読むたびに、言葉の隅々に感じる偏見なのか、若さゆえの浅慮なのか、世間に塗れてしまっているようにも感じるのです。
でも、前記事の高偏差値校の高校生の『「普通」は、みんながそう思ってること、それを「偏見」だというのは、あなたは「偏見が過ぎてる」んじゃないですか?』も同じで、高校生の素直な気持ちを言葉にするとこうなるのかもしれないんだけど。
追記のところに「イタい」とか「偏見も含めた自分の視点」と書いてあるのでアウトプットは大事、内なる自己を見つめて成長しいていくことは大切なことだと改めて思います。
さて、わたしが感じる言葉の隅々に感じる偏見なのか浅慮なのか、それについてです。
>綺麗な西洋風の家が並ぶ住宅地内に、24棟もの巨大な「けんじゅう」がそびえ立つ姿は要塞のようであった。
確かにそう見えるんだと思うけど『要塞』と例えるのは読んでいて苦しくなる。学校では、要塞とは「外敵から守るための大きな建物」と習うかもしれないけれど、奴隷貿易のことは学ばなかったのかな?
その『要塞』は、アフリカ各地でとらえられた人々が新大陸へ売られる前に使われていて、そこで何が起こったか?
高校の歴史では習うと思うけど、「奴隷貿易」という言葉を覚える程度で、さらりと流れて心に残らないのは本人たちのせいではないけど、『「けんじゅう」がそびえ立つ姿は要塞のようであった。』は、心が苦しくなる、そして心に残らない暗記が学びだということに憤りを感じます。
>幼稚園と保育園の差、
>しじゅう(市営住宅)で朝から晩までゲーム、
>近所の家は「早く家で勉強しなさい!!」と追い返される、
>「お母さんなんで帰って来んと?」その子に聞くと、「彼氏のとこにおるけん。」しじゅうやけんじゅうにいる友達のほとんどには、お父さんがいなかった。
>ヒョウ柄のパーカーで受験会場にやって来たが、合格することはなかった。
>晴れて公立中高一貫校に入学した私は、毎日が驚きの連続であった。話が通じるのだ。小学生の頃は会話の中で「どういう意味?」と尋ねられることはしょっちゅうだったが、ここなら相手が自分のことを深く理解してくれる。それが何よりも心地よかった。
確かホリエモンも受験した中学に行った言葉が通じるって驚いたと、似たようなことを言ってたから、
全て本当に感じたままなんだろうけどと違和感を感じる、
社会の偏見をそのまま受けて、その偏見を正しいとしてしまっているような、幼い素直さを盾にして言いたいことはなんだろう・・・
けんじゅうと比較したらマシだけど、田舎は都会のように恵まれていないということなのか?
私は東京で育って、東京はパジャマで歩ける楽な街だと思っている(実際スエットで歩けますよね?)ので、そのコンプレックスというものはわからないけど、
うちの息子もHLABに参加したことがあって、確かにそういう意味では有名私立高校に通っていたけど、息子から話を聞いたわたしは「その異様さ」にものすごく驚きました。
確かにそういう人たちもいるし、「箱入りのお菓子を持っていくのが相手の家に対する礼儀だ」というコミュニティーもあるけど、そうじゃないよね、と思っていてほしいし、なんならその優生思想っぽいものをぶっ壊してほしいと思ってしまいます。
小学校には勉強のできる子もいるし、できない子もいた。貧しい家庭の子もいたし、裕福な家庭の子もいた。複雑な環境の子もいた。とにかくさまざまな子がいて、それは社会の縮図のようだった。そこで私たちは、お互いの背景を全く考慮に入れず、ただただ相手を「○○くん」「○○ちゃん」という名前で認識し、手を握っていた。
こう書かれているように、大人になっても考慮に入れずに手を握りあえる社会を作っていって欲しいな、と思います。
教育がこういう思考にさせていく、親世代から脈々と受け継がれる裏の価値観、だから、もっと考える教育が大事だよねと感じるのですが、
17歳が自分に向き合って曝け出して本当に立派だと思うし、確かに世の中にある裏の価値観を正当化しないで踏ん張っている姿が感動を呼ぶのだと思う。
彼女らしく世の中を繋いで欲しいと願ってます!