巧みに戦う者は、まず敵が攻撃しても勝てない態勢を作り上げた上で、自分が攻撃すれば勝てる態勢になるのを待ちうける

 

巧みな者は不敗の立場にあって敵の態勢が崩れて負けるようになった機会を逃さず攻める

 

戦上手な者は、上下の人心を統一させ(=道)、軍政をよく守る(=法)。だから勝敗を自由に決することができる

 

兵法は、

  一:ものさしではかる=度
  二:ますめではかる=量
  三:数える=数
  四:くらべる=称
  五:勝敗を考える=勝

戦場の広さや距離を考え(度)、その結果投入すべき物量を考え(量)、その結果動員すべき兵数を数え(数)、その結果敵味方の能力をはかり(称)、その結果勝敗を考える(勝)。

 

 

ボイヤー、シピン、ミヤーン、レオン、ポンセ、パチョレック、レイノルズ&ブラッグス「大洋から横浜、低迷期を彩った助っ人の系譜」/プロ野球20世紀の男たち

光る牛込スカウトの手腕

クライマックスシリーズ・ファーストステージで敗れ、2019年も日本一の夢はついえたDeNA。1960年に大洋として初の優勝、日本一に輝き、次の優勝、日本一は横浜となった98年で、これが球団史における、すべての栄冠だ。

 

 近年はロペスやソトの打棒がチームの快進撃を支えているが、なかなか優勝には届かず。20世紀の優勝と優勝の間、37年もの長い年月も、多くの助っ人たちがチームを支えてきたが、優勝どころかAクラスさえも稀有なことだった。助っ人たちが無能だったわけではない。むしろ、ほかのチームと比べても、優秀な助っ人たちが並んでいる。助っ人にはトラブルもつきものだが、そうした“問題児”が少ないのも特徴だろう。

 初優勝、日本一の60年オフ、東映から移籍してきたハワイ出身のスタンレー橋本が最初の外国人選手。その翌62年にはアグウィリー、マック、グルンの3選手を獲得した。ただ、この時代の大洋には、59年に本塁打王に輝いた桑田武や、怪力で“ポパイ”と呼ばれた長田幸雄などの和製大砲もいて、そこまで助っ人が存在感を放ったとは言い難い。

 エポックとなったのは72年。大物メジャー・リーガーのボイヤー、もみあげとヒゲで当時の特撮ドラマから“ライオン丸”と呼ばれたシピンの加入だった。名門ヤンキースの正三塁手だったボイヤーと交渉したのは牛込惟浩スカウト。その後も多くの助っ人を獲得し、98年に“マシンガン打線”の四番打者として優勝、日本一に導いたローズの潜在能力に注目するなど、辣腕を振るった名スカウトだ。

 ボイヤーは「カネで野球をするんじゃない」と、メジャー時代の半分にも満たない年俸で契約。ハワイでチームメートだったシピンを巻き込んで(?)、一緒に入団した。シピンは釣竿をかついで空港に登場。大洋では貴重な(?)問題児タイプだったが、正義感が強く親分肌、トラブルメーカーの外国人選手には他チームであっても説教することもあったボイヤーとは対照的に、尊敬するボイヤーには頭が上がらず。ともに打撃もさることながら、二塁のシピン、三塁のボイヤーによる併殺プレーは絶品で、特にボイヤーは別次元。同時代の三塁手で筆頭格だったのは巨人の長嶋茂雄だが、その守備を色褪せさせるほどだった。

 シピンは78年に巨人へ移籍。75年オフに現役を引退して、そのままコーチとして山下大輔、田代富雄らを指導したボイヤーが、その後継者として紹介したのがミヤーンだった。骨折の影響で肩には不安があったものの、機敏なフットワークなどで二塁守備は抜群の安定感。バットを短く持って小首をかしげる独特なフォームで安打を広角に打ち分け、来日2年目の79年には打率.346で首位打者に輝いている。

 

ポンセとパチョレックがタイトルホルダーに

80年代の中盤はロッテを解雇されたレオンが中心で、安定した結果を残しながらも「勝負弱い」と言われて85年オフに解雇。後釜に座ったのが、ともに口ヒゲで“マリオ・ブラザーズ”とも言われたポンセとローマンだった。87年シーズン途中にローマンが退団。翌88年に加入したのがパチョレックで、勝負強いポンセは本塁打王に2度の打点王、巧みなバットコントロールのパチョレックは首位打者に輝くなど、低迷する大洋で打線の中軸となった。

 90年代に入ると、レイノルズが来日1年目の91年にプロ野球新記録となる11打席連続安打。迫力ある外野守備も魅力だったが、大洋ラストイヤーの92年オフに自由契約となり、横浜“元年”の翌93年に加入したのがローズとブラッグスだった。ただ、ローズはブラッグスの“おまけ”みたいな扱いで、注目を集めていたのはメジャー通算70本塁打のブラッグス。死球に激怒する場面も見られたが、93年には29試合連続安打、翌94年には35本塁打でタイトルを争って期待に応えた。

故障もあって失速したブラッグスは96年オフに退団、優秀な助っ人が系譜に並ぶチームは、助っ人が実質的はローズ1人となった翌97年に急浮上したのは、なんとも皮肉な気がする。

 

ポンセ 『ラ・クカラーチャ』の明るい調べとともに強打を発揮した“マリオ”/プロ野球1980年代の名選手

1983年に発売されたファミリーコンピューター。学校が終わると近所の空き地で野球をしていた少年たちを一斉にインドア派に転じさせたのは、85年に発売されたゲームソフトの『スーパーマリオブラザーズ』だろう。マリオとルイージという口ヒゲをたくわえた外国人(に見える)の兄弟が活躍するアクションゲームだったが、その翌86年、大洋に口ヒゲをたくわえた2人の助っ人が入団する。

 1人は、敬虔なクリスチャンで、(“神主打法”とは違ったパターンで)祈るようにバットを構えたローマン。もう1人が“マリオ”と呼ばれたポンセだった。確かに、球場で彼らを見ると、ファミコンの画面で見るマリオ兄弟のように、やたらと口ヒゲが目立ち、衣服(ユニフォームの背番号)でしか区別がつかないほど。開幕は四番のローマンに続く五番で迎えたが、ローマンが2人プレーでないと登場しないルイージのように影が薄くなっていき(?)、四番打者として勝負強さを発揮して、不動の“マリオ”となっていく。

 ただ、晴れれば外で野球、雨が降れば家でファミコン、ということができた少年は、やや裕福な家庭の子であり、当時は大洋が地元チームだった80年代の少年でもある筆者を含めて、ファミコンに親しみがないファンにとっては、あまり“ポンセ=マリオ”という印象はないのではないか。むしろ、高木豊から加藤博一、屋鋪要の“スーパーカー・トリオ”に韋駄天の2助っ人がクリーンアップに続く“スーパーカー・クインテット”と売り出されていたほうが印象に残っている向きも少なくない気がする。

 もともと忍者映画や時代劇が大好き。かつてボイヤーやシピン、ミヤーンら強力な助っ人たちを連れてきた腕利きの渉外担当でもある牛込惟浩が、85年オフに長距離砲のレオンを放出した近藤貞雄監督から「走れる中距離打者が欲しい」と言われ、ローマンを獲得した際に、同じブリュワーズにいたプエルトリカンにも声をかけた。親日家だったこともあり、すぐに来日が決定。牛込は「AAA級でシーズン52二塁打を放って“ミスター・ダブル”と呼ばれ、前年は21盗塁を決めている」と紹介した。

 確かに、来日1年目の86年は18盗塁。ちなみにローマンも14盗塁を決めていて、それなりに“クインテット”は機能したが、いい意味で期待を裏切ったのが、そのバットだ。2年連続で三冠王となった阪神のバースがいたため無冠に終わったが、27本塁打、105打点、打率.322。長打力に勝負強さ、安定感も兼ね備え、オフに近藤監督が退任したこともあり、その後は盗塁ではなく、不動の四番打者として、ポイントゲッターとしての役割が求められていく。

87年から2年連続で打点王に

 迎えた87年。バースと時を同じくしてパ・リーグで三冠王となった落合博満が中日へ移籍、セ・リーグは2人の三冠王によるタイトル争いになるかと思われたが、無冠に終わった2人の一方で、全試合に出場して98打点で打点王に。長打率.616はリーグトップ。35本塁打は自己最多、打率.323も自己最高だった。

 翌88年は33本塁打、102打点で打撃2冠。打率は3割に届かなかったが、優勝した中日で最多勝に輝いた小野和幸、巨人のガリクソンからは打率.462、広島で最優秀防御率の大野豊からは打率.500、ヤクルトの尾花高夫に対しては打率.400、阪神のキーオには打率.375と、各チームのエース格を攻略するなど、四番打者としては申し分ない働きだった。

 だが、その翌89年からはバットが湿り始める。メガネをかけ、トレードマークの口ヒゲをバッサリと剃り落として、「朝、手入れをしていたら面倒になった」 と語ったが、不振から脱出するための気分転換だったのは明らかだった。それでも89年は不振なりに12盗塁やリーグ最多の7三塁打、9犠飛などでチームに貢献しようとしたが、その翌90年がラストイヤーとなった。

 雨で試合が中断すれば水しぶきを上げながら本塁へヘッドスライディングするパフォーマンスも見せた。客席から送られたメキシコ民謡『ラ・クカラーチャ』の明るい調べとともに、印象を残した愛すべき助っ人だった。

 

大洋山崎賢一

いま、“ハマの番長”といったら、2016年まで長くエースナンバーを背負い続け、19年に再び背番号18で後進の指導に当たっている三浦大輔のことを思い浮かべることが多いだろう。もちろん、これは間違いではない。大洋のラストイヤーに入団し、横浜となって38年ぶりの優勝、日本一に貢献し、どん底の21世紀を支え続けたのだから、その称号にふさわしい存在でもある。
 ただ、まだ三浦が中学生、高校生だった1980年代の終盤、“番長”と呼ばれていたのが山崎賢一だった。辛酸をなめるのは“ハマの番長”の宿命なのだろうか。三浦も2000年代の後半からは暗黒時代とも言われる横浜、DeNAで孤軍奮闘していたが、98年の歓喜があり、万雷の喝采を贈られて去っていくことができただけ、まだ救われる部分がある。一方の“初代”は、同様の暗黒時代で数少ない輝きとなりながらも、追われるようにチームを去っていった。
 埼玉の所沢商高では3年の夏、県大会で準々決勝敗退。監督に勧められて西武と大洋の入団テストを受けた。地元の西武は不合格。一方、大洋の首脳陣に打撃を評価されて、ドラフト外で81年に入団した。だが、以降4年間はファーム暮らし。二軍でも代打要員で、2年目の82年はイースタンで大洋は優勝しているが、28試合で打率.200と、とても優勝に貢献したとは言い難い。
 転機は一軍出場もないまま迎えた4年目の84年だ。やはり一軍での出番がないままシーズンを終えるが、打撃コーチを兼ねていた基満男から「ホームランバッターと競争して勝てるか?」と言われ、単打を狙う打撃に切り替える。だが、新たなノーステップの打撃フォームには、当時のバットは合わなかった。そこで出会ったのが、“こけし”の頭のようなグリップをした、いわゆる“こけしバット”だ。その秋、左肩の故障で打撃ができず、走塁と守備の練習に明け暮れたキャンプでは、ダッシュの練習で球界No.1の韋駄天でもある屋鋪要に引き離されることなく、追走。これで自信を深めていく。翌85年には背番号も46から59に。
「選手枠(60人)の一歩手前の数字。もう後がない、と思った」
 と奮起。新たに就任した近藤貞雄監督が“スーパーカートリオ”に象徴される機動力野球を掲げたことも追い風を吹かせた。イースタンでは22盗塁で盗塁王。一軍デビューも果たし、10月16日の中日戦(ナゴヤ)プロ初本塁打も放ったが、レギュラーは遠かった。86年は加藤博一の故障で出場機会を一気に増やしたが、その87年は急失速。これで再び発奮して、88年には規定打席未満ながら左翼手としてパチョレックを一塁へ、屋鋪をベンチへ追いやる活躍を見せる。秋のキャンプでは、1400グラムのマスコットバットを、「手首が折れそうになるまで振った」 という。これで1000グラムを超える“こけしバット”を自在に操るパワーを身につけた。

わずか7本塁打の四番打者

89年の大洋は、どん底だった。首位の巨人と36.5ゲーム差の最下位。5月5日の阪神戦(甲子園)で敗れてから、1度も最下位から浮かび上がることができなかった。そんなチームにあって、“こけしバット”は希望の象徴に。ポンセの不振で四番に座ると、6月21日には打率.372とピークを迎えた。
球宴にも初出場、「広島の山崎(隆造)選手」と間違えてアナウンスされる一幕もあったが、第2戦(藤井寺)では代打で決勝タイムリーを放って優秀選手に。ペナントレースでもベストナイン、ゴールデン・グラブをダブル受賞。わずか7本塁打ながら盗塁やバントもする四番打者としても話題になり、Aクラスのチームに強いのも武器だった。ただ、まだ“こけしバット”には確信が持てず、車には常に普通のバットも積んであったという。
 だが、チームが横浜となった93年オフには高木豊や屋鋪、市川和正ら大洋時代の功労者たちとともに解雇される。ダイエーへ移籍して2年目の95年には代打で決勝本塁打を放ったが、これが最後の本塁打となった。

【プロ野球仰天伝説65】遠視の悪化で退団に追い込まれたスーパーマリオ【助っ人トンデモ話】

ポンセ[1986-91大洋/外野手]

1986年に入団し、87年が打点王、88年が本塁打王&打点王と、長打力と勝負強さでチームに貢献した大洋のポンセ。陽気な性格と人気ゲームのキャラクターに似ていることから「スーパーマリオ」、あるいは「マリオ」と呼ばれ、1年目は同じくヒゲをたくわえた新外国人のローマンと「スーパーマリオブラザーズ」と言われたこともある。

 しかし2冠の翌年、89年には遠視の影響もあって開幕から大不振。矯正するため、レノマ製の大きなメガネをつけて打席に立ったが、打率.264、24本塁打と、最後まで納得する数字は残せなかった。翌90年は15試合の出場に終わり、同年限りで退団している。

 なお11歳のときからの幼なじみという夫人には頭が上がらず、打てないときは食事を作ってもらえなかいから宅配のピザばかり食べていたらしい。

 

パチョレック 変幻自在のフォームから広角に安打を量産/プロ野球1980年代の名選手

1980年代は海の底に沈みっぱなしだった大洋だったが、港町で国際都市でもある横浜を拠点としていることも好条件になったのか、助っ人の補強に関しては相当の確率で成功を収めている。80年まではメジャーの名二塁手で、バットを極端に短く持って寝かせ、小首をかしげるような独特な打撃フォームで安打を量産したフェリックス・ミヤーンがいた。3年の在籍で通算52三振と安定感も抜群で、79年には球団史上初の首位打者に輝いた巧打者だ。

 その後もロッテから加入したレオン・リー、スクーターのCMにも出演していたジム・トレーシー、西武から加入したスイッチヒッターのジェリー・ホワイト、敬虔なクリスチャンでもあったダグ・ローマン、そして本塁打王1度、打点王2度のカルロス・ポンセ。成績だけでなく、好漢としても印象に残る助っ人たちが並ぶが、そんな80年代の大洋で最後に加入した助っ人がジム・パチョレック。やはり好成績を残した好人物で、そんな大洋の助っ人らしさを両立させた右の“舶来ヒットメーカー”だった。

 82年のドラフト8巡目でブリュワーズに指名されたが、メジャーデビューは87年。48試合に出場したが、オフに大洋から声をかけられる。まだ28歳の若さだった。

「若いのに、と言うかもしれないが、若いからこそ、いろいろなことを経験してみたくて」という理由で来日。日本に対する知識はまったくなかったものの、すぐに順応、すぐに寿司も食べられたという。大洋とは1年契約だったが、

「翌年も契約してもらうためには、結果を残すしかない」

 というハングリー精神も原動力に。ブリュワーズでも変化球を打つのが得意で、器用な打撃には定評があったが、87年にリーグ最多安打を放ち、打点王に輝いたポンセの親切なアドバイスもあり、日本の野球に適応するのに時間はかからなかった。

 守っても一塁と左翼を兼務。全試合に出場してリーグ最多の165安打、リーグ2位の打率.332をマークした。一方のポンセも右翼を中心に一塁へも回り、本塁打王、打点王の打撃2冠。大洋からは屋鋪要も3年連続で盗塁王となっていて、遠藤一彦、斉藤明夫ら投手陣の二枚看板が故障に苦しんだシーズンながらチーム打率はトップで、順位も前年の5位から4位へと浮上している。

勝負強さも光った打撃

 2年目の89年も一塁と左翼を兼ね、打撃も好調を維持。ポンセは不振に苦しんだが、自己最高の打率.333をマークする。ただ、首位打者は初の打率4割をうかがった巨人のクロマティの打率.378で、遠く離されたリーグ2位。本塁打も17本から12本に減らしたことに大洋は不満を持ち、オフには新たに長距離砲のジョーイ・マイヤーを獲得する。

 四球を選ぶより積極的に打って出ることを意識し、日によってグリップの位置やスタンスの広さを変えるなど変幻自在の打撃フォームから広角に安打を打ち分けた。だが、当時の外国人選手枠は2人までで、90年は助っ人が3人になったことで危機感を覚えて、本塁打を狙う打撃に修正したことで、持ち味を失ってしまう。

 それを救ったのが大杉勝男コーチだった。苦手の内角球を大杉コーチの指導で克服すると、打撃スタイルを戻したことも奏功して、2度目の全試合出場にリーグ最多安打、そしてチームメートの高木豊との争いを制して初の首位打者に。得点圏打率3割、満塁では5割を超える勝負強さも光った。

 好選手を助っ人でそろえるのが大洋の特徴なら、そんな選手であっても、あっさりとクビにするのも大洋の特徴だったといえるだろう。それは、この舶来ヒットメーカーも例外ではなかった。来日から打率3割を続けながらも、翌91年に11本塁打に終わると、解雇。

「野球は野球。チームが変わるのは問題ない」

 と阪神へ。移籍1年目の92年には3度目のリーグ最多安打を放って阪神の躍進に貢献。だが、翌93年には外国人枠の問題と腰痛に苦しめられて調子が上がらず、8月に二軍へ落されると帰国、そのまま退団している。

 

ひと目で安物と分かるペラペラのスーツで来日したのが、カルロス・ポンセである。86年に大洋ホエールズへ入団した、この男の年俸はたったの10万ドル(1600万円)だ(契約金を含めると3000万円という報道もあり)。前年はブリュワーズでメジャーデビューを果たすも、打率.161、1本塁打という成績に終わりメジャー登録枠からは外れていた。大洋は85年に3割30本100打点を記録したレオン・リーを電撃解雇。日本での実績は申し分のないレオンだったが、脚力が衰えゲッツーも多かった。それを“スーパーカー・トリオ”が看板の機動力野球を掲げる近藤貞雄監督が嫌がり、まだ20代と若いポンセとダグ・ローマンに白羽の矢が立ったというわけだ。

 アメリカでのテストを経て入団が決まった格安助っ人は、「五番・三塁」で起用された開幕戦で、挨拶がわりの2本塁打をかっ飛ばす5打点デビュー。以降、プエルトリコ生まれの27歳は中心打者としてチームを牽引する。懸命に打って、守って、走る。野球選手も好景気に浮かれこぞって財テクに走る時代に、懐かしさすら感じさせるハングリー精神の持ち主。決して派手さはないが、米3A時代は52本の二塁打を放った典型的な中距離打者に目をつけた、スカウティングの勝利でもあった。牛込惟浩渉外担当は「僕はいろいろな外国人選手を見てきたが、これほど安いサラリーで、これほど一生懸命プレーする選手を初めて見た」と背番号7のがむしゃらなプレースタイルを称賛した。

「バモス・ポンセ~」で有名な応援歌に合わせて、1年目から打率.322、27本塁打、105打点の活躍。チャンスに強く、三冠王に輝いたバース(阪神)とは打点部門でわずか4点差だった。リーグ4位の大洋は、12球団トップの180盗塁と走りまくり、四番バッターのポンセも18盗塁(12盗塁死)で高木豊、加藤博一、屋鋪要らと“スーパーカー・クインテット”の一角を担い奮闘する。当時はファミコンソフト『スーパーマリオブラザーズ』が大ヒット中で、ポンセも“マリオ”と少年ファンから愛され、瞬く間に球団屈指の人気選手に。同じくチョビひげをたくわえた同僚助っ人ローマンとともに、“スーパーマリオブラザーズ”というイージーかつご機嫌な愛称で呼ばれた。

古葉竹識新監督が就任し、外野での起用が中心になった87年には全試合に出場して、打率.323、35本塁打、98打点。前年より上がったとは言え年俸3500万円の男が、高給取りの落合博満やボブ・ホーナーを抑え、打点王を獲得してみせた。なお、159安打はリーグ最多だ。同僚のレスカーノが「140キロの球が怖くなった」とズンドココメントを残し突然退団したのを横目に、文句なしの働きでベストナイン選出。パワーと巧さを併せ持ち、勝負強さも安定度もある。加藤博一との陽気な連続ハイタッチ・パフォーマンスは「珍プレー好プレー」の常連だった。

 オフには故郷プエルトトルコに念願のプール付きの家を購入。自分は経済大国ニッポンで長くプレーしてお金を稼ぐ。横浜で同居する幼なじみのピーチ姫……じゃなくてロザナ夫人に尻を叩かれながら、“マリオ”はひたすら走り続けた。好物はヘルシーな冷や奴。温泉が大好きで遠征先で混浴に遭遇すると、「ワイフに殺されちまうよ。絶対だれにも言うなよ」なんつってビビりながらも、ちゃっかりひとっ風呂浴びるお茶目な一面も。ある日の夕食のメニューはカツ丼、冷や奴、ミソ・スープとまるで日本人のような食生活を送り、ベスト体重の80キロをキープ。寺岡孝ヘッドコーチは「ポンセは打席ですぐカッとするんだけど、それがいいんです。ときにボール球にも手を出すけど、あのカ~ッと燃え上がるものがあるから」なんてハマの燃える男を頼りにした。

 この2年連続の大活躍には、さすがに本人も気が緩んだのかオフにケーキ類を食べ過ぎて体重が増え、88年シーズン序盤は体のキレを失い不振にあえぐが、5月の大型連休あたりから復調。同僚の新助っ人パチョレックには、ロッカー裏の大鏡の前で日本スタイルの打撃フォームをアドバイスした。オールスター出場も果たし、落合や原辰徳たちと激しく打撃タイトルを争うスラッガーは、88年もフル出場で33本塁打、102打点を叩き出し、2年連続打点王と初のホームランキングに輝く。80年代後半のセ・リーグは巨人、広島、中日がAクラスの常連。だが、88年の大洋は3位広島に5.5差まで詰め寄った。その中心にいたのは大黒柱の背番号7だった。

 すべてが順風満帆な日本生活。しかし、牛込氏の自著『サムライ野球と助っ人たち―横浜球団スカウトの奮闘記』(三省堂)によると、この二冠獲得直後のオフからいきなり契約交渉に代理人を立ててきたという。年俸は6000万円まで上がるも、結果的に人のいいポンセは代理人に食いものにされてしまう。球団からは扱いにくい選手というレッテルを貼られ、さらに4年目の89年には前年の本塁打王獲得で、広角に打てる自分の持ち味を見失い、強引に引っ張ろうとする打席も目立った。追い打ちをかけるように遠視の影響もあり、打撃不振に苦しむ。なんとか矯正しようとメガネをかけ、気分転換にヒゲも剃り落とした。ストレスの溜まる日々が続き、5月21日の阪神戦では、1試合3死球に怒り乱闘騒ぎを起こしてしまい、異例のおわび会見を開く。

「こんなことが原因で大好きな日本を去ることになったら、自分自身恥ずかしいし、悔やんでも悔やみきれない」

 古葉監督も「(フィルダーやパリッシュの)他のチームの外人たちがガンガン打ってるからね。テレビや新聞を見て、ポンセ自身にも焦りがあるんだろう」と復調を待ったが、この年は打率.264、24本塁打に終わる。それでも、フル出場してリーグ最多の二塁打33、三塁打7と最下位に沈んだチームで意地を見せた。しかし、首脳陣の信頼を失った背番号7は、翌90年にパチョレックと新助っ人マイヤーの陰に隠れた“第三の外国人”扱いをされてしまう。酷な話だ。チームのために4年間ほぼすべての試合に出続けながら、あっという間に居場所を奪われてしまう当時の外国人選手には厳しすぎる現実があった。

 90年シーズン、須藤豊新監督のもと大洋は7年ぶりのAクラス入りを果たしたが、そこにポンセの姿はなかった。結局、5年目はわずか15試合の出場に終わり、打率.193、本塁打なし。まだ31歳、日本国内での移籍を希望するもトレード話がまとまらず、同年限りで退団した。当時、そのちびっ子人気にタレント転身を進める声もあったほどだ。

 大洋在籍5年で本塁打王1回、打点王2回。通算打率.296、119本塁打、389打点。うすっぺらのスーツを身にまとい、でっかい夢を抱いて来日した若者は、日本を愛し、そして日本の野球をリスペクトした。最後は『週刊ベースボール』87年10月19日号掲載、28歳のポンセ本人のコメントで終わりにしよう。

「日本野球をなめる? とんでもない。ボクはアメリカにいるときは、いつも、ハンバーガーやフライドチキンなどの貧しいファースト・フード。日本に来れたおかげで、ステーキも食べられる。このよさは、ボクにとって大事にしたい。昔は大リーグでメジャーになる夢を見ていたけど、今は日本のメジャーになりたいと思って、精進しているよ」

 

屋鋪要   勝負強さを秘めた球界最速、スーパーカー・トリオの“3号車”/プロ野球1980年代の名選手

三番起用にプレッシャーも

 1985年、大洋の“スーパーカー・トリオ”は、いま振り返っても“奇策”だったが、当時のファンにとっては、いま以上に“奇策”と映ったのではないだろうか。ヒットメーカーの“1号車”高木豊、小技も巧みな“2号車”加藤博一。そこまでは順当だろう。ただ、ポイントゲッターをも担う“3号車”屋鋪要は、大洋ファンを不安にさせた。ファンだけではない。

 「高木さんが一番で、加藤さんが二番。これは分かる。でも、僕の三番というのがね……。高木さんと加藤さんは出塁率が高くて、僕の打順のときには得点圏にいる。そこで僕が還さなきゃいけないという使命感があって、それが最初は、ものすごくプレッシャーになりましたよ」

  ファンの不安も、自身のプレッシャーも、「最初」だけだった。その前を打った“2号車”加藤は「近藤(貞雄)監督の、選手の能力を見抜く目が素晴らしかったんだよ。出塁率の豊、勝負強さの屋鋪。三番に起用してもらって、屋鋪は大きく野球をとらえられるようになり、とてもプラスになったと思う」と振り返る。

  球界きってのスピードスター。体が硬いため初速はないが、加速力が抜群だった。守備範囲の広さでも魅せて、84年から5年連続ゴールデン・グラブ。視界、あるいはテレビ画面の外からスルスルと駆け寄って誰も捕れないような飛球をスーパーキャッチして、“忍者屋鋪(屋敷)”とも呼ばれた。

  その85年までは、足と守備だけの選手という印象があったのも確かだ。だが、バットを長く持ち、速球を狙って初球からでも打ちにいく積極性、器用さよりも瞬発力、力を抜いてから一気に振り抜く独特のフルスイング。そんな打撃から、秘められた長打力と勝負強さを見抜いたのが近藤監督だった。

  ドラフト6位で78年に大洋へ。開幕4試合目となる巨人戦(横浜)で代走として早くも一軍デビュー、翌79年にプロ初盗塁。翌80年にはスイッチヒッターに挑戦、初の2ケタ盗塁には到達したものの、なかなか打撃が向上しなかった。レギュラー定着は83年、初の規定打席到達も、下位打線に座ることが多く、翌84年も八番が定位置だったが、8月から一番を打つと、最終的に自己最高の打率.305をマークした。

  しかし、「屋鋪は確かに、足は速いけど、チャンスメークするタイプではなかったからね。勝負どころで打つってタイプで。近藤監督は屋鋪のそういうところを、よく見ていたと思うな」と“1号車”高木も振り返る。85年は最終的に前年の4本塁打、29打点、11盗塁をはるかに上回る、自己最多の15本塁打、79打点、58盗塁。勝利打点15も光る。

86年に加藤の故障離脱でシーズン途中に“スーパーカー・トリオ”は瓦解したが、48盗塁で初の盗塁王に輝くと、翌87年はキャリア唯一の全試合出場で同じく48盗塁で2年連続の戴冠。続く88年も33盗塁で3年連続の盗塁王に。だが、89年は打撃が不振に陥ると、盗塁にも迷いが出る。右肩痛もあって8月には二軍落ち。その後は精彩を欠き、チーム名が横浜となった93年オフに自由契約となる。

  87年ごろから口ヒゲをたくわえ、トレードマークになっていたが、94年からプレーした巨人ではヒゲは原則的に禁止。だが、長嶋茂雄監督に容認されて、貴重な“ヒゲの巨人選手”となる。ヒゲだけではない。長距離砲がズラリと並ぶ巨人にあって、終盤に勝ちゲームを落とさないためには、機動力と堅守を誇るベテランの存在は貴重かつ必要不可欠だった。

 「(練習で)ノックを受けないこと」と堅守の秘訣を語る。ノックの打球は実戦とスピンなどの質が違うからだ。打撃練習で打者が打ったボールを追いかけて打球勘と捕球を磨くことで守備を鍛え続けた。その美技は新天地の大舞台でも発揮される。移籍1年目から大洋では経験できなかったリーグ優勝を味わうと、西武との日本シリーズ第2戦(東京ドーム)では守備固めでセンターに。9回表二死二塁、一打同点の場面でライナーをダイビングキャッチ。 「このボールで、この打者なら、この辺に来るかも、のイメージどおりだった」 と、初めて味わう日本一にも貢献している。

 

 

加藤博一 ひょうきんで職人肌、スーパーカー・トリオの“2号車”/プロ野球1980年代の名選手

大洋・加藤博一    長い下積みを経験した苦労人

 1985年のセ・リーグを駆け回った大洋の“スーパーカー・トリオ”。一番から三番まで韋駄天が並び、時には三位一体となって機動力野球を繰り広げ、優勝への道のりを駆け上がることはできなかったものの、そのスリリングな野球はファンを楽しませた。ただ、その前にも後にも、韋駄天の一、二番コンビは登場しても、あるいは足の速い選手が一番から三番まで並ぶことがあっても、これほどまでに“トリオ”として緻密な連係プレーを成立させたケースは見かけない。おそらくはプロ野球で唯一ではないか。“トリオ”の成立に不可欠なのは、その真ん中で2人をつなぐ“2号車=連結車”加藤博一のような存在なのだろう。

“1号車”高木豊は、「(加藤に)すごく助けられましたよ。盗塁するにしても、すごくフォローしてもらいましたし。足にもスランプはあって、どうしても調子が悪くて盗塁できないときには、『僕が走ったときに(ヒットエンドランで)打ってください』と頼んだり。『加藤さんが打ったから盗塁できなかった』というアピールで(笑)」。

“3号車”屋鋪要に対しては、「打席で粘ってくれたよね。屋鋪が打席に入ると、初球から行けるような態勢を作ってくれた」と語る。その屋鋪も、のちに振り返っている。「加藤さんは、いろんな技術を持ってましたよ。打席でバントの構えをして、捕手と同じ目線で球を見て、すっとバットを引いてパスボールさせたり。これぞプロの技だな、と思いましたね」

  底抜けに明るいキャラクターながら、長い下積みを経験した苦労人だった。ドラフト外で西鉄へ。スイッチヒッターに挑戦した。

 「右手にスプーンでカレー、左手に箸でラーメンを同時に食べられるようになった(笑)」ものの、一軍では芽が出ず。阪神で迎えたプロ10年目の79年に巨人の江川卓からプロ初本塁打を放ってブレークすると、翌80年には初の規定打席到達でリーグ5位の打率.314。だが、オフにテレビ番組で暴れ回ったのがたたったのか、その翌81年には急失速した。

  83年に大洋へ。翌84年には背番号をルーキーに明け渡し、自身7つ目の背番号となる「44」を背負った。これを「よいよい」と呼んで再ブレーク。85年からは左投手のときも左打席に入り、気分次第で右打席に入る“変則スイッチヒッター”に。86年には念願だった球宴にも初出場したが、後半戦に自打球で離脱。その後も二番に高橋雅裕ら韋駄天が入ったことはあったが、“トリオ”としては成立しなかった。90年限りで引退するまで控えに回ったが、腐らず声を上げ、ベンチを盛り上げ続けている。

85年の個人成績は、自己最多、リーグ3位の48盗塁に、自己最多、リーグ最多の39犠打。なかなか雄弁な数字といえるだろう。

  その開幕戦、4月13日の巨人戦(後楽園)、1回表一死一、三塁。“トリオ”初の盗塁機会で、一走の“3号車”とともに重盗を仕掛け、三塁から本塁へ突っ込んでいったのが、

 「僕は16年目の若手です」と語る、34歳を迎える“2号車”だった。山倉和博の好ブロックに阻まれ、あえなくアウトとなったが、いきなり開幕戦からベテランが果敢に仕掛けたホームスチールで、韋駄天トリオによる“機動力劇場”の幕が開けた。

  ただ、この“劇場”、いささかコメディタッチだったことも確かだ。ファンが沸く一方で、ため息まじりで高木は「やっているほうは、もうヘトヘトでしたよ」と振り返るが、職人気質のプレーで玄人をうならせ、お笑い芸人としても玄人はだし(?)だった“2号車”にも語ってもらおう。

 「豊がヒット打って盗塁してアウト、自分がヒット打って盗塁してアウト、屋鋪がヒット打って盗塁してアウトで“三者凡退”したとき、さすがに(近藤貞雄)監督カンカンで『お前ら耕耘機か!』って。そのあと3人して出塁してさ、無死満塁でスーパーカーが走れない状態で、田代(富雄)が三振、レオンでゲッツー。今度は田代とレオンが、むちゃ怒られてたよね」

 

 

高木豊、加藤博一、屋鋪要「“スーパーカー・トリオ”の“スーパーカー・フォーメーション”」

開幕戦の1回表から

 どん底の大洋が迎えた1985年の開幕戦、4月13日の巨人戦(後楽園)。大洋のスターティング・ラインアップには、一番から三番まで、韋駄天がズラリと並んだ。一番の高木豊は前年、84年の盗塁王、二番の加藤博一はプロ16年目、長い下積みを経験した苦労人ながら、ひょうきんな性格は球界きってで、三番の屋鋪要はスピードが球界きって。就任1年目の近藤貞雄監督は、この3人を“スポーツカー・トリオ”と売り出し、のちに“スーパーカー・トリオ”として定着していくのだが、そんな3人は、シーズンが開幕した途端、いきなり躍動する。

  1回表、先頭の高木は倒れたが、加藤は内野安打、屋鋪は四球で出塁して、四番のレオンが打席に入ったときには一死一、三塁となっていた。そこで重盗。本塁へ突撃した加藤は山倉和博の好ブロックに阻まれたが、めったに見ることができないホームスチールは、このトリオが駆けずり回る舞台の幕が切って落とされた瞬間でもあった。

  ただ、この開幕戦はレオンの2本塁打、5打点もあって快勝したものの、6回表には高木も二盗に失敗し、盗塁がついたのは名バイプレーヤーの村岡耕一のみ。また当時は「球界7不思議」と揶揄する声もあった屋鋪の三番だが、試合を決めたのは屋鋪の2点三塁打だった。ただ、このとき生還したのも高木と加藤ではなく、トリオの足が勝利を呼び込んだわけではない。なんとも象徴的な開幕戦ではあった。

  しかし、その後は順調だった。先駆けとなった加藤は連続で15盗塁を成功させる快進撃。高木は打撃も安定し、それまでは足と守備の人というイメージだった屋鋪も、当初は新しい役割に迷いながらも、次第に秘められた勝負強さを発揮していくようになる。

  前年と比べてみると、“1号車”高木は56盗塁から42盗塁と、盗塁こそ減らしたものの、打率.300から打率.318、76得点から自己最多の105得点。“2号車”加藤は自己最多、リーグ最多の39犠打で二番打者の役割を果たしながらも、自己最多の48盗塁を決めた。“3号車”屋鋪は11盗塁から自己最多の58盗塁と激増、打っても4本塁打から15本塁打、29打点から78打点と自己最多を叩き出している。

  盗塁はリーグ2位から屋鋪、加藤、高木の順で並び、3人で148盗塁、チームでは110盗塁からリーグ最多の188盗塁に。大洋も最下位から4位へと浮上。Bクラスには違いないが、当時の大洋からすれば“快挙”だったと言える。

“活動期間”は1年半ながら

 当時としては広かった横浜スタジアムにあって、危なっかしさを抱えながらも、塁間を駆け回った韋駄天トリオ。3人ともスイッチヒッターの“経験者”でもある。この85年にスイッチだったのは屋鋪のみで、もともと左打者だった高木は長打を狙って83年に右打席にも入っていたこともあり、加藤は85年から左投手のときにも左打席に入るように。ただ、時折「気分で」(加藤)右打席にも入る“変則スイッチ”でもあった。87年に広島でも韋駄天スイッチヒッターが一番から三番まで並び、チームを引っ張る活躍を見せたことがあったが、“トリオ”と呼べるほどの秀逸な連係プレーとなると、大洋の“トリオ”に軍配が上がるだろう。

  高木が塁に出るも足が不調なときには、続く加藤は、あわよくばセーフティーという犠打、あるいはヒットエンドラン。高木が得点圏に進めば粘りに粘って適時打を放ち、自らが倒れたとしても、粘ったことで続く屋鋪が初球から打ちにいけるような状況も作った。

  こうしたプレーを支えていたのがトリオだけのサイン。「監督のサインより、自分らで動いて点が入ったときの喜びのほうが大きかったね」(加藤)という。だが、翌86年に絶好調だった加藤が故障。ファンに鮮烈な印象を与えたトリオは、その印象が色褪せないまま

“解散”となる。加藤は90年オフに引退、93年オフには高木と屋鋪が自由契約となった。

  確かに、優勝につながる野球ではなかったのかもしれない。ただ、優勝が遠いチームであっても、ファンを楽しませることはできる。間違いなく、彼らの野球は、おもしろかった。

大洋・高木豊   万能タイプの男

 1985年、大洋の高木豊は忙しかった。就任した近藤貞雄監督が、高木、加藤博一、屋鋪要の韋駄天3人を打順の一番から三番まで並べる“スポーツカー・トリオ”(のち報道陣が「語感がいいから」と“スーパーカー・トリオ”と報道して、そちらが定着)の奇策を打ち出し、キャンプで「50個アウトになってもいいから、100個は走れ」と厳命。その“1号車”に固定される。
 それだけではない。83年にはダイヤモンド・グラブに輝いた二塁守備の名手だったが、近藤監督は内野“裏返しコンバート”をも打ち出して、やはり遊撃守備の名手だった山下大輔と入れ替わって遊撃へ。リードオフマンとして打線を引っ張って3年連続で打率3割を超えながら、遊撃守備も無難にクリアした。もちろん、2年連続の盗塁王こそならなかったが、42盗塁とスピードも健在。これほどまでに1年で“立ち位置”が変われば、何かしら成績に悪影響が出そうなものだが、むしろ打率は向上している。攻守走が高いレベルでそろった、この男ならではの離れ業だった。
 その85年は“トリオ”で148盗塁。“2号車”の苦労人は、ひたすらビデオを見て、投手のクセを研究し続けた。球界きってのスピードを誇る“3号車”は、革のスパイクが主流の時代にあって、人工皮革のスパイクを導入するなどの工夫をしつつも、基本的には自らの脚力を頼みに「よーい、ドン!」で走った。この2人の前を打つ(走る?)“1号車”は、その中間。言い換えれば、万能タイプだ。持ち前のスピードや一瞬のひらめきに加え、ゲームの流れやカウント、投手のクセ、球種を読んで、盗塁を仕掛けていった。
「投手のクセは、人から教わるのではなく、自分の感覚で見つけたものでないとダメ」
とも語るなどのこだわりもあった。
 ドラフト3位で81年に大洋へ。初めてのキャンプで、二塁手の先輩で西鉄出身の“天才肌の職人”基満男と同部屋となって、「プロはここまでしなきゃいけないのか」と、基の姿勢を見て学んだことは、基を紹介した際にも触れた。83年に基から二塁の定位置を奪うことになるが、その後継者もまた、天才肌であり、職人肌でもあり、頭脳派でもあった。

1年目の81年から三塁、二塁、遊撃、翌82年には外野も守り、早くからその器用さが重宝される。その翌83年にはスイッチヒッターにも挑戦。右打ちの選手が足を生かすために左でも打てるようにする、というのが一般的だが、もともと左打者で、

 「(右打席で)長打も打てるスイッチとしてアピールするため」

  だった。だが、6月5日の阪神戦(横浜)、同点で迎えた9回裏二死満塁、一打逆転の場面で、左投手の山本和行に対して左打席に入って、サヨナラセーフティースクイズを成功させる。以降は左打ちに専念。最終的にはリーグ6位の打率.314、12本塁打、27盗塁でチームのAクラス入りに貢献する。続く84年には自己最多の56盗塁で盗塁王に輝いた。

  攻守走に一流で万能、華麗かつスマートなプレーとは裏腹に“クセモノ”ぶりも一流。自分が正しいと思えば譲らない性格だった。二塁手に戻った87年はわずか2失策、セ・リーグの最高守備率.997をマークしたが、二塁のゴールデン・グラブを受賞したのは広島の正田耕三で、5失策、守備率.992。記者投票で決まる同賞に敢然と異議を唱えた。

  キャリアハイの打率.333をマークした91年からは3年連続で全試合に出場しているが、チームが横浜となった93年オフに自由契約となったのも、92年オフの年俸調停が一因だったとも言われている。

  その後は日本ハムで1年だけプレーして、94年限りで現役引退。2001年に横浜のコーチで球界復帰、アテネ五輪でもコーチを務めるなど、指導者を歴任する一方で、最近ではインターネットの動画サイトで宇野勝(中日)の“ヘディング事件”を再現するなど、“万能なクセモノ”ぶりも健在のようだ。

通算172勝の三浦大輔(DeNA)も、チームの弱体化が大台到達のネックとなった。

横浜時代の97年に初の二桁となる10勝を挙げ、翌98年も連続二桁の12勝で38年ぶりVと日本一に貢献。“マシンガン打線”を擁したチームは、97年から5年連続Aクラスと安定していたことも追い風となり、三浦もこの5年間で53勝を記録している。

 ところが、チームは02年に最下位に転落すると、以後、15年までの14年間で最下位10度と長い低迷期に入る。当然三浦の成績も伸び悩み、勝ち越したのは05年の12勝9敗の一度だけ。07年と13年にいずれも13敗でリーグ最多敗戦を記録したばかりでなく、開幕投手として7連敗というプロ野球ワースト記録までつくっている。

そんな逆境にあっても、プロ野球タイの1軍公式戦22年連続勝利の快挙を達成し、02年以降の低迷期も101勝を積み上げたが、大台には届かなかった。もし、この14年間、毎年2勝ずつ上積みされていれば、プラス28勝でちょうど200勝。「08年のFA宣言時に阪神に移籍していれば、200勝できていただろう」と残念がる声も多かった。

 だが、三浦自身は「それはないですよ。他球団に移籍していれば、もっと早く引退していた可能性もありますから。横浜にいたから25年間も投げられたんです」と否定し、16年の引退会見でも次のように答えている。

「(12年に)150勝したときも言いましたけれども、本当に横浜に残って良かったなと。たくさんのファンの方が喜んでくれる、喜んでくれた、支えてくれたというので、三浦大輔は本当に幸せ者だなと思います」。大記録をつくることよりも、もっと大切なことがあると実感させられる言葉である。