どーも
通称「9(ナイン)」こと、スズモリファームのスズキです
近頃、様々なことがあり、自分の人生の進むべき進路をきちんと見通し、
また、自分がどんな人間で何をしてきて、何をしていきたいのか、考える時期なのかな。
なんて思いました。
それで、2009年3月以降、僕が農業の世界に足を踏み入れたおよそ2年半前から
ここアメーバでブログを始めたこともあり、
過去の写真たちを再び取り上げながら、
あの頃の気持ちを思い出し、今、そして未来への計画へとつなげていこうとこんな事を書き始めた次第です
まず、
もう少し過去にさかのぼって子供の頃。
以前にも少し書きましたが、自分の振り返りの意味も込めてもう一度書かせてください
我が家は芸術家肌の祖父、農業に人生をかけた祖母、プライドの高い父、ただただ尊敬している母、かわいい妹、そして父の兄弟が2人とまわりに比較的大人が多い環境で、
食事、遊び、なにもかも全て大人たちの後、というちょいと厳しいところで子育てをされてきました。
そのせいか、やけに大人じみた子供に育ち、小学生の頃の通知表には
「とても大人な物の考え方をするお子様です」
というような事を必ず書かれていました。
中学生になると、家庭環境も大きく変わり、祖父も亡くなり、父は離れで暮らすようになり、
父の兄弟はそれぞれ出て行き、身近にいるのは祖母と、母と、妹ってな感じになりました。
もうその頃にはひたすら「目立ちたがり」人間になっていたため、
とにかくモテたいをモットーに、バスケットボールやバンド活動などにのめりこんでいきました。
そのため一時は「いい加減バンドばっかやってないで本腰を入れないとヤバいぞ」
と、先生に厳しく言われましたがそれよりなにより「モテたい」のが先決です
どうにかなるさの気持ちで遊んでいた矢先、授業中にいつも優しい国語の女の先生にド叱られました
ふてくされてパラパラとノートをめくったりしていると、そこにその先生からのメッセージが。
「私はあなたが1年生の頃に書いた課題の小説を読み、この子はこの学年の宝だ!と、とても驚いたのを今でも覚えています。
だからこそ、今のあなたを見ていると、大変つらくなります。
もう一度、今やるべきことはなにか考えて、あなたの才能をきちんと開花させてくれることを祈っています。
がんばって!」
嬉しくて、恥ずかしくて、なんだか哀しくて、くやしくて、
「うるせーや」、と寝たフリをして、ちょっと泣きました。
そんなこんなで、心を入れ替え(ちょっとだけ)気合いを入れて勉強を始めました。
目標としていた高校というのは特になかったのですが、
小学生くらいのときに、ある高校の前を通りがかった時、
母に「あんたが大きくなったらここの高校に通うんだよ」
と言われたことがあり、とりあえずそこが大きくなったら行く学校なのだろう、
と、漠然と思っていたある進学校を第一希望に定め、勉学に励みました。
ちょっとマセたガキんちょだったので、試験の面接の日に首にキスマーク、
タバコなんてふかしてたものですから、母親にド叱られました
しかしながら本腰を入れた結果、無事希望校に合格。
勉学、部活で汗を流すぞ
と思ったのもつかの間、バスケットの練習中に背中の肉離れを起こし戦線離脱。
ただただひたすら地元で遊びつくす毎日に。
やっぱりバンドが楽しかったし、ボクシングなんかもかじったりしました。
ろくでもない事だらけの日々もあり、それでも死ぬほど楽しい仲間たちと最高の時を過ごし、気付けば学年で数人だけの就職組
あの進学校では就職者は落ちこぼれ、「がんばって就職先を探して来い」てな感じです。
今でもたまに、「大学に行くべきだったかな」なんて考えることもありますが、
これもまた自分の人生。
本当に行きたくなって、本当に必要なら、
僕はなんとかしてでも、今からでも、本当に行きます
最初に面接に行ったのは、アパレル系の某企業。
調度そのとき、運悪くろくでもないことしてボッコボコの顔で面接に行き、結果は聞くまでもなく不合格
挫折です。
「うーん。自分の人生どうなるんだろう。まぁ、なんとかなるか」
てな感じで、次に面接を受けたのが僕の人生を大きく変えてくれた会社です。
高校を卒業し、その会社で「接客業」に携わるスタッフとしてお世話になることになったのですが、
僕はいわゆる学生気分がいつまでも抜けきらず、
当時の勤務態度はサイアクでした。(と、笑い話でよく言われました)
初日、社長の新入社員への講義中に寝ちゃうし、大勢の見学者の前でのデモで大ミスするし、
定時で帰れなければふてくされて口もきかない、文句はブーブー垂れ流す。
数年経って店長になったとき、上司に「最近ちょっと考えが甘い新人が多いだろう?」
と言われ、堂々と「過去の僕よりマシですけどね」なんて言っちゃうくらいの甘い新人でした
入社から2年くらい経って、初めて役職が付きました。
そこで、自分の中の眠っていた何かが目を覚ましたのを覚えています。
知識が足りない、とビジネス書を何冊も何冊も読み、
経験がなくては頭でっかちになる、と外に出て人との出会いを増やし、
また、色んなことに首を突っ込んでとにかく経験値を増やしました。
最初に店長代理として任されたお店はその会社の1号店。
当時の会社の顔であり、実績は「絶対王者」でなければならないお店でした。
過去の経緯があるものですから、会社は非常に不安だったようで何度も「アイツには無理だ」というひそひそ話が聞こえてきましたが、
その頃の僕はすでに過去と決別し、気合い充分
初月から目標を達成し、店長代理から店長に、そのまま勢いに乗り、頼もしい仲間たちの支えもあり、目標の連続達成を果たしていきます。
私生活も本当に充実し、素晴らしい仲間や新しい人脈も増え、
大好きな、憧れのキャデラックに乗ることもできたし、とりあえずの欲しいと思うものは手に入れてきました。
次の夏には神奈川での店舗システムの再構築を任せてもらい、
その冬に、「絶対王者」の一号店の売り上げを追い抜き、ナンバー1に
このときは本当に嬉しかった。
スタッフ達に、そしてお客様に、何度も何度もありがとうを伝えても足りないくらいだった。
次に任せてもらったのは、千葉にある同業種企業の合併にあたり、
「小手先のマニュアルや言葉でなく、「魂」ごと伝えて、彼らを仲間に迎えてくれ」という仕事でした。
この頃はもう、仕事が楽しくて仕方ありません。
夜中までの残業、休日出勤?なんの苦も無い。
仲間との時間、増える経験、確かな力、大切なものをグングン吸収していきました。
メルセデスベンツで有名なヤナセさんと仕事をさせてもらったり、
当時ちょうど日本で立ち上がったレクサス絡みのオファーがきたり、
エネオスさんの店舗CMに出演させてもらったり、
仕事内容が変化し、愛知の田舎で育った少年が見たこと無いような世界を見ることができました。
携帯も、プライベート用と仕事用、そして当時のスマートフォンであったウィルコムのW-ZERO3と3台を活用し、
ちょっと派手めなストライプのスーツなんか着ちゃって「バリバリの若手」感を演出しながら生きてきたわけですが、
関東から名古屋に戻り、結婚した頃から自分の中で少しずつ価値観の変化がありました。
「このままでいいものだろうか?」
色々考えて考えて、その頃にはバリバリの若手感を演出する姿も無く、勢いも下火になってきた自分がいたのも正直なところです。
その冬、ずっとやりたかったアパレルで打って出るぞ
と、退職を決意し、洋服の仕入先、条件の良い貸店舗はないか、法律上の整備をしていかないと、そんな計画を練っていました。
うちのモットーはこだわりの、顔が見える洋服やアクセサリーの販売にしよう。
だから、アーティストやデザイナーと直接話をして、魂が共鳴した相手の作品を魂を込めて売るような、
そんな服屋になろう。と考えていました。
かましてやると、気合いを入れて熱田神宮に初詣、
気付きゃ4日後には「農業やらなきゃ」
って、あまりにも急展開で、作り話っぽいですが、
脳天ぶち抜かれたような衝撃が走ってしまったからには、
もう駆け出すしかない
説明つきませんが、ほんと、農業しかない、と思ったんです。
まったくなにも知らない、
農業って自分とかけ離れたところにある職種だと思ってた。
今でも、まず最初に「え?農業やってるって、ジョークですよね」って8割、いや9割くらいの確立で言われ、
「もしかしてですけど・・・夜のお仕事されてました?」と、4割くらいの確立で言われるほど、農業者っぽくないらしい僕。
ですが、今は確実に、農業の道をよちよち歩きで進みだしています。
2年半近く経ちましたが、いまだよちよち歩きに変わりありません。
まだまだ道は果てしなく長いわけですから。
正直、不安で頭を抱える夜もありますが、「ま、なんとかなるだろう。自分を信じて真っ当にやるだけさ」
と、ビールでも流し込んで寝ちゃってます
なんせ、農業をはじめて本当によかったと心から思えること、たくさんあるんです。
自分の作った野菜をおいしいと喜んで食べてくれる人がいることも、
素晴らしく暖かい、熱い人たちと、たーっくさん出逢えたこともそう。
あの頃とはまた一味違う刺激のある、そんな日々です。
スズモリファームの「9(ナイン)」はこんな男です。
また明日以降、2009年からの農業ライフを写真と共に振り返ってみます。
あまりにも長くなりすぎたので今日はここまで
お読みいただいてほんとうにありがとうございます