彼女は走っている。何処かに向かって走っている。同じスピードで。息を切らせて。おれが最後に走ったのはいつだったか。それよりもおれは走れるのだろうか。彼女みたく。彼女はまだ走っている。スピードは変わらない。橋の下を潜り、その先へ走る。走ること自体が目的なのかそうでないのか。彼女にしてみれば走ることはつまり息をすることでそれはおれにとっては理解しがたい話ではあるのだけれども彼女の走り方をみているとおれも走ってみたい、そう思うことがある。思うことがある、というよりはいままさにおれは走りたい。思う存分走りたいと思っている。息を切らし、その息切れの中の証を掴みたいと思っている。ここで座っている場所から見える景色とそこを走っている場所から見える景色には圧倒的な差があるはずだ。その景色の中走る。走ると景色は変わる。変わる景色、変わる身体、変わる時間。走っているときの時間はゆっくり進むはずで、早く走れば走るほどさらに時間はゆっくり進むはずで、おれはそのスピードで時間の中走る。夕暮れを走る。走ることは希望につながる。希望とはつまりまだ来ていない時間。その先。未来。おれは未来に向け走る。走っていればいつか未来になるだろうか。ふと彼女を見る。彼女はもういない。走り去ってしまった。追わなくちゃ。彼女を追わなくちゃ。おれは脚を交互にできるだけ速く動かす。できるだけ速く息をして、できるだけ高く飛び、前に進む。進む。スピードを上げる。さらに上げる。おれの心臓が悲鳴をあげる。脳が白くなり、目が熱くなる。汗は出ない。ぼうっとする。でもおれは脚を動かすのをやめない。彼女においつくまではやめない。やめてしまったらそこでなにかが確実に終わるからだ。その終わったなにかはおれにはもうとりもどすことはできないからだ。幼いころ、スキップをするのが上手だった。スキップでだけは誰にも負けなかった。スキップ王。スキップの王。おれは自然と脚の動きを変えていた。走りからスキップへ。スピードは変わらない。心臓が踊る。景色もクリアに変わる。この調子だ。おれは彼女が走るスピードと同じスピードでスキップしている。疲れは無い。このまま彼女を追い続けられる。でも彼女に追いつくことは無い。
ブロークンフラワーズ/ビル・マーレイ
¥3,860
Amazon.co.jp


これはいまのおれに必要な映画である。
週末のタワレコで手に取りつつそう確信しレジに直行した『ブロークンフラワーズ』。



ドン・ファンライフを送ってきた独身中年男ドン(ビル・マーレイ)の元に「あなたの子どもが19歳になります」と差出人不明の手紙が届く。そのピンクの便箋と赤いリボンのタイプライターを頼りに20年前の恋人たちの下へと再会の旅に出る。ピンクの花束片手に。


ちょっと泣くつもりで観たが泣くどころじゃねえ。せつねえ。刺すように、押しつぶすように激せつねえ。とも言ってる場合ではない。おそろしい。これは刺すように、押しつぶすようにじわりおそろしい。
観終わって初めて分かることだがこの映画で描かれているのは人生において実は一番多くを占める恐怖、確信できないことと可能性に対するただただ漠然としたどうしようもない恐怖だ。






※以下ラストに言及してます※


その恐怖の正体は通常表に出てくることはない。しかしそれは常に傍にいる。なんとなく、分かったような分かってないような気になり、分かったような分かってないようなふりをして、有耶無耶を蓄積する。しかしそれは手順さえ間違わなければその中身は時と共に腐り記憶の塵となるか、或いは向こうからひょっこりと真実という姿で目の前に現れるかのどちらかだ。しかしこの主人公はその道を(結果的に)自ら閉ざしてしまった。真実を掴むことのできるたった一度の場所に踏み入りながらも体力を使わず、それを逃した。生半可に、おそらくおセンチに過去に向き合おうとしたのだ。ハッピーエンドはありえない。気付くだけ。


“おれにとっては今後一生知人全てが手紙の差出人であり若者全てが息子なのだ”


ラスト訪れる途方に暮れるという恐怖の実感、頭蓋は空洞になり手足の先はしびれ吐き気が肺からこみ上げる、自分からきっと自分自身であるなにかが剥がれ落ち景色がまわる、白く深い無の不安。人生に牙を剥く有耶無耶。その感覚をおれは知ってる。きっとみんな知ってる。どうにかできたかもしれないがどうしようもないということをしっている。それでも、生きていけることを知っている。


「あんた過去に行こうってのかい?時を遡るには体力使うぜ」

ドライブの楽しさなんて経験と勘だのみでたぶんこっちじゃねえのあれこっちのはずなんだがなあうわなんだよこの路地感漂う細い道ていうかここどこだよぎゃはははという点につきると思っていたおれにとってはカーナビゲーションなどというものはドライブの楽しさを圧倒的に阻害しその利便性によって道具ホリックなのび太人間を増やすダメ四次元道具以外の何物でもないと思っていたいやそこまでは思ってはいなかったんだけれどもどうも東京に来てからというもの人を乗せるたびに「カーナビ買おうよ」「たのむからカーナビ買って」「次はキレるから」などと懇願、プレッシャーを受けるのであって確かに『おれのカーナビ』と称した方位磁針ひとつ頼りに暗い助手席で酔いと戦いつつ自らは迷っても全然オッケーむしろ迷ってこそとか思ってる坊主頭の運転手のためにマップル捲ったり睨んだりしなきゃいけないメカにも劣るワタシ或いはオレはなんだだれだおまえはおいこらうえっぷエロロロロとか思われるのも仕方ないしひとりで運転する時にしても例の道路交通法一部改正によってうかつにちょっと路肩に停めマップルとか怖くてできないのでありどうすりゃいいですかそうですかカーナビ買えばいいですかそれはそれは素晴らしいおいくらですか15万円です安いではないかでもおれの給料はもっと安いからなもっともっと安いのはメスなら安いですよおいくらですか3万円ですとなるほど安いじゃないかしかしメスを3万円で買うというのもトルコ風呂みたいで嫌だなさらにさらに安いのは以下略という経緯で購入したのがこちら。


MAPLUSポータブルナビ(GPSレシーバー同梱版)
¥8,925
Amazon.co.jp

アフィリエイト!この金の亡者が!でも誰も読んでません。
仕事のためにPSPを買ったはいいがこれといってやりたいゲームも無くP-TV とかいうタダとか105円とかでアニメを落とせるサイトからタダのアニメを落として通勤電車の中で見たりとかというかこないだ『一休さん』の第一話を最終大江戸線の中で見てたら隣に座ったOLにガン見されましたPSP買ってよかったとおもいましたあとたいていのアニメは第一話のみがタダで二話以降は105円なのに『銀牙伝説ウィード』だけは全話タダなのは神の御業ですかなんかサルと戦っててビックリしたんですが次はビスケット・オリバとだったらいいなあと思ってたおれにうってつけのおもちゃです。なんか評価とか読むと10年前のカーナビ並みとか言われてますがそもそもカーナビなんて使ったこともないおれには新鮮だなあ文明の利器だなあああごめんよ指定されたルートから外れちゃったあははブラックアウトして長考にはいっちゃって可愛らしい走る走るよきみのいうとおり走るよおほほ。便利。
しかしスタンドのお兄さんに「あっれー、最近はPSPでカーナビできるんですか!」と言われ少し鼻高げになってしまった自分はいつか死ねばいいのにとか少しおもった。

晴れ?雨?
どうだっていいよ
今日一日は布団の中で
天井見てるって決めたんだ


昼?夜?
そんなの知らないよ
太陽も月も僕持ってないから
世界に一人で夢なんか見るよ


上下左右現在過去未来
全てが僕の中で繋がるよ
明日になったら恥ずかしくて言えないような
すげえこと悟ったりするよ


電話が鳴っても出ないよ
チャイムが鳴っても出ないよ
「あの娘かも」なんてちっこい可能性
保留にしたまま布団を抱くよ


やりたいことがないわけじゃないけど
今日はもう布団から出ないよ
やらなきゃいけないことだってあるけど
今日は僕だけで世界はまわる
誰にも邪魔はさせないぜ


電話が鳴っても出ないよ
チャイムが鳴っても出ないよ
「あの娘かも」なんてちっこい可能性
保留にしたまま布団を抱くよ


天井の向こうはきっと晴れ
あたたかい日差しが世界をつつむよ
天井の向こうはきっと雨
僕の頬を雨粒が舐めるよ


天井の向こうはきっと昼
笑ってる君の声が聞こえるよ
天井の向こうはきっと夜
明日になったらちゃんと起きるよ

こわい。かなしい。かなしい。こわい。おばけは怖い。別れは悲しい。おばけが怖いのは、そちら側につれていかれそうだから怖いのだ。別れが悲しいのは、それが永遠のものであるかもしれないのが悲しいのだ。恐怖とはつまりは自らの死であり悲しみとはつまり知るものの死だ。しかし知らないものの死は私にとっては存在しない。もし悪魔が耳元で「おまえの命をさしだせばおまえが全く知らない100万の人々の命を助けよう」と囁いたとして自らの命をさしだせる人間は正常か。人はこの先の悲しみとこの先の恐怖とを天秤にかける。知らない人100万人を想像によって知れ、その妄想上の悲しみを自らの死という恐怖に打ち勝たせる、そういう人がいたとして、果たしてその人にとって目の前に存在する知人である私は妄想と同じ価値なのではないか。そして私はこうして知らない人に向けて文字を入力している。私が知らない人たちの中に、“私を知っているかもしれない”人を増やしている。それは“希望”と呼んで差し支えないものだと少しだけ信じている。