大洋・高木豊   万能タイプの男

 1985年、大洋の高木豊は忙しかった。就任した近藤貞雄監督が、高木、加藤博一、屋鋪要の韋駄天3人を打順の一番から三番まで並べる“スポーツカー・トリオ”(のち報道陣が「語感がいいから」と“スーパーカー・トリオ”と報道して、そちらが定着)の奇策を打ち出し、キャンプで「50個アウトになってもいいから、100個は走れ」と厳命。その“1号車”に固定される。
 それだけではない。83年にはダイヤモンド・グラブに輝いた二塁守備の名手だったが、近藤監督は内野“裏返しコンバート”をも打ち出して、やはり遊撃守備の名手だった山下大輔と入れ替わって遊撃へ。リードオフマンとして打線を引っ張って3年連続で打率3割を超えながら、遊撃守備も無難にクリアした。もちろん、2年連続の盗塁王こそならなかったが、42盗塁とスピードも健在。これほどまでに1年で“立ち位置”が変われば、何かしら成績に悪影響が出そうなものだが、むしろ打率は向上している。攻守走が高いレベルでそろった、この男ならではの離れ業だった。
 その85年は“トリオ”で148盗塁。“2号車”の苦労人は、ひたすらビデオを見て、投手のクセを研究し続けた。球界きってのスピードを誇る“3号車”は、革のスパイクが主流の時代にあって、人工皮革のスパイクを導入するなどの工夫をしつつも、基本的には自らの脚力を頼みに「よーい、ドン!」で走った。この2人の前を打つ(走る?)“1号車”は、その中間。言い換えれば、万能タイプだ。持ち前のスピードや一瞬のひらめきに加え、ゲームの流れやカウント、投手のクセ、球種を読んで、盗塁を仕掛けていった。
「投手のクセは、人から教わるのではなく、自分の感覚で見つけたものでないとダメ」
とも語るなどのこだわりもあった。
 ドラフト3位で81年に大洋へ。初めてのキャンプで、二塁手の先輩で西鉄出身の“天才肌の職人”基満男と同部屋となって、「プロはここまでしなきゃいけないのか」と、基の姿勢を見て学んだことは、基を紹介した際にも触れた。83年に基から二塁の定位置を奪うことになるが、その後継者もまた、天才肌であり、職人肌でもあり、頭脳派でもあった。

1年目の81年から三塁、二塁、遊撃、翌82年には外野も守り、早くからその器用さが重宝される。その翌83年にはスイッチヒッターにも挑戦。右打ちの選手が足を生かすために左でも打てるようにする、というのが一般的だが、もともと左打者で、

 「(右打席で)長打も打てるスイッチとしてアピールするため」

  だった。だが、6月5日の阪神戦(横浜)、同点で迎えた9回裏二死満塁、一打逆転の場面で、左投手の山本和行に対して左打席に入って、サヨナラセーフティースクイズを成功させる。以降は左打ちに専念。最終的にはリーグ6位の打率.314、12本塁打、27盗塁でチームのAクラス入りに貢献する。続く84年には自己最多の56盗塁で盗塁王に輝いた。

  攻守走に一流で万能、華麗かつスマートなプレーとは裏腹に“クセモノ”ぶりも一流。自分が正しいと思えば譲らない性格だった。二塁手に戻った87年はわずか2失策、セ・リーグの最高守備率.997をマークしたが、二塁のゴールデン・グラブを受賞したのは広島の正田耕三で、5失策、守備率.992。記者投票で決まる同賞に敢然と異議を唱えた。

  キャリアハイの打率.333をマークした91年からは3年連続で全試合に出場しているが、チームが横浜となった93年オフに自由契約となったのも、92年オフの年俸調停が一因だったとも言われている。

  その後は日本ハムで1年だけプレーして、94年限りで現役引退。2001年に横浜のコーチで球界復帰、アテネ五輪でもコーチを務めるなど、指導者を歴任する一方で、最近ではインターネットの動画サイトで宇野勝(中日)の“ヘディング事件”を再現するなど、“万能なクセモノ”ぶりも健在のようだ。

通算172勝の三浦大輔(DeNA)も、チームの弱体化が大台到達のネックとなった。

横浜時代の97年に初の二桁となる10勝を挙げ、翌98年も連続二桁の12勝で38年ぶりVと日本一に貢献。“マシンガン打線”を擁したチームは、97年から5年連続Aクラスと安定していたことも追い風となり、三浦もこの5年間で53勝を記録している。

 ところが、チームは02年に最下位に転落すると、以後、15年までの14年間で最下位10度と長い低迷期に入る。当然三浦の成績も伸び悩み、勝ち越したのは05年の12勝9敗の一度だけ。07年と13年にいずれも13敗でリーグ最多敗戦を記録したばかりでなく、開幕投手として7連敗というプロ野球ワースト記録までつくっている。

そんな逆境にあっても、プロ野球タイの1軍公式戦22年連続勝利の快挙を達成し、02年以降の低迷期も101勝を積み上げたが、大台には届かなかった。もし、この14年間、毎年2勝ずつ上積みされていれば、プラス28勝でちょうど200勝。「08年のFA宣言時に阪神に移籍していれば、200勝できていただろう」と残念がる声も多かった。

 だが、三浦自身は「それはないですよ。他球団に移籍していれば、もっと早く引退していた可能性もありますから。横浜にいたから25年間も投げられたんです」と否定し、16年の引退会見でも次のように答えている。

「(12年に)150勝したときも言いましたけれども、本当に横浜に残って良かったなと。たくさんのファンの方が喜んでくれる、喜んでくれた、支えてくれたというので、三浦大輔は本当に幸せ者だなと思います」。大記録をつくることよりも、もっと大切なことがあると実感させられる言葉である。

チームが強ければ、200勝できていた? 過去そんな“幻の200勝投手”が少なからず存在した

 代表的な例が、1980年代に大洋(現DeNA)のエースとして2度の最多勝に輝いた遠藤一彦である。 2年目の79年に先発、抑えの両刀使いで12勝8セーブを挙げた遠藤は、82年から主に先発として起用されるようになる。140キロ台後半の速球と2種類のフォークを武器に83年に18勝、84年に17勝を挙げ、2年連続最多勝のタイトルを獲得した。

 安打を打った直後、ベース上で「ここが違うぜ!」と指で自分の頭をつつくクロマティ(巨人)の挑発ポーズに対抗し、フォークで三振に打ち取った直後、同じポーズでやり返した痛快エピソードでも有名だ。そのクロマティは、遠藤に「メジャーでも通用する」と賛辞を贈っている。

 だが、当時の大洋は大味な野球から脱しきれず、79年に2位、83年に3位になったのを除いて、万年Bクラスと低迷。遠藤自身も82年と84年に17敗を記録するなど、3度にわたってリーグ最多敗戦という不名誉な記録をつくっている。

そんな悲運のエースに、野球人生最大の悲劇が襲ったのが、87年だった。

 この年、6年連続二桁の14勝で小松辰雄(中日)と肩を並べ、3年ぶり3度目の最多勝も目前だった遠藤は、10月3日の巨人戦(後楽園)に先発。4回まで被安打わずか1に抑えた。

 ところが、1対0とリードした5回の攻撃中、一塁走者の遠藤は、高木豊の左翼線安打で二塁を回った直後、不運にも右足アキレス腱不全断裂を起こし、全治3カ月の重傷。15勝目と最多勝をフイにしたばかりでなく、選手生命まで縮めてしまった。

リハビリから復帰後、90年に抑えとして6勝21セーブを挙げ、カムバック賞を受賞したが、往年の球威は戻らず、92年に37歳で引退。もし強いチームにいれば、そして、けがさえなければ、通算勝利数も134を大きく上回っていたことだろう

 

 

 

同じ80年代、大洋とともに万年Bクラスに沈んでいたのがヤクルトだった。当時のエース・尾花高夫も、そんなチーム事情から勝ち星に恵まれなかった一人である。

 松岡弘に代わってエースとなった尾花は、在籍14年間で2203イニング連続押し出し四球ゼロ(プロ野球記録)という抜群の制球力を生かし、82年の12勝16敗を皮切りに4年連続二桁勝利を挙げたが、その間、チームは6位、6位、5位、6位と低迷。9勝に終わり、連続二桁の記録が途絶えた86年も最下位で、尾花はリーグワーストの17敗を喫している。さらに87年(4位)は11勝15敗、88年(5位)も9勝16敗と3年連続リーグ最多敗戦という史上ワースト2位(1位は大洋・秋山登の4年連続)の記録をつくった。

ちなみに16敗した82年の防御率は、15勝を挙げた西本聖(巨人)の2.58に迫る2.60、2度目の16敗となった88年の防御率2.87も、18勝で最多勝の小野和幸(中日)が2.60で、15勝以上を挙げた他球団のエース級と比べても遜色がない。味方の援護に恵まれていれば、シーズン20勝も夢ではなかったはずだ。  そんな不運にも、尾花は愚痴ひとつこぼさず、89年に通算100勝を達成したが、その後は故障に泣き、91年に34歳の若さで引退した。通算勝利は112勝。翌92年からヤクルトが6年間でリーグ優勝4回、日本一3度の黄金期を迎えたのは、皮肉なめぐり合わせだった。

 

 

ヒゲのクローザー&“横浜大洋”のエース

 1984年10月13日、ダントツの最下位に沈んだ大洋のラストゲーム。9回表二死、横浜スタジアムのマウンドに上がったのは平松政次であり、マスクをかぶったのは辻恭彦だった。長く大洋をエースとして支えてきた平松、そして阪神と大洋で23年間“ダンプ”の愛称で親しまれた辻。そんな2人のラストシーンだった。

その光景を、2失点の好投で平松にマウンドを託しながら、ベンチに下がらず、右翼手として見守っていたのが遠藤一彦。平松が最後の打者を抑えたことで、遠藤の最多勝が決まった。平松と並ぶ2年連続2度目の最多勝。平松の引退登板は、どん底に沈み続ける大洋というチームを背負う、エースの“継承式”にも見えた。

 

  60年の初優勝、日本一を最後に、優勝から絶縁されたかのようだった大洋。特に投手陣は苦しい時期が長かった。大洋が川崎から横浜へ移転して「横浜大洋ホエールズ」となった78年は、遠藤のプロ1年目でもある。その78年に自己最多の16勝を挙げたのが、その前年の77年、つまり川崎ラストイヤーに新人王となったのが斉藤明雄(明夫)。1年目とは思えないマウンドさばきで、当時は深緑にオレンジ色というポップすぎるユニフォームだったが、それが一層、ふてぶてしさを浮き彫りにしていたようにも見えた。

横浜へ移転したことで、ユニフォームも白地に港町の横浜らしいマリンブルーのものになり、知性ただようスマートな風貌の平松や遠藤が“着こなした”一方、斉藤は80年代に入り口ヒゲをたくわえて持ち味を維持、救援のマウンドに仁王立ち。気迫あふれるストレートに加え、緩いカーブと鋭いカーブを投げ分けて打者を幻惑した。

 80年はクローザーを担った遠藤は、長身を利した快速球と、阪神で村山実のフォークを受けていた辻の助言で習得した落差のあるフォークで、先発の軸として成長。この図式が定着したのは82年で、大洋は53勝のみだったが、もちろん遠藤と斉藤のリレーもあったとはいえ、遠藤は12完投で14勝、斉藤は5勝30セーブで、規定投球回にも到達して防御率2.07で最優秀防御率にも。翌83年は遠藤が18勝で初の最多勝、斉藤が10勝22セーブで初の最優秀救援投手に。平松に歴戦の傷跡が深くなっていく中で、1学年の違いはあったが、誕生日は2カ月ほどしか離れていない2人は、投手陣の二枚看板となっていく。

 

遠藤のクローザー定着で斉藤も復活

 巨人の江川卓をライバルとして意識していた遠藤だったが、その巨人で80年から3年間プレーしたホワイト、87年にヤクルトで旋風を巻き起こしたホーナーら、メジャーの実績を誇る男たちが、メジャーで通用する日本人の投手を聞かれると、遠藤の名を挙げた。そんな遠藤の連続リーグ最多完投は86年に途切れたが、その86年に斉藤は2度目の最優秀救援投手。翌87年に5年連続で開幕投手を任された遠藤もリーグ最多完投に返り咲き、6年連続2ケタ勝利。だが、その終盤、右足アキレス腱を断裂する悪夢に見舞われる。

 

  それでも6年連続の開幕投手を目標に、すぐにリハビリを開始した。開幕投手こそ逃したものの、本拠地開幕戦で戦列に復帰。とはいえ、それまでの輝きを簡単に取り戻せるはずもない。その穴を埋めるべく先発に回ったのが斉藤だった。ただ、長く遠ざかっていた先発のマウンドに斉藤も苦しめられる。

2人が再び真価を発揮したのは90年。かつては遠藤と入れ替わるようにクローザーに回って成功した斉藤だったが、その90年に遠藤がクローザーに定着したことで斉藤も復活の10勝、遠藤は6勝21セーブでカムバック賞を贈られた。遠藤は「横浜大洋」ラストイヤーとなった92年に現役引退。横浜ベイスターズ元年となった翌93年に引退した斉藤は、“川崎”大洋から横浜大洋、そして横浜ベイスターズという3つの時代を知る唯一の選手となった。

 

  ともに長身で、似ているようで対照的だった2人。98年、横浜は38年ぶりにリーグ優勝を成し遂げたが、斉藤は一軍の投手コーチ、遠藤は二軍の投手コーチとして貢献する。その瞬間、斉藤は選手よりも興奮して雄叫びをあげ、遠藤は人目をはばからずに号泣したという。

故障などで登板を回避することも少なくなく、“ガラスのエース”とも呼ばれた大洋の平松政次。ただ、その“ガラス”は、まるで防弾ガラスのように、無数の傷が入っても、そう簡単には割れなかった。シーズン投球回が200イニングを突破すること7度。現在から振り返れば、“鉄腕”といえるほど投げまくっている。

「投げてます、投げてます(笑)。12年連続2ケタ勝利ですからね。特に若い頃はフル回転でしょ。先発だけなら、もっと長くできたと思いますよ。あの頃は先発完投でも、1日だけ休んでベンチに入り、勝てるゲームなら5イニングでも6イニングでも救援登板。ただ、僕の性格に合ってもいた。常に戦っているという気がありました。中6日が当たり前とかになると、闘争心がどこかへいってしまうんじゃないかな」

 

 1967年シーズン途中に岡山東商高の先輩でもある秋山登、土井淳のバッテリーがいた大洋へ。少年期は巨人、特に長嶋茂雄のファンで、その巨人がV9という空前絶後の黄金時代を謳歌していた時期だった。1年目から白星を挙げているが、芽が出たのは初めて2ケタ勝利に到達した3年目の69年。それまでの球種はストレートとカーブの2種類だけだったが、春のキャンプで先輩に挑発されてシュートを投げると、 「初めて投げたんですが、ものすごく曲がった」 という。この“カミソリシュート”は居並ぶ強打者、特に右打者の内角へと食い込んで、バットを折りまくった。長嶋も例外ではない。

「ストレートも150キロは出ていたと思うので、そのままの速さで食い込んでくるから、右打者は手に負えなかったと思います。シュートといえば沈むイメージがあるかもしれませんが、僕のは“ライジングボール”と言われ、曲がりながら浮き上がった。ベースの真ん中に投げると、20センチくらい曲がって、ちょうどコーナーのグリップ付近に決まる。だからバットも折れやすい。僕が打者だったら逃げます(笑)」

 

 ロッテの黒木知宏ら、当時の野球少年たちを興奮させた豪快なフォーム。速球派ならではのヒップファーストから、グラブを着けた左腕も大きく使い、独特の間を挟んでから、一気に投げ込む。最初はスリークオーターだったが、シュートを投げるようになってからは、広島の安仁屋宗八を参考に、サイド気味に腕を下げた。その後は再びスリークオーターに戻しているが、これで球速に加えて、制球も向上。

「縫い目に指をかけず、肩をストレートより少し早く開いて、手を遅らせる。それだけなんです。ひねらないシュートですね」   ただ、抜群のキレ味を持つ“名刀”は、諸刃の剣でもあった。ヒジへの負担は少なかったが、

「肩にはきました。お勧めできないフォームですね。何度も肩を痛めているうちに腕の振りが鈍くなって、75年あたりからスピードが落ち、シュートのキレもなくなった。それで、いかに曲げるかを考えて、ひねるようにしたんです」

ボロボロのラストイヤーに見えたエースの魂

 80年代に入ると肩痛も激化。球速も落ち、シュートも思うように曲がらなくなったが、チェンジアップを織り交ぜて緩急をつけることで打者を幻惑した。それでも、あまりの肩の痛みに82年には引退を決意。だが、関根潤三監督に慰留されたこともあって現役を続行、翌83年には通算200勝にも到達した。 「たぶん名球会がなかったら、やめていたと思います。あんな苦しみには耐えられなかった」

 もちろん嘘ではないだろう。ただ、暗黒期の大洋にあって、翌84年も現役を続けている。

 目標も達成し、満身創痍にもかかわらず、それでも投げ続けた。黒星が積み重なっていく中、傷だらけの“ガラス”から透けて見えた大洋のエースだからこその魂に、震えたファンもいたのではないか。そんなエースが秘めていたものは、壊れやすいガラスどころか、珠玉の魂だったように思える。

 どん底の大洋をエースとして背負い、最強のV9巨人に立ち向かって“巨人キラー”と呼ばれた。大洋で初めて最多勝のタイトルも戴冠。甲子園の優勝投手で初めて投手として名球会に入ったが、プロ野球で優勝経験がない名球会の投手も初めてだった。

大洋が初優勝、日本一を達成した1960年。それまでAクラスは皆無だったチームが日本一にまで駆け上がっていった経緯は、秋山登と土井淳のバッテリーを紹介した際に触れた。前年は最下位だったチームが優勝したのはプロ野球で初の快挙だったが、チーム打率はリーグ3位、本塁打はリーグ最下位と、打線が活発だったとは言い難い。

 

 そんな打線にあって、巨人の長嶋茂雄と首位打者を争い、リーグ2位の打率.316をマークしたのが近藤和彦であり、ルーキーながらリードオフマンとして打線を引っ張ったのが近藤昭仁、そして主砲としてチームの1/4以上を超える本塁打を放ったのが桑田武だった。

 58年から1年ごとに近藤和、桑田、近藤昭が次々に入団。いずれも1年目から即戦力となった。近藤和は1年目のキャンプで青田昇から「それじゃプロの球は打てん。フォームを工夫してみろ」と言われて試行錯誤。オーソドックスなフォームの左打者だったが、たどりついたのが“天秤棒打法”だった。

 グリップが太く、グリップエンドもふくらんでいる独特なバットを相棒に、いったんバットを空中に浮遊させるように寝かせたまま高々と掲げ、くるくる回してリズムを作る。そこから左手をスライドさせていき、初めて右手がバットに触れたところから、すさまじいスピードのレベルスイングで振り抜いた。

 桑田は1年目の開幕から四番に座って新人の新記録となる31本塁打で本塁打王に。防御率1.19で最優秀防御率となった阪神の村山実に大差をつけて新人王に輝いた。60年は故障で離脱した時期もあって16本塁打にとどまったが、打率は3割を突破。1年目から優勝を経験した近藤昭は大毎との日本シリーズ全4試合で3安打のみだったが、第3戦(後楽園)の決勝弾、第4戦(後楽園)では両チーム唯一の得点となる決勝打で日本一に貢献した。

 近藤和は60年からの3年連続を含む4度の打率リーグ2位。桑田は61年に94打点で打点王となり、長嶋の三冠王を阻止した。小兵の近藤昭は国鉄、巨人で通算400勝を積み上げた左腕の金田正一を得意として、先に金田が現役を引退したことで「おかげで打率を2分くらい損しましたよ」と冗談を言ったら、さすがに「何を言うか!」と怒られたとか。

 桑田は69年に巨人へ移籍し、70年にヤクルトで引退。近藤和も73年に近鉄へ移籍して、オフに引退した。近藤昭はコーチ兼任となった74年は出場なく、そのまま現役を引退。そのとき、すでに大洋には、個性あふれる後継者たちが並んでいた。

 

優勝とは無縁の好打者たち

捕手として62年に入団したのが大砲の松原誠だ。一方、投手として65年に入団したのが江尻亮。一塁へ転向した松原は攻守で柔らかい体を生かし、打っては強打と巧打を兼ね備え、守っては“マタ割りキャッチ”が名物になった。江尻は1年目から投手と代打で併用され、66年シーズン途中に外野手へ転向。運動機能学に立脚した巧打と強肩で低迷する大洋を支えた。

 68年には“ゴリさん”中塚政幸が入団。徹底して単打を狙った左の巧打者だ。同じく左の巧打者では、近藤和ほど突出してはいないものの、脱力した独特で個性的なフォームで安打を量産した長崎慶一(啓二)が73年に入団。70年代の後半には、相模原市役所の税務課からテストを受けて72年に入団した高木好一(嘉一、由一)が台頭、抜群の安定感に長打も秘めた勝負強さを兼ね備え、クリーンアップの一角を担った。

 対照的に、鳴り物入りで慶大から入団したのが山下大輔だ。特筆すべきは当時のプロ野球記録を次々に更新した堅実かつ華麗な遊撃守備。やはり対照的に、もろさを秘めた長距離砲として人気を博したのが73年に入団した田代富雄だった。驚異的なペースで本塁打を量産したかと思えば、あっけなく三振に倒れる。そんな姿が妙に当時の大洋にマッチしていた。

 魅力的な好打者たちが続々と入団した大洋だったが、60年を最後に栄冠からは遠ざかったまま。そして78年、長く親しんだ川崎に別れを告げて、横浜へと移転していった。

秋山登&土井淳「大洋を初の日本一に導いた親友バッテリーの集大成」/プロ野球20世紀の男たち

大洋の1960年

学生時代からバッテリーを組み、そのままプロでもバッテリーを組む光景は、かつては散見された。成功例が少ないこともあってか、近年は見かけなくなったが、そんな球史に貴重な“親友バッテリー”で、日本一のバッテリーに成長したのが、大洋の秋山登と土井淳だ。

 1998年に横浜となったチームが優勝、日本一に輝いたときも奇跡的ではあったが、それでも前年には2位に急浮上するなど、少なからず予感はあった。だが、この2人が日本一の立役者となった60年は、前年まで5年連続で最下位という、どん底。就任したばかりの三原脩監督による“魔術”で、投手も野手も役割分担が明確になり、“超二流”と言われた選手が個性を発揮したが、

「秋山だけは分業じゃなく、全部だった(笑)」 と、土井は振り返る。付け加えれば、

「(プロ野球で)『初めてだからこそ、やってくれ』って言われた」(土井)

 と、土井はコーチも兼任していたから、その負荷は想像に難くない。土井が26歳、早生まれの秋山は25歳のシーズンだった。

 

「彼は感性を重視する天才。僕は悪知恵が働いたから、いいコンビになった。ノーサインでも微妙な腕の違いで球種は分かった。ただ、彼が僕のサインに首を振ったことはなかった」(土井)

 ともに岡山県の出身。土井は岡山第一商高、秋山は岡山第二商高にいたが、この両校が合併したことが、運命の出会いとなった。その岡山東高2年でバッテリーを組み、ともに進んだ明大では53年の秋からの連覇に貢献。そんなバッテリーをプロが放っておくはずはない。巨人も獲得に熱心だったが、最終的には56年に大洋へ。ともに1年目から活躍して、秋山はリーグ最多の379イニング2/3、26完投と投げまくって新人王に輝いた。ただ、25勝を挙げると同時に、25敗を喫している。

 5年連続最下位の2年目。とにかく弱いチームで、悔しがる様子のない先輩たちに囲まれ、土井は失望の連続だったという。2ケタ勝利を続けた秋山の黒星は4年連続リーグ最多。そんな59年オフ、西鉄で黄金時代を築いた三原監督が就任する。紆余曲折があって1年ずれこんでの就任だったが、土井は三原が3連覇を達成した58年、日本シリーズの前に三原と会っていた。

「開口一番、『大洋から監督を頼まれた。それで中の情報が欲しいんだ』と。冗談かと思いましたよ。こんな弱いチームに三原さんが来るわけないと思って。この話は三原さんが亡くなってからしかしていない。世紀の大密談でした」

「3球とも寸分たがわず来た」

 迎えた60年。秋山は開幕戦の試合前にノックバットを額に受け昏倒、入院するアクシデントがありながらも21勝10敗でリーグトップの勝率.677、防御率1.75で最優秀防御率、MVPに輝いた。“ミサイル打線”擁する大毎との日本シリーズでは救援で4連投。第1戦(川崎)は1回表一死一、二塁からの“奇襲”救援で、最後まで1点を守り抜いて勝利投手に。第4戦(後楽園)では一打逆転のピンチで主軸の山内和弘を3球三振。すべて同じコースへの速球で「3球とも寸分たがわず来た。あれは僕らバッテリーの集大成です」(土井)

 結局、すべて1点差で大洋は無傷の4連勝。下馬評を完全に覆す奇跡の日本一だった。

 一般的なサイドスローよりも、やや下から快速球を投げ込んだ秋山。腰を痛めてからは投球術を駆使し、抜群の制球力を誇った。21勝を挙げた64年には通算181勝を積み上げていたが、ヒジ痛で急失速し、胸の疾患で67年オフに現役を引退した。200勝まで、残り7勝。  「酷使されたという気はない。学生時代から、そういう使われ方は慣れているからね」(秋山) と、最後まで弱音は吐かなかった。土井が引退したのは翌68年のオフ。秋山は75年から、土井は80年から、ともに2年間、大洋の監督を務めたが、優勝には届かず。秋山は2000年に死去。98年に横浜の優勝、日本一を見届けると、にわかに体調を崩したという。土井は、この2019年に横浜スタジアムで始球式を務めるなど、DeNAとなった大洋を今も見守る。

 

いい用兵とは、敵の策を未然に防ぐ事である。

その次は外交で敵(親)を孤立させる事であり、

その次は敵(親)とめくりあう事であり、

最も劣るのはラス目とめくりあう事である。

ラス目を攻めるという方法は、他に手段がなくてやむを得ずに行なう

 

自分が倍満以上ならダマにし、満貫~跳満で先制なら攻撃し、現物待ちならダマで叩き、3900~満貫ならリーチし、2600以下なら退却し、敵が高そうなら避ける

 

勝利を予知するのに五つの要点がある。

(一)戦ってよい場合と戦ってはならない場合とを分別している者は勝つ。

(二)トップ目とラス目それぞれの運用法に精通している者は勝つ。

(三)上下の意思統一に成功している者は勝つ。

(四)迷彩やダマテンを仕組んで、それに気づかずにやってくる敵を待ち受ける者は勝つ。

(五)店長が有能でオーナーが余計な干渉をしない店は勝つ。

 

彼を知り己を知れば、百戦して殆[あや]うからず。

用兵とはスピードである

 

麻雀で鳴いて安手をアガりにいく場合

・鳴くべき手牌か

・待ちはアガれそうか

・相手が追いつきそうか

・鳴いてまでアガりにいく価値がある状況か

・相手がリーチと来てオリる場合、安全牌が複数枚あるか

・流局までどう立ち回るか

これらを考えて勝算があって初めて鳴くべきである

 

鳴いた場合、長期戦になれば安全牌も増え、待ちは透けてきてしまう

そうなるとそれまで中立だった敵も兵をあげる始末となる

 

2軒リーチに挟まれ窮地に立ってしまえば、いかに知謀の人でも善後策を立てることはできない

だから鳴く場合は素早く切り上げるということはあっても長引いていい事はない

 

戦争を繰り返せばいつか放銃して点棒が貧しくなる

だから上手い打ち手は何度も安手を鳴いてめくりあいにいくことはない

 

敵の点棒を奪うのは利益のためである

勝利を第一とするが、長引くのは良くない

1. リーチは麻雀の命運を決する重大事である

金銭の損得、昇級降級を分ける道の選択はくれぐれも明察しなければならない

 

2. 5つの基本事項(五事)

・道:民心  ・天:流れ  ・地:相手との距離、上下の雀力や並び

・将:打ち手の能力  ・法:自分の定石、押し引きの基準

具体的な比較検討する基準(七計)

・どちらが民心を得ているか

・打ち手の能力はどちらが優れているか

・天地がもたらす利はどちらにあるか

・押し引きの基準はどちらが明確であるか

・打点はどちらが高いか

・どちらの待ちがいいか

・点棒状況的にどちらに利があるか

これら比較検討によって開戦前から勝敗を察知する

 

3. 麻雀とは敵を騙す行為である

オリていても敵にはオリていないように見せかけ、テンパイしていてもノーテンに見せかけ、実際はノーテンでもテンパイに見せかける

敵が供託とりに鳴いてる時はその供託を餌に高打点で打ち取り、敵がメンゼンの時は鳴いて奪い取る
敵が高そうな時は防禦を固める
敵がダントツな時はめくりあいを回避し、敵がダンラスの時はサッとアガリ親を落とす
敵が謙虚な時はリーチをかけ、敵がアシストしてる時は分裂させる
敵が鳴いている時は攻撃する。 敵が安全牌少ない時にリーチをする

 

戦う前に勝つと確信してるのは、五事・七計を元に得られた勝算が相手よりも多いからである。

勝算が多い方は実戦で勝利するし勝算が少ない方は実戦で敗北する。

もはや勝敗は目に見えている。