「ママって
おばあちゃんが
死んで悲しくないの?
全然泣かないけど。。。」
「うーーん。。
一年半かけて
お別れしてきたからね…」
「そういえばママって
あまりメソメソしない人
だよね?
自分がガンになった時も
そうだったしさ。。。
なんで平気でいられるの?
それは
泣いているところを
人に見せないだけ?
それとも悲しみを
感じないの?」
「もちろんママだって
悲しくなって
泣くこともあるけど
ほらっ、ママは
普段から
(潜在意識を変える)
『心のブロック解除』を
しているでしょ?
だからなにか起きた時に
他の人よりも物事を
冷静に受け止められるし
明るい方を見ていられる
んだと思う」
そんな会話を
寮から帰省中の
中1息子と
元旦の朝に話した
古屋サマンサです
⇨サマンサの声を
聞いてみたい人はこちら
息子のことを
「希望の星」と
呼んでいた
末期ガン母が
緩和ケア病棟で
亡くなって半月
たしかに
息子の言う通り
母が亡くなった後も
特段悲しさを
感じることもなく
過ごしてきたわ
でもね、、、
昨日母の部屋に
行ったときに
母が亡くなってから
初めて涙がでちゃったの
毎年、元旦の日は
家族で初詣を済ませて
その後、母の部屋に集まり
おせちをいただくのが
いつものお正月
今年も10月に母が
おせちを注文して
くれていてね。。。
自分が正月を
迎えられないと
悟ったときに
「おせちの送付先を
恭子(サマンサ)のところに
変えるように手配して」
と、緩和ケア病棟の
ベッドの上から
兄に頼んでいた母
でも、わたしは
いつもの通り
母の部屋で
母が選んでくれた
おせちをみんなで
食べたかったから
こう言ったわ
「ママ、おせちはね
ママの部屋で
ママのことを偲びながら
みんなで食べるから
心配しないで。。。
そしてその後は
いつものように
麻雀もするからね
ママも一緒に
参加してね」
そういったら
安心したように
うなづいていた母
昨日母の部屋に着いたら
母がいたお正月の時のように
兄がテーブルセッティングを
してくれていて、、、
そこに並べられていた
おせちを見て思わず
涙がでちゃった。。。
毎年どこのおせちが
美味しいか吟味して
母がデパートに行って
注文してくるのだけれど
今年はうちの息子が
中学生になって
いつもより沢山
食べるだろうからと
和・洋・中と全部で
五段のおせちを
用意してくれていたの
「これが自分にとって
最後のお正月になるだろう」
と、母が選んでくれた
豪華なおせち
母と兄とわたし
そして夫と息子
母と仲良くしていた
義母の6人で賑やかに
食べるはずだったおせち
母は亡くなり
義母はコロナの
感染を怖れて
自宅で過ごすことになり
結局、わたしと兄と
夫と息子の4人だけで
食べることになった
あっ、でもね、、、
母の席に
母の遺影を置いて
母のお皿にも
母が好きだったものを
よそって、母の思い出
話をしながら食べたから
「こんなに
食べきれるかしら?」
と心配していた
おせちも、4人で
結構沢山食べられたのよ
おせちを食べた後は
これまた母が
生きていた時のように
母と兄から
うちの息子へお年玉
おせちとおなじく
母はお年玉袋や
お年玉の金額についても
亡くなる前に
兄にきちんと
申し送りをしていてね
鳩居堂で買った
お年玉袋には
母が唯一の孫に
これから先、毎年
手渡したかったのであろう
金額が入っていて、、、
その多さに息子は
驚いていたわ
そしてそこに
添えられていたのは…
母が病院のベッドで
書いた息子への手紙
乱れた字で
最後の気力を
振り絞るように書かれた
その自筆の手紙には
孫への愛が溢れていて
読んでいたら
泣けて泣けて
仕方がなかった。。。
その後には
母が大好きだった
麻雀を、、、
(母も遺影で参加)
この母の部屋で
こうして過ごす
お正月はこれが
最後なんだ…
そう思ったら、、、
いつも以上に
美しく見えた
窓から見えた
富士と夕陽
そんな元旦の日
今度は離れて暮らす
末期がんの父が
救急車で運ばれ
緩和ケア病棟に
入ったとの連絡が。。。
母を見送った後は
今度は父を見送ることに
なりそうです
母の四十九日で
大阪に行く関係で
2/3と2/4は大阪で
仮面心理学講座を
開催します
母を緩和ケア病棟で
看取った時にも
それはそれは
役に立った仮面心理学
もっと沢山の人に
知ってもらいたなあ…
こちらのベーシッククラスは
オンラインではできない
クラスなので、この機会に
興味がある人はどうぞ
換気をしながら
三密にならないように
開催します
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【2/7(日),2/14(日)】