さて、引き続き墨田川沿い散策ですよ(^_^)
蔵前橋から先は、先日ご紹介した「歴史と文化の散歩道」を辿ることにしました。
両国側に渡りきった、蔵前橋東詰めにある道標から、国技館などを経て回向院まで歩こうというわけです(^.^)
両国側に渡りきった、蔵前橋東詰めにある道標から、国技館などを経て回向院まで歩こうというわけです(^.^)
まずは、蔵前橋東詰めの近くにある「横網町公園」をご紹介します。
場所が両国ということで、つい「ヨコヅナチョウ」と勘違いされる方もいらっしゃるようですが、「ヨコアミチョウ」ですので、念のため・・・(^_^;
場所が両国ということで、つい「ヨコヅナチョウ」と勘違いされる方もいらっしゃるようですが、「ヨコアミチョウ」ですので、念のため・・・(^_^;
この公園には、東京都慰霊堂という慰霊施設と、震災復興記念館があります。
散歩おじさんの母などは「被服廠跡」と言った方がピンとくるようなんですが・・・
散歩おじさんの母などは「被服廠跡」と言った方がピンとくるようなんですが・・・
この場所は、関東大震災の当時は陸軍被服廠跡地で、公園予定地として更地になっていたそうです。
地震の後、多くの人がここに避難し、家財道具なども持ち込まれて、立錐の余地もなかった所に、周りからの火災が家財道具に燃え移り、この場所だけで実に東京市全体の犠牲者の半数を越える38,000人が犠牲になったとされています。
地震の後、多くの人がここに避難し、家財道具なども持ち込まれて、立錐の余地もなかった所に、周りからの火災が家財道具に燃え移り、この場所だけで実に東京市全体の犠牲者の半数を越える38,000人が犠牲になったとされています。
震災後、犠牲者を慰霊し、このような災害が再び起こらないことを祈念するための震災記念堂として、官民協力のもとに創建されたということです。
その後、太平洋戦争後の昭和23年からは東京大空襲の身元不明の遺骨も納められ、霊を合祀して、東京都慰霊堂となったとそうです。
立派なお堂ですよ!
中まで入れて、お線香を上げることができます。
立派なお堂ですよ!
中まで入れて、お線香を上げることができます。
こちらは、震災復興記念館です。震災記念堂の付帯施設として建設されたものだそうです。
中には犠牲になられた方の遺品や復興事業に関する資料などが展示されていますよ。
昭和6年竣工だそうですから、建物自体もかなりの年数がたってますし、空襲でも焼けなかったんですねぇ!
中には犠牲になられた方の遺品や復興事業に関する資料などが展示されていますよ。
昭和6年竣工だそうですから、建物自体もかなりの年数がたってますし、空襲でも焼けなかったんですねぇ!
「案内所ちょうちん」となっています。
「震災直後、日本橋区馬喰町3丁目(現在の中央区)町会の人が、尋ね人用につかったものである。」との説明書きがありました。
「震災直後、日本橋区馬喰町3丁目(現在の中央区)町会の人が、尋ね人用につかったものである。」との説明書きがありました。
当時の小学生の「遭難記」だそうです。
とてもじゃないですけど、散歩おじさんでは書けないような立派な文章でしたよ!
とてもじゃないですけど、散歩おじさんでは書けないような立派な文章でしたよ!
昭和5年に帝都復興展覧会というのが催されたそうで、これはその時に出品された「東京市五千分の一模型(焼失した都心部)」です。
ここでは、焼失地域を表示するという意味では無く、復興事業の資料という意味で展示されているんですね。
同様の模型がいくつもありましたよ。
ここでは、焼失地域を表示するという意味では無く、復興事業の資料という意味で展示されているんですね。
同様の模型がいくつもありましたよ。
展示の後半は太平洋戦争の、特に空襲関連の展示もありました。
これは館の外の展示です。
関東大震災の時、地震によって直接破壊された、またはその後の火災で焼損したいろいろなものが展示されていました!
関東大震災の時、地震によって直接破壊された、またはその後の火災で焼損したいろいろなものが展示されていました!
犠牲になった方を慰霊する慰霊堂はもちろんですけど、震災や東京大空襲のことを風化させないという意味でも、復興記念館のような施設は大切ですね!