恩人「俊ちゃん」 | 売上増を実現する宴会セールステクニック

売上増を実現する宴会セールステクニック

小手先ではなく心構えからしっかり考える、目から鱗のホテルセールス実践論。当たり前だけど大切なことを、ご一緒に確認していきましょう!

 私が27歳の昭和50年4月、札幌グランドホテル宴会販売部配属になりました。

ホテル入社試験を受ける時、ホテルには客室しかないと思っていましたので全く予想外でした。

宴会販売部に師匠「俊ちゃん」が居ました。

俊ちゃんは当時31歳、係長でしたが販売実績が断トツ、実質上宴会販売部のボスでした。

 俊ちゃんが原生林(メインダイニング)で黒服の時、三井観光苫小牧ゴルフ場←(名前間違えてたらすまんです)の

会員権販売で実力を発揮、いつの間にか宴会販売部に異動したらしいことはグランドホテル館内の噂になってました。

 

 配属になって1週間経った頃だったと思います。

「おい、伊東、引継ぎするぞ」と待望の声掛けです。

 分厚いメモ用紙を手にいそいそとまだ無人の商談コーナーに行きました。

時間は朝8時30分頃、9時オープンの商談コーナーには誰も居ません。

引継ぎは3分(?)で終了しました。

 

〖1〗25過ぎの男の子は仕事は盗め!まさか誰かから教えてくれるなんて甘い考えではないよな!

〖2〗これからいろいろなコンプレインがあると思う。上司がお詫びに行ってくれるなんて考えるな。

   全て自分で解決しろ!

この2点をガツンと言われました。

 

営業部配属になって1週間、まだ販売部とは何ぞやの段階です。

 この2点はサラリーマン生活終了まで忘れたことはありません。

この教えを破ったことは(お詫びに上司が同席した)2回あります。

グランドホテルで1回、京王プラザで1回計2回です。

1)グランドホテルの実例⇒北海道電気協会昼食会40名椅子用意忘れ事件。

  ⇒私のペアの予約担当者の勘違いが原因、最初に会議400名、会議の後の懇親会出席400名に対し

   盛り込み料理で数ものなくし、全部大皿に1卓9名分を用意することで幹事様と合意済。

  ⇒会場で椅子40人分足りず立ち往生、宴会サービスの長が気を利かして40人を4階和食堂に案内

   好きなメニューを召し上がっていただくことでその場は一件落着。

  ⇒宴会終了後一人で電気協会にお詫びに行こうとした私に対し、宴会サービスの責任者が、

   「お前を一人でお詫びに行かせたら、ホテルが笑われる。一人でいい恰好するな!」と一喝!されました。

2)京王プラザホテルでの実例⇒婚礼ビデオ手配漏れ事件

  ⇒婚礼の挙式ビデオ撮り忘れ事件が勃発。

  ⇒もう一度挙式をやり直す訳にもいかず新郎宅(札幌市豊平区)と新婦宅(日高管内平取町)にお詫び訪問。

  ⇒宴会部長と写真室の責任者が伊東と共にお詫びに訪問、最後に新郎母に、

   「伊東さんは悪くないのに嫌なお詫びに率先して来るなんて、営業マンって大変ね」とのお言葉いただく。

    この新郎母のお言葉で伊東はすべて解決しました。分かってくれる人は分かってくれてますね。

 

  ここで「俊ちゃん」の輪郭を記します。

俊ちゃんは炭鉱町歌志内の出身、若い頃から相当やんちゃだったようです。

高校生の時、地元の危ないグループ(893関係者)と揉め、空気銃で相手を追い廻したらしい。

やがて高校に居れなくなり、札幌西高の夜学に転向したが働いていたグランドホテルの仕事が面白くなり自主退学(?)

従って俊ちゃんの最終学歴は中学校卒業です。

しかし無類の読書家でグランドホテルの向いにあった浪花書房によく行ってました。

 私は大卒採用でホテルの現場を3~4年経験した後、三井観光開発㈱(当時)の東京日本橋本店に勤務予定でした。

入社4年目に宴会販売部に配属にになり、どこが気に入られたのか俊ちゃんが総務に抵抗、伊東を販売部からの異動に反対、結果その後予想もしなかった販売一筋のホテルマン人生を歩むことになりました。

 

 良く酒もご一緒、出来たばかりの七番館ビル「クリフセブン」でまだ「タモリ」を名乗る前の森田一義さんに遭遇したり、ペドロ&カプリシャスの2代目ボーカル担当高橋真梨子さんとススキノ「ポイント・アフター」(確かこんな名前のお店でした)で一緒にお酒飲んだり、様々な芸能人とご一緒する機会がありました。

 作曲家平尾昌晃さんとも親しく平尾事務所の秋の観楓会のアテンドも担当、日高ユートピア牧場から苫小牧ホテルニュー王子(一泊)までの案内役も務めました

平尾事務所には川地民雄さん(漢字間違えたらゴメンナサイ)はじめ往年の日活の映画俳優も沢山おり、団塊の世代の私には興奮を押さえられないメンバーがいました

又どこで人間関係を作ったのか分かりませんが、当時南2条西5丁目辺りにあった東映劇場の支配人とも仲が良く、時々映画の招待券を我々にも頂きました。

その関係で俳優の田宮二郎さん(後猟銃自殺)と山本陽子さん(令和5年没)がグランドに宿泊、山本陽子さんは田宮二郎さんを振って俊ちゃんとススキノに行ったこともありました。

 

 その後自分は何歳まで生きるのか予想になり、俊ちゃんは77~78歳でお迎えがくると言ってましたが4年前76歳で天上の彼方に逝ってしまいました。

 

 仕事も今ではパワハラになる無理難題を2件私に与えてくれました。

一つ目は三越展示会室料発生事件(拙稿ブログ 2023年11月 [交渉力]をご参照)ください。

二つ目は婚礼日程変更依頼事件です⇒詳細は永くなるので後日気が向いたときにでも。

 

今思えば当時販売部に異動して2年目の素人同然の私よりも適任者が沢山いたはず、何で私に行けと指示したのか理由を聞けずに終わりました

 その他細かいことは忘れましたが似たような宴会販売部全体の問題になった案件の事後処理にはよく指名されました。

 

やがて京王プラザホテル札幌が新築、当然のように私にも声がかかり宴会販売部の準責任者として移籍することになりました。

 

 仕事の事はさておき俊ちゃんとは年2~3回はお昼ごはんをご一緒したり夜のお付き合いも継続しておりました。

時が経ち俊ちゃんがグランドホテルで不当な人事異動で左遷されたときにも、

「お前の顔見たくなった」

と京王にお越しいただき、一緒にお酒飲んだこともありました。

 

俊ちゃんと私もそれぞれホテルを退職、二人共別々の道を選びましたがお付き合いは続いておりました。

俊ちゃんが体調崩して入院しているらしいことは人づてに聞いておりましたがある年の11月、グランドホテルOB会の幹事さんから、俊ちゃんがガンで亡くなったとお知らせを頂きました。

俊ちゃんは76歳と四ヶ月、本人の読み通りにはいきませんでしたが、自らの予想より1年前に亡くなってしまいました。

 あれから4年私も今年の2月で76歳になり、俊ちゃんが亡くなったと同じ年齢になりました。

いまでも俊ちゃんと過ごしたグランドホテルでの様々な想い出が、走馬灯のように頭をかけめぐります。

人によっては俊ちゃんを良く言わない人も沢山いますが、私にとっては得難い先輩でした。

お互い別々のホテルに勤めるようになってから、節目節目の何か出来事があった時よく会ってました。

私の人生にとって想い出深い、大切な先輩でした。

「俊ちゃん」=井上俊司さん ありがとうございました、俊ちゃんの事は一生忘れません。

あなたと同じ76歳になりましたが、この1月の脳内出血も奇跡的に軽傷で済んだようです。

もう少しこの世に居られるようですが・・・・・・

いつの日にか私もそちらに参ります。

天国酒場でもう少しお待ちくださいませ。

また楽しいお酒飲みましょう。

 

今日はこれでお終い、またね。