない価値を世の中に生み出したことによる「富」を手にした人間を見る度に、あるいは、そういった類の話を聞く度に、
「自分には、そんな天才的なことできっこない。」「自分とは別世界の話だ。」と思う人はどれほどいるのだろうか。
確かに、先祖代々受け継がれてきた「富」はあるし、それにあぐらをかいてあたかも自らが成し遂げた結果だと夜郎自大に跋扈する人間もいる。だが、ここではそういった境遇の人は除外して考えてみたい。
富とは、たまたま手にした天からその人のもとに舞い降りてきた好運でも、たまたまその人が優れてるからといって天が与えたモノでもない。
集約してみると、富とは、その人のまじめな努力の副産物なのである。
歪曲でも何でもなく、日夜努力してきたことがある時点を堺に、それが認められ、世の中にアウトプットしてくるのだ。ただし、ここが重要。ある時認められるまでは、紛れもなく、血と汗と涙の塊のような努力の結晶のようなものがピタッと添うようにへばりついているのだ。
世のスーパーモデルも、歌手も、俳優も、脚本家も、作家も、野球選手も、格闘家も、お笑い芸人も、起業家も、漫画家も、どんな職種に就いている人も満遍なく。もちろんもっと身近なことを言うならば、何かの資格取得にせよ、就職・転職活動、趣味の腕の向上や研究成果、運動によるシャイプアップ、食事への気配りのよる内面の美の追求にせよ、何にせよ、
富とは、その人のまじめな努力の副産物なのである。
この言葉なくては、おそらく彼女らや彼らは存在していないといっても過言ではないだろう。
キーワードは「まじめな努力」。
まずは、まじめに生きること。
以下の、某モデルを第三者が非常に高く評価していた文章を読んでもらうと、私が言うところの「まじめな努力」がより鮮明にわかるだろう。その論者は、あの妖艶な美貌―細い足に、美曲線、ストレートな髪を維持するには相当な心がけとそれを裏付ける努力がなくちゃ、絶対にできない、と。続けて、世の中の流行を形作る最先端にいる女性としての意識とその自覚が、彼女自身の美貌維持の大きな支えであり基盤にある、といった内容だったと思う。今を輝くスーパーモデルは、モデルとしてこの世に生まれたのではなく、自らを磨けば光るダイヤモンドのように、日々精進してきた結果として「スーパーモデル」という職業で、今を輝いているのだ。
これは、万人に知られる職種に就かぬ人だって、同じこと。万国共通であり、万人共通。
自分の中にある強い思いや価値が、結果的には自分の内面の輝きを増し、それが世の中に開花した時、自分にしか生み出せない富を手にできる。自分にしか生み出せない価値を生み出す才能。これを生み出すには、一朝一夕にはできない涙ぐましい努力あってこそのことなのだ。もし、どんなに努力してもシェイプアップしないし、語学も身に付かない、それに周囲からの評価も上がらないっていう人がいるなら、一言言いたい。成し遂げるまで努力しな、と。そうでなきゃ、自分の努力が足りないんだよ、と。自分の限界まで挑戦して初めて達成感というものの裏にある、自分の内面での確かなる変化が見えてくるんだから。
檜の大舞台の頂上へ辿り着くことができるのは、ただただただ、その本人の「まじめな努力」によるものなのだ。