チームが強ければ、200勝できていた? 過去そんな“幻の200勝投手”が少なからず存在した
代表的な例が、1980年代に大洋(現DeNA)のエースとして2度の最多勝に輝いた遠藤一彦である。 2年目の79年に先発、抑えの両刀使いで12勝8セーブを挙げた遠藤は、82年から主に先発として起用されるようになる。140キロ台後半の速球と2種類のフォークを武器に83年に18勝、84年に17勝を挙げ、2年連続最多勝のタイトルを獲得した。
安打を打った直後、ベース上で「ここが違うぜ!」と指で自分の頭をつつくクロマティ(巨人)の挑発ポーズに対抗し、フォークで三振に打ち取った直後、同じポーズでやり返した痛快エピソードでも有名だ。そのクロマティは、遠藤に「メジャーでも通用する」と賛辞を贈っている。
だが、当時の大洋は大味な野球から脱しきれず、79年に2位、83年に3位になったのを除いて、万年Bクラスと低迷。遠藤自身も82年と84年に17敗を記録するなど、3度にわたってリーグ最多敗戦という不名誉な記録をつくっている。
そんな悲運のエースに、野球人生最大の悲劇が襲ったのが、87年だった。
この年、6年連続二桁の14勝で小松辰雄(中日)と肩を並べ、3年ぶり3度目の最多勝も目前だった遠藤は、10月3日の巨人戦(後楽園)に先発。4回まで被安打わずか1に抑えた。
ところが、1対0とリードした5回の攻撃中、一塁走者の遠藤は、高木豊の左翼線安打で二塁を回った直後、不運にも右足アキレス腱不全断裂を起こし、全治3カ月の重傷。15勝目と最多勝をフイにしたばかりでなく、選手生命まで縮めてしまった。
リハビリから復帰後、90年に抑えとして6勝21セーブを挙げ、カムバック賞を受賞したが、往年の球威は戻らず、92年に37歳で引退。もし強いチームにいれば、そして、けがさえなければ、通算勝利数も134を大きく上回っていたことだろう
同じ80年代、大洋とともに万年Bクラスに沈んでいたのがヤクルトだった。当時のエース・尾花高夫も、そんなチーム事情から勝ち星に恵まれなかった一人である。
松岡弘に代わってエースとなった尾花は、在籍14年間で2203イニング連続押し出し四球ゼロ(プロ野球記録)という抜群の制球力を生かし、82年の12勝16敗を皮切りに4年連続二桁勝利を挙げたが、その間、チームは6位、6位、5位、6位と低迷。9勝に終わり、連続二桁の記録が途絶えた86年も最下位で、尾花はリーグワーストの17敗を喫している。さらに87年(4位)は11勝15敗、88年(5位)も9勝16敗と3年連続リーグ最多敗戦という史上ワースト2位(1位は大洋・秋山登の4年連続)の記録をつくった。
ちなみに16敗した82年の防御率は、15勝を挙げた西本聖(巨人)の2.58に迫る2.60、2度目の16敗となった88年の防御率2.87も、18勝で最多勝の小野和幸(中日)が2.60で、15勝以上を挙げた他球団のエース級と比べても遜色がない。味方の援護に恵まれていれば、シーズン20勝も夢ではなかったはずだ。 そんな不運にも、尾花は愚痴ひとつこぼさず、89年に通算100勝を達成したが、その後は故障に泣き、91年に34歳の若さで引退した。通算勝利は112勝。翌92年からヤクルトが6年間でリーグ優勝4回、日本一3度の黄金期を迎えたのは、皮肉なめぐり合わせだった。