問われるナタンの存在。 | 高き天を仰いで。

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サムおじさん。のブログです。

われわれはこの地上にあって、ひとりでも多くの隣人を主のもとに導くことが委ねられているのだけれど、最近はどうしても別の話題に気を取られてしまうようだ。
それは、牧者の堕落の問題である。なぜ人間は祝福されたままではいられないのだろうか。日本にも、「実るほど首を垂れる稲穂かな」とあるように、祝福されればされるほど、「いえ、わたしは無能なはしためです。しなければならないことをしたにすぎません」といいなさい、と聖書にも勧められているではないか。
なぜオレに神が宿るのだ!と得意げになるのだろうか。聖書に明らかに警告されていることをしてしまうのは何という愚かなことなのか、と思えて仕方がない。

しかしそれ以上に愚かなことは、それを見つけた、あるいはそれを見たからと言って、得意げになって吹聴し、また預言者ぶって社会に対してその罪を仰々しく告発する第三者なる人々の存在である。
ノアはなぜ三人の兄弟の中でハムとその一族のみを呪ったのか。自分の罪をも顧みず、父が見せてしまっている愚かな醜態を大声で吹聴したその身軽さを、軽薄さを警告したのではなかったか。もちろん父は自分がその元凶をつくってしまったことを知っていたであろうが。セムはそれに対して、その父の恥を見ようとせず、後ろ向きになって着物を掲げ、そっと父の肌をかけて覆った。父の恥を覆ったその行為は、キリストの十字架のわざを思わせる聖なる前兆であったろう。愛は多くの恥を覆う、とあるように、セムはまことに彼の父を尊敬し、崇拝する思いで、その恥を公開されることを望まなかった。それで正気に戻ったとき、父は自分の愚かさに気づくことができたであろう。

創世記に記されているこの事件を通して、今現代のキリスト教会が陥りがちな陥穽に対してどう対処すべきか知ることができはしないだろうか。われわれはみな、神の家族である、同じキリストのみ名によって救われ、父と子と聖霊との名によって同じイエスのみ名によるバプテスマを受けた兄弟、姉妹である。そして私たちの交わりの中心は教会にあるのではなく、イエスのみ名にこそあることを忘れてはならない。
殆んどの牧者はなぜか教会を強調するが、教会の主はイエスであり、イエスのいない教会は教会ではない。それはただのコミュニティグループにすぎない。教会にはイエスの霊が満ち満ちており、それによって人々は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった芳しい品性をもって互いに愛し、仕え、励まし、支えあうことができる。それは主によって導き出された有機的・霊的な喜びの世界であり、そこには聖霊の豊かな祝福がある。

ところがある種の牧者は、祝福されたままではいられないようだ。なぜかあまりに多くの力があらわされると、自分にそういう力が与えられている、または備わっていると勘違いし、突如として暴走しはじめる。ボク自身は過分にしてそういう教会に属した経験がないが、よくあるのは、オレの言うことを聞け、そうすればオレに宿っている神の力がお前たちを癒し、祝福するであろう、などと言い始める。それは神人合一思想で、聖書的にはありえない。
この場合、しっかりと聖書を熟読し、祈り、神の声に聞き従い続けているものならばそのセリフに隠された異端性を見抜くことができるのであるが、幸か不幸か、多くの信徒はそのような生活から遠ざかっているのが現状なのであろう。主は蛇のごとく賢しく、鳩の如く素直であれ、と言われたが、常に素直さの中にも警戒心を忘れるな、妄信によって道を誤ってしまうのは神の道ではない、と言われたのではなかったか。
ところで、そういう牧者がいるから、といってそれを公にして大々的に批判合戦を展開している一部の人々はどうなのか。彼らはまさに自分たちの務めを忘れた祭司そのものである。与えられた祝福に溺れてか、サタンの計略によってか、自分を見失っている王は、諫めてくれる預言者ナタンを必要としている。
王(牧者)には人間の心を取り戻す余地が待たれているというべきであるが、それを進言する器がない。自分にそれを期待されているなど少しも疑わず、ハムの軽々なふるまいに身を落としているとはどういうことか。情けない。ダビデ王がその色情によって自分の犯している恐ろしい殺人と不貞の罪を彼自身に気付かせるために、主の預言者ナタンは彼だけにそれを警告した。そしてその後のことは神の裁きにゆだねたことは、一つの教会のあるべき姿を表してはいないだろうか。

ナタンのごとき知恵にあふれた忠臣の存在によって、神の知恵が犠牲者を慰め、また真実によって王にも悔い改めにふさわしい実を結ぶ機会が与えられたのであるが、現代の預言者はその行動も知恵も遠くナタンには及ばなずただ人間的なヒロイズムに酔って、ここに悪がある!ものども、こいつらをさばけ、と大声で声をあげているだけの拡声器にすぎない。
なぜ神の知恵を請おうとしないのか。イエスの薫り高い知恵に頼ろうとしないのか。なぜするがままにさせ、これ以上犠牲者を増やし、妄信に甘んじて愚かな教会の恥を晒し続けるのか。
信仰的には関係なくとも、われわれは神の家族ではないのか?なぜ同胞の罪を、まるで検察側の証人のように高々と掲げて避難できるのか。そしてなぜ、どうにもならなくなってはじめて、ものどもこれを見よ、これ以上許せるか?とパリサイ人かサドカイ人か知らないがその愚かなシュプレヒコールを真似るだけでお茶を濁そうとするのか?なぜ裸の王を諫言し、犠牲者の悲しみに寄り添おうとしないのか?

主のみ前に祈りをささげた、二人の人の話を思い出した。ひとりは主よ、私に与えられた恵みによってこのようなみじめな人たちのようでなく、このような取税人のような罪びとでもないことを感謝します、と尊大に祈り、もうひとりは彼らから離れて立ち、自分の胸を叩きながら「主よわたしはみじめな罪びとです、どうかわたしを憐れんでください」と悲しみつつ祈った。

いったいどちらが神に許されて帰ったのか。
今まさにこの判断がわれわれに突きつけられているという気がしている。