旧日光街道 春日部から杉戸へ④ | 散歩おじさんの「ぶらりWalk」

散歩おじさんの「ぶらりWalk」

散歩おじさんが街中やら、公園やらを「ぶらり」した様子を載せています(^.^)

昨日の天気予報で気象予報士さんたちは、昨日までの暖かさに比べて今日の気温が下がることへの注意を呼びかけられていましたが、散歩おじさん地域は・・・少なくとも散歩おじさんの感覚では・・・注意を呼びかけられたわりには、それほど寒くは感じませんでした!?

たしかに昨日に比べれば低かったですが、この時期並みの気温と言うことですから、身構えるほどのことでは無かったようですね!

さて記事の方は、春日部から杉戸を目指した旧道ぶらりの最終回です!

昨日の記事では、目的地であった「杉戸宿」の中心(と思われる)辺りまでをご紹介しましたが、今日は宿場の外れ辺りまでの様子をご覧くださいv(。・・。)イエッ♪

宿場内をさらに進むと、こんな建物が残っていました!
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すぐ近くに、もう1軒!
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2軒とも文化財などに指定されているような表示は無かったですが、むしろそれが無いことが、普通の生活の中で残っている建物の様な気がしてホッとする風景でした!

日光に向かって歩く街道の進行方向に向かって左側、街道からの直線距離にして150mほどの所には、今回の連載の春日部宿を出る所でもご紹介した「大落古利根川」が流れているのですが、その川べりの浅間神社には富士塚がありましたよ(^^)
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そして富士塚を形作る石の一つには、芭蕉の句が刻まれていました(@o@) ホホォ~!
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「奥の細道」を辿った芭蕉が、途中の杉戸宿を通ったことには何の不思議もありませんが、それにしても芭蕉の句碑っていたる所にありますね~(~_~;

宿場の外れに近い辺りにある「宝性院」というお寺には、これまた「杉戸学校跡」の説明板がありました!
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「これまた」と書きましたのは、今回の連載の3回目でも「馬頭院」というお寺の「新知学校跡」をご紹介しているからなのですが、「馬頭院」さんの説明板の内容をご紹介している関係上、「宝性院」さんの「杉戸学校跡」をご紹介せずに片手落ちと言うことになってもいけませんので、「杉戸学校跡」の説明板の内容もご紹介させていただきます(^.^)
杉戸学校跡

明治五年(一八七二)八月、太政官より近代的教育法規である「学制」が出されると、同七年四月、ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉松村の児童を教育するために杉戸学校が設立された。児童数は男一一七人、女三五人、教員は五人であった。(同九年調べ)

・・・後略・・・

~宝性院門前の「杉戸学校跡」の説明板より~
因みに、散歩おじさんが↑の様に説明書きを引用する様な場合、書かれていた文章や文字はそのまま載せることにしています!

その事を踏まえたうえで、興味がおありの方は「旧日光街道 春日部から杉戸へ③」の記事に載せました「新知学校跡」の説明書きと見比べていただければと思うのですが、同じ明治5年発布の「学制」を紹介する文で、片や「馬頭院」の説明書きには「文部省」が公布したと書かれていたのに対して、こちらの「宝性院」の説明書きでは「太政官」が出したと書かれていたのも面白かったです(@o@)

もとより歴史に詳しくない散歩おじさんには、太政官なる人の立場とか、当時の文部省内でどんな役職があったのかなどサッパリ分からないのですが、いずれにしても明治5年といえば江戸時代が終わってわずか5年後のことですから、その時期に江戸を離れた土地でも教員も確保して学校を開校できたと言うのですから、日本の教育のレベルは高かったのでしょうね(^_-)-☆

「宝性院」の筋向いの「渡辺家」では、旧家らしい立派な構えの建物を見ることが出来ました!
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「渡辺家」を後にしてもう少し歩くと、杉戸宿手前で分かれた後、概ね杉戸宿内の道と並行して進んで来た国道4号線と合流します(^^)
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道の様子などを見ると、どうやらこの辺りが「杉戸宿」の外れのようですので、この日の「ぶらり」はここで終了しました(*^_^*)

連載にお付き合いくださったみなさん、ありがとうございました!

そして今日はオマケ画像がありますよ(^'^)

旧道ぶらりを終えて駅に向かう途中で見つけた銭湯です!
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なんとも昭和レトロっぽくて良かったのですが、残念ながら表に「閉店のお知らせ」が貼られていて、既に営業は終わっていました(~_~;

ただね・・・「閉店のお知らせ」の文末に書かれていた、「店内に桶やシャンプーを置いていらっしゃるお客様 いつでもお寄りください」の文字を見たら、「そう言えば、昔はシャンプーとかを銭湯に預けておくっていう習慣があったよな~っ!」って思って、妙に懐かしかったです(*^_^*)