こんにちは!国際局1年であり、スタディーツアーインド組・プロジェクト「サヴァディスタ!」所属の高田湧太郎です。
サヴァディスタでは食糧問題をテーマに据えて、インド東岸の街にありヒンドゥー教の聖地のひとつでもあるプリーにて、食にまつわる様々な活動などを見学してまいりました。
食糧問題と聞いたときに、皆さんはどんなイメージを頭に思い浮かべるでしょうか。
僕の頭のなかにステレオタイプな固定観念としてあったのは、アフリカ(特にサヘル地方)においてみられる飢餓の光景でした。
乾燥や伝染病の影響で農業もままならない。かといって貧困から食糧も輸入できない。あたりは、腹はふくれているのにあばらが生々しくも浮かんでいるような、そんな子供たちであふれている。そんな光景です。
しかし、プリーではそのような光景は見られません。
食糧が絶対的に不足しているということは決してなくて、街を歩けばそこらじゅうで食べ物が売られているし、レストランだって山のようにあります。
僕がプリーの郊外にあるスラム(貧民街)を訪れたとき、そこの住民の女性たちがとても太っていたということには、多いに驚かされました。
しかし一方で、プリーでは政府やNPO、そして寺院による食糧配給の支援もなされていました。
このことは、支援なしでは食事にあずかれない人々が存在するという事実の裏付けであるということができると思います。
では、プリーに存在する食糧問題とはなんだったのでしょうか。
それは―ここからは我々の推察も含まれますが―社会格差から生まれた食糧問題ではないのかと思います。
よく知られるように、インドという国はカースト制度の国であり、各々の社会的身分が厳格に定められた国であります。
貧富の差も著しく、きらびやかなアクセサリーを身につけて外車を乗り回す人もあれば、物乞いをして1日を凌ぐ人もありました。
前者の人々の存在によって、表面的には食にあふれているように見えるが、しかしそれゆえに、陰に存在する後者の人々の事実が顕在化しにくい。
そんな「見えない食糧問題」こそがインドの抱える食糧問題だったのではないかと、私たちは考えたのです。
この食糧問題に関する更なる考察についてはまたの機会に譲るとして、今回はプロジェクトの総括として、この一連の流れのなかで僕が感じたことについて述べたいと思います。
それは複眼的な思考というものの重要さです。
人はどうしてもステレオタイプな常識にとらわれてしまいがちです。
そしてそれらは得てして情緒的で、実際との間に齟齬が存在することがままあります。
そしてこの常識に囚われているがゆえに、時に人は見当違いな方向に進んでしまうものです。
だからこそ、私たちはつねに、いま持っているものと別な視点から、私たちの常識を批判・検証しつづける必要があると思うのです。
これは私たちが常に持ち続けるべき精神でありますが、しかし一人では限界もあります。
だからこそ、常に外部からの視点をぶつけてくれる、そんな他者との対話が重要になってくるわけです。
今回の件でいえば、少なくとも僕は食糧問題というテーマについてひとつの常識に囚われていました。
しかしながら、会議のなかで先輩からこれまでと違う視点を提案されたことにより、今まで見えてこなかったものが見えるようになりました。
このように、対話によって知の外部参照ができるような環境は、知的活動をする人間には欠かせないものです。
そしてそんな対話の場として学生団体をとらえたとき、学生にとってそこで活動することはとても意義深いことに思います。
こうして、学生団体の持ちうるグループジーニアスというものの可能性を再確認させられた旅でした。