◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 605」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 605」
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≪(承前)戦争と平和について人類を真剣に考え込ませている二番目の要因は、異なる国々の間の事柄を処理する際に正義の観念が徐々に支配的となりつつあることである。

 

 

「正しかろうが間違っていようが我が祖国」などという言葉はもはや、自尊心に満ちた人々に受け入れられるようなスローガンではなくなってきている。

 

 

国際関係において問違ったことが行われ、正義がごく当たり前に否定された時代には、戦争はしばしば不可避の事柄と見做されていた。

 

 

だが文明が進歩したおかげで我々は次の事柄をより一層強く認識しなければならなくなってきている。

 

 

即ち利益は共有し合わなければならず、国々は相互に依存し合わなければならず、さらにまた各々の国家の繁栄は、全部とは言わないまでも他の大部分の国々の繁栄によってのみ維持され強化され得るのだ、ということを≫

 

 

この講演が行われたのは、一九三五年三月二〇日であった。しかし我が国は、一九三三年三月に国際連盟を脱退し、一九三四年十二月には、ワシントン条約を破棄していた

 

 

米国は一九三三年三月に大統領緊急命令で、銀行の4日間の休業と、金輸出が禁止された。

 

 

一九三三年六月から七月にかけてロンドンで行われた世界経済会議も失敗に終わり、斎藤大使の講演直後の十月には、エチオピア戦争が起こって枢軸と反枢軸側との対立は、ますます深まっていった。

 

 

そんな国際情勢を背景にすると、戦争と平和に対する斎藤大使の“正論”が理解されたかどうかは疑わしい。

 

 

しかし、大使は続ける。
≪もちろんこの過程はまだ完成に到達したわけではない。多くの場合において正義は侵害されている。

 

 

人種的偏見は何の根拠も無い精神的優越感を今なお生じさせている。貪欲はしばしば人間の活動を誤った方向へ導いてしまう。

 

 

憤怒と疑惑は未だに根絶され得ない。だがそれにもかかわらず、他の手段によって正義を実現しようとする人間の意欲は大きく進歩した。

 

 

現代世界に於いては不正から生じる争いは、結局のところは人間の悲しい性であるが故に時折ぶり返すことはあるにせよ、日々小さなものとなりつつある。道は紆余曲折であるかもしれないが、我々は高貴な目標の方向へ向かって着実に進んでいる。

 

 

 時が経つにつれてこの点に関する我々の望みはより明るいものとなっている。ルート氏はかつて次のような幸福で意義深い意見を漏らした。                         

 

 

「人間性の中には善なる部分があまりにも多く存在しているので、人はよりよく知り合うようになればなるほど互いに好意を持つようになっていく。

 

 

そしてこのことは、我々が世界平和を促進しようとして模索する別の方法をも示している。それは交流を通じての国際的融和による方法である。

 

 

但しそれは旅行者や事業家の型通りの交流であってはならず、堅苦しい儀礼を取り除いた親切な思いやりの、真の知己・個人的友情の交流でなければならない。

 

 

そしてそれはまた、新聞を通じての正確な情報の流布による方法であり、反対意見よりもむしろ賞讃の念を示すことに注意を払う方法であり、信頼してしかるべき時には公然と信頼し他国の国民に対して我々が抱いている好意を率先して表明する方法であり、利害関係が世界的規模で絡まっているような無数の場合に協力する方法である。

 

 

さらにまたそれは、様々の手段で正しい方向へ向かうように絶えず仕向ける方法である。これはゆっくりとkオ梃C親擦里蠅任△襪韻譴匹癲・个泙困紡海韻譴仆纊垢妨悊鯀佞靴討・襪世蹐Α

 

 

 我々は国際的な正義の目標に近づきつつあるけれども、目標に到達するまでにはまだ多くの距離を乗り越えなければならない。ヨーロッパにもアメリカにもアジアにも不平、不満、不和が満ちている。

 

 

様々の形の厄介な問題が毎日世界の何処かで頭をもたげている。そして世界の国々は相変わらず軍備や再軍備を続けている。それは実に悲しい光景である≫

 

 

K・カワカミ氏をブレーンとした斎藤大使らしい、鋭い世界観が各所にみられる

 

 

しかし、経済不況に苦しむ米国政府初め、国民たちには大使の考え方に同感できても現実がそれを許さなかったのではなかったか?

 

 

≪世界大戦の悲劇がまるで忘却の彼方に押しやられてしまったかのように、多くの列強諸国は軍事力の新しい装備をお互いに競い合っている。

 

 

アメリ力合衆国でさえもこの競争の中に引きずり込まれてしまった。世界大戦での経験は諸々の国々の陸海軍設備に活かされ、新しい防衛施没の建設に結びついた。

 

 

新しい要塞線、より新しくより大きな戦車、より重くより速い飛行機、致命的な毒ガス、ユトランド沖海戦以後建造の戦艦、などが出現したが、これらはそれ以前の如何なるものと比べてもはるかに一層強力で、かつまた値段の張るものばかりである。

 

 

世界大戦以前の時代と比べると、極めて短期問の問に世界の国々の戦闘の設備・組織は、無限なまでにより恐るべき破壊的なものとなってしまった。

 

 

 だがその埋め合わせになる取り柄もある。今や軍備の心理は以前とは異なったものになっている。これらの軍備は確かに巨大なものではあるけれども、少なくともその軍備を作って保持している国の観点から見れば、単に防衛だけを目的としたものなのである。

 

 

そのような心理面での違いは、軍縮あるいは軍備制限のために締結されたいくつかの国際協定の中に表れている。そのような協定は世界大戦以前の時期では決して結ばれなかったであろう。

 

 

そしてより一層多くの軍縮協定が将来締結されるであろう、と私は確信をもって予言する≫

 

 

第1次世界大戦という人類の悲劇に学んだ者は少なかったようだ。のど元過ぎれば熱さを忘れる人間らしいが、歴史に学ばないのも人間らしい。「歴史は繰り返される」ことを証明して余りある。

 

 

大使の軍縮に関する予言は、核兵器を持った超大国では一応の成果を上げている感があるが、世界レベルでは顕著な成果は得られていない。それどころか、弱小国の横暴を制御できないと言う危機的状況を生みつつある。(元空将)