クリスマスイブ、もしくはクリスマスとは?(このブログについて) | 高き天を仰いで。

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サムおじさん。のブログです。

今日はクリスマス。
夕飯時になって、父とクリスマスの習慣についてちょっと争ってしまった。
今はクリスマス・イブとクリスマス、二日分の祭りを別々に祝う習慣がある。
その分、お店は大変だと。なぜ教会ではクリスマス・イブをやって、クリスマスをやらないのか?など。
いや違うよ、おやじ。クリスマス・イブはクリスマスの始まりという意味で、教会ではクリスマスイブの礼拝をもたら、それでクリスマスの祝祭は終わり。つまりクリスマスイブもクリスマスも同じだと。
おやじはなぜか今回はおれなかった。なんでだ。オレのおやじはとことん専門家というよりも、間違ったことを認めたくないらしい。それはおやじだけなのだが、つきあっているオレやおふくろは大変だ。


ところでクリスマスイブは、クリスマスと独立した祝祭日ではない。クリスマス・イブとは、クリスマスの前夜祭、と解されているが、実は全く違う。クリスマスイブは、クリスマス・イブニング、というのを略していう表現であり、「クリスマスの入り」という意味である。彼岸の第一日を「お彼岸の入りの日」というだろう、あれと同じだ。
もともとユダヤの一日は日没から翌日の日没までを一日とする習慣があった。イブニングが一日の始まりなのだ。つまりクリスマスも前日の日没から始まって当日の日没をもって終わる祝祭だったのである。

さて、前の記述でもいったことだが、クリスマスは元来純粋なユダヤの祭りでもなく、またキリストが生まれた日を厳密に祝祭する日でもなかった。ただ冬至の祭りの習慣に乗って、宣教の都合で暫定的に決められた異教の習慣だったのである。
教会の催しにはいくつかこういう祝祭がある。とくにカトリックやギリシャ正教に伝わっている祝祭にはそういうのが多く、それらのいくつかはあまりにロマンチックであったり伝奇的な雰囲気が現代に受けてパソコンゲームなどの背景に使われたりすることも多いようだ。しかしこの終末の時代に生きるわれわれとしえはやはりこのことをわきまえておかなければならないと思っている。つまり、これらの祝祭はその地の人々や教えを広めるのには十分に役割を果たした。これからは、クリスマス、いや聖書が本来伝えようとしている真理に目を向けていかなければならない。それはイエス・キリストのことだ。
神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは彼を信じる者がひとりも滅びることなく永遠のいのちをもつためである。
これが聖書の言いたい本音の一文であるが、それをどこまで理解しているだろうか?
ここには神がわたしたちを愛している、ということ、そしてわたしたちすべての人類を滅びから救い、永遠のいのちをもつように願っておられるということが語られている。

神はそのためにイエスを遣わされた。イエスは神のひとり子であるとともに神ご自身であり、彼を信じることによってのみ人はその罪から救われる。これがクリスマスの意味である。

これからこのブログを通して、聖書の指針を述べていきたい。もとより土の器であり、いたらぬことの多き器である。どこまで理解されるか、はたまた理解しているものか自分でもこころもとないことであるが、神がこのわざを導いてくださるように祈りつつ、続けたいと願っている。