東京回想・消えた川、江戸川区内の消えた川の続きである。
次は、「堀江並木通り」となった水路である。

【名称】
「堀江並木通り」となった水路(名称不詳)。

【所在地】
江戸川区中葛西5-8。

【機能】
人工河川跡。

【起点】
江戸川区中葛西7-8。

【終点】
江戸川区中葛西5。

【埋立区間】
全域。

【形状】
行き止り型。

【長さ】
約860m。

【幅】
約9m。

【開削年】
不詳。

【廃止年】
1974年以前(詳細不詳)。

【名称の由来】
-。

【かつて存在していた橋】
1947年現在6カ所程度。

【現況・跡地】
堀江並木通り。

【痕跡】
道路としておおよその地割は残る。

【コメント】
東京都区内の消えた川。
荒川以東、江戸川内での消えた川である。
新川以南の続き。
ここからは左近川の流域の小河川である。
結構、細かい水路があるので、探索である。

「堀江並木通り」になった水路である。
名称は不詳である。

場所は、左近川の海岸水門から約180m上流部分。
ここから北に向かう水路である。
この地点から現在の堀江並木通りを北に約500m進む。
交差点を道なりに北東へ曲がり約230mほど進む。
現在の清砂大橋通りに行き合うところで、北西に直角に左折。
葛西橋通りを越えて、130mほど先の中葛西稲荷神社の手前で終点である。

全長は、約860m。
幅は約9m。
つまり、「五間堀」ということか。
現在はおおよそ堀江並木通りとなっている。

1947年の航空写真を見ると、和船が停まっているので、この水路も対象である。
この一帯、繰り返すが、川に沿って漁村の家々が並ぶほかは全部農地である。

積層された地図と航空写真から確認である。

この水路も、明治初期の迅速測図にも描かれている。
なので、江戸時代からある水路と想定される。
つまり、江戸川のこのあたりの地形は、江戸時代からつい最近まで、風景は変わっていなかったようだ。

直線で形成されている水路などで、人工的なものなのだろう。

そして、明治・大正の地図を見ても、そのままである。
Wiki「左近川」の項によると、葛西地区に「葛西浦漁業組合」が組織されたのが、1903年(明治36年)。
つまり、明治半ばまでは「漁村」の流路としてこの川の流域に家々は建っていないようだ。

明治から昭和の初めまでの地図では、全く変化なし。

1935年の航空写真を確認する。
基本的には、それ以前の地図と、ほぼ同じ風景である。
既に水路には和船が係留してある。

1947年の航空写真を見る。
水路及びその周辺は戦前のまま。
変化なし。

1963年の航空写真を見る。
水路には、たくさんの和船が係留されている。
基本的に構造的に変化するような新しい道等は、まだできていない。
完全に活きた水路である。

この後、水質汚染等が発生し、1964年にこの地域では漁業権を放棄することとなる。

1974年頃の航空写真を確認。
残念。
水路はすべて埋立済み。
清砂大橋通りはまだこの地には至らず。
道路予定地は元の水路の地割をそのまま埋め立てた状態である。

1980年前後の航空写真では、現・清砂大橋通りは斜めに横切る新田仲町通りまで完成。
筆者の記憶では1990年代に入ってからかなりの間、この道は繋がっていなかったように記憶している。

まあ、1970年代初めの埋立のため、全部道路になってしまった。
もう少し遅ければ、親水公園となっていたのではなかろうか。