高き天を仰いで。 -59ページ目

高き天を仰いで。

サムおじさん。のブログです。

教会の礼拝にあずかりたいのです。
そういって、わざわざ仕事を空けてもらった日曜日。
しかし今日は教会へさえもいけなかった。昨日から風邪をひいていて、とても起き上がれる状態ではないようにい思えたので、今日だけ休むことにした。
確か勤め先の競輪場では静岡競輪場開設記念レース(たちあおい賞争奪戦)の最終日の場外発売の日のはずである。忙しくしていることだろう。そのかわり明日から4日間は休みのようだ。

ところで昨日は散々な体調だった。
風邪をひいていて、肺の奥の方から何度も痰を排出してくるが、それが気管支の気道内にペタッと張り付いて、排出できない。そのため咳が止まらず、強引にでも排出しようと気道が緊張をくりかえす。そのたびにケホっケホッと咳が出る。

実は競輪場と言うところは場所柄咳やたばこの煙などに頓着のない人が多いのだが、
なかに少数だが潔癖症の常連さんとかいて、ややこしい(そういう人に限ってコレモン(893;)だったりするから余計にややこしくて・・・(;´瓜`)。
ここに配属された初期のころ、咳を止められないで困っていたら、大きな声で「おまえ、名前なんいうんぞ。うおお?風邪ひいとるんやったらマスクくらいせんか、コラ。責任者呼べ!」とかエラい怒られた。

それ以来、群衆の中での咳症状には気を使うようになっているのだが、これはどうしようもない。一日いて全く咳が収まらなかったのだった。それで、今朝起きた時の体調で、一日休んでいようと思ったのである。

もう半日すぎたが、かなり体調も戻ってきたように思う。痰の排出も、昨夜の苦しさがウソのように調子がいい。
しかし最近日常的に息苦しさが続く。少し薬を変えた方がいいのか、と思いながら、現在の投薬状況は次の通り。

スピリーバβ 一日一回

フスコデ   一日三回、一回二錠

ゼオチン   一日三回、一回一錠。
われわれはこの地上にあって、ひとりでも多くの隣人を主のもとに導くことが委ねられているのだけれど、最近はどうしても別の話題に気を取られてしまうようだ。
それは、牧者の堕落の問題である。なぜ人間は祝福されたままではいられないのだろうか。日本にも、「実るほど首を垂れる稲穂かな」とあるように、祝福されればされるほど、「いえ、わたしは無能なはしためです。しなければならないことをしたにすぎません」といいなさい、と聖書にも勧められているではないか。
なぜオレに神が宿るのだ!と得意げになるのだろうか。聖書に明らかに警告されていることをしてしまうのは何という愚かなことなのか、と思えて仕方がない。

しかしそれ以上に愚かなことは、それを見つけた、あるいはそれを見たからと言って、得意げになって吹聴し、また預言者ぶって社会に対してその罪を仰々しく告発する第三者なる人々の存在である。
ノアはなぜ三人の兄弟の中でハムとその一族のみを呪ったのか。自分の罪をも顧みず、父が見せてしまっている愚かな醜態を大声で吹聴したその身軽さを、軽薄さを警告したのではなかったか。もちろん父は自分がその元凶をつくってしまったことを知っていたであろうが。セムはそれに対して、その父の恥を見ようとせず、後ろ向きになって着物を掲げ、そっと父の肌をかけて覆った。父の恥を覆ったその行為は、キリストの十字架のわざを思わせる聖なる前兆であったろう。愛は多くの恥を覆う、とあるように、セムはまことに彼の父を尊敬し、崇拝する思いで、その恥を公開されることを望まなかった。それで正気に戻ったとき、父は自分の愚かさに気づくことができたであろう。

創世記に記されているこの事件を通して、今現代のキリスト教会が陥りがちな陥穽に対してどう対処すべきか知ることができはしないだろうか。われわれはみな、神の家族である、同じキリストのみ名によって救われ、父と子と聖霊との名によって同じイエスのみ名によるバプテスマを受けた兄弟、姉妹である。そして私たちの交わりの中心は教会にあるのではなく、イエスのみ名にこそあることを忘れてはならない。
殆んどの牧者はなぜか教会を強調するが、教会の主はイエスであり、イエスのいない教会は教会ではない。それはただのコミュニティグループにすぎない。教会にはイエスの霊が満ち満ちており、それによって人々は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった芳しい品性をもって互いに愛し、仕え、励まし、支えあうことができる。それは主によって導き出された有機的・霊的な喜びの世界であり、そこには聖霊の豊かな祝福がある。

ところがある種の牧者は、祝福されたままではいられないようだ。なぜかあまりに多くの力があらわされると、自分にそういう力が与えられている、または備わっていると勘違いし、突如として暴走しはじめる。ボク自身は過分にしてそういう教会に属した経験がないが、よくあるのは、オレの言うことを聞け、そうすればオレに宿っている神の力がお前たちを癒し、祝福するであろう、などと言い始める。それは神人合一思想で、聖書的にはありえない。
この場合、しっかりと聖書を熟読し、祈り、神の声に聞き従い続けているものならばそのセリフに隠された異端性を見抜くことができるのであるが、幸か不幸か、多くの信徒はそのような生活から遠ざかっているのが現状なのであろう。主は蛇のごとく賢しく、鳩の如く素直であれ、と言われたが、常に素直さの中にも警戒心を忘れるな、妄信によって道を誤ってしまうのは神の道ではない、と言われたのではなかったか。
ところで、そういう牧者がいるから、といってそれを公にして大々的に批判合戦を展開している一部の人々はどうなのか。彼らはまさに自分たちの務めを忘れた祭司そのものである。与えられた祝福に溺れてか、サタンの計略によってか、自分を見失っている王は、諫めてくれる預言者ナタンを必要としている。
王(牧者)には人間の心を取り戻す余地が待たれているというべきであるが、それを進言する器がない。自分にそれを期待されているなど少しも疑わず、ハムの軽々なふるまいに身を落としているとはどういうことか。情けない。ダビデ王がその色情によって自分の犯している恐ろしい殺人と不貞の罪を彼自身に気付かせるために、主の預言者ナタンは彼だけにそれを警告した。そしてその後のことは神の裁きにゆだねたことは、一つの教会のあるべき姿を表してはいないだろうか。

ナタンのごとき知恵にあふれた忠臣の存在によって、神の知恵が犠牲者を慰め、また真実によって王にも悔い改めにふさわしい実を結ぶ機会が与えられたのであるが、現代の預言者はその行動も知恵も遠くナタンには及ばなずただ人間的なヒロイズムに酔って、ここに悪がある!ものども、こいつらをさばけ、と大声で声をあげているだけの拡声器にすぎない。
なぜ神の知恵を請おうとしないのか。イエスの薫り高い知恵に頼ろうとしないのか。なぜするがままにさせ、これ以上犠牲者を増やし、妄信に甘んじて愚かな教会の恥を晒し続けるのか。
信仰的には関係なくとも、われわれは神の家族ではないのか?なぜ同胞の罪を、まるで検察側の証人のように高々と掲げて避難できるのか。そしてなぜ、どうにもならなくなってはじめて、ものどもこれを見よ、これ以上許せるか?とパリサイ人かサドカイ人か知らないがその愚かなシュプレヒコールを真似るだけでお茶を濁そうとするのか?なぜ裸の王を諫言し、犠牲者の悲しみに寄り添おうとしないのか?

主のみ前に祈りをささげた、二人の人の話を思い出した。ひとりは主よ、私に与えられた恵みによってこのようなみじめな人たちのようでなく、このような取税人のような罪びとでもないことを感謝します、と尊大に祈り、もうひとりは彼らから離れて立ち、自分の胸を叩きながら「主よわたしはみじめな罪びとです、どうかわたしを憐れんでください」と悲しみつつ祈った。

いったいどちらが神に許されて帰ったのか。
今まさにこの判断がわれわれに突きつけられているという気がしている。
今日はクリスマス。
夕飯時になって、父とクリスマスの習慣についてちょっと争ってしまった。
今はクリスマス・イブとクリスマス、二日分の祭りを別々に祝う習慣がある。
その分、お店は大変だと。なぜ教会ではクリスマス・イブをやって、クリスマスをやらないのか?など。
いや違うよ、おやじ。クリスマス・イブはクリスマスの始まりという意味で、教会ではクリスマスイブの礼拝をもたら、それでクリスマスの祝祭は終わり。つまりクリスマスイブもクリスマスも同じだと。
おやじはなぜか今回はおれなかった。なんでだ。オレのおやじはとことん専門家というよりも、間違ったことを認めたくないらしい。それはおやじだけなのだが、つきあっているオレやおふくろは大変だ。


ところでクリスマスイブは、クリスマスと独立した祝祭日ではない。クリスマス・イブとは、クリスマスの前夜祭、と解されているが、実は全く違う。クリスマスイブは、クリスマス・イブニング、というのを略していう表現であり、「クリスマスの入り」という意味である。彼岸の第一日を「お彼岸の入りの日」というだろう、あれと同じだ。
もともとユダヤの一日は日没から翌日の日没までを一日とする習慣があった。イブニングが一日の始まりなのだ。つまりクリスマスも前日の日没から始まって当日の日没をもって終わる祝祭だったのである。

さて、前の記述でもいったことだが、クリスマスは元来純粋なユダヤの祭りでもなく、またキリストが生まれた日を厳密に祝祭する日でもなかった。ただ冬至の祭りの習慣に乗って、宣教の都合で暫定的に決められた異教の習慣だったのである。
教会の催しにはいくつかこういう祝祭がある。とくにカトリックやギリシャ正教に伝わっている祝祭にはそういうのが多く、それらのいくつかはあまりにロマンチックであったり伝奇的な雰囲気が現代に受けてパソコンゲームなどの背景に使われたりすることも多いようだ。しかしこの終末の時代に生きるわれわれとしえはやはりこのことをわきまえておかなければならないと思っている。つまり、これらの祝祭はその地の人々や教えを広めるのには十分に役割を果たした。これからは、クリスマス、いや聖書が本来伝えようとしている真理に目を向けていかなければならない。それはイエス・キリストのことだ。
神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは彼を信じる者がひとりも滅びることなく永遠のいのちをもつためである。
これが聖書の言いたい本音の一文であるが、それをどこまで理解しているだろうか?
ここには神がわたしたちを愛している、ということ、そしてわたしたちすべての人類を滅びから救い、永遠のいのちをもつように願っておられるということが語られている。

神はそのためにイエスを遣わされた。イエスは神のひとり子であるとともに神ご自身であり、彼を信じることによってのみ人はその罪から救われる。これがクリスマスの意味である。

これからこのブログを通して、聖書の指針を述べていきたい。もとより土の器であり、いたらぬことの多き器である。どこまで理解されるか、はたまた理解しているものか自分でもこころもとないことであるが、神がこのわざを導いてくださるように祈りつつ、続けたいと願っている。