水戸街道~千住宿から新宿へ②~ | 散歩おじさんの「ぶらりWalk」

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散歩おじさんが街中やら、公園やらを「ぶらり」した様子を載せています(^.^)

今日の散歩おじさん地域は最高気温が3月中旬並みの13.6℃とあたたかでした!

風は北寄りでしたが、気温が2桁だと吹かれても首をすくめるような寒さは感じませんね(^^)

さて今日の記事は千住宿から歩き始めました「旧水戸街道歩き」の続きです!

 



前回の記事の後半では荒川を渡るのにやや苦労しましたが、最後に載せた画像の説明に書いた通り、千住側で上った土手の「ちょうど対岸」と思しき辺りで土手を降り「旧水戸街道」をさらに東へと進みます(^.^)


↑の画像の場所から180mほどの所には、どっしりとした蔵がありました(@。@)

外壁は保護の為かトタン板(?)で覆われていましたが、扉や周りや板の上に見えていた部分から察するに、どうやらレンガで造られた蔵の様でしたヨ!

蔵のすぐ先には「昭和の建物」が「昭和の風景」のまま残っていました(^^)


何気なく残っているレンガの壁が歴史を感じさせてくれます!


間もなく街道が綾瀬川の堤防に突き当たった所に石垣と説明板がありましたので、説明を読んでみますと・・・


この石垣はかつてここに架かっていた「水戸橋(みとはし)跡」なのだそうです!

いくら水戸街道とは言え、水戸から100km以上離れた場所の橋に、何故「水戸橋」という名前が付けられたのか、その説明を引用しますので、興味がおありの方は↓読んでみてくださいな(^.^)

【橋名:みとはしの由来】
地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりになりました。その事実を知った光圀は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。

~水戸橋の説明板より~

妖怪が実は人間に殺された親の敵を討とうとしていた子狸だったというのは、ちょっと切ない話ですが、お地蔵様が身代わりになってくださったというのに、少しホッとできました!

それにしても黄門様は、悪代官だけでなく妖怪も退治してたのですねぇ(@。@)

残念ながら黄門様が親柱に直筆されたという水戸橋は既にありませんので、60mほど上流に架けられた現在の「水戸橋」を渡って進みます!


水戸橋の辺りはちょうど首都高速の「小菅ジャンクション」なので、見上げるとこんな眺めです( ゚Д゚)

もし黄門様が現代に蘇ってこの光景を見たら、腰を抜かすかな?・・・(^笑^)

綾瀬川から直線距離で100m足らずの所に、かつては利根川の支流の一つとして豊かな水量を誇っていたという「古隅田川(ふるすみだがわ)」の流れが、プロムナードして残されていました!


古隅田川から200mあまり進むと、立派なご門の「蓮昌寺」に至ります!    


蓮昌寺さんでご紹介すべきは、戦時中に使われたていたという「コンクリート製の梵鐘」です(@。@)

ネットで調べたものの詳しい解説が見つからなかったので判然としませんが、戦争中の「金属供出」でお寺の鐘がお国に回収されたため、代用としてコンクリートの梵鐘が作成されたということなのでしょうか?

代用と言ってもコンクリート製ですから金属のような音は鳴らなかったでしょうけど、梵鐘の姿に手を合わせる信心深い方がいたかもしれませんね!?

コンクリートの梵鐘にいろんなことを想像しつつ進むと、街道沿いのお宅で可愛らしい色の梅が咲いていました(^.^)

旧道歩きの際に撮ったこういう画像を後で見て、「そう言えばそんな時期にあの辺りを歩いたなぁ!」なんてことを思い出すのも楽しいので、街道沿いで見つけた花などは、なるべく撮るようにしているのですよ♪