神のはしため ルイザ・ピッカレータ
神のみ旨の小さな娘
第7巻より
1906年11月6日
神の意志に生きる魂の信仰と希望。
私はいつものように祈っていました。—— 何をするにしても、まるで主と共に、主ご自身の御心で行っているかのように。私は使徒信条を唱えていましたが、自分でも気づかないうちに、イエス・キリストの信仰によって、多くの不信仰を償い、すべての人に信仰の賜物を与えることを望んでいると言っていました。その時、主は私の内面で動き、こう言われました。
「あなたは間違っています。私には信仰も希望もなかったし、それらを持つことも出来ませんでした。なぜなら私は神そのものであり、私は愛だけであったからです。」
「愛」と聞いて、私は愛だけになれることがとても心地よかったので、私は注意も払わずに、さらにくだらないことを話しました。
「主よ、私もあなたのようになりたいのです。すべては愛で、他には何もないように。」
主はこう付け加えました。
「これが私の目標であり、私がしばしば完全な諦めについてあなたに語るのは、このためです。なぜなら、私の意志の中に生きることによって、魂は最も英雄的な愛を獲得し、私自身の愛で私を愛するところまで到達するからです。魂はすべての愛となり、すべての愛となることで、私と絶え間なく触れ合います。だから魂は私と共にあり、私の中にいて、私のために私の望むことをすべて行なってくれます。また魂は、私の意志以外のものを何も動かさず、望ます、その意志には永遠なるもののすべての愛が封じ込められ、魂自身も封じ込められたままとなります。このように生きることによって、魂は信仰と希望をほとんどなくします。なぜなら、神聖な意志の中に生きるようになると、魂はもはや信仰と希望とのつながりを感じなくなるからです。魂は神の意志の中で生きているので、もし魂が神の意志を見いだし、それを自分の食べ物にしているとしたら、魂は何を信じなければならないのでしょうか?もし魂が神の外ではなく、神の中に生きることによって、すでにそれを所有しているのだとしたら、魂は何を望まなければならないのでしょうか? それゆえ、真の完全な諦めは、魂が神を確実の所有するための確かな予定の印なのです。 分かりましたか?よく考えてみなさい。」
私はまるで魔法にかけられたかのようにその場に留まり、自分に言い聞かせました。
「本当に人はこんなところにまでたどり着けるの⁉」と、私は疑って言いました。「もしかしたら神は私が何をするのかを見るために私を誘惑し、私にもっとくだらないことを言う場を与え、私のプライドがどこまで達するのかを見せたかったのでしょう。しかし、くだらないことを話すのは良いことです。少なくとも誰かが彼に何かを言わなければなりません。そして、人を死から生へと甦らせる主の声を聞くと言う恵みをいただけます。」そして他にどんなくだらないことを言えるか考え続けました……。その瞬間、主が再び動かれ、こう付け加えられました。
「私を誘惑しようとしているのはあなたであって、私ではありません。それに私の真理を疑うのはやめなさい。」
そして主は沈黙しました。
私は混乱し、主が私に言われたことを考え続けました。しかし、誰がすべてを語ることができるでしょう?これらは表現することができないものです。
みなさんに神様の祝福がありますように
■ ヨハナ通信 ■
久々の更新です。
暑くて体調不良、& 祈り不足のために
神様から離れていました。
祈りは大切ですね(*´ω`*)
「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。
日本では4巻まで発行されています。
外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘
こちらになります↓
Nos com prole pia, benedicat Virgo Maria.