暦の上ではもう、秋なのですが、無茶苦茶暑い日日は続きます。昨年まででしたら、下に貼り付けた過去ログのように、好むと好まざるにかかわらずお祭りで汗を流しておりましたが、何度も申し上げるように還暦(定年)を迎え、住所もかわったことで氏子としてかかわることはできず、一区切りつけることといたしました。

 

 神社のお祭りはお役御免になったとはいえ、自己の人生は続きます。また、新たなステージとして有意義なことも試みたい、ということで市報に目を落としたところ、こんな記事がありました。

 

 実はかなり以前からこの制度があったことは知っており、ひそかに憧れていたのですが、なぜか毎年、先述した「真鍋の祭り」と種まきの日時が重なるため、なかなか申し込むことができず、ようやく今年になって実現の運びとなりました。感慨もひとしおです。

 

 さて、冒頭の写真にある建物に集合して、一通りのガイダンスを受けた後、参加者(今回は20人強)が向かったのは圃場、つまり「わしらのそば畑」です。一口@12000円で申し込んだわしの区分は60平米だそうです。

 

 そして、配られた秋そばの種。暑い中これをまかねば芽も出ません、花も咲きません、実も成りません。

 

 有名なミレーの「種まく人」。この絵のように、威勢よくばらまいて構わないのです。もっともフランスにそば畑があるかはわしにはわかりませんが。お上品にちょぼちょぼ蒔いていたら日が暮れます。

 そして種をまいた上は踏みつぶしても構わないといわれました。係の人曰く「土に埋めないと鳥が食ってしまう」。なるほど

 

 作業は30分もしませんでした。残りはこの機械でしてくれるとのことです。

 

 筋を作り、種をまいて踏み固める。なかなか優秀です。

というわけで常陸秋そばオーナーとしての第一歩は終わりました。

話によると、今年はコメ作りが優先で奨励され、そばの作付け面積の割合が結構削られてしまったとか。だからこそ貴重?な存在なのかもしれません。芽生え育ちて実となるまで、見守っていきたいと思います。これが何よりの秋の楽しみです。

 

 お盆は明けましたが、猛暑は変わらず、連日防災無線では「熱中症アラート」の放送がありました。

もう、嘱託再雇用の身なんですから、と金曜日は有休をもらい、温泉にでも浸ってのんびり、と考えて栃木県は那珂川町、馬頭温泉郷へやって参りました。「那珂川」とか「八溝」という地名は茨城県でも耳にするのですが、ここは紛れもなく栃木県の一部で旧国名は下野の国というのは間違いなさそうです。が、

 

 ちょっとネットにて無断拝借してしまいましたが、個人情報などではないので勘弁してくだされ。

これによると江戸時代は隣国常陸の国の水戸藩領になっているのです。隣の烏山藩3万石とは色が違いますから、まぎれもなく水戸徳川家が治めていたのでしょう。だからどうのとは思いませんが、かつての水戸藩士も湯治などに来ていたのだろうか?だなんて考えてみたりもします。

 

 ま、江戸時代のことはそこまでにして、2025年の猛暑を癒すべく向かったのは「那珂川町(営)温泉浴場 ゆりがねの湯」でした。ネットでの評判や料金などの前情報では最も気楽に利用できる施設に思えました。公営っていうのがまあ無難だろう、という結論で、開業時間の10時を10分ぐらい過ぎた時間に着いたところ、駐車場結構いっぱいで気が引けました。噂通りよろしき湯なのは間違いないとは思われますが、スーパー銭湯並みの混み方だったら余計に疲れそうなので今回はちょっとと見送りを決めました。

 

それでも、冒頭の写真にあるように立ち寄り可能な温泉宿、まだあります。というわけで、メイン通りを300メートルほど入り込んで到着いたしました「観音湯」。民間のホテルが経営している日帰り温泉ですが、大人550円です。良心的。入り口わきの駐車場には1台も止めていないのでかえって不気味ですが、思い切ってドアを明けたら、普通の世界でした。

 

 上皇陛下と上皇后さまも平成の終わりごろに御行幸啓されたという。浴室内は写真撮影禁止なので、文字で紹介するしかできませんが、富士山の壁画がある内風呂独泉、四阿のある露天風呂にはじ様が2名長々お喋りをされておりましたが、奥にもう一つ岩風呂があり、しばらくセミの声を聴きながら瞑想のひと時のような独泉をさせていただきました。ちなみに首から上だけですが、泥パックもできます。周りは結構成分で変色しており、結構名湯なのと違います?無色無臭の単純アルカリ泉、そこそこぬめりのある飽きの来ない本格派、といった感じでしょうか?何せ両陛下がお召しになったというほどですから、泉質はお墨付きかもしれません。 

 

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 館内は撮影禁止の貼り紙が見られましたが、受付のおばさんに断って飲泉所を撮らせてもらいました。味は特に印象の残るものではありません。硫黄臭があれば楽しいのですけれども、そこまでは望みません。でも、効能はありそうです。

 

 さらに、源泉の持ち帰り、20ℓ200円で受け付けてくれます。息子のようなボーイが親切に対応してくれました。ただ、源泉を汲む場所は見せてくれず、ポリタンクを預けてフロントで待つのみでした。今夜の我が家風呂、嫁も納得のまろやかで柔らかいよろきし湯でございました。

 

 受付にて販売されていた単行本。様々な楽しみ方があるのですね。静かにゆったりとした時間を楽しむって贅沢な感じがします。この温泉の周りの景色がそうさせてくれるかも。せわしなく、ゆっくりとスローライフを楽しんでゆくといたしますか、これからは。

 

 

 

 今年も8月15日を迎えた。敗戦80年の節目に当たるのだが、ネットでの情報を見る限り、靖国神社に誰が参拝したか、しなかったかとか、周辺諸国(といってもお決まりのあそこら)がどんなコメントをしたとか物議をかもして騒々しくなるだけの話題ばかりで、何か大切なものを置き忘れているかのようで、違和感を感じてしまいます。

 わし個人としては、30年前の敗戦50年に上京して以来、靖国神社参拝は土浦に引っ越してからもできる限り行うようにしているし、都内まで行かずとも周辺には先の大戦にかかわる遺構が少なからずあるので、そういった個所を訪れることで先人のご苦労を偲びながら日本社会の目覚めを祈り続けてきたゆえにつもりです。

 ちなみに昨年8月15日の記事を貼り付けておきます。

 

  還暦を迎えて(つまり会社を定年)になった今年も、土浦市の図書館でこの時をもちました。目的もなく書架の間をうろついていたわしが巡り合ったのは近代日本を代表する文筆家である徳富蘇峰に関する書物でした。2006年に「終戦後日記」が出版されていたとは全く知らず、無学な自分を情けなくも思いましたが、これからでも遅くはない、日本及び日本人の存在意義と使命についてまだまだ学んでいかねばなりません。と僅かながらでも殊勝な心にさせてくれたのは先人への感謝と言っていいでしょう。

 

 さて、その前日(つまり8月14日)、休暇中の退屈を紛らわすためにという軽い気持ちで訪れたのが旧海軍の北浦航空隊跡地でした。この部隊の概要をざっと説明すると、

 大正末期に霞ヶ浦航空隊が阿見町に作られます。

昭和になり、飛行予科練が横須賀から移転してきて土浦航空隊が設立されます。

その場所にいた水上機の部隊は美浦村に移り、鹿島航空隊となります。

さらに鹿島航空隊が実戦機部隊となったため、飛行練習部隊として設立されたのが、北浦航空隊というわけです。

練習部隊と言っても、80機の水上機を保有し隊員2000名という大所帯だったそうです(この辺りはネット情報を拝借しただけなので間違いがあればご容赦くださi)。

 ちなみに美浦村の航空隊跡地は現在戦跡博物館として整備されております。よろしければ過去ログをご参照ください。

 

  話を北浦に戻しますと、航空隊があったと思われる湖岸には今ではジェットスキーなどのマリンスポーツや釣り場、キャンプ場などが整備されており(といっても閑散としておりました)ましたが、令和になって建てられた新しい碑が見られました。

 「水上機特攻」だなんて、今の発想では無茶苦茶すぎるとは思うのですが、実際に出撃された方もいたそうです。そこまで戦況はひっ迫していたのか、何かやらねばと追い込まれていたのか、わかりませんが、平時の時では伺い知れぬ決断だったのでしょうか?

 

 これは昭和63年に建てられた慰霊塔です。ちょうど前年11月まではかつて海軍士官だった中曽根康弘氏が内閣総理大臣だったころです。

 

 でもまあ、両脇がヘラブナとニジマスといった魚の慰霊碑だなんて、何か旧海軍さんって、兵隊を機械の一部としか扱っていなかったんじゃないの?とか思いたくもなるのですが、その辺のいきさつはわしにはわかりません。

 

 モーターボート?などの小型船舶のドックなどに利用されていると思われる堤防ですが、年代を感じるコンクリートです。冒頭の写真は水上機を湖面に上げ下ろしする際用いられるスロープですが、80年以上経った今でもしっかりしています。昔の作りは頑丈なんですね。

 

 湖岸から少し離れた内陸部に上皇陛下が皇太子時代に行啓された記念碑が建てられています。といっても実際来られたのは戦時中ですから、ずっと後になって建立されたのでしょう。裏側に説明書きがあるそうですが、草が生い茂っていたのと暑くて見る気にはなりませんでした。

 

 現在では茨城大学広域水圏環境科学センターとして利用されているそうです。当時の面影は残されているのか、定かではありません。下調べも不十分で思い立って暑い中気ままに出かけただけなので大した意味はない、といえばそうなのでしょうけれども、

この地においても戦時中の一時とはいえ、懸命に勤しんだ若者がいたことは紛れもない史実です。今は静かな農村、あるいは鄙びたレジャー施設ですが穏やかな日常が鎮魂の場にはふさわしいのかもしれません。