国立国際美術館『ホーム・スイート・ホーム』展 〜 家とは、家族とは… | 山里古民家リトリート 大阪高槻 神峰山の里 ギャラリーねこ福 

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ギャラリーねこ福はこんなところ

 

自分から進んでは足が向かない展覧会に行ってきました。

「美術」に関してはどんな表現でも受け入れられる自分でありたいって思いがあるので、キャパを広げに行ってきた。

 

 

『ホーム・スイート・ホーム』展

 

現役芸術家8名によるインスタレーションコラボ展と言って良いのかな?

 

“私たちにとって「ホーム」とはどのような意味をもち、どのような存在なのか。”  と問いかける。

 

 

チラシの色かわいい

 

 

西洋占星術の体系にも「家」という概念で括られた方角がある。

今回の企画展が取り扱う概念とだいたい共通していたように思う。

 

住居という形ある枠であったり、国家や地域(hometown)という枠も、活動拠点(homeground)といった場所がらも指す。

そこに住む家族、血縁者のことでもあり、生活様式だったり生活用品も含まれるし、「家庭的」という抽象的な雰囲気や行動全般をも意味する。

 

総じて西洋占星術では「大切なものをやわらかく包み込むフレーム」から派生する近しい概念といったところだろうか。

 

 

そのようなものなのじゃないの?っという投げかけを銘々の芸術家が映像や展示空間で表現していたように感じる。

 

 

占星術を体得するには感性を駆使し、さらには哲学的発想でもって活かせるようになると思っているわたし。ということで、テーゼされなくても常にやっている。

 

新鮮な感銘は得られず。でも、あっ?もしかしてこの感覚も家族の定義かなっと感じるキラキラをキャッチできたのは有意義でした。

 

 

あっと思った展示①

潘逸舟『ほうれん草たちが日本語で夢を見た日』

 

意味不明なタイトルはさておき、

作家が意図したことと私がキャッチしたことに相違があるだろうこともさておき、

 

会場にはダンボール箱が散乱していて、その箱にはピシッときれいに切り取られた窓枠がたくさん施されてる。

そして鳥のさえずりがBGMとして流れている。

 

要素はそれだけ(笑)

 

…なんだけど、鳥の声は会場のスピーカーから流されてるのに空っぽの段ボールから響いてくるような錯覚に陥る。

そうなるとダンボールが鳥籠に見立てて作られてると気づく。

どの鳥籠でも賑やかな営みが繰り広げられているかのような錯覚にさらに陥る。

鳥籠どおしがご近所付き合いをしている集落に見えてくる。

 

空っぽのダンボールが「家族」に見えてきた。

 

 

あっと思った展示②

竹村京 『E.K.のために』

 

懐かしい家族の肖像と思しき写真に紗を掛け、楽しげな装飾盛りがしてある。

 

事実を事実として忠実に振り返る必要ある? そんな意図を感じた。

 

「人は見たいように現実を見る。」ってことの表現でもあり、

「事実では表しきれない事実がある。」、思い出はもっと素敵なんだってことを表してるようでもあり。

 

 

竹村京

 

そうそう、物は思い出のオーラを纏っているよね。。

 

 

 

……もしかして、「家族」って幻想から創り上げるものなのかな?

 

そんなことを思ったのでした。

 

日々の淡々と繰り返す営みそのものに何か特別な要素を求めるものでなく、なんてことない物体(現実)にいかようの思い込みをトッピングできるか、

 

なのかなっと。

 

 

 

 

 

何の罰ゲームやねん…っと心の底でぼやきながらヤケクソで向かった美術館。

こんな思いで美術館に行くなんて、貴重な体験(笑)

 

 

仕事として占星術の概念「家」について向き合うことはあっても、仕事以外で家族を話題にするのはもう勘弁してくれと心底思ってる。

幾つの時から家について、家族について考え抜いてきたやら。

 

3日経った今でも気分はささくれ気味だったけど、気に入ったところをクローズアップしていると気分も収まってきた(笑)

 

 

平凡な日常なんてのがなかった家族なので、普通の魅力、陽の当たるエッセンスを擬似体験できてよかった。

 

そういう感覚、薄氷を踏む日々のなかにもパラッとはあったなと拾い出せた。

 

これも芸術のもつ力だな。

 

 

 

そういえば、、

これまで現代芸術表現といえば怒りや闇を扱うことが主流だった気がする。

 

闇は曝され切ってもう後は希望を見出そうとする動きなんだろか。

時代の空気は確実に変わってきている。感度の良い若い世代が紡ぎ始めてるよね。

 

頼んだよ!(大笑)

 

 

 

 

 

お薦めくださった方が、特にとおっしゃったのはドキュメンタリー映画だった。

 

 

 

社会からはみ出した人たちを受け入れ、居場所を提供しているカトリック教会に取材した演劇仕立てのインタビュー。

 

構成が斬新で最後まで飽きさせない手法が素晴らしい。

 

 

信仰を拠り所に共に暮らすのも「家族」のようであるが、西洋占星術の概念で括るとまた違った領域に分類される。

 

占星術がそうだからということでなく、私もそれとこれとは大いに別のものだと思ってる。捉え違いをしてはいけないところ。

 

否定してる訳ではなく、「宗教による救済」は必要な人には必要なものなんだなぁということを改めて映画の中に見届けた。

 

 

信仰あってこそ力が漲ってくることもある。

映画の牧師さんが取り組まれていることは誰もが真似できる事ではない頭の下がる活動だ。

 

 

信仰は、個々のイマジネーション力に合わせて自分にしっくりくる“考え方”にまずは取り組めが良いのだと思ってる。目指しているものは同じはずだから。

 

真に己を知るに至るまでの「過程」を手解きするのが宗教の“役目”であって宗教が終着点ではない。

 

 

ダイレクトに「家族とは」を想念できる人は近道を辿れる。

様々な事情があって家族を直視できない人は宗教に伴走して貰えばいい。

具体的な対象があった方がわかりやすい人もまずは宗教を辿ればいい。

でもただ走ってることで安心してはいけない。いつか自力で想念できるようになれると、世界はもっと広いと知れる。

 

そんなことを思いながら映画を観ていた。

 

 

さてそれで、うちの父親はどうだったんどろう?ってことだけど、近道できてたんだと思います。。最期まで私が伴走したんだから。VIP待遇だわ(笑)

 

 

会期中に梅田に用事ができたら出向こう、わざわざまでは自虐が過ぎるっと思ってたら閉会前日についでができた。やはり行くべきかなと腹を括る。美術館ってそんな挑むところじゃないはずなのに(笑) 

 

こういう姿勢の積み重ねで「家族」を乗り越えてきたんだろな。

ザワザワしたけど行った甲斐あり。とうとうタブーを文章に仕留めるとこまで思考がまとまった。

 

 

お薦めくださったI様、ありがとうございました。