売上増を実現する宴会セールステクニック

売上増を実現する宴会セールステクニック

小手先ではなく心構えからしっかり考える、目から鱗のホテルセールス実践論。当たり前だけど大切なことを、ご一緒に確認していきましょう!

 京王プラザホテル札幌で60歳の定年まで働くつもりでおりましたが、辞めざるを得ない事情が発生しました。

その後のホテルマン生活の実態を報告します。

 

 ご報告したように、2年間で200万円年収が減る通告を受けました。

理由は、定期採用者に比べて経験者採用者は給料が高すぎるという理由でした。

ちょうど娘と息子がそれぞれ大学と高校(共に私学)に進学することになり、授業料他でお金が忙しくなっていました。

そこでかねて誘われていたルネッサンスホテルにお世話になることを決めました。

ルネッサンスホテルは評判が悪く、あまり気乗りはしなかったのですが・・・・・

給料を考えると他に選択肢はありませんでした。

働いてみると評判が悪い原因がすぐに分かりました。

 社員の一般常識、社会常識、人間性が欠けていることにビックリしたのです。

加えて総支配人が銀行出身でホテルは素人、自分の事しか考えない人でした。

部長職の人達もゴマをすることしか考えていなかったようです。

結局社員同士や幹部社員と一般社員の関係はバラバラ、修復不可能状態でした。

 

 毎朝9時から部長職以上が集まる連絡会が、総支配人も出席して行われていました。

ですが8時半には私を除く全部長(確か部長職の人数は計6名だったっけ?忘れました)が

入れ替わり立ち代わり総支配人室に(ゴマ擦りに)行っていたのです。

私だけが総支配人にゴマを擦ってなかったのがしばらくして分かりました。

 

「昨日のゴルフ、天気がよくてよかったですね」

「スコアはいくつでした?」

「あのゴルフ場のレストランは○○が美味しかったのですが、召し上がりました?」等々

てな具合にお世辞の嵐だったようです。

 

部長職で朝総支配人室に行かない私を心配してくれる人もいましたが、気にしませんでした。

その結果入社1年経った時、人事案(課長職2名の配置転換案)を持って総支配人に説明に行きましたが、見事に無視されました。

却下の理由ははっきりとは分かりませんでしたが、ゴマ擦りにいかなかった私を快く思わなかったようです。

それと私の異動提案2名の課長職が、しっかりと総支配人にゴマを擦っていたようです。

それからしばらくしてルネッサンスホテル(現プレミアホテルーTSUBAKIー札幌)を辞めました。

でも冷静に考えると、私の人間としての狭量さと、人として度量がなさすぎたのにも責任があると考えます。

結局私には、人をまとめるだけの力が欠けていたのでしょうね。

 

 

 ルネッサンスホテルを辞めてしばらく就職浪人の予定でしたが、一月も経たないうちにホテルノースシテイのT総支配人から

電話をいただきました。

 T総支配人からお電話を頂く半年位前に、人を介してお目にかかっていたことがありました。

永年の習慣で初めてお会いした方には全てサンキューレターを出していました。

サンキューレターとは初めてお会いした方全員に、

「この度はご挨拶させていただき誠にありがとうございました。」

と葉書にて簡単な礼状を出していたのです。

ノースシテイのT総支配人は、私からのサンキューレターを受け取り、

「こういったことをノースシテイの内部、特に営業マンに広めて欲しい」と考えていたのです。

それでルネッサンスホテルを辞めていた私に連絡をいただきました。

最初は1ヶ月20万円の臨時職員で雇われましたが、あまりにも収入が少ないと考えてくださったようです。

それで売上歩合制を導入していただき、結果月収40万円近くまで稼げるようになりました。

T総支配人は人間性にも優れ、考え方も常識があり素晴らしい人でしたが、早期退職の道を選ばれました。

彼が辞めてしばらくしてノースシテイの総務担当から、

「何で臨時職員に500万円近くも給料を払うのか?」

と職員から猛烈な抗議があったのです(内部の人間から聞きました)。

結果収入も200万円を超える減収になり居心地も悪くなりました。

私からみてもそんなに仕事が出来ると思わない女性職員が、年収450万円と聞き、ビックリしました。

 

 やがてホテルを再建するのに、確か東京のグリーンハウス(?)とか言った会社にまかせたらしいのです。

そしてグリーンハウスハウスから送り込まれた人間を見て私はビックリしました。

ルネッサンスホテルで、私が課長職のレベルの仕事が出来ないと判断したスタッフだったのです!

それからしばらくして60歳を過ぎていた私は不要とされ、ノースシテイを辞めました。

 

 ところでグリーンハウスの人事担当者も、採用したメンバーの調査をしたのかしら。

多分札幌のホテルにいたというだけで採用したのでしょうね。

グリーンハウスは採用する人間の信用調査をまったくしなかったようです。

札幌のホテル業界も甘く見られたもんですね。

ノースシテイの責任者も、私の履歴書をみて、どんな人物か聞いてくれたら違った展開になっていたのかも。

ま、済んだことです。

 

 それからは小さなエージェントを始めましたが、コロナ以降目立って宴会が減り私も70歳を超えていたこともあり

年金生活に入りましたが、本当に年金って少ないですね。

せめて最低でもなんとか生活出来る位のお金くれないのかな。

いまでは連れ合いの稼ぎが頼みの綱、それがないと伊東くんちの家計はパンク状態です。

幸い子供達は親からの仕送りは不要、何とか生活しています。

 

 今はパリの長女、台湾の長男に会いに行くのが楽しみですが、パリは遠すぎ、飛行機に15時間も無理。

昨年11月、16日間パリに行きましたが、もう2度と行くことはないと思います。

旅費その他伊東家の小銭迄すべて使い切りましたし、毎日パリ市内を歩きました。

コンコルド広場、凱旋門、マリーアントワネットがギロチン台に上る直前まで過ごした部屋等パリ市内を堪能しました。

ユネスコの社員食堂兼お客様の食堂から(7階)エッフェル塔を見ながら食事をしましたし、ルーブル美術館、オルセー美術館も

観ました。もう充分です。

一方台湾は飛行機で5時間弱、トイレも問題無し、2度行きましたが何度でも行きたいと思います。

あとは習近平が攻めてこないのを祈ってます。

 

 78歳の現在、いちにち3時間のアルバイトが見つかり何とか生きております。

70歳過ぎてから、何社か就職試験を受けましたが悉く年齢でダメでした。

特に野幌の北海道開拓記念館は、面接段階では好感触でしたが、警備会社本社から70歳過ぎると健康面でいつどうなるか分からないので採用不可になりました。

国道12号線から啓成高校を経て記念館に至るまでの道路のゴミ拾いも業務に含まれておりました。

私の散歩コースでいつも道路に捨てられているジュースの空き瓶やペットボトルが気になっておりましたが・・・・・

 

 私の飲み友達も相当数天国酒場に河岸を変えました。

天国酒場には親しかった仲間がたくさんいますので、連れ合いからは、いつ行ってもいいよ、と勧められて(?)います。

でも、私の事を忘れていたりして。

「あんた、誰?」

とは言わないと思うんだけどな。

 

ま、冗談はともかく残り少ないこの世の生活を楽しむとしますか。

いつものように、まとまりのない駄文になってしまいました。

スマンこってす。

じゃ、又ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和56年7月、当時札幌で最大の宴会場を持つのが確実の京王プラザホテル札幌に「転社」しました。

仕事内容は宴会セールスで前職と変わっておらず「転職」にはあたらないと思い「転社」が妥当と判断しました。

 札幌グランドホテルから27名が京王に移籍、グランドホテルの経営陣も若干焦ったようです。

というのも我々27名が京王に移ったあと、グランドホテル社員の給料が大幅に上がった由。

「グランドホテルの経営陣もやればできるんだ」と思いましたが、大量の人材流出がなければ、給料上げなかったの?

それはないよね、経営陣はズルい、大人はやっぱりズルいと改めて思いました。

 さてグランドホテル経営陣への悪口はともかく、以下京王時代の想い出を記します。

 

①グランドホテルでの楽しい想い出を忘れていました、まずそれから報告します。

 歌手・作曲家の平尾昌晃音楽事務所(正式な名称は忘れました)の秋の観楓会の道案内をしました。

グランドホテル⇒日高ユートピア牧場(昼食、今は営業していないと思います)⇒苫小牧ホテルニュー王子(旧館で宿泊)

⇒翌日千歳飛行場で解散 のルートで行われました。

 総勢50名前後、大型バスで移動、一家族3人平均として150~180人が生活していたことになります。

 平尾昌晃さんはじめ俳優の川地民雄さん(名前の字間違えてたらゴメン)葉山良治さんなど有名俳優が沢山いました。

 特に苫小牧ニュー王子で夕食のあと地元の大きなスナックでの平尾昌晃ショー、みんなノリノリでたのしかったなぁ。

 「星はなんでも知っている」「ダイアナ」等々平尾さんのオンステージ、タダで見ました!

 

②平成天皇陛下御夫妻をお迎えしました。

 その年3月道庁担当営業マンから、7月に天皇陛下を京王プラザホテルで受け入れてほしい旨強い要望がありました。

当時の京王プラザの総支配人が学習院OBだったこともあり、京王でお迎えすることになりました。

理由として札幌グランドホテルの貴賓室(洋室)ルームナンバー464は4階、目の前が北海道ビルで道路1本しか離れてなく、見晴らしがよくないのです。

京王プラザホテル札幌のスイートルームは22階南向きで、目の前に札幌市内、少し遠くにススキノの夜景が広がり気分爽快になります。

多分それが原因かも?

京王のスイートルームの窓は防弾ガラスではなく、当時のライフル銃の有効射程距離のビルの屋上にすべて警察官が配置されたらしいことも後で伺いました。

 

 それはともかくとして、野幌森林公園で育樹祭が行われることになり、それに陛下御夫妻がご臨席することになり、来道されたのです。

ビックリしたのが、先乗り荷物が美智子妃殿下が20個、天皇陛下が5個でした。

美智子妃殿下のお荷物20個は、ほとんどがお召し物、あらゆる天候の変化に対応できるように、との考えからご用意されたとのこと。

いかなる天候になっても対応できるように、お召し物を用意されたら大きなトランクが20個になった由。

トイレも宿泊されているホテルの自室以外は使用されないとのこと。

普段から水分は控えられている由、皇室は大変ですね。

慣れているとはいえ、お察しします。

 

 天皇陛下御夫妻来館の詳報は、私の講演のなかで20分程度にまとめておりますが、正直に申し上げて気苦労が多く

一度お迎え出来ればもう充分というのが実感です。

でもとてもいい経験をさせていただきました。

 

③1件で1億9千万円の招待会を受注。

それまで札幌のホテル業界の宴会売上で、1件当たり6千万円前後が最高でした。

S化粧品会社の売り上げを大幅に超え、当時の札幌のホテルで断トツでした。

5月のGW直後に開催された、某精密機械の会社の優績者招待会です。

前年京都の都ホテルで行われた招待会を下見に行きましたが、ホテル料理を観た瞬間、札幌の勝ちと思いました。

ただデザートコーナーの京菓子コーナーだけは京都に軍配が挙がると思いました。

総合司会が徳光さん、入場シーンで京都の舞妓さんが15人ほど三味線の演奏とともに会場へ、これは素晴らしかったです。

ちなみに京王プラザホテル札幌でのオープニングセレモニーは、アイヌの儀式をテーマに考えられており、

いかにも北海道らしく素敵な映像が拡がりました。

ホテルの料理はウエルカムパーテイが一人16000円、昼食が一人12000円、夜の食事は一人15000円で

それぞれ950人分の用意が必要でした。

京都都ホテルがウエルカムパーテイ一人15000円、私はどうしてもそれより高くとりたっかたので最初フード単価18000円で提案したのです。

案の定、なんで都ホテルより3000円も札幌のホテルが高いのか、と先方社内で問題になった由。

折り込み済の反応だったので、北海道らしい美味しい料理を召し上がっていただきたいと強調、なんとか16000円でOKの返事をいただくことが出来たのです。

おかげさまでその年は調理長から、料理の原価率がなんの心配もないとお褒めの言葉をいただきました。

 

④キリンビールの恵庭工場落成祝賀会も楽しかった想い出です。

 大阪から600人収容の巨大なテントを持込、前日スタンバイ完了で会場準備は出来上がりました。

当日はホテル調理スタッフやコンパニオン60名(確か)を大型バスで札幌から早朝移動、調理さん達も楽しそうでしたよ。

これだけ大型の出張宴会の経験は初めてで、当時の調理長から、

「伊東、オレここの調理長になりたい。推薦してくれ。」と冗談口調(でも本音かも?)でお願いされました。

勿論オープンパーテイは好評のうちに終了、お客様からもお褒めのお言葉を頂戴しました。

楽しい仕事でした。

 

⑤道銀頭取交代パーテイをグランド、パークと京王の3社三つ巴のすえ獲得。

 7月始めが頭取交代披露祝賀会に決まり、3社とも決定宴会を受注済、グランド、パークは決定宴会の日程変更に失敗、

京王も難儀しましたが、宴会キーマンの先方責任者の説得に、神奈川県まで出向き説得に成功しました。

最初祝賀会を2回(道銀の主要取引会社対象約600人「確かライラック会?」と役所関係約200人の2回)に分ける計画でした。

私の読みで1回にする予想が的中、800名で一人10000円の予算と伺っていましたが、最初の見積もりで料理単価12000円で提出、結果合計2500千万円で決着しました。

大変申し訳ないのですが、道銀の担当者はほとんどホテル側(即ち伊東)のおすすめに従ってくれました。

昼のパーテイでの売上としては、上出来と総支配人からもお褒めの言葉をいただきました。

会場入り口で札響のピックアップメンバーによるお迎えのミニ演奏等、素敵でしたよ、一所懸命に考えてよかったな。

 

⑥母校札幌東高の同窓会総会でタダ一度だけ700人を超えました。

 それ迄500~600人で推移していましたが唯一700人を超える歴代最高の出席者数を確保しました。

グランドホテル営業マン時代は、一番広い金枝の間が着席450人が最高でしたので営業にはいきませんでした。

あの熱気はいまでも覚えています。楽しかったなぁ。

確かOBの一人がブラジル在住でしたが、当日来札、出席いただきました。

現在の同窓会総会は250人前後に人数が減り、寂しい限りです。

想い出に残った宴会はこんなところかな、また思いだしたら報告します。

 

 一般宴会獲得では古巣グランドホテルに勝つことが多くなり、恩返しになりました。

グランドホテル宴会販売部の上司の指示不足と判断のバラつきが目立ちました。

私のグランドホテルでの師匠が東京本社に転勤、後任宴会販売部の司令塔のレベルが落ちたのが原因と思われました。

 

 余談ですがグランドホテルから京王に移った人材の中で、グランドホテルに再度スカウトする動きがあったそうな。

その最有力者に私の名前が出たとの事、(このことは当時のグランドホテル総支配人Fさんから直接聞きました)光栄なこととうれしくなりましたが、もしお声かけいただいたとしても、再度のグランドホテル勤務は難しかったと思います。

お金よりも大きな宴会場を売りたかったので、再度の札幌グランドホテル勤務はお断りしていたのはほぼ確実でした。

 

⑦京王プラザホテル札幌の法要プロジェクトリーダー

 地下1階のバー改装で60人規模の宴会場オープンに伴い、当時1年間で2000万円だった法要の売り上げを

目標の1億円には届かなかったが9000万円にのばすことが出来ました。

過去の実績を分析東区、北区、厚別地区とその近辺へのDMを辞め費用を削減、新たに北広島地区の駅中心にDM配布を実施

1年後には大幅に売り上げを伸ばすことが出来ました。

法要専門の営業マンを1名作り、土日出勤にし出来るだけDMが届いた頃訪問するようにしたことも成績アップに寄与しました。

 

⑧元横綱輪島(引退してプロレスにいくかもと噂が乱れ飛んでいた頃)とお酒を飲みました。

 ・ライバルの北の湖さんはお酒が強く、サントリーオールド1本が30分で空いたこと。

 ・輪島さんは手首が平骨で私と比較しても1・5倍位ありました。

 ・左下手まわしを取れさえすれば絶対勝つ自信があったと教えていただきました。

 ライバル北の湖さんは体重160キロ前後、左下手まわしさえ取れれば北の湖さんの体が浮いたそうです。

 

⑨私が宴会販売部の支配人(課長職)になった時、市内2~3ホテルから電話をもらいました。

 「伊東さん、本当にテリトリーセールスから卒業したの?」

余程私が目障りだったんでしょうね、心から喜ばれました。

私が腕利き営業マン(?)であったことは事実ですが、私より優れた営業マンはたくさんいました。

ただ人より優れていた点は営業マンとしての基礎業務は、多分人より一所懸命にやったことだけは自信あります。

1,初めてお会いしたお客様には100%サンキューレターを出していました。

2,お詫びを逃げたことは一度もありませんでした、必ず直接お会いして目をみてお客様のお話をお聞きしていました。

3,担当会社一覧表を区ごとに作成、訪問件数だけは多分トップクラスだったと思います。 

 前の週の金曜に翌週の訪問予定を作成、効率の良い営業活動をしていたと思います。

4,担当の法人会合、結婚祝賀会には余程のことがない限り当日立ち合い、ご挨拶をかかさず次回の利用に結びつけました。

5、財界さっぽろ等地元経済誌を読み、お客様の横のつながり(どこの高校OBか?)を知るようにしていました。等々

 

⑩猜疑心の強い上司にパワハラを受けました

 宴会販売の支配人になると館外接待費を会社から賦与されます、確か1ヶ月10万円だったように記憶しています。

私は3グループに毎月2万円をグループ内の一杯飲み屋代として渡しました。

それに加え、3グループのリーダーと月1回、飲み会を実施しました。

私自身もお客様との交際がたくさんあり、その費用に月4~5万円ほど必要でした。

勿論足りないので自腹をきってました。

ところが上司(部長職)が自分の使うのに忙しく、なかなか伝票にハンコをもらえず、気苦労が絶えなかった思い出がありました。

とにかく疑うのです。お客様ではなく仲間内で使ったのでは等々、狭量な人でした。残念!!

 

⑪他ホテル営業マンとたくさん知り合いました。

 特にビジネスホテル勤務の多くの仲間には宿泊で随分お世話になりました。

 お客様の多くは、札幌で泊まりたいが京王は予算超過、ビジネスホテルでどこか紹介してほしいといったリクエストには

 ホテル仲間が随分協力してくれました。

 感謝多々!

 

⑫シビルウエディングミニスターの資格を取らせていただきました。

 デザイナーの桂由美先生が日本に紹介した、新時代にあった結婚式の形態です。

 シビルウエディングミニスターについてはご自分で勉強してくださいね。

 私が資格を取らせていただいた時、日本全国で多分50~60人が有資格者だったと思います。

 東京まで資格を取りに行きましたが、試験には桂先生も審査員でおられ、相当緊張したことを懐かしく思い出します。

 

 33歳で京王プラザホテル札幌に移り、連れ合いにも巡り合うことが出来ました。

 子供達も何とか大学の入学金まで支払うことが出来、感謝いたしております。

 しかし大学卒業の頃、伊東くんちの財政はパンク、金融機関からお金を調達、何とかしました。

 二人の子供達もパリと台北で元気に暮らしており、数年に一度子供達に会いにいく楽しみも出来ました。

  

 余談ですが、55歳の時、会社から給料を下げる事実を聞き、スカウトを断っていたルネッサンスホテル(当時)に転社しました。

 噂に聞いていた通り社員間がバラバラ、各ホテルの問題児の集まりで総支配人も銀行出身、ホテルのことは何も知らない人でした。

 

 色々なことがありましたが、おおむね京王プラザホテル札幌時代は仕事とプライベート両方で楽しく過ごせました。

 

 今現在宴会販売部は私の過ごした昭和の時代の雰囲気が無くなったようです。残念!!

私の時代はグランド、パーク、後楽園ホテルに腕利き営業マンがおり、彼らと一つの宴会を取り合うのが楽しみでした。

最近はホテル同士の宴会獲得の鍔迫り合いの噂も聞かなくなりました。

時代が変わったと思います、これも時の流れでしょうか?

勿論ホテルの「格」もありますが、どこのホテルの誰が担当かによってこちらの気持ちも違ってきます。

現在のホテル業界の実情は知りませんが、強力なライバルがいたほうが、やりがいがあると思うだけどな。

みんな、そう思わない!

 

やはり昭和の時代が今でも懐かしく思い出されます。

いい時代にホテル営業マンとして働くことが出来たと「時代」に感謝する今日この頃です。

後期高齢者のたわごととお笑いくださいまし。

ただ残念なことがありました。

それは札幌勤務になった京王電鉄と京王プラザホテル新宿からの出向組は「札幌へ島流し」と自虐的な発言が目立ちました。

やがて年期奉公があけて、東京へ戻ることになった時のうれしそうな顔といったらなかったね。

自分にも責任があると思いますが、出向組と打ち解けた人はいなかったのです。

出向組のほとんどは会社のお金で夜の飲み食いをし、5年経って800万円貯められなかったらアホなんだと!

残念ながら人間として、好きになれなかったね。

ま、向こうもこちら現地採用組には親しい感情はなかったようだし・・・・・・

以上で京王プラザホテル札幌時代の想い出を終了します。

 

じゃ又ね。

 

 

 昭和47年社会人になって最初の会社、札幌グランドホテルには9年間勤務しました。

1年目ベルボーイ、2年目原生林(メインダイニング)、3年目総務課、4~8年目宴会販売部、9年目フロント、

以上が9年間の勤務セクションです。

 

 ホテルにはフロントしかないと思っていましたが、まさか宴会販売部が一番長くなるとは思ってもいませんでした。

もともと入社4年目からは、当時の三井観光開発株式会社の本社があった日本橋の三井ビル(?)に勤務していたはず。

それが宴会販売部上司の考えで本社勤務はなくなり販売部で勤務続行することになりました。

今振りかえっても、グランドホテルでのベルボーイ、フロント、原生林等各セクションに勤務したことが、宴会販売部でも随分役に立ったと思います。

お客様に何聞かれても、そんなに的外れな返答をしないという自信が付きました。

そのグランドホテルで想い出に残る出来事を下記に挙げます。

 

①昭和50年4月、私が宴会販売部に配属になった頃、各営業マンに決まったテリトリーはありませんでした。

 従いまして同じ会社にグランドホテルの営業マンが2名訪問する、という不思議な出来事が発生していました。

 お客様もさぞ驚いたことでしょう!

  私のテリトリーは当時の営業課長が私に職業別の電話帳(今はありません)を投げてよこし、

 「伊東君、君は組合、協会をすべて廻りなさい」とのご指示でした。

 やがて仕事が多く発生する組合・協会に行くと、先輩営業マンがすでに訪問済という事態に度々遭遇するようになりました。

 そこで販売部の上司に意見具申、各営業マンのテリトリーを決めることになりました。

  仕事が出来る販売部の上司に相談、今は廃刊になっている「商工名鑑」を参考に業種別に担当テリトリーを決めました。

 数が多い学校関係は、北1条を境に、「北」と「南」に分け、市内の各工業団地もそれぞれ担当を決めました。

 北大医学部と札幌医大もそれぞれ担当を決め、製薬会社もおのおの関係が深いと思われる会社を割り振りました。

 このグランド方式は暫くの間、市内各ホテルのテリトリーを決める参考にしていただいたようです。

 

②次に印象に残った出来事は、なんといっても修行時代の三國シェフと1年間ご一緒できたことです。

 彼の働き方はすさまじかったの一言、休んだのは年間計10日間位です。

 タイムカードは総務をおもんばかって、年間の決められた公休日はタイムカードを押さず勤務しておりました。

 早番遅番は彼の眼中になく、毎日朝8時には出社、夜は21時半くらいまでは仕事をしていました。

 仕事は先輩の仕事、特にソースの味を盗むことを優先していたと思われます。

 当時私も原生林のルームサービス業務を担当、1週間に一度泊り業務がありました。

 若き三國シェフと同じ日に泊まり、彼は原生林のマスターメニューをすべて作ってくれました。

 泊りの日の夜11時頃、舌で覚えたマスターメニューを再現、我々ウエイターに味見をさせてくれたのです。

 やがて三國さんは帝国ホテルに移り、スイスの日本大使館のシェフの後、ヨーロッパの有名レストランで腕を磨き

 日本に戻ってきました。

 あとは皆様ご存じの通りです。

  余談ですが帝国ホテルの村上シェフ(当時)がスイス大使館のシェフに若き三國さんを決めた経緯は、下記のようです。

 その頃NHK の料理講座を担当していた村上シェフの当日のメニューの塩加減が適切であったことらしいです。

 帝国ホテルを出発して何時間後にその食材が使われるのか予測、塩の量を的確に判断したのが若き日の三國シェフでした。

 当時まだ料理を作っていなかった三國さんを、その塩加減をみて村上シェフが、これなら大丈夫、判断したとの事。

 さすが村上シェフ、食材への塩加減をみて三國シェフは心配ないと判断したのです。

 その村上シェフから見ると、三國さんが一度もお客様に料理を提供したことはないことは、全く心配していなかったのです。

 食材への塩加減を的確にできることは、美味しい料理を作れることと同じ意味を持つことだったのです。

 

③支笏湖宿泊事件

 この宿泊事件で得たお詫びの教訓が、ホテルマンを辞めるまで行動の指針になりました。

 要諦はとにかくコンプレインから逃ず、出来るだけ早くお客様に直接お目にかかり、お詫びすることです。

 具体的には、

 ・できればその日にお詫び、遅くても翌日にはお客様と直接お会いしてお詫びするようにしていました。

 ・お客様のおっしゃりたいことは途中で絶対口を挟まず最後まで聞くように心がけました。

 ・お客様が同じことを繰り返し話しだしたら、心からのお詫びと謝罪内容を説明するタイミングと捉えました。

 私の場合、こうすることによって90%以上の確率で顧客になっていただき、次回以降のご利用に結び付きました。

 この経験が何か失敗しても、逃げずに出来るだけすみやかにお客様に直接お会いしてお詫びすることの大切さを

 学びました。

 ほとんどの場合、お客様は誠意を感じ顧客になってくださいました。

 

④婚礼も各セールススタッフに、1年間の受注目標件数が決められました。

 1年間毎月1件婚礼を獲得し、年間12件の婚礼を獲得するノルマがあたえられました。

 決して簡単な目標ではありません。

  私は学生時代三越デパート配送センターでアルバイトをしていたことが幸い、年間婚礼獲得28件という

 いまでは考えられない実績を挙げることが出来ました。

 当時の三越は独身社員だらけでした。

 配送センターに勤務していた若い社員の婚礼を、ロイヤルホテルから奪取したのがキッカケとなりました。

 発起人テーブルは三越の独身社員だらけです。

 その発起人達が、当時料金が高く手が出ないと思われていたグランドホテルでの婚礼祝賀会に理解を示してくれたのです。

 勿論婚礼の引出物持込料金(当時1個500円位頂戴しておりました)はフリーにしました。

 引出物候補の商品は、三越に沢山ありました。

 昭和50年三越デパートの独身社員が次々と婚礼祝賀会をグランドホテルで挙げてくれたのです。

 また高校時代からの友達や、学生時代の仲間が婚礼する幸運にも恵まれ、年間28件受注するという結果に結び付きました。

 私は担当婚礼がある日は必ず出勤し、ご挨拶することにしておりましたのでこの1年間は忙しかった記憶があります。

⑤恵庭に日清の工場があるのをご存じですか?

 あの工場の落成パーテイを受注したのは札幌グランドホテルで担当が私でした。

 日清の担当者からグランド、パーク、プリンス、全日空始め千歳、苫小牧のホテル計10社位(?)の担当者が集められ

 工場の規模等説明を受け、落成祝賀会の提案書を提出するようにとのリクエストでした。

 幸いにも私の案が選ばれ、当時人気絶頂のピンク・レデイが祝賀会に来ることも発表がありました。

  ところが祝賀会の2週間前位に日清の担当者から連絡がありました。

「伊東さん、大変申し訳ないが祝賀会の担当ホテルが、本社の指示によりプリンスホテルに決まりました。全国の西部系列のデパートで日清の食品フェアをしてくれることになり、ホテルはプリンスにしなさいとの本社からの指示があった」ということでした。

 担当セールスの私もそこまでは読めなかったのです。

 当時人気絶頂のピンク・レデイを間近で見るチャンスを失いました。

 残念!

 余談ながら昭和56年、全盛期を過ぎたピンク・レデイが札幌グランドホテルに宿泊されました。

 ところがピンク・レデイを観に来るお客様が全然来館されないのです。

 チェックアウトも寂しいものでした。

 いかに人気商売とは言え、その人気の落差に人の世の無常を感じました。

 

 ⑥私が宴会販売部にいたころ、北炭夕張で落盤事故が発生、確か100人近い犠牲者を出しました。

 北炭観光株式会社時代の萩原社長がまだ実権を握っており、毎日グランドホテルの売り上金を回収、夕張にもっていったことで のちグランドホテルがお金がない事態の原因になったようです。

 余談ですが俳優の加山雄三さんがスキー事故で足を骨折、札幌市立病院に入院していたとき加山さんの食べたい料理を運ぶのが

 原生林のウエイターの業務に加わりました。

 フカヒレ、生寿司、ステーキ等中華、和食、洋食の美味しい料理を運んだ想い出が懐かしく思い出されます。

 

⑦当時ボボ・ブラジルというプロレスラーがいました。

 原生林の朝食で主催者払いの時はゆで卵20個位召し上がり、自分が支払いの時はゆで卵2個ですませました。

 はっきりしている性格に感心したことを今でも覚えてます。

 

⑧原生林時代、当時札幌で一番人気のあった地元のバンド「キッパーズ」のメンバーの結婚式を何組か原生林で挙げました。

 余興はアメリカンポップスの生演奏です。

 ボーイ時代の私にとってキッパーズのご機嫌な演奏がタダで見れました。

 楽しかったなぁ!!

 

⑨和食調理の若い衆が従食に行くときを狙って食事にいきました。

 和食の調理さんが時期によって、特製塩辛を従食に持ってくるのです。

 たまんなくおいしかった思い出、今でも覚えてます。

 

⑩昭和47年ベルボーイ時代と昭和55年~56年のフロント時代、多くの有名人を見かけました。

 ・高橋惠子(関根恵子)、十朱幸代、水森亜土、八千草薫、笠智衆他多くの俳優

 ・デビューしたころのピーター、西条秀樹他多くの歌手

 ・日米野球で来日した大リーグシンシナチレッズの監督ピートローズ、デビューしたころの尾崎将司、大相撲の大鵬親方

  新弟子をスカウトに来道された元横綱琴桜関などスポーツ関係者多数

 それまでテレビでしか見れなかった有名人がたくさん目の前にいるのです!

 

  なかでも最も印象に残った俳優は「駅」のロケで来ていた高倉健さんでした。

 健さんがチェックインの時、グランドホテルのフロントの正面に立ち、

 「高倉です。お世話になります」とご挨拶され一礼。

 ロビーにいたお客様すべてが、そ のカッコよさにしびれました。

 当時健さんは50歳少し前、体型もバッチリです。カッコよかったなあ。

 また無類のコーヒー好きで、撮影(多分羽幌、増毛付近)が終わったその日の反省会や、翌日の段取りの確認など健さんのルー ムで毎晩のように軽いミーテイングです。

 注文するのもコーヒーを受け取り伝票にサインしてくれるのも健さん本人です。

 普段仕事をしない先輩達ウエイターも、

 「お前、電話で健さんと話をしたので、コーヒーをルームまで届けるのはオレ」

 当時の健さん、マネジャーにコーヒーの注文等任せず、すべて自分でするなど気さくでみんな痺れてましたよ。

 

 

 給料は安かったけどいい経験をさせてくれたのが札幌グランドホテルの9年間でした。

入社する時にあこがれのセクションはフロントでしたが、各セクションの実態を知るにつけフロントは自分には合わないと思いだしました。

極端にいえばフロントの業務は宿泊希望者にルームキーを渡すだけの仕事です。

それよりもベルボーイはフロントからルームまでお客様を御案内、雑談をしながら会話を楽しめます。

私にはそれが楽しかった記憶が強く残ってました。

いろいろなことがありましたが札幌グランドホテルの9年間がホテルマンの基礎になりました。

ただただグランドホテルに感謝です。

 

それはともかくとして、やがて札幌駅のすぐ横に京王プラザホテル札幌が建ち始めました。

まさか自分がそこで働くことになるとは夢にも思いませんでした。

でも宴会場の広さに惹かれ、京王プラザホテル札幌に移りました。

原因は京王プラザホテル札幌の一番大きな宴会場は着席宴会750人収容可能だったことによります。

札幌グランドホテルは着席最大が450名でした。

折角グランドホテルで決めていただいた宴会が、収容人員増により札幌パークホテルに変更になりました。

こういった事態が何度あったことか、そのたびに悔しい思いをしておりました。

それが大好きなグランドホテルから京王プラザホテル札幌に移る最大の原因になったのです。

 京王に移る条件として年収30万円アップ(確か?)を約束してくれましたが、給料にはそんなに重きを置いていませんでした。

ただただ大きな宴会場を売りたかっただけでした。

 京王に移り最初の給料を見た時、約束より増えていました。

早速総務に出向き、約束より給料が多すぎます、と給料の返還を申し出ました。

ところが私の申し出を聞いた総務の責任者が笑いながら、

「伊東君のグランドホテルの給料があまりにも安すぎ、少し増やしておきました」とのこと。

結局年収50万円アップ位になりました。

京王に移る際そんなこともありました。

 

次回は京王プラザホテル札幌での想い出です。

ホテルマンの集大成でした。想い出に残る仕事もさせていただき京王にも感謝です。

グランドホテルでの想い出はこれにて終了です。

じゃ、又ね。

 

 

 

 何年振りか忘れていましたが、相当久しぶりに紅白歌合戦を全部観ました。

殆どが知らない歌、知らないタレントばかり、知ってる曲は数曲でした。

 

 それはそれとして、司会の女性タレント(綾瀬はるかさん、今田美桜さん)の語彙力のなさにびっくりしました。

それと事前の打合不足か、気まずい沈黙の場面が何回も見受けられました。

3人のタレントが顔を見合わせているばかりです。(有吉さん、綾瀬さん、今田さん)

誰も気まずさを解消しようとはしませんでした。

多分台本にない沈黙だったので、どうしていいのか分からなかったのでしょう。

人気タレントゆえに、打合せ時間が取れなかったのでしょう。

男性の司会(有吉弘行さん)の咄嗟のフォロー不足がなかったのはともかく、女性二人の語彙力のなさばかりが目だちました。

余計なお世話だと思うのですが、忙しくて本なんか読んでるヒマが無いのかも。

それと気持ちが上ずっており、緊張のあまり平常心を保てなかったことも影響したと思われます。

もっともそう感じたのは私だけかもしれません。

 

 NHKも今回の司会に限らず、タレントを使う頻度を少なくしたほうがいいのではと思います。

何故局アナを使わないのでしょうか?

組合がうるさくて使えないのでしょうか?

タレントに払うギャラ等ムダな出費をなるべく止めたほうがいいと思うのですが、こう考えるのは私だけ?

 

 最近のNHKは受信料のお知らせが目立ちます。

受信料の不払いが余程多くなっているのかも。

詳しくは分かりませんが、知識人に2~3時間の出演料として何十万円払う場合も度々あるらしい報道を観ました。

本当かどうかは分かりませんが。

 

 NHKも紅白歌合戦の曲目を団塊の世代がテレビを観たくなるような歌手を選んでくれると視聴率が少しは上がるかもね。

ま、どっちでもいいけどさ。

 

じゃ、又ね。

 

 11月の1ヶ月間で、ホテル仲間が3名、天上の彼方へ片道切符の旅に出ました。

44歳(脳内出血)、73歳(ALS)、79歳(事故)でした。

1ヶ月で3名、なんともはや!言葉もありません。

 

 私自身多分80歳~82歳の間位に、お迎えに来てくれると予想しているのですが・・・・・

子供達に迷惑をかけないためにも、長生きは考えものと思いますが皆様はいかがお考えですか?

 

 今年は私の人生で最初で最後のパリ訪問も実現できました。

兎に角パリを歩きました。1日1万5千歩以上、毎日です。

石畳は歩きにくかったですよ。

 改めて働き甲斐のある仕事って、何でしょうね。

有名観光地ではなく、街のレストランで働いている高齢者を見るたびに考えさせられました。

高齢者の皆様は生き生きしていました。

自分にとって、やりがいのある仕事ってなんでしょうね。

いまさらながら人生を振り返っています。

ま、それはともかく来年もよろしくお願いいたします。

 

皆様におかれましては、どうぞ良いお年をおむかえくださいまし。