成田街道~小岩市川の渡しから八幡宿へ③~ | 散歩おじさんの「ぶらりWalk」

散歩おじさんの「ぶらりWalk」

散歩おじさんが街中やら、公園やらを「ぶらり」した様子を載せています(^.^)

昨日に続いて今日も散歩おじさん地域は午前中の早い時間帯から2桁の気温になりましたので、薄手のカーディガンで出かけることが出来ました(^.^)

風が出たらイヤだなと思い、念のため携帯できるウインドブレーカーをデイバッグに入れたのですが、そんな心配は不要で、むしろカーディガンも脱ぎたくなるような陽気でしたよ!

さて記事の方は「成田街道」の続きです!

「成田街道を歩いた」と言っても、今回歩いた辺りは散歩おじさん家にも近く、何度も「ぶらり」している場所故に、これまでの記事でもアップした場所の画像が多くなりますが、街道歩きの記録として掲載しますので、よろしくお付き合いください(^^)

前回の記事の最後に載せました、「国道298号線を過ぎてちょいと旧道っぽい風情が見られるようになった」辺りから、JR総武線の本八幡駅前を過ぎて進むと、散歩おじさんブログに何度も登場している「葛飾八幡宮」に至ります!

散歩おじさんが葛飾八幡宮へ行く時は、JRから行くにしろ京成から行くにしろ、千葉街道(成田街道)沿いじゃないルートを通って、この鳥居より一つ内側の鳥居から入るので気にしたことが無かったのですが、良く見ると「一の鳥居」は車道を跨いでいるので、徒歩で参拝する人は一の鳥居をくぐれないのですね(@。@)イマサラキガツイタ!!

一の鳥居をくぐれなかった分、その内側の鳥居の前で丁寧に頭を下げて境内に向かえば、立派な拝殿とご本殿が迎えてくれます(^人^)


葛飾八幡宮で特筆すべきは、国の天然記念物にもなっている「千本公孫樹」ですv(。・・。)イエッ♪

今は葉を落としていますからこういう眺めですけど、青葉や黄葉の時期には、立派な拝殿及びご本殿に相応しい眺めを楽しませてくれるのですよ(^_-)-☆

この立派な木が何故「千本公孫樹」と呼ばれるかと言いますと・・・

実は一本の大木ではなく、多くの幹が集まって一本の大樹の様に見えることが名前の由来なのです!


葛飾八幡宮でのお参りを終えて街道に戻ると、筋向いに「不知八幡森(しらずやわたのもり)」があります!

散歩おじさんとしては「八幡の藪知らず」っていう通称の方が馴染みなのですが、間口、奥行きとも18mほどのこの森は、入ると祟りがあるとか、出られなくなるという言い伝えがある場所なのですよ(@。@)

呼び方は違うかもしれませんけど「藪知らず」的な森って、全国にけっこうあるようですよね!?

「間口、奥行きとも18mほどの森で迷うわけ無いんだから、江戸時代にはもっと広い森だったんじゃないの?」って思われるかもしれませんが、江戸時代の紀行文などにも「間口漸く十間(約18m)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ」という記述があるそうで、今とたいして変わらない「それほど大きくない藪から出られなくなった」というのは、なにか怪しげな力が働いていたのかもしれません٩(๑º﹏º๑)۶怖ぃ~

因みに水戸の黄門様が藪に入って神の怒りに触れたという話が伝わっているそうですけど、あのおじいさんはそんな逸話も残しているのですね(^笑^)

散歩おじさんの記憶がたしかなら、散歩おじさんが初めて「八幡の藪知らず」を知った時、すなわち今を去ることン十年前の散歩おじさんが学生の頃には・・・

こんな風にきれいな玉垣やお社は無かったと思うのですが・・・?

もっとも「入れば祟りがある」と恐れられていた場所ですから、玉垣やお社が有ろうが無かろうが、地元の人は恐れ敬っていたことでしょう!

お社の脇にある「不知八幡森」の石碑は、安政4(1857)年に江戸の伊勢屋宇兵衛なる人物が建てたものだそうです(@。@)ホホォ~!

おそらく屋号と思われる「伊勢屋」から察するに、宇兵衛さんは江戸の商人だったのでしょうかねぇ!?

「不知八幡森(八幡の藪知らず)」を興味深く見物してから更に道中を続けますと、およそ500mほどで「真間川」を渡ります!

両岸がコンクリートで護岸された冴えない眺めですけど、もう少しすると川面に伸びた枝に桜の花が咲いて、なかなか素敵な光景を楽しめるのですよ(^^♪

真間川を渡ってすぐの所に、何やら説明板が・・・???

今回の成田街道に限らず、前回の川越街道やその前の日光街道でも、沿道で生まれた著名な人についての説明板が設置されていることが珍しくなく、「へぇ~・・・、そういう功績のある人がここの出身なんだね!」って興味深く思うことがあるのですが、この説明板は「坪井玄道(つぼいげんどう)生誕の地」というものでした!

坪井玄道は江戸時代末期の嘉永5(1852)年にこの地に生まれ、江戸に出て英語を学んだ後、当時創設された東京師範学校で通訳をしていたところ、明治政府が設置した「体操伝習所」に招かれたアメリカ人の通訳に選ばれたことから、体操教師としての道を開いたのだそうです!

野球、ボート、卓球、サッカー、テニスなどを日本に紹介し普及に努め、「我が国体操の父」とまで仰がれた人物なのだそうですよ(@。@)ホホォ~!

「坪井玄道生誕の地」の説明を興味深く読んだ後、600mほど進むと、以前の記事でもご紹介したことがある「中村家」の建物があります!

国の文化財に指定されている建物もあるという「中村家」ですが、日差しがある時はほぼ一日中「逆光」になっちゃうのが、撮影に於いては難点です(^^;

建築については全く素人の散歩おじさんが見ても、「ずいぶん年が経ってから建て増ししたのかな(?。?)」って分かるような、明らかに様式の違う建物がくっついているのも面白いでしょ(^.^)


さらに進むと、街道沿いというロケーションに相応しい佇まいの建物もありました(^.^)