今年も8月15日を迎えた。敗戦80年の節目に当たるのだが、ネットでの情報を見る限り、靖国神社に誰が参拝したか、しなかったかとか、周辺諸国(といってもお決まりのあそこら)がどんなコメントをしたとか物議をかもして騒々しくなるだけの話題ばかりで、何か大切なものを置き忘れているかのようで、違和感を感じてしまいます。
わし個人としては、30年前の敗戦50年に上京して以来、靖国神社参拝は土浦に引っ越してからもできる限り行うようにしているし、都内まで行かずとも周辺には先の大戦にかかわる遺構が少なからずあるので、そういった個所を訪れることで先人のご苦労を偲びながら日本社会の目覚めを祈り続けてきたゆえにつもりです。
ちなみに昨年8月15日の記事を貼り付けておきます。
還暦を迎えて(つまり会社を定年)になった今年も、土浦市の図書館でこの時をもちました。目的もなく書架の間をうろついていたわしが巡り合ったのは近代日本を代表する文筆家である徳富蘇峰に関する書物でした。2006年に「終戦後日記」が出版されていたとは全く知らず、無学な自分を情けなくも思いましたが、これからでも遅くはない、日本及び日本人の存在意義と使命についてまだまだ学んでいかねばなりません。と僅かながらでも殊勝な心にさせてくれたのは先人への感謝と言っていいでしょう。
さて、その前日(つまり8月14日)、休暇中の退屈を紛らわすためにという軽い気持ちで訪れたのが旧海軍の北浦航空隊跡地でした。この部隊の概要をざっと説明すると、
大正末期に霞ヶ浦航空隊が阿見町に作られます。
昭和になり、飛行予科練が横須賀から移転してきて土浦航空隊が設立されます。
その場所にいた水上機の部隊は美浦村に移り、鹿島航空隊となります。
さらに鹿島航空隊が実戦機部隊となったため、飛行練習部隊として設立されたのが、北浦航空隊というわけです。
練習部隊と言っても、80機の水上機を保有し隊員2000名という大所帯だったそうです(この辺りはネット情報を拝借しただけなので間違いがあればご容赦くださi)。
ちなみに美浦村の航空隊跡地は現在戦跡博物館として整備されております。よろしければ過去ログをご参照ください。
話を北浦に戻しますと、航空隊があったと思われる湖岸には今ではジェットスキーなどのマリンスポーツや釣り場、キャンプ場などが整備されており(といっても閑散としておりました)ましたが、令和になって建てられた新しい碑が見られました。
「水上機特攻」だなんて、今の発想では無茶苦茶すぎるとは思うのですが、実際に出撃された方もいたそうです。そこまで戦況はひっ迫していたのか、何かやらねばと追い込まれていたのか、わかりませんが、平時の時では伺い知れぬ決断だったのでしょうか?
これは昭和63年に建てられた慰霊塔です。ちょうど前年11月まではかつて海軍士官だった中曽根康弘氏が内閣総理大臣だったころです。
でもまあ、両脇がヘラブナとニジマスといった魚の慰霊碑だなんて、何か旧海軍さんって、兵隊を機械の一部としか扱っていなかったんじゃないの?とか思いたくもなるのですが、その辺のいきさつはわしにはわかりません。
モーターボート?などの小型船舶のドックなどに利用されていると思われる堤防ですが、年代を感じるコンクリートです。冒頭の写真は水上機を湖面に上げ下ろしする際用いられるスロープですが、80年以上経った今でもしっかりしています。昔の作りは頑丈なんですね。
湖岸から少し離れた内陸部に上皇陛下が皇太子時代に行啓された記念碑が建てられています。といっても実際来られたのは戦時中ですから、ずっと後になって建立されたのでしょう。裏側に説明書きがあるそうですが、草が生い茂っていたのと暑くて見る気にはなりませんでした。
現在では茨城大学広域水圏環境科学センターとして利用されているそうです。当時の面影は残されているのか、定かではありません。下調べも不十分で思い立って暑い中気ままに出かけただけなので大した意味はない、といえばそうなのでしょうけれども、
この地においても戦時中の一時とはいえ、懸命に勤しんだ若者がいたことは紛れもない史実です。今は静かな農村、あるいは鄙びたレジャー施設ですが穏やかな日常が鎮魂の場にはふさわしいのかもしれません。