ホンイツに対する絞り 2012.5/30

親がホンイツやトイツ手の捨て牌していたら、序盤から安易に役牌切るのはダメ。

早くに鳴かれるほど、子方(自分も)は対応に苦しみ親の高い手を防げなくなります。

「役牌3種類以上あればすべて切らないつもりのチートイ含みで行く。

2種類以下でも序盤には切らず、できるだけ愚形を先に処理してから、鳴かれても自分が押し返せる形で初めて切るのが基本」

あまりに早い巡目だと北家が絞りきれなくて鳴かせてしまう場合もよくある

 

現物待ちはヤミ 2012.6/1

「強い牌を押したら現物は出ない」とか「強い牌押すくらいなら追っかけリーチ」と耳にするがそうは思わない。

出るか出ないかは両脇二人の手牌次第。

少なくとも数巡両脇の出方を見てからでもリーチは遅くない。

実戦ではヤミにすると手詰まりしかけている相手から「2件目のリーチが来る前に」とむしろ当たりそうな牌を先に切ってくることが多い

つまり現物待ちはヤミならばすぐにアガれる

二人の完全安全牌が豊富なら確かに現物も出ない。 出ないからリーチが上手く行く場合ももちろんあります。

しかし、私の経験上は2人をケアするとなると大抵安全牌は少ない

2件リーチにしてしまうと、次に切ろうと思った牌が止まってしまいます。

麻雀は1牌の後先でアガリ番が振り込みになり、得失点やトップのはずが3着や4着になることを考えたらとんでもない差が出てきます。

リーチの現物待ちだと、多少強い牌を押してもドラすらすぐに出てくる

2件リーチがきた時、私は追っかけリーチの現物や通りそうな牌を切ります。安易に先制リーチの現物は切りません。

先制リーチに振り込んでも仕方ないと考えます。

「普通追っかけリーチは安いことが少ない」

「2件目のリーチに振り込むのは相手の注文に嵌まった形になるので避けたい」

これが理由です

現物待ちはやはりヤミテンがその巡目に即決着があるので得なのではないでしょうか?

 

マジョリティーは正解と限らない 2012.6/26

麻雀の雀力とはリーグ戦のリーグと同じようにピラミッドのようになっていて、上に行くほど人数が少ない

「難しい何切るや判断の時に、プロレベルで意見が分かれるときはむしろマジョリティーが間違いの場合が多い」

だから多くの支持を受けている意見よりも、本当にレベルが高い打ち手の答えの方が正しいのが麻雀ではないか?

もし最近の流行戦術が正解ならばAリーグにベテランがいるのはおかしいでしょ?

(麻雀は頭を使うので本来は若い人が有利になるはず)

そうならないのは麻雀は効率よりも、経験や読みや押し引きが勝負を分けるからだと思います。

 

親に対する役牌の絞り 2012 7/15

トップ目は役牌を序盤から切るべきではない上に、東だけは簡単に切り出すべきではないと思う

「東が役牌になるのは親だけだから三元牌切るのはまだいいが東だけは絞るべき」

競技麻雀では序盤に親が役牌を鳴くと子方は苦しいので親が連荘する可能性が高い。

フリーと違い親には振らないよう打つ人が多いからだ

こういう東切りがダントツトップを逃す敗着になることが多い。

牌効率よりずっと大事な事なのになぜ若手は真剣に役牌の切り順を考えないのだろう?

 

役牌絞れば相手のスピードは落ちる 2012 8/6

例題 親番 ドラ8   一二三七八九2488⑤中中  

1巡でも早く中鳴きたい。しかしなかなか中が鳴けないとこれほど難しい手はない。 アガれそうでアガれないイライラする。

カン3からチーはオススメできない

中が持ち持ちでアガリ目ない時や、1枚はオリてる人残りは王牌でアガれないケースがある。

ドラ2の勝負手を運しだいにはしたくない。だから急所の3が出ても動きたくても動けない・・・

中が鳴けないうちに3がパッと薄くなることも考えられるので、中張牌の⑤を浮かせている。「⑤がリャンメンにならないかな?」と

でも中盤過ぎまで中が出ないと持ち持ちの可能性がある

中盤④や⑥ツモったら 一二三七八九2488⑤中中 ツモ④(ツモ⑥)

ここで打2とするか打中とするか迷う。

まして3が1枚でていたら? これだけでも打牌が変わるかもしれない・・・悩ましい

「中は止められて出ないのか?」 「相手の手が進めば出るのか?」 「山にいるのか?」 「山にいないのか?」

相手全員がタンヤオで前に出てきていれば当然打2。 いつもこんな簡単ならいいのだが・・・

3人ともあまり出てきていなければ役牌絞ってオリてる可能性があるから打中もある

しかし問題は、「相手2人は前にきているが、残り1人がオリていそうな時だ。」

オリている相手が役牌を止めていてもそれが中とは限らない ←これが一番難解 

「オリている人が白と発は止めているが、中は2枚山の時もあれば、中がトイツの時もある」

「前にでてきてる人に中トイツすらあるのだ」

字牌だけは読もうとしても見えない部分だから難しすぎる・・・

迷うツモは他にもある・・・マンズが伸びた時だ

一二三七八九2488⑤中中 ツモ四 (又は六)

一二三七八九2488⑤中中 ツモ五

一二三七八九2488⑤中中 ツモ三 (又は七)

ツモ四(六)の時、一通狙いで打⑤か、打2(少数意見となりそうだが、強い人の中では一番多い?)が有力

中が鳴けない時のタンヤオ移行で打一(打九)もある

ツモ五の時は打⑤とするか?打2と2シャンテン戻すか? 

ツモ三(七)の時もマンズの一盃口があるので打⑤か打2。

いずれも子方ならば打2が3割はいそうだが、親なら打⑤が6割超えるかな?

あるいは打中とする人もいるかもしれない。

前に出ているが中を絞っているものにとって「親にこの中トイツ落としをさせてしまえば、親の手はかなり遅くなり絞り作戦大成功」だ (もちろん自分が親でゆっきり手を作りたい時に、子方に役牌トイツ落としさせた時も絞って正解) 

そして最も迷うツモは2、4、6だ。

一二三七八九2488⑤中中 ツモ2

一二三七八九2488⑤中中 ツモ4

一二三七八九2488⑤中中 ツモ6

⑤を切るとピンズは全て無駄ヅモとなる(だからとソーズをツモ切るのも難しく悩ましい)

246のリャンカンや224(244)に固定してしまうと、次のツモがマンズの時

一二三七八九24688中中 ツモ四(六)

一二三七八九22488中中 ツモ五

一二三七八九24488中中 ツモ三(七)

イッツーの目を残しソーズを切るか、マンズを切り受け入れをソーズのみに決めるか、かなり迷いが生じる。

一二三七八九24688中中

「おそらくツモ四(六)ならば→打一(九)が多いのでは?」

「ツモ三、五、七ならば→打6が多いだろう(?)」 

これが 一二三七八九22488中中 又は 一二三七八九24488中中

これなら ツモ三~七ならば、ソーズをカンチャンに決める打2や打4が多いのではないか?

いずれにしても役牌トイツでカンチャンがあるメンツ手の1シャンテンは悩ましいのだ

これが簡単に役牌が鳴ければポンテンとれて1本道

絞りは、相手のスピードを上げないだけでなく、相手を悩む手に持って行くことで相手のアガリのがしを誘発、自分がアガリやすくなったり、振り込みを避ける防御になる。

序盤から役牌連打せず、役牌が出るか出ないかわからない場にすることが、相手の和了率を下げ自分の放銃率を下げられると思うのだがいかがでしょう?


            ドラポンは局面を変える 2012 8/13

序盤にドラポンや役牌ポンの仕掛けが入ると局面を全く変えてしまうことがある。

その牌が打たれるのが中盤以降ならば3人がきちんと対応できるのに、早い巡目だと情報も現物も少ないので絞りに回る2人が対応を間違えやすい。

自分が効率では完璧と思える巡目に役牌やドラを切っても、

自分の打牌の対応を相手が間違えて、相手がひどい場況を作りだしてしまう・・・

このように、相手にミスの手順を踏ませてしまうことも、

自己都合で序盤に切ってしまった自分の手順ミスと考えられないと上達しない。

 

ラス前は意味のあるあがり 2012 8/14

南3局西家 29300 ドラ八

状況は東家が31700北家が27400南家が11600

三四六七八③③⑤⑦67中中

6巡目1枚目の中をポンするか???

ここで2000アガってもトップに立てない上に、オーラス下家にもまだチャンスが残る

メンゼンでマンガンクラスになる手を2000にしてもう1局勝負はヌルくないか?

それとも鳴けばアガれそうな中をスルーする方がヌルいのか?

デジタルと呼ばれる打ち手は2000でアガる人が多いのだろうか?

アナログな打ち手ならここでこの手ならスルーでは?

 

アガラスについて 2012 8/22

麻雀は着順を4人で争うゲーム。

4着の者が4着確定でアガるのはゲームを壊す行為と考える方が多く、メンツによっては即嫌われてしまう。

もちろんラス目で誰かに簡単に鳴かせたり振り込む、まして大物手に振り込んで着順を変えてしまうのは、アガラス以上にマズイ。

麻雀は4人で打っているので他3人(もしくは2人)の争いをおとなしく見て邪魔しないように打つ技術も必要だと思います。

他3人は着順を意識して高くしたり、オリたり、安手をアガらないようにして南3局までゲームを積み上げてきているのに、自分だけ着順無視してアガる事しか考えていないならば、他3人とは違うゲームをしています。

麻雀は4人で打つゲームなので嫌われたら同卓拒否されて打てなくなったり、

自分が逆転狙っている時に、さっき邪魔されたからと邪魔されてしまうかもしれません。

しかし、どんな場合でもしないわけでない。 そのアガりを見た相手が、「それはアガるよね」と思える状況やアガり形の時だ。

①ハネマン以上の時(場合によってはマンガン確定以上)

②役満やドラポンなど大物手がいる状況や2件以上のリーチがきていて、オリきれないと判断した時。

(オリ打ちで着順変えてしまうくらいならば私はアガった方がマシだと思います)

③好調者の流れや誰かの連勝を止めたい時。

②や③に関しては「それでもダメじゃない?」と思う方もいるかもしれませんが、

私は好調者が次の半荘以降もノビノビ打てるようになるくらいならばアガってもいいと思います。

大三元のテンパイやチンイツドラ3のテンパイがいる時も、自分がアガらないことによって大逆転が起きてしまうことがマズイと判断すればアガる時もあります。 いずれも同卓者の中で2人以上が納得するならいいと思う。

 

バックをあがらせるな 2012 9/5

最近絞ると自分のスピードが落ちて損と考える打ち手が増えたが、

相手に役牌鳴かせたら、相手の手が自分より遥かに進んでしまうので相対的にスピード落ちてる

確かに自分が親の時や好調時で、仕掛けた相手が不調者ならば鳴かせて相手を前に出しておいてリーチで被せる作戦は確かにある。

しかし親の仕掛けや好調者の仕掛けに対して、先に鳴かせて得をするようにはどうしても思えない。

親や好調者に対して辛く打つべきだと思う(流れを意識しない人にはわからないと思うが・・・)

バックの仕掛けに対して、抑えていた役牌で振り込む可能性よりも、役牌を先に鳴かせた方が、

相手はいい待ちになりやすい上に待ちが絞りきれないので振り込みやすい。

どちらが失点しやすい切り順なのか、麻雀長く打ってきた人ならわかるはず・・・

こういう間違った考え方を正していくのもプロの大事な仕事です。

 

相手を読む 2012 11/7

麻雀は状況や対戦相手によって打ち方を変えるべきゲームだ。フリーでかなり勝っている人は大抵押し引きが長けている

意味のないところで無理はしないし、振り込んでも痛みが少ない局面では前に出てくる。

点棒状況や対戦相手によってリーチとヤミだけでなく、仕掛けや押し引きも使い分けます

逆に負けている人の思考はとても読みにくい

本来損だからしないはず?って選択をいつもしているから負けている可能性があるからだ

それはリーチしない方がいい局面でリーチするとか、鳴いて安くアガる意味がない局面で安く仕掛けて突っ張るなど・・・

東3局 ドラは②   私は西家で8600点しかない苦しい状況

私は2巡目に親から白が出てポン、5巡目下家から発が出てポンした所です。

捨牌 9二⑥中六8

私は手牌が7枚で、白と発をポン

ツモ切りは4巡目の中だけであとは全て手出し。 ここに宮本pがピンフ赤2のリーチをしてきました。

「中を自分で切っているから大三元はない?」 はたしてそうでしょうか?

普通大三元やっていて中アンカンする人いませんよね? 中切ってるのは中暗刻を否定する材料とはいえません。

そして一番の問題は、点棒状況です。

8600しかないのに、白と発のトイツがあって中を序盤にツモ切ると思いますか?

8600しかないなら大三元の可能性捨ててまでマンガン欲しい状況じゃないですよね?

点棒状況が、飛ぶリスク背負ってまで8000とりに行く状況じゃないんです。

まだ南場の親が残っているのに、たかがマンガンクラスの手なら三元牌は2つも鳴かないと思いませんか?

もしマンガン程度の手なら白と発トイツならば1枚目はスルーするはずと読める

ちなみに私の1巡目の手牌が 

二六⑥23689白白発発中中

6巡目の手牌は1236中中中  白ポン 発ポン

この局面現代の麻雀ではリーチが主流っぱいです(中暗刻を読めないのか読まないのかは知りませんが)

最近大三元(や小四喜や清老頭)仕掛けがいても、全く気にせずリーチする人がすごく増えました。

現代風なのは確かでしょうが私は損な気がします。(統計はとれませんが、そういうリーチ打つ人がいると役満は出やすい)

それは場を荒らすと同卓者に嫌われるので勝ちにくくなったり、卓が割れやすいという麻雀以外の部分から考えて得と思えないからです。

では「対打てる人への読み方」です。

①   方でダンラスの状況で2つ以上鳴いてきた→これは高いことがほとんどです。

目安としては持ち点8000以下で仕掛けてきたならならマンガンクラス、1万点台時は3900以上。

②トップ目でリーチをかけてきた(微差のトップ目は除外)→これはマンガン以上の高い手か、よほど待ちに自信ある手

トップ目でオリられないリーチを打つ以上、アガれば2着目とかなり差がつけられる自信ある手と読むことができます。

②   リーチに対してポンで対抗してきた

リーチ後に通った牌は安全牌。それをポンしてまで前に出てきてるということは?→これはほとんど高い手です。

現物待ちの安い手では?と思うかもしれませんが、リーチに対してポンからはいれば両脇は警戒してリーチの現物すら打たない

それがわかる打ち手ならば、リーチ後にポンなどするわけがないのです。

③   マンガン振り込むと飛ぶ状況で2つ以上仕掛けてきた(又はリーチしてきた)→打つとゲーム終了のリスクを背負って出てきたのでまず高い手です。

①~④のような状況の時に攻められたら、はたしてラス目と喧嘩する意味があるのか?

もし振り込んだら両脇が喜ばないか?を考えて押し引きすると成績が安定すると思います。

あと、古いセオリーで間違ってるものもあるのでそこは自分で選んでいきましょう。

ラス目のリーチは高い・・・ラス目だとピンフのみでも、手変わりないとリーチしますよ?七対子のみで裏期待のリーチとか

 

ミスをした 2012 11/14

東場の南家 ドラ南 七七八九九②②②4577発発

発のみの1000点狙って七切りもいいし、四暗刻まで狙い4切りもいい。

ここはどちらを切って裏目が出ても私はミスとは思わない(発切りや7切りや②切りは明らかな手順ミス)

ただし、南場の点棒が必要な局面で七を切るのはミスだと思う。点棒状況にマッチしない手作りはミスと言える。

ここから七を切った場合、発は1鳴きしないとミスだと思う。

これに異論ある人もいるだろうが、トイツ手の大物から七対子も捨ててまでリャンメンを重視したわけだから、発が出る数巡の間に36がよほど薄くならない限りポンテンとらないのは一貫性がない。 発を鳴かないくらいならなぜ七を切ったのか?

鳴かないならなぜ七対子や四暗刻を捨ててまで早い手にしたのか?もう一度手牌を見つめなおすべきではないか?

だが最速を目指すといっても36チーからは入らない。 残り2枚の発に全てを賭けて1000点のバックは私はオススメしない。

この手は367と発以外使えないわけではなく、ドラそばの⑤⑥⑦あたりをツモってメンゼンで手を作りなおせる。

36チーから入る人は現在の有効牌しか見えてない。 今ない1メンツを想定することも麻雀では大事なので仕掛けるなら発から入るべきだ

問題は4を切った時だ。

4切りは5200から32000まで見た打牌で、かわしに行くための七対子も視野に入っている。

だから1枚目の発から鳴く場合も鳴かない場合もあるだろう。

この鳴く、鳴かないの選択が裏目に出ても自分はミスとは思わない。 ベストに見えた選択が裏目に出ただけだ。

しかし4切りの後、八チーや九のポンから入るのは私から見れば悪い鳴きだと思う。

なぜか?というと、この手は鳴くとしたらポンから入るべき手であり、七か発ポンから入るべきだと思うからだ。

九からは2枚目でも鳴くべきでない。

九を鳴けば発が絞られる可能性が増える上に、たとえ発が鳴けても残りが七と7のシャンポンではアガれる可能性が低い割に防御力が弱すぎる。 打点が5200ではとても釣り合わない

発や七より先に九を2枚打たれた意味を考えて、もう発も鳴かず一盃口か七対子にするべきだろう

7からポンするのもポンしたときの手出し八で七や九が止められる可能性を考えるといい鳴きとは思えない。

アガりにくくなるとわかってる鳴きで動いてしまい、裏目にでればやはりミスの鳴きだと思う。

 

西家トップ目 親は2着目 ドラ七

南家からリーチがきた時のことだった

ヒドイミスとは安全牌の六を安易にツモ切ってしまったことだ

私が六を切ると下家は六を合わせてしまう可能性がある。

4枚目の六は対面がタンヤオならばキーになる牌だ。

私は北家の時こういう牌は鳴かせないが、誰もが下家に絞るわけではない。

いつも「私が切ったために北家が合わせ打ちをして親がチーできた」

こんな牌を切ることも自分のミスと思っているので、自分が北家じゃない時も親の捨て牌にはすごく気を使って打つようにしている

 

字牌の切り順 2012 11/20

字牌の切り順

私としてはシステム通りに、「正しい順序で切る」 「止める」 「相手との間合いをはかりながら切る」 

「鳴かれてもいい相手にだけ切って鳴かれたくない相手の欲しそうな牌だけ止める」

などを普通に使い分けている

「牌効率は練習と知識で誰でもできるようだが、この字牌の切り順だけは複雑すぎる」

手牌の何切ると違い、字牌の切り順は場況と持ち点と体勢の差なども考慮して切り順を変える必要があるため、あとから教えるのが難しい。質問されて丁寧に教えてあげたくても、対局中にしゃべるわけにはいかないからなかなか教えてあげられる場とタイミングがないのだ

 

絞る派対絞らない派 2012 11/25

絞らないとわかっている相手には、その出てくると思われる役牌を咎めにいく仕掛けが有効なのと、

序盤に役牌から切っているのに初牌の役牌がある時、その初牌の役牌は山にいる可能性が高いことになる(絞らないのだから手に残っていない)

つまり七対子のタンキ待ちや役牌シャンポンでテンパイした時、ためらいなくリーチといけるのだ。

同卓者のうち字牌を絞るタイプが2人いたら、絞る打ち手が手が悪い時に字牌をたくさん抱え込んでいる可能性がかなりあるので、字牌待ちのリーチが打ちづらくなるものだ。

字牌タンキにしろシャンポンにしろ待ちの枚数が少ないのでリャンメンとのめくり合いに弱い。

オリていて絶対字牌を切らない打ち手の手の中に自分の欲しい字牌があればほとんどめくりあいに負けるから、本来得とされる字牌待ちリーチが損にできるのだ。

相手が字牌待ちをしなくなると打ちやすくなるからだんだん自分は有利になってくるだろう。

麻雀では誰でも字牌は切りたい、持っていたらメンツが作りづらいからだ。

絞る相手が2人以上いると字牌を狙ったリーチが打ちづらくなり、

絞らない相手が2人以上いると、その切りたくなる字牌を狙ったリーチをどんどん打てる。

字牌待ちで自信持ってどんどんリーチできるってかなり有利だ

絞らない打ち手はほとんどそこまで考えていない。自分が気づかないうちに強い相手は字牌を狙っている

 

宮本pはメンホン赤でダブ東と9のシャンポン待ち。 強引にリーチといき8000オールをツモった。

宮本p「いつも東切り早い二人が東切っていないからダブ東山にいそうと思ったの

普通はそんなメンホンの捨て牌されたらダブ東は絞られているので、ヤミに構えて手が進んだ相手からの出アガり期待か9のこぼれるのをヤミで待つべき手牌だ。

宮本pは今日のメンツをみてリーチとした、これがあるので東切りはダメだな

 

ツモを飛ばすポン 2012 11/30

トップ目は私で、2着目の親番の下家が1つアンカンして高そうなリーチをしてきた。

全員がベタオリで流局濃厚な17巡目、海底1つ前の北家私の切り番

ここで私がやるべきことは南家か西家がポンできる牌を切るのがこの局面の最善手である。

ポン材を切っても相手が気づいてくれるかわからない。 わざわざ鳴かなくても親がツモれる確率なんて低いのは承知だ。

ほんの些細なことだが、麻雀が自分が得するように効率を考えるゲームだとするならば、

私はよーく考えて捨てる牌を選ぶべきだと思っている。

もちろん両脇はオリているので、「流局かー」と場に集中せず、私が切るポン材に気づかなければ私の苦労は水の泡になることもわかっている。(最近ではほとんど気づかない人のが多いかも?)

しかしそれでも自分がやるべきことはきちんとやるべきだ。 上家は初対面なのでちゃんと見てくれてるかわからない・・・

私は場を見渡して1枚切れの⑤を切った

するとノータイムで上家が「ポン」と鳴いた。 下家は(やられたなーと)苦笑い・・・

 

 

いい待ちについて 2013 1/23

いい待ちってどんな待ちの事を指すかは人それぞれです。

3面待ち、迷彩、山にいる牌、相手が使えない牌って所でしょうか

私にとってのいい待ちとは

「山に3枚以上いて、相手が使いづらく出やすい河になってる待ち」

掴めば出る牌でも残り1枚で王牌にいたら終わりの地獄待ちはいい待ちと言えないし、

リャンメンでもドラ側はむしろ悪い待ちだ。

フリーでよく出てくる会話に

「いい待ちだなー」とか「その待ちでは止まらないや」なんてよく聞きます。

私はよくリーチしてアガった時「いつもいい待ちになってるね」と言われますが、

いつも「いい待ち」になるわけがありません。

悪い待ちの時はリーチせずオリちゃうのでアガれず手を開く機会が少なく、

「いい待ち」の時にリーチして手を開く機会が多いから、手を開いたとき「あの人はいつもいい待ち」に見えるのです。

もちろん「いい待ち」になるように手を作る打ち手には「いい待ち」になる機会が他の人よりも多いでしょう

リーチこようといらない牌全部切ってくるタイプや後手踏んだら現物以外切らない相手には

「いい待ち」は全く意味がなく先にテンパイすることが重要ですが、

ある程度待ちを読んでくる相手にはこの「いい待ち」にすることがめくり合いやギリギリの勝負を制するカギになる。

つまり駆け引きが有利になるメンツもいれば、早さや手数が多いと有利になるメンツもいると言うことです。

逆に宮本pはツモアガりが多い打ち手です。

なぜツモアガりが多いのか前から気になっていたので後ろから観戦することに。

抜けた直後の東1局 親 ドラ8

三四五八八④⑤445678

14巡目に3が入って4切りリーチ、一発で③をツモり8000オールとなったのですが、

私ならばこの手牌で中盤以降まで4を持つことはありません。

4は先に切り安全牌を持ちます。

これについては異論がある方もあると思いますが、

この時観戦してたお客さんとプロはみんな「4はさすがに先に切らないと」と共通の見解でした。

4を残すメリットの4や八が暗刻になる確率と三メンチャンが入り結局4が出ていく確率
・4の危険度(ドラ表示牌のスジで自分から4枚見えて危険)
・4を早く切ると、相手が3か9どちらを押すか迷った時に高目の3が出やすくなる

など考慮して4は先切りするべきだと思います。

 

 

ダブ東はやはり絞るべき 2013 5/26

1回戦、33000持ちの東2局親で好配牌が入った

ドラが③

二三四②④⑤378東東北北白

ダブ東がトイツの早そうな手だが・・・

こういうダブ東がトイツの手で考えておかなければならないことがある。

ダブ東は絞られやすいので東が鳴ける前に北が2枚切れてしまった時、どう手をまとめるかを序盤から考えておくべきだ

ダブ東が鳴ける前に北が2枚切れてしまった時の選択は簡単なようで結構やっかいな選択だと私は思っている

中盤まで東が鳴けないようなら持ち持ちや東を握り潰されてることも考慮しなくてはならないし、

ただ単に誰も持ってない場合もあるから、なかなか鳴けないトイツの東の扱いはミスしやすい選択なのだ。

そういえば新人時代A1を観戦していてこんな局があった

親が白をポンしてダブ東雀頭の一四待ち2900テンパイしていた。

東をポンするかシャンポンにして東でアガれば11600の大物手だが、

東が出ないまま二と三が切られていく。

中盤以降に東をツモったのでとりあえずタンキに受ければ12000のテンパイになるがそのトッププロは東をツモ切って数巡後2900をアガった。

(私は勿体ないなーと思ったがA1はさすがに隙がないなと思った)

これが早い巡目に誰かが東を切ればポンして11600のテンパイに受けていたのだろうが巡目が深いだけに打点よりアガりやすさを重視したのだろう。

私はフリーデビュー当時から東を絞っていたが、このアガりに衝撃を受けやはり東はギリギリまで絞ったほうが親がチャンス手を逃しやすいなと再確認したものです。

今回の手も北が2枚切れたら

「東のトイツ落とししてピンフ狙いに切り替えるか?」

「最悪ダブ東雀頭のリャンメンリーチになっても構わないから北をトイツ落としするか?」

「どうしてもダブ東を生かすために2枚切れ北と東のシャンポンを残したままにするか?」

本来ダブ東トイツはチャンス手なのに、ダブ東がなかなかでないとこんなに悩むことになる。

私がこのブログで東場の東は絞った方がいいとよく書くのは、

東を鳴かせないことにより相手のスピードを殺すという手牌レベルだけの話ではない。

東を鳴かせず中盤以降に突入させることによって親の選択をミスを誘う。

東に限らずネックの牌が鳴けないと外す人も多いので、できるだけ鳴かせない方が自分有利になる。

今回の実戦譜では

3巡目にダブ東が鳴けて次巡⑥をツモり4巡目2900のテンパイ

「まだ出すなよー」と思っていたら

6巡目ドラの③をツモリ5800

8巡目赤⑤をツモり12000になったところで9が出るというタイミングの良さで12000のアガりとなった


 

融通が利かなくなる鳴きはしない方がいい 2013 7/18

若いメンバーがこんな手で仕掛けた

状況とルールは東戦(積み棒は1500点)の鳴き祝儀ルール

前回トップで迎えた東1局親番 ドラ七 5巡目

七八九④⑤⑧⑨4789南南

メンゼンで6000オールが見える関連牌が1枚も見えない1シャンテンからまだ5巡目なのに⑥のチーテンをとった

確かに早いが、まだ5巡目なのに2900止まりにしていいの?

しかもこの手は三色しか役がないから⑦が死んでいたらアガリ目がないし、

敵のリーチを受けて回ったらほぼ役無しになってしまう。

(たとえば敵リーチに九が現物で六が危険でも、役を付けるには六を切らなくてはならないし六を止めたらほぼ役がつかない)

つまり融通が利かず手牌を殺してしまう可能性が高い鳴きなのです

今回のように三色や一通やチャンタのような回ると役がなくなるような鳴きや片アガリになるような鳴き方はオススメできません。 (終盤14巡目以降に形テンのつもりで鳴くならいいけど)

鳴く時は役が確定して、待ちが好形になるように鳴くといいと思います

ちなみに

七八九④⑤⑧⑨4南南中中中

こんな手だったら、中盤以降⑥のチーテンも有り

これも2900だが、この手は中の暗刻があるからたとえ⑦を暗槓されたり、リーチ受けて回ってもアガり目が残るから別に悪くない

ちなみに中暗刻の手が子方ならばかわし手と考えるので、ペン⑦は5巡目ならばほぼ鳴きます

 

 

2件リーチは両脇次第 2013 8/28

後ろからずっと黙って見ていたがお客さんから1つ質問を受けた局があった。

私の手牌はタンピンのみの⑤⑧待ちテンパイ (⑤⑧は下家が1枚ずつ切っている)

私は2連勝中と好調でずっとリーチツモが続けていたのにこの局だけヤミに構えた

この局の直後そのお客さんは初めて口を聞いた

「すみません、今の⑤⑧待ちなぜヤミにしたのですか?」と。

私は「下家からリーチきそうだし、⑤に金が入ってるこの店でピンズ待ちのめくり合いはしない方がいい」と答えた。

他にも

1、打点が安い

2、ドラや赤がない

3、⑤⑧待ちはツモ筋にいないと感じた

そして一番の理由は、

下家との2件リーチになった時、下家の待ちがピンズ以外だった時手詰まりした相手が下家に振り込む可能性が高いと読んだからだ。

この局は結局読み通り下家が次巡リーチをしてきて下家のアガりとなる。

次の局、ピンフ赤ドラの69待ちテンパイが入り今回は即リーチを打つ。

この局も下家に手が入っている気配がありすぐに追っかけリーチが入りそう、

だが前局との決定的な違いはソーズが場にかなり安い。

読み通りすぐに下家から追っかけリーチが入るが、

2件リーチに手詰まりした対面から9が出てマンガンのアガり

(8が場に3枚切れでいかにもソーズは通りそう)

私は「この待ちならば2件リーチになった方がアガれそうだからリーチだよ」と言った。

 

 

欲張っていい牌と悪い牌 2013 8/31

本八幡の某店 赤はメンゼンで5000点相当のチップがつく

ウマは20-30で、トップ2着の差よりも2着3着の差の方が大きい店だ。

メンバーが2人体制の店なので私はとりあえず友人とメンバーの間で観戦していた


東3局 南家 7巡目 ドラ6 45000持ち

五六④⑤⑦⑧⑨22345北  ツモ三  

この赤2枚の手は絶対アガりたい所、345の三色は見切り安全牌を抱え三をツモ切る方がバランスいい構え。

私がこの手でブクブクに構えるとしたら、2の暗刻くらい。 あとはせめて五と⑤だけにしておく。

暗刻ができた時赤が出て行きこの勝負手が2600リーチになってしまうような

六や④などノータイムツモ切り。 

そしてこの赤2枚の手で受け入れが広くならない三など全くの不要牌で、安全牌の北の方がはるかに価値の高い。
この友人が北を切った巡目に

西家に一盃口のみのペン三待ちのテンパイが入り、

さらに北家が中を切り東家がポンテン

1巡の間に状況が劇的に変わってしまった。

そして、その巡目の友人のツモは⑥で

「リーチ」と言って切った三が東家の5800と西家の1300のダブロンに当たってしまう

この放銃はかなり痛い。

四七はかなり山に濃く、三は薄いので

三を先に処理していれば友人はおそらくアガっていただろう。

赤2枚以上に欲張った為にもったいないことをした。

東4局 ドラ⑦ 5巡目

三四五五六七②④⑦44888

友人はドラを切ってリーチをしたが、終盤西家の追っかけリーチに打ちこんでしまう。

まだトップ目だし、アガっても2000ならばドラを見せずに②を切ってとらずが正解だと思うし、

ドラ切ってテンパイとるならリャンメンにならない限りヤミにするべきだと思う。

実際すぐに⑧をツモっていて、⑥⑨待ちならば追っかけリーチの対面から⑨を捕まえていたし、

ヤミに構えていれば放銃だけはなかった。

友人は結局3着になってしまいこの半荘で席を立った

次の半荘私はその友人の座っていた席で東3局で6万点オーバーのトップをとる。

そう、この席は手がずっとよかったのだ。
この日私は勝って帰ったのだが、

友人があの三を先に処理していればこの日大勝ちしたのは友人だっただろう。

そしてメンバーの席に案内された私は大負けしていたかもしれない。

一打の手順ミスが自分だけでなく他の人の収支まで大きく変えてしまうとは麻雀恐ろしいものだ

 

 

どの牌を何巡目に鳴くか考える 2013 10/7

麻雀は上家が甘いか、絞りがキツいかによって全く打ちやすさが違う。

(例) ドラが二
二三四七八②③④3488西

ハネマンの1シャンテンで上家から5や九が出る

「こんなの鳴くわけないじゃん」ってとこだが、

これが南3局ノーテンできない3着目の親番で14巡目以降でも鳴くわけない?

状況によって違うのが当たり前なので、

何巡目以降チーするか人それぞれ違うが、自分なりに考えておくべきだ

たとえば

(A)どの牌も親番維持の為12巡目以降は必ずチー

(B)どの牌が出ても15巡目までは鳴かない

(C)2と六なら5800の可能性が残るからチーする

(D)もしかしたらテンパイチャンスを広げるために8をポンする人もいるかもしれない。

ちなみに私の場合

11巡目以降に5800になる牌は鳴く

他の牌を鳴くのは14巡目以降

しかし、上家が絞りのキツイ相手ならどの牌が出ても12巡目にはチー

逆に上家が絞りの甘い打ち手ならば六や2が出ても14巡目までスルーしてハネマンの可能性をギリギリまで追いたい。

下家に「この上家絞りがキツイ」と思わせることができれば

鳴きたくない牌をチーさせて親のメンゼンを早めに崩せるかもしれない。

 

        ベタオリする時もしっかり考えて打て 2013 11/9

手順の話

仕掛けに対する読みの話

相手の心理を読む話

北家の時親に対して絞る話

捨て牌から相手の手牌や速度を読む話

 

今日1番の焦点は最終戦南1局

東場に3メンチャンの先制リーチしていて、私の国士に放銃した箱下のМ君が9巡目に親リーチした局面

(私が6万点、BプロとCプロは2万点台の2着争い)

問題は完全ベタオリしていた北家Cプロ

16巡目に打中(場に1枚切れ)

そして次巡全員に通っている場に3枚切れの3を手出ししたのだ。

全員がメンゼンの時、17巡目に北家が南家のポン材を打ってポンさせれば親の最後のツモ(18巡目のツモ)を飛ばすことができる。

今回親がリーチしていて子方3人がオリているので、

北家は南家のポン材候補を持っていたら17巡目に切るべきだ。

しかし北家のCプロが安易に16巡目にポンがかかる可能性のある1枚切れの中、

17巡目に絶対ポンのかからない3を切ったのを見て、

私はこの瞬間 「ベタオリの南家が中トイツの可能性結構ある捨て牌してるのに、Cプロはなぜ3→中の順に切らないかな?」と思った。

そして、18巡目親のМくんは4000オールをツモる。

確かに最後のツモでツモアガる可能性は少ない

1枚切れの牌を切っても南家が鳴いてくれるかはわからない。

可能性はいくら低くても、南家の私は「17巡目に北家が中を切る」というわずかな可能性のために中のトイツを温存し、ベタオリの牌を並べる順番を考えて切っていた。

しかし北家はベタオリの牌を安易に並べた。

これは北家がやるべきことをきちんとやってないことになる。(と私は思う)

この半荘の結末はオーラスCプロがМくんに5巡目の6400放銃となり、Мくんが微差で逆転3着、Cプロは4着落ちとなった。

南1局МくんとCプロの点差は約3万点差あったのに、Cプロの16巡目と17巡目のオリる牌の並べ方のミスが、大きなしっぺ返しになるとは麻雀は恐ろしい

 

 

セット第4弾 2014 2/2

今日は得と思えないスピード優先の鳴きについて

例1 「ダメなバック」

東1局西家 ドラ六

12367③⑦南南発発

場は異常に字牌が高く、しかも南家が国士か七対子狙い

ここに3枚目の④が出たらチーして発バックにする

これは南家の捨て牌が変則なので発持ち持ちの可能性があるから発以外鳴いてはならない

今回の場況なら鳴き祝儀でも私は鳴かない

 

例2 「ドラを焦ってチー」

南2局親番 ドラ4

三四五六七②③④23西西北

ラス目の北家が8巡目にドラをツモ切ったのを見てチーして二の三色片アガりに

この手はメンゼンに仕上げるべき

親がメンゼンを放棄してむしろ子方3人は気が楽になる。

実戦でも南家からリーチ、北家にもヤミで押し返された

 

例3 「安くなってしまう」

ドラ四

五六⑥33445588西

7巡目、13000持ちラス目の親リーチを受けたので⑦をチーテンにとり最後まで突っ張る

ラス目の親とめくり合うのがそもそも損、

ここはメンゼンで勝負するつもりでスルー、なかなかテンパイしないようならばオリがバランスいい

せっかくの勝負手を2000にして親リーチに真っ向勝負するメリットは、アガった本人より力を使わず見ていた両脇の2人の方が遥かに得

ーーーーーーーーーーーー

「いいバック」

南場トップ目

三四五七七七①③⑤55発発

トップ目でドラもないからメンゼンでテンパイしてもリーチする気ない

そこで④のチーで発バック

アガれないツモ5ならタンヤオの移行もできるし、所詮1000点だから持ち持ちでアガれなくても構わないのでチーしてもいい

 

             悪い男 2015 2/17

アガり連荘だから簡単にダブ東切らない方がいいと思うぞ

アガり連荘では役が確定していることがかなりの強みになる。

オタ風やヤオチュー牌から切って役牌を後回しにした方が放銃率も減るだろう

ってかテンパイでも打点が低く巡目が深ければ、ダブ東を切らない方がいい局面も結構ある

 

 

              不調時の選択 2015 3/9

「正しい手順とは?」

勝ってきた打ち手と言っても、麻雀のレベルとは相手によってかけ離れているもの。

「俺Aって雀荘で勝ってるよ」と言っても、そのAという雀荘が弱い人ばかりなのかもしれない。

他の店に行けば、こいつ弱いなと思われるかもしれないのだ。

初心者から出やすい河とそこそこ打てる相手から出やすい河というのもまた違う

これはたくさんの雀荘で多くの相手と打ちこんできた経験で覚える物で打ち手にとって財産だ。

自分では正しい手順、雀風と思っていても自分の勘違いなのかもしれない。

これは私自身にも言えることだ

私は場変え無しの同一メンツで長く打つ時

自分の考えとは裏目の連続になる状態を悪い状態と考えている。

もちろん他の人が同じ配牌同じツモで打てばアガっているかもしれない

実際観戦者に「私ならアガれてるよ」と言われることもある。

でも打ってるのは自分自身である。

自分の自信がある山読みや打牌がことごとく裏目に出るようでは、

自分にとっての普通の手順でずっと打っていてはその日ズブズブのままだ

そんな時は難しい選択の場面でいつもとは違う手順に変えて打つようにしている

 

 

            久しぶりの勝利とAKB総選挙 2015 6/8

私にとってのミスとは

1、終盤親にテンパイさせる牌を鳴かせる

2、なんとか回避できたはずのオリ打ち

3、ドラポンさせたり一色手に鳴かせるなど、大物手ができるような牌を鳴かせる

4、あとで後悔するリーチや鳴き

これらをミスだと考えている。(手順ミスとか切り間違いは論外)

勝負しての放銃や勝負に値しない安手やトップ目からオリてのアガり逃しは全くミスだと思わない。結果が悪かっただけだ

もちろん調子が悪いままずっと同じような放銃やツモられを繰り返し

今日はツカないんでトータル大きくマイナスしましたでは話にならない。

同一メンツで回数打つ以上、今日の調子を考えながら立て直したり、相手の心理を読みミスを誘ったり自分有利に打たせるなど

調子が今一つでも最終的に勝ちにつなげる技術はたくさんあるはず

 

 

              昭和雀士VS鳳凰民 2015 10/10

南1局

親番でトップ目名人と2着8段の差が約17000点差

2着8段と私の差が10200点差で、Jさんは残り2500点の飛び寸前

ここに8段がリーチ

この点棒状況でリーチを打つとしたらハネマンか、ドラが2枚以上で役無しリャンメン以外は絶対ダメな局面だ。

打てる昭和雀士ならここでリーチするなら間違いなく高いリーチしかあり得ない

しかし、局面に全く合わないリーチでは?

棒テンに見える捨て牌と打牌のトーン、自分の手に赤があることから私は安いリーチだと感じた。

ここに飛び寸前ということもありヤミにしてたJさんがツモ切り追っかけリーチ

8段にとってはこれが最悪な展開なんだよね

飛び寸とめくり合いでは、打ちとっても着順そのままのアガ2だ。

しかしラス目に打てば3着や4着と近くなり、もつれればラス落ちまでありうる

さらにトップ目の名人も親満アガれば6万点終了なので高いテンパイが入れば追っかけてくるだろう。

親満刺されば8段は3着落ちである。 つまりここは勝負かける場面ではないってこと。

私は1回戦から8段の打ち筋がフリーでは強い相手と遭遇したら通用しない打ち方なので色々アドバイスしたかったのだが初対面なのでずっと黙っていた。

唯一この局面だけ

「それ多分安いリーチだよね? 飛び寸がいて親がダントツだからハネマン以外リーチしたら損。

ラス目や親に追っかけられて失敗したと思ったでしょ? だから絶対リーチしてはならない局面だよ」

とアドバイスしておいた。

このアドバイスでホンの少しでも致命的な弱点が解消すれば私は嬉しい。

実戦では親で大物手テンパイした名人がリーチ宣言牌でJさんに放銃という結果であった。

そして次局、前局見ていただけで親番が回ってきた私に早いメンホンのカン四テンパイが入る

・22700点差でトップ目の名人は点差的に親リーにはオリる

・8段は今風なので親リーチにはいつもオリてる

・Jさんは親満打つと飛ぶのでまず前に出てこない

つまりここはリーチといえば3人がオリることが見えている局面だ

私は当然のようにリーチをして終盤に6000オールをツモった。

(苦しい待ちをツモったのは偶然だが全員がオリたのは必然)

リーチ判断とはこういうものだ

「リーチとは形で打つモノではない」

相手が必ずオリる局面なら愚形で打っていいし、

相手が腹括って前にくる局面ではリャンメンだろうと安易に打つモノではない。

 


             

巧みに戦う者は、まず敵が攻撃しても勝てない態勢を作り上げた上で、自分が攻撃すれば勝てる態勢になるのを待ちうける

 

巧みな者は不敗の立場にあって敵の態勢が崩れて負けるようになった機会を逃さず攻める

 

戦上手な者は、上下の人心を統一させ(=道)、軍政をよく守る(=法)。だから勝敗を自由に決することができる

 

兵法は、

  一:ものさしではかる=度
  二:ますめではかる=量
  三:数える=数
  四:くらべる=称
  五:勝敗を考える=勝

戦場の広さや距離を考え(度)、その結果投入すべき物量を考え(量)、その結果動員すべき兵数を数え(数)、その結果敵味方の能力をはかり(称)、その結果勝敗を考える(勝)。

 

 

ボイヤー、シピン、ミヤーン、レオン、ポンセ、パチョレック、レイノルズ&ブラッグス「大洋から横浜、低迷期を彩った助っ人の系譜」/プロ野球20世紀の男たち

光る牛込スカウトの手腕

クライマックスシリーズ・ファーストステージで敗れ、2019年も日本一の夢はついえたDeNA。1960年に大洋として初の優勝、日本一に輝き、次の優勝、日本一は横浜となった98年で、これが球団史における、すべての栄冠だ。

 

 近年はロペスやソトの打棒がチームの快進撃を支えているが、なかなか優勝には届かず。20世紀の優勝と優勝の間、37年もの長い年月も、多くの助っ人たちがチームを支えてきたが、優勝どころかAクラスさえも稀有なことだった。助っ人たちが無能だったわけではない。むしろ、ほかのチームと比べても、優秀な助っ人たちが並んでいる。助っ人にはトラブルもつきものだが、そうした“問題児”が少ないのも特徴だろう。

 初優勝、日本一の60年オフ、東映から移籍してきたハワイ出身のスタンレー橋本が最初の外国人選手。その翌62年にはアグウィリー、マック、グルンの3選手を獲得した。ただ、この時代の大洋には、59年に本塁打王に輝いた桑田武や、怪力で“ポパイ”と呼ばれた長田幸雄などの和製大砲もいて、そこまで助っ人が存在感を放ったとは言い難い。

 エポックとなったのは72年。大物メジャー・リーガーのボイヤー、もみあげとヒゲで当時の特撮ドラマから“ライオン丸”と呼ばれたシピンの加入だった。名門ヤンキースの正三塁手だったボイヤーと交渉したのは牛込惟浩スカウト。その後も多くの助っ人を獲得し、98年に“マシンガン打線”の四番打者として優勝、日本一に導いたローズの潜在能力に注目するなど、辣腕を振るった名スカウトだ。

 ボイヤーは「カネで野球をするんじゃない」と、メジャー時代の半分にも満たない年俸で契約。ハワイでチームメートだったシピンを巻き込んで(?)、一緒に入団した。シピンは釣竿をかついで空港に登場。大洋では貴重な(?)問題児タイプだったが、正義感が強く親分肌、トラブルメーカーの外国人選手には他チームであっても説教することもあったボイヤーとは対照的に、尊敬するボイヤーには頭が上がらず。ともに打撃もさることながら、二塁のシピン、三塁のボイヤーによる併殺プレーは絶品で、特にボイヤーは別次元。同時代の三塁手で筆頭格だったのは巨人の長嶋茂雄だが、その守備を色褪せさせるほどだった。

 シピンは78年に巨人へ移籍。75年オフに現役を引退して、そのままコーチとして山下大輔、田代富雄らを指導したボイヤーが、その後継者として紹介したのがミヤーンだった。骨折の影響で肩には不安があったものの、機敏なフットワークなどで二塁守備は抜群の安定感。バットを短く持って小首をかしげる独特なフォームで安打を広角に打ち分け、来日2年目の79年には打率.346で首位打者に輝いている。

 

ポンセとパチョレックがタイトルホルダーに

80年代の中盤はロッテを解雇されたレオンが中心で、安定した結果を残しながらも「勝負弱い」と言われて85年オフに解雇。後釜に座ったのが、ともに口ヒゲで“マリオ・ブラザーズ”とも言われたポンセとローマンだった。87年シーズン途中にローマンが退団。翌88年に加入したのがパチョレックで、勝負強いポンセは本塁打王に2度の打点王、巧みなバットコントロールのパチョレックは首位打者に輝くなど、低迷する大洋で打線の中軸となった。

 90年代に入ると、レイノルズが来日1年目の91年にプロ野球新記録となる11打席連続安打。迫力ある外野守備も魅力だったが、大洋ラストイヤーの92年オフに自由契約となり、横浜“元年”の翌93年に加入したのがローズとブラッグスだった。ただ、ローズはブラッグスの“おまけ”みたいな扱いで、注目を集めていたのはメジャー通算70本塁打のブラッグス。死球に激怒する場面も見られたが、93年には29試合連続安打、翌94年には35本塁打でタイトルを争って期待に応えた。

故障もあって失速したブラッグスは96年オフに退団、優秀な助っ人が系譜に並ぶチームは、助っ人が実質的はローズ1人となった翌97年に急浮上したのは、なんとも皮肉な気がする。

 

ポンセ 『ラ・クカラーチャ』の明るい調べとともに強打を発揮した“マリオ”/プロ野球1980年代の名選手

1983年に発売されたファミリーコンピューター。学校が終わると近所の空き地で野球をしていた少年たちを一斉にインドア派に転じさせたのは、85年に発売されたゲームソフトの『スーパーマリオブラザーズ』だろう。マリオとルイージという口ヒゲをたくわえた外国人(に見える)の兄弟が活躍するアクションゲームだったが、その翌86年、大洋に口ヒゲをたくわえた2人の助っ人が入団する。

 1人は、敬虔なクリスチャンで、(“神主打法”とは違ったパターンで)祈るようにバットを構えたローマン。もう1人が“マリオ”と呼ばれたポンセだった。確かに、球場で彼らを見ると、ファミコンの画面で見るマリオ兄弟のように、やたらと口ヒゲが目立ち、衣服(ユニフォームの背番号)でしか区別がつかないほど。開幕は四番のローマンに続く五番で迎えたが、ローマンが2人プレーでないと登場しないルイージのように影が薄くなっていき(?)、四番打者として勝負強さを発揮して、不動の“マリオ”となっていく。

 ただ、晴れれば外で野球、雨が降れば家でファミコン、ということができた少年は、やや裕福な家庭の子であり、当時は大洋が地元チームだった80年代の少年でもある筆者を含めて、ファミコンに親しみがないファンにとっては、あまり“ポンセ=マリオ”という印象はないのではないか。むしろ、高木豊から加藤博一、屋鋪要の“スーパーカー・トリオ”に韋駄天の2助っ人がクリーンアップに続く“スーパーカー・クインテット”と売り出されていたほうが印象に残っている向きも少なくない気がする。

 もともと忍者映画や時代劇が大好き。かつてボイヤーやシピン、ミヤーンら強力な助っ人たちを連れてきた腕利きの渉外担当でもある牛込惟浩が、85年オフに長距離砲のレオンを放出した近藤貞雄監督から「走れる中距離打者が欲しい」と言われ、ローマンを獲得した際に、同じブリュワーズにいたプエルトリカンにも声をかけた。親日家だったこともあり、すぐに来日が決定。牛込は「AAA級でシーズン52二塁打を放って“ミスター・ダブル”と呼ばれ、前年は21盗塁を決めている」と紹介した。

 確かに、来日1年目の86年は18盗塁。ちなみにローマンも14盗塁を決めていて、それなりに“クインテット”は機能したが、いい意味で期待を裏切ったのが、そのバットだ。2年連続で三冠王となった阪神のバースがいたため無冠に終わったが、27本塁打、105打点、打率.322。長打力に勝負強さ、安定感も兼ね備え、オフに近藤監督が退任したこともあり、その後は盗塁ではなく、不動の四番打者として、ポイントゲッターとしての役割が求められていく。

87年から2年連続で打点王に

 迎えた87年。バースと時を同じくしてパ・リーグで三冠王となった落合博満が中日へ移籍、セ・リーグは2人の三冠王によるタイトル争いになるかと思われたが、無冠に終わった2人の一方で、全試合に出場して98打点で打点王に。長打率.616はリーグトップ。35本塁打は自己最多、打率.323も自己最高だった。

 翌88年は33本塁打、102打点で打撃2冠。打率は3割に届かなかったが、優勝した中日で最多勝に輝いた小野和幸、巨人のガリクソンからは打率.462、広島で最優秀防御率の大野豊からは打率.500、ヤクルトの尾花高夫に対しては打率.400、阪神のキーオには打率.375と、各チームのエース格を攻略するなど、四番打者としては申し分ない働きだった。

 だが、その翌89年からはバットが湿り始める。メガネをかけ、トレードマークの口ヒゲをバッサリと剃り落として、「朝、手入れをしていたら面倒になった」 と語ったが、不振から脱出するための気分転換だったのは明らかだった。それでも89年は不振なりに12盗塁やリーグ最多の7三塁打、9犠飛などでチームに貢献しようとしたが、その翌90年がラストイヤーとなった。

 雨で試合が中断すれば水しぶきを上げながら本塁へヘッドスライディングするパフォーマンスも見せた。客席から送られたメキシコ民謡『ラ・クカラーチャ』の明るい調べとともに、印象を残した愛すべき助っ人だった。

 

大洋山崎賢一

いま、“ハマの番長”といったら、2016年まで長くエースナンバーを背負い続け、19年に再び背番号18で後進の指導に当たっている三浦大輔のことを思い浮かべることが多いだろう。もちろん、これは間違いではない。大洋のラストイヤーに入団し、横浜となって38年ぶりの優勝、日本一に貢献し、どん底の21世紀を支え続けたのだから、その称号にふさわしい存在でもある。
 ただ、まだ三浦が中学生、高校生だった1980年代の終盤、“番長”と呼ばれていたのが山崎賢一だった。辛酸をなめるのは“ハマの番長”の宿命なのだろうか。三浦も2000年代の後半からは暗黒時代とも言われる横浜、DeNAで孤軍奮闘していたが、98年の歓喜があり、万雷の喝采を贈られて去っていくことができただけ、まだ救われる部分がある。一方の“初代”は、同様の暗黒時代で数少ない輝きとなりながらも、追われるようにチームを去っていった。
 埼玉の所沢商高では3年の夏、県大会で準々決勝敗退。監督に勧められて西武と大洋の入団テストを受けた。地元の西武は不合格。一方、大洋の首脳陣に打撃を評価されて、ドラフト外で81年に入団した。だが、以降4年間はファーム暮らし。二軍でも代打要員で、2年目の82年はイースタンで大洋は優勝しているが、28試合で打率.200と、とても優勝に貢献したとは言い難い。
 転機は一軍出場もないまま迎えた4年目の84年だ。やはり一軍での出番がないままシーズンを終えるが、打撃コーチを兼ねていた基満男から「ホームランバッターと競争して勝てるか?」と言われ、単打を狙う打撃に切り替える。だが、新たなノーステップの打撃フォームには、当時のバットは合わなかった。そこで出会ったのが、“こけし”の頭のようなグリップをした、いわゆる“こけしバット”だ。その秋、左肩の故障で打撃ができず、走塁と守備の練習に明け暮れたキャンプでは、ダッシュの練習で球界No.1の韋駄天でもある屋鋪要に引き離されることなく、追走。これで自信を深めていく。翌85年には背番号も46から59に。
「選手枠(60人)の一歩手前の数字。もう後がない、と思った」
 と奮起。新たに就任した近藤貞雄監督が“スーパーカートリオ”に象徴される機動力野球を掲げたことも追い風を吹かせた。イースタンでは22盗塁で盗塁王。一軍デビューも果たし、10月16日の中日戦(ナゴヤ)プロ初本塁打も放ったが、レギュラーは遠かった。86年は加藤博一の故障で出場機会を一気に増やしたが、その87年は急失速。これで再び発奮して、88年には規定打席未満ながら左翼手としてパチョレックを一塁へ、屋鋪をベンチへ追いやる活躍を見せる。秋のキャンプでは、1400グラムのマスコットバットを、「手首が折れそうになるまで振った」 という。これで1000グラムを超える“こけしバット”を自在に操るパワーを身につけた。

わずか7本塁打の四番打者

89年の大洋は、どん底だった。首位の巨人と36.5ゲーム差の最下位。5月5日の阪神戦(甲子園)で敗れてから、1度も最下位から浮かび上がることができなかった。そんなチームにあって、“こけしバット”は希望の象徴に。ポンセの不振で四番に座ると、6月21日には打率.372とピークを迎えた。
球宴にも初出場、「広島の山崎(隆造)選手」と間違えてアナウンスされる一幕もあったが、第2戦(藤井寺)では代打で決勝タイムリーを放って優秀選手に。ペナントレースでもベストナイン、ゴールデン・グラブをダブル受賞。わずか7本塁打ながら盗塁やバントもする四番打者としても話題になり、Aクラスのチームに強いのも武器だった。ただ、まだ“こけしバット”には確信が持てず、車には常に普通のバットも積んであったという。
 だが、チームが横浜となった93年オフには高木豊や屋鋪、市川和正ら大洋時代の功労者たちとともに解雇される。ダイエーへ移籍して2年目の95年には代打で決勝本塁打を放ったが、これが最後の本塁打となった。

【プロ野球仰天伝説65】遠視の悪化で退団に追い込まれたスーパーマリオ【助っ人トンデモ話】

ポンセ[1986-91大洋/外野手]

1986年に入団し、87年が打点王、88年が本塁打王&打点王と、長打力と勝負強さでチームに貢献した大洋のポンセ。陽気な性格と人気ゲームのキャラクターに似ていることから「スーパーマリオ」、あるいは「マリオ」と呼ばれ、1年目は同じくヒゲをたくわえた新外国人のローマンと「スーパーマリオブラザーズ」と言われたこともある。

 しかし2冠の翌年、89年には遠視の影響もあって開幕から大不振。矯正するため、レノマ製の大きなメガネをつけて打席に立ったが、打率.264、24本塁打と、最後まで納得する数字は残せなかった。翌90年は15試合の出場に終わり、同年限りで退団している。

 なお11歳のときからの幼なじみという夫人には頭が上がらず、打てないときは食事を作ってもらえなかいから宅配のピザばかり食べていたらしい。

 

パチョレック 変幻自在のフォームから広角に安打を量産/プロ野球1980年代の名選手

1980年代は海の底に沈みっぱなしだった大洋だったが、港町で国際都市でもある横浜を拠点としていることも好条件になったのか、助っ人の補強に関しては相当の確率で成功を収めている。80年まではメジャーの名二塁手で、バットを極端に短く持って寝かせ、小首をかしげるような独特な打撃フォームで安打を量産したフェリックス・ミヤーンがいた。3年の在籍で通算52三振と安定感も抜群で、79年には球団史上初の首位打者に輝いた巧打者だ。

 その後もロッテから加入したレオン・リー、スクーターのCMにも出演していたジム・トレーシー、西武から加入したスイッチヒッターのジェリー・ホワイト、敬虔なクリスチャンでもあったダグ・ローマン、そして本塁打王1度、打点王2度のカルロス・ポンセ。成績だけでなく、好漢としても印象に残る助っ人たちが並ぶが、そんな80年代の大洋で最後に加入した助っ人がジム・パチョレック。やはり好成績を残した好人物で、そんな大洋の助っ人らしさを両立させた右の“舶来ヒットメーカー”だった。

 82年のドラフト8巡目でブリュワーズに指名されたが、メジャーデビューは87年。48試合に出場したが、オフに大洋から声をかけられる。まだ28歳の若さだった。

「若いのに、と言うかもしれないが、若いからこそ、いろいろなことを経験してみたくて」という理由で来日。日本に対する知識はまったくなかったものの、すぐに順応、すぐに寿司も食べられたという。大洋とは1年契約だったが、

「翌年も契約してもらうためには、結果を残すしかない」

 というハングリー精神も原動力に。ブリュワーズでも変化球を打つのが得意で、器用な打撃には定評があったが、87年にリーグ最多安打を放ち、打点王に輝いたポンセの親切なアドバイスもあり、日本の野球に適応するのに時間はかからなかった。

 守っても一塁と左翼を兼務。全試合に出場してリーグ最多の165安打、リーグ2位の打率.332をマークした。一方のポンセも右翼を中心に一塁へも回り、本塁打王、打点王の打撃2冠。大洋からは屋鋪要も3年連続で盗塁王となっていて、遠藤一彦、斉藤明夫ら投手陣の二枚看板が故障に苦しんだシーズンながらチーム打率はトップで、順位も前年の5位から4位へと浮上している。

勝負強さも光った打撃

 2年目の89年も一塁と左翼を兼ね、打撃も好調を維持。ポンセは不振に苦しんだが、自己最高の打率.333をマークする。ただ、首位打者は初の打率4割をうかがった巨人のクロマティの打率.378で、遠く離されたリーグ2位。本塁打も17本から12本に減らしたことに大洋は不満を持ち、オフには新たに長距離砲のジョーイ・マイヤーを獲得する。

 四球を選ぶより積極的に打って出ることを意識し、日によってグリップの位置やスタンスの広さを変えるなど変幻自在の打撃フォームから広角に安打を打ち分けた。だが、当時の外国人選手枠は2人までで、90年は助っ人が3人になったことで危機感を覚えて、本塁打を狙う打撃に修正したことで、持ち味を失ってしまう。

 それを救ったのが大杉勝男コーチだった。苦手の内角球を大杉コーチの指導で克服すると、打撃スタイルを戻したことも奏功して、2度目の全試合出場にリーグ最多安打、そしてチームメートの高木豊との争いを制して初の首位打者に。得点圏打率3割、満塁では5割を超える勝負強さも光った。

 好選手を助っ人でそろえるのが大洋の特徴なら、そんな選手であっても、あっさりとクビにするのも大洋の特徴だったといえるだろう。それは、この舶来ヒットメーカーも例外ではなかった。来日から打率3割を続けながらも、翌91年に11本塁打に終わると、解雇。

「野球は野球。チームが変わるのは問題ない」

 と阪神へ。移籍1年目の92年には3度目のリーグ最多安打を放って阪神の躍進に貢献。だが、翌93年には外国人枠の問題と腰痛に苦しめられて調子が上がらず、8月に二軍へ落されると帰国、そのまま退団している。

 

ひと目で安物と分かるペラペラのスーツで来日したのが、カルロス・ポンセである。86年に大洋ホエールズへ入団した、この男の年俸はたったの10万ドル(1600万円)だ(契約金を含めると3000万円という報道もあり)。前年はブリュワーズでメジャーデビューを果たすも、打率.161、1本塁打という成績に終わりメジャー登録枠からは外れていた。大洋は85年に3割30本100打点を記録したレオン・リーを電撃解雇。日本での実績は申し分のないレオンだったが、脚力が衰えゲッツーも多かった。それを“スーパーカー・トリオ”が看板の機動力野球を掲げる近藤貞雄監督が嫌がり、まだ20代と若いポンセとダグ・ローマンに白羽の矢が立ったというわけだ。

 アメリカでのテストを経て入団が決まった格安助っ人は、「五番・三塁」で起用された開幕戦で、挨拶がわりの2本塁打をかっ飛ばす5打点デビュー。以降、プエルトリコ生まれの27歳は中心打者としてチームを牽引する。懸命に打って、守って、走る。野球選手も好景気に浮かれこぞって財テクに走る時代に、懐かしさすら感じさせるハングリー精神の持ち主。決して派手さはないが、米3A時代は52本の二塁打を放った典型的な中距離打者に目をつけた、スカウティングの勝利でもあった。牛込惟浩渉外担当は「僕はいろいろな外国人選手を見てきたが、これほど安いサラリーで、これほど一生懸命プレーする選手を初めて見た」と背番号7のがむしゃらなプレースタイルを称賛した。

「バモス・ポンセ~」で有名な応援歌に合わせて、1年目から打率.322、27本塁打、105打点の活躍。チャンスに強く、三冠王に輝いたバース(阪神)とは打点部門でわずか4点差だった。リーグ4位の大洋は、12球団トップの180盗塁と走りまくり、四番バッターのポンセも18盗塁(12盗塁死)で高木豊、加藤博一、屋鋪要らと“スーパーカー・クインテット”の一角を担い奮闘する。当時はファミコンソフト『スーパーマリオブラザーズ』が大ヒット中で、ポンセも“マリオ”と少年ファンから愛され、瞬く間に球団屈指の人気選手に。同じくチョビひげをたくわえた同僚助っ人ローマンとともに、“スーパーマリオブラザーズ”というイージーかつご機嫌な愛称で呼ばれた。

古葉竹識新監督が就任し、外野での起用が中心になった87年には全試合に出場して、打率.323、35本塁打、98打点。前年より上がったとは言え年俸3500万円の男が、高給取りの落合博満やボブ・ホーナーを抑え、打点王を獲得してみせた。なお、159安打はリーグ最多だ。同僚のレスカーノが「140キロの球が怖くなった」とズンドココメントを残し突然退団したのを横目に、文句なしの働きでベストナイン選出。パワーと巧さを併せ持ち、勝負強さも安定度もある。加藤博一との陽気な連続ハイタッチ・パフォーマンスは「珍プレー好プレー」の常連だった。

 オフには故郷プエルトトルコに念願のプール付きの家を購入。自分は経済大国ニッポンで長くプレーしてお金を稼ぐ。横浜で同居する幼なじみのピーチ姫……じゃなくてロザナ夫人に尻を叩かれながら、“マリオ”はひたすら走り続けた。好物はヘルシーな冷や奴。温泉が大好きで遠征先で混浴に遭遇すると、「ワイフに殺されちまうよ。絶対だれにも言うなよ」なんつってビビりながらも、ちゃっかりひとっ風呂浴びるお茶目な一面も。ある日の夕食のメニューはカツ丼、冷や奴、ミソ・スープとまるで日本人のような食生活を送り、ベスト体重の80キロをキープ。寺岡孝ヘッドコーチは「ポンセは打席ですぐカッとするんだけど、それがいいんです。ときにボール球にも手を出すけど、あのカ~ッと燃え上がるものがあるから」なんてハマの燃える男を頼りにした。

 この2年連続の大活躍には、さすがに本人も気が緩んだのかオフにケーキ類を食べ過ぎて体重が増え、88年シーズン序盤は体のキレを失い不振にあえぐが、5月の大型連休あたりから復調。同僚の新助っ人パチョレックには、ロッカー裏の大鏡の前で日本スタイルの打撃フォームをアドバイスした。オールスター出場も果たし、落合や原辰徳たちと激しく打撃タイトルを争うスラッガーは、88年もフル出場で33本塁打、102打点を叩き出し、2年連続打点王と初のホームランキングに輝く。80年代後半のセ・リーグは巨人、広島、中日がAクラスの常連。だが、88年の大洋は3位広島に5.5差まで詰め寄った。その中心にいたのは大黒柱の背番号7だった。

 すべてが順風満帆な日本生活。しかし、牛込氏の自著『サムライ野球と助っ人たち―横浜球団スカウトの奮闘記』(三省堂)によると、この二冠獲得直後のオフからいきなり契約交渉に代理人を立ててきたという。年俸は6000万円まで上がるも、結果的に人のいいポンセは代理人に食いものにされてしまう。球団からは扱いにくい選手というレッテルを貼られ、さらに4年目の89年には前年の本塁打王獲得で、広角に打てる自分の持ち味を見失い、強引に引っ張ろうとする打席も目立った。追い打ちをかけるように遠視の影響もあり、打撃不振に苦しむ。なんとか矯正しようとメガネをかけ、気分転換にヒゲも剃り落とした。ストレスの溜まる日々が続き、5月21日の阪神戦では、1試合3死球に怒り乱闘騒ぎを起こしてしまい、異例のおわび会見を開く。

「こんなことが原因で大好きな日本を去ることになったら、自分自身恥ずかしいし、悔やんでも悔やみきれない」

 古葉監督も「(フィルダーやパリッシュの)他のチームの外人たちがガンガン打ってるからね。テレビや新聞を見て、ポンセ自身にも焦りがあるんだろう」と復調を待ったが、この年は打率.264、24本塁打に終わる。それでも、フル出場してリーグ最多の二塁打33、三塁打7と最下位に沈んだチームで意地を見せた。しかし、首脳陣の信頼を失った背番号7は、翌90年にパチョレックと新助っ人マイヤーの陰に隠れた“第三の外国人”扱いをされてしまう。酷な話だ。チームのために4年間ほぼすべての試合に出続けながら、あっという間に居場所を奪われてしまう当時の外国人選手には厳しすぎる現実があった。

 90年シーズン、須藤豊新監督のもと大洋は7年ぶりのAクラス入りを果たしたが、そこにポンセの姿はなかった。結局、5年目はわずか15試合の出場に終わり、打率.193、本塁打なし。まだ31歳、日本国内での移籍を希望するもトレード話がまとまらず、同年限りで退団した。当時、そのちびっ子人気にタレント転身を進める声もあったほどだ。

 大洋在籍5年で本塁打王1回、打点王2回。通算打率.296、119本塁打、389打点。うすっぺらのスーツを身にまとい、でっかい夢を抱いて来日した若者は、日本を愛し、そして日本の野球をリスペクトした。最後は『週刊ベースボール』87年10月19日号掲載、28歳のポンセ本人のコメントで終わりにしよう。

「日本野球をなめる? とんでもない。ボクはアメリカにいるときは、いつも、ハンバーガーやフライドチキンなどの貧しいファースト・フード。日本に来れたおかげで、ステーキも食べられる。このよさは、ボクにとって大事にしたい。昔は大リーグでメジャーになる夢を見ていたけど、今は日本のメジャーになりたいと思って、精進しているよ」

 

屋鋪要   勝負強さを秘めた球界最速、スーパーカー・トリオの“3号車”/プロ野球1980年代の名選手

三番起用にプレッシャーも

 1985年、大洋の“スーパーカー・トリオ”は、いま振り返っても“奇策”だったが、当時のファンにとっては、いま以上に“奇策”と映ったのではないだろうか。ヒットメーカーの“1号車”高木豊、小技も巧みな“2号車”加藤博一。そこまでは順当だろう。ただ、ポイントゲッターをも担う“3号車”屋鋪要は、大洋ファンを不安にさせた。ファンだけではない。

 「高木さんが一番で、加藤さんが二番。これは分かる。でも、僕の三番というのがね……。高木さんと加藤さんは出塁率が高くて、僕の打順のときには得点圏にいる。そこで僕が還さなきゃいけないという使命感があって、それが最初は、ものすごくプレッシャーになりましたよ」

  ファンの不安も、自身のプレッシャーも、「最初」だけだった。その前を打った“2号車”加藤は「近藤(貞雄)監督の、選手の能力を見抜く目が素晴らしかったんだよ。出塁率の豊、勝負強さの屋鋪。三番に起用してもらって、屋鋪は大きく野球をとらえられるようになり、とてもプラスになったと思う」と振り返る。

  球界きってのスピードスター。体が硬いため初速はないが、加速力が抜群だった。守備範囲の広さでも魅せて、84年から5年連続ゴールデン・グラブ。視界、あるいはテレビ画面の外からスルスルと駆け寄って誰も捕れないような飛球をスーパーキャッチして、“忍者屋鋪(屋敷)”とも呼ばれた。

  その85年までは、足と守備だけの選手という印象があったのも確かだ。だが、バットを長く持ち、速球を狙って初球からでも打ちにいく積極性、器用さよりも瞬発力、力を抜いてから一気に振り抜く独特のフルスイング。そんな打撃から、秘められた長打力と勝負強さを見抜いたのが近藤監督だった。

  ドラフト6位で78年に大洋へ。開幕4試合目となる巨人戦(横浜)で代走として早くも一軍デビュー、翌79年にプロ初盗塁。翌80年にはスイッチヒッターに挑戦、初の2ケタ盗塁には到達したものの、なかなか打撃が向上しなかった。レギュラー定着は83年、初の規定打席到達も、下位打線に座ることが多く、翌84年も八番が定位置だったが、8月から一番を打つと、最終的に自己最高の打率.305をマークした。

  しかし、「屋鋪は確かに、足は速いけど、チャンスメークするタイプではなかったからね。勝負どころで打つってタイプで。近藤監督は屋鋪のそういうところを、よく見ていたと思うな」と“1号車”高木も振り返る。85年は最終的に前年の4本塁打、29打点、11盗塁をはるかに上回る、自己最多の15本塁打、79打点、58盗塁。勝利打点15も光る。

86年に加藤の故障離脱でシーズン途中に“スーパーカー・トリオ”は瓦解したが、48盗塁で初の盗塁王に輝くと、翌87年はキャリア唯一の全試合出場で同じく48盗塁で2年連続の戴冠。続く88年も33盗塁で3年連続の盗塁王に。だが、89年は打撃が不振に陥ると、盗塁にも迷いが出る。右肩痛もあって8月には二軍落ち。その後は精彩を欠き、チーム名が横浜となった93年オフに自由契約となる。

  87年ごろから口ヒゲをたくわえ、トレードマークになっていたが、94年からプレーした巨人ではヒゲは原則的に禁止。だが、長嶋茂雄監督に容認されて、貴重な“ヒゲの巨人選手”となる。ヒゲだけではない。長距離砲がズラリと並ぶ巨人にあって、終盤に勝ちゲームを落とさないためには、機動力と堅守を誇るベテランの存在は貴重かつ必要不可欠だった。

 「(練習で)ノックを受けないこと」と堅守の秘訣を語る。ノックの打球は実戦とスピンなどの質が違うからだ。打撃練習で打者が打ったボールを追いかけて打球勘と捕球を磨くことで守備を鍛え続けた。その美技は新天地の大舞台でも発揮される。移籍1年目から大洋では経験できなかったリーグ優勝を味わうと、西武との日本シリーズ第2戦(東京ドーム)では守備固めでセンターに。9回表二死二塁、一打同点の場面でライナーをダイビングキャッチ。 「このボールで、この打者なら、この辺に来るかも、のイメージどおりだった」 と、初めて味わう日本一にも貢献している。

 

 

加藤博一 ひょうきんで職人肌、スーパーカー・トリオの“2号車”/プロ野球1980年代の名選手

大洋・加藤博一    長い下積みを経験した苦労人

 1985年のセ・リーグを駆け回った大洋の“スーパーカー・トリオ”。一番から三番まで韋駄天が並び、時には三位一体となって機動力野球を繰り広げ、優勝への道のりを駆け上がることはできなかったものの、そのスリリングな野球はファンを楽しませた。ただ、その前にも後にも、韋駄天の一、二番コンビは登場しても、あるいは足の速い選手が一番から三番まで並ぶことがあっても、これほどまでに“トリオ”として緻密な連係プレーを成立させたケースは見かけない。おそらくはプロ野球で唯一ではないか。“トリオ”の成立に不可欠なのは、その真ん中で2人をつなぐ“2号車=連結車”加藤博一のような存在なのだろう。

“1号車”高木豊は、「(加藤に)すごく助けられましたよ。盗塁するにしても、すごくフォローしてもらいましたし。足にもスランプはあって、どうしても調子が悪くて盗塁できないときには、『僕が走ったときに(ヒットエンドランで)打ってください』と頼んだり。『加藤さんが打ったから盗塁できなかった』というアピールで(笑)」。

“3号車”屋鋪要に対しては、「打席で粘ってくれたよね。屋鋪が打席に入ると、初球から行けるような態勢を作ってくれた」と語る。その屋鋪も、のちに振り返っている。「加藤さんは、いろんな技術を持ってましたよ。打席でバントの構えをして、捕手と同じ目線で球を見て、すっとバットを引いてパスボールさせたり。これぞプロの技だな、と思いましたね」

  底抜けに明るいキャラクターながら、長い下積みを経験した苦労人だった。ドラフト外で西鉄へ。スイッチヒッターに挑戦した。

 「右手にスプーンでカレー、左手に箸でラーメンを同時に食べられるようになった(笑)」ものの、一軍では芽が出ず。阪神で迎えたプロ10年目の79年に巨人の江川卓からプロ初本塁打を放ってブレークすると、翌80年には初の規定打席到達でリーグ5位の打率.314。だが、オフにテレビ番組で暴れ回ったのがたたったのか、その翌81年には急失速した。

  83年に大洋へ。翌84年には背番号をルーキーに明け渡し、自身7つ目の背番号となる「44」を背負った。これを「よいよい」と呼んで再ブレーク。85年からは左投手のときも左打席に入り、気分次第で右打席に入る“変則スイッチヒッター”に。86年には念願だった球宴にも初出場したが、後半戦に自打球で離脱。その後も二番に高橋雅裕ら韋駄天が入ったことはあったが、“トリオ”としては成立しなかった。90年限りで引退するまで控えに回ったが、腐らず声を上げ、ベンチを盛り上げ続けている。

85年の個人成績は、自己最多、リーグ3位の48盗塁に、自己最多、リーグ最多の39犠打。なかなか雄弁な数字といえるだろう。

  その開幕戦、4月13日の巨人戦(後楽園)、1回表一死一、三塁。“トリオ”初の盗塁機会で、一走の“3号車”とともに重盗を仕掛け、三塁から本塁へ突っ込んでいったのが、

 「僕は16年目の若手です」と語る、34歳を迎える“2号車”だった。山倉和博の好ブロックに阻まれ、あえなくアウトとなったが、いきなり開幕戦からベテランが果敢に仕掛けたホームスチールで、韋駄天トリオによる“機動力劇場”の幕が開けた。

  ただ、この“劇場”、いささかコメディタッチだったことも確かだ。ファンが沸く一方で、ため息まじりで高木は「やっているほうは、もうヘトヘトでしたよ」と振り返るが、職人気質のプレーで玄人をうならせ、お笑い芸人としても玄人はだし(?)だった“2号車”にも語ってもらおう。

 「豊がヒット打って盗塁してアウト、自分がヒット打って盗塁してアウト、屋鋪がヒット打って盗塁してアウトで“三者凡退”したとき、さすがに(近藤貞雄)監督カンカンで『お前ら耕耘機か!』って。そのあと3人して出塁してさ、無死満塁でスーパーカーが走れない状態で、田代(富雄)が三振、レオンでゲッツー。今度は田代とレオンが、むちゃ怒られてたよね」

 

 

高木豊、加藤博一、屋鋪要「“スーパーカー・トリオ”の“スーパーカー・フォーメーション”」

開幕戦の1回表から

 どん底の大洋が迎えた1985年の開幕戦、4月13日の巨人戦(後楽園)。大洋のスターティング・ラインアップには、一番から三番まで、韋駄天がズラリと並んだ。一番の高木豊は前年、84年の盗塁王、二番の加藤博一はプロ16年目、長い下積みを経験した苦労人ながら、ひょうきんな性格は球界きってで、三番の屋鋪要はスピードが球界きって。就任1年目の近藤貞雄監督は、この3人を“スポーツカー・トリオ”と売り出し、のちに“スーパーカー・トリオ”として定着していくのだが、そんな3人は、シーズンが開幕した途端、いきなり躍動する。

  1回表、先頭の高木は倒れたが、加藤は内野安打、屋鋪は四球で出塁して、四番のレオンが打席に入ったときには一死一、三塁となっていた。そこで重盗。本塁へ突撃した加藤は山倉和博の好ブロックに阻まれたが、めったに見ることができないホームスチールは、このトリオが駆けずり回る舞台の幕が切って落とされた瞬間でもあった。

  ただ、この開幕戦はレオンの2本塁打、5打点もあって快勝したものの、6回表には高木も二盗に失敗し、盗塁がついたのは名バイプレーヤーの村岡耕一のみ。また当時は「球界7不思議」と揶揄する声もあった屋鋪の三番だが、試合を決めたのは屋鋪の2点三塁打だった。ただ、このとき生還したのも高木と加藤ではなく、トリオの足が勝利を呼び込んだわけではない。なんとも象徴的な開幕戦ではあった。

  しかし、その後は順調だった。先駆けとなった加藤は連続で15盗塁を成功させる快進撃。高木は打撃も安定し、それまでは足と守備の人というイメージだった屋鋪も、当初は新しい役割に迷いながらも、次第に秘められた勝負強さを発揮していくようになる。

  前年と比べてみると、“1号車”高木は56盗塁から42盗塁と、盗塁こそ減らしたものの、打率.300から打率.318、76得点から自己最多の105得点。“2号車”加藤は自己最多、リーグ最多の39犠打で二番打者の役割を果たしながらも、自己最多の48盗塁を決めた。“3号車”屋鋪は11盗塁から自己最多の58盗塁と激増、打っても4本塁打から15本塁打、29打点から78打点と自己最多を叩き出している。

  盗塁はリーグ2位から屋鋪、加藤、高木の順で並び、3人で148盗塁、チームでは110盗塁からリーグ最多の188盗塁に。大洋も最下位から4位へと浮上。Bクラスには違いないが、当時の大洋からすれば“快挙”だったと言える。

“活動期間”は1年半ながら

 当時としては広かった横浜スタジアムにあって、危なっかしさを抱えながらも、塁間を駆け回った韋駄天トリオ。3人ともスイッチヒッターの“経験者”でもある。この85年にスイッチだったのは屋鋪のみで、もともと左打者だった高木は長打を狙って83年に右打席にも入っていたこともあり、加藤は85年から左投手のときにも左打席に入るように。ただ、時折「気分で」(加藤)右打席にも入る“変則スイッチ”でもあった。87年に広島でも韋駄天スイッチヒッターが一番から三番まで並び、チームを引っ張る活躍を見せたことがあったが、“トリオ”と呼べるほどの秀逸な連係プレーとなると、大洋の“トリオ”に軍配が上がるだろう。

  高木が塁に出るも足が不調なときには、続く加藤は、あわよくばセーフティーという犠打、あるいはヒットエンドラン。高木が得点圏に進めば粘りに粘って適時打を放ち、自らが倒れたとしても、粘ったことで続く屋鋪が初球から打ちにいけるような状況も作った。

  こうしたプレーを支えていたのがトリオだけのサイン。「監督のサインより、自分らで動いて点が入ったときの喜びのほうが大きかったね」(加藤)という。だが、翌86年に絶好調だった加藤が故障。ファンに鮮烈な印象を与えたトリオは、その印象が色褪せないまま

“解散”となる。加藤は90年オフに引退、93年オフには高木と屋鋪が自由契約となった。

  確かに、優勝につながる野球ではなかったのかもしれない。ただ、優勝が遠いチームであっても、ファンを楽しませることはできる。間違いなく、彼らの野球は、おもしろかった。

大洋・高木豊   万能タイプの男

 1985年、大洋の高木豊は忙しかった。就任した近藤貞雄監督が、高木、加藤博一、屋鋪要の韋駄天3人を打順の一番から三番まで並べる“スポーツカー・トリオ”(のち報道陣が「語感がいいから」と“スーパーカー・トリオ”と報道して、そちらが定着)の奇策を打ち出し、キャンプで「50個アウトになってもいいから、100個は走れ」と厳命。その“1号車”に固定される。
 それだけではない。83年にはダイヤモンド・グラブに輝いた二塁守備の名手だったが、近藤監督は内野“裏返しコンバート”をも打ち出して、やはり遊撃守備の名手だった山下大輔と入れ替わって遊撃へ。リードオフマンとして打線を引っ張って3年連続で打率3割を超えながら、遊撃守備も無難にクリアした。もちろん、2年連続の盗塁王こそならなかったが、42盗塁とスピードも健在。これほどまでに1年で“立ち位置”が変われば、何かしら成績に悪影響が出そうなものだが、むしろ打率は向上している。攻守走が高いレベルでそろった、この男ならではの離れ業だった。
 その85年は“トリオ”で148盗塁。“2号車”の苦労人は、ひたすらビデオを見て、投手のクセを研究し続けた。球界きってのスピードを誇る“3号車”は、革のスパイクが主流の時代にあって、人工皮革のスパイクを導入するなどの工夫をしつつも、基本的には自らの脚力を頼みに「よーい、ドン!」で走った。この2人の前を打つ(走る?)“1号車”は、その中間。言い換えれば、万能タイプだ。持ち前のスピードや一瞬のひらめきに加え、ゲームの流れやカウント、投手のクセ、球種を読んで、盗塁を仕掛けていった。
「投手のクセは、人から教わるのではなく、自分の感覚で見つけたものでないとダメ」
とも語るなどのこだわりもあった。
 ドラフト3位で81年に大洋へ。初めてのキャンプで、二塁手の先輩で西鉄出身の“天才肌の職人”基満男と同部屋となって、「プロはここまでしなきゃいけないのか」と、基の姿勢を見て学んだことは、基を紹介した際にも触れた。83年に基から二塁の定位置を奪うことになるが、その後継者もまた、天才肌であり、職人肌でもあり、頭脳派でもあった。

1年目の81年から三塁、二塁、遊撃、翌82年には外野も守り、早くからその器用さが重宝される。その翌83年にはスイッチヒッターにも挑戦。右打ちの選手が足を生かすために左でも打てるようにする、というのが一般的だが、もともと左打者で、

 「(右打席で)長打も打てるスイッチとしてアピールするため」

  だった。だが、6月5日の阪神戦(横浜)、同点で迎えた9回裏二死満塁、一打逆転の場面で、左投手の山本和行に対して左打席に入って、サヨナラセーフティースクイズを成功させる。以降は左打ちに専念。最終的にはリーグ6位の打率.314、12本塁打、27盗塁でチームのAクラス入りに貢献する。続く84年には自己最多の56盗塁で盗塁王に輝いた。

  攻守走に一流で万能、華麗かつスマートなプレーとは裏腹に“クセモノ”ぶりも一流。自分が正しいと思えば譲らない性格だった。二塁手に戻った87年はわずか2失策、セ・リーグの最高守備率.997をマークしたが、二塁のゴールデン・グラブを受賞したのは広島の正田耕三で、5失策、守備率.992。記者投票で決まる同賞に敢然と異議を唱えた。

  キャリアハイの打率.333をマークした91年からは3年連続で全試合に出場しているが、チームが横浜となった93年オフに自由契約となったのも、92年オフの年俸調停が一因だったとも言われている。

  その後は日本ハムで1年だけプレーして、94年限りで現役引退。2001年に横浜のコーチで球界復帰、アテネ五輪でもコーチを務めるなど、指導者を歴任する一方で、最近ではインターネットの動画サイトで宇野勝(中日)の“ヘディング事件”を再現するなど、“万能なクセモノ”ぶりも健在のようだ。