広島原爆投下から79年 | 三田市のお好み焼きこのみママのブログ

こんにちは。

兵庫県三田市の広島のお好み焼きこのみのママです。

 

 

 

2024パリオリンピックも中盤に入り、盛り上がっていますね。

 

日本選手もメダル獲得、惜しくもメダルを逃した選手もいますが、オリンピックはも魔物がいるって言われるように実力だけではないようです。

 

いろんな問題多いオリンピックみたいですが、頑張ってほしいですね。

    

 

        クローバー  クローバー  クローバー      

 

 

 

昨日8月6日は広島に原爆が投下された日です。

 

8月6日は 世界平和を祈る日として広島県広島市が制定した記念日 で、「平和記念日」とも呼ばれています。

 

 1945(昭和20)年8月6日の8時15分、広島市内に原子爆弾が投下。

 

広島に原爆が投下されてから79年。

 

被爆者の平均年齢が85.58歳になりました。

 

廃墟となった広島市街

 

原爆投下については、原爆を投下するターゲットを決めるために1945年4月に設けられた標的委員会が、京都、広島、横浜、小倉、新潟の5つの都市を候補にあげていた。

 

京都はまだ爆撃を受けていない大都市であるという理由から、広島は大規模な軍事基地があり、爆弾の破壊力が最大になる地形であるため候補に入れられた。

 

1945年6月までに、京都、広島、小倉、新潟の4都市が標的として絞り込まれる。

 

6日広島投下、3日後の9日長崎投下。

 

広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」(写真:ロイター/アフロ)

 


原爆投下後、日本からの降伏の連絡を待っていた。

もし、日本が降伏しない場合は次の原爆投下を考えていた。

 

 

この電報はトルーマンが以下のように言及したと伝えている。

 

 

「大統領は、東京に原爆を投下するよう命じる以外にもう選択肢はない、と悲しそうに述べた」

 

しかし、この時点で、次の原爆はまだ使用可能な状況ではなく、使用可能になるまでにはあと1週間要すると考えられていた。

 

また、同じ日の数時間後、日本から降伏の発表が届いたことから、東京に原爆を投下するという選択肢はすぐに消えた。

 

もし、日本がこの日降伏を発表することなく、1週間後に次の原爆が使用可能になっていたなら、東京に原爆が投下されていた可能性もあったのかもしれない。

 

 

広島には原爆ドーム以外にも当時の建物が残されている。

 

広島陸軍被服支廠

 

陸軍被服支廠とは、軍服・軍靴などを製造・修理・保管・供給するところです。

 

 今、残っている赤レンガの建物は、1913年(大正2年)に、倉庫として建てられました。

 

 

 

広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)もしくは出汐倉庫(でしおそうこ)は、広島広島市南区出汐にある大日本帝国陸軍の被服として建設された施設。

 

 

内部はそのまま残されています。

 

 

この赤レンガの建物は、被爆時には広島陸軍被服支廠(ししょう)でした。 

被服支廠は、軍服や軍帽など、兵隊が身に付ける小物や付属品等を生産、修理、保管、供給する施設で、大規模な製造・修理工場と保管・供給を行う倉庫群がありました。

 

 

今は

 

 

こうしてみると、戦争は兵士だけでなく国民みんながかかわっている。

 

兵士(国)のために後方支援の形で、いやおうなしに参加させられる。

 

戦争は、一方的に加害者と被害者に分けられるものではなく双方ともに加害者であり被害者にもなるということ。

 

だから、できるだけ武力ではなく交渉で話し合ってほしいですね。

 

今も世界では戦争をしています。

 

戦争で幸せになる人はいません。

 

人を殺し、建物を壊し、文化財を壊し・・・人権さえも奪う。

 

原爆投下から79年も経つのに、人類は進歩してないのは悲しいですね。

 

平和が当たり前ではなく、有難いということを痛感する日ですね。

 

 

黙祷

 

 

 

 

いつもありがとう。

今日も笑顔で!!