ボイヤー、シピン、ミヤーン、レオン、ポンセ、パチョレック、レイノルズ&ブラッグス「大洋から横浜、低迷期を彩った助っ人の系譜」/プロ野球20世紀の男たち
光る牛込スカウトの手腕
クライマックスシリーズ・ファーストステージで敗れ、2019年も日本一の夢はついえたDeNA。1960年に大洋として初の優勝、日本一に輝き、次の優勝、日本一は横浜となった98年で、これが球団史における、すべての栄冠だ。
近年はロペスやソトの打棒がチームの快進撃を支えているが、なかなか優勝には届かず。20世紀の優勝と優勝の間、37年もの長い年月も、多くの助っ人たちがチームを支えてきたが、優勝どころかAクラスさえも稀有なことだった。助っ人たちが無能だったわけではない。むしろ、ほかのチームと比べても、優秀な助っ人たちが並んでいる。助っ人にはトラブルもつきものだが、そうした“問題児”が少ないのも特徴だろう。
初優勝、日本一の60年オフ、東映から移籍してきたハワイ出身のスタンレー橋本が最初の外国人選手。その翌62年にはアグウィリー、マック、グルンの3選手を獲得した。ただ、この時代の大洋には、59年に本塁打王に輝いた桑田武や、怪力で“ポパイ”と呼ばれた長田幸雄などの和製大砲もいて、そこまで助っ人が存在感を放ったとは言い難い。
エポックとなったのは72年。大物メジャー・リーガーのボイヤー、もみあげとヒゲで当時の特撮ドラマから“ライオン丸”と呼ばれたシピンの加入だった。名門ヤンキースの正三塁手だったボイヤーと交渉したのは牛込惟浩スカウト。その後も多くの助っ人を獲得し、98年に“マシンガン打線”の四番打者として優勝、日本一に導いたローズの潜在能力に注目するなど、辣腕を振るった名スカウトだ。
ボイヤーは「カネで野球をするんじゃない」と、メジャー時代の半分にも満たない年俸で契約。ハワイでチームメートだったシピンを巻き込んで(?)、一緒に入団した。シピンは釣竿をかついで空港に登場。大洋では貴重な(?)問題児タイプだったが、正義感が強く親分肌、トラブルメーカーの外国人選手には他チームであっても説教することもあったボイヤーとは対照的に、尊敬するボイヤーには頭が上がらず。ともに打撃もさることながら、二塁のシピン、三塁のボイヤーによる併殺プレーは絶品で、特にボイヤーは別次元。同時代の三塁手で筆頭格だったのは巨人の長嶋茂雄だが、その守備を色褪せさせるほどだった。
シピンは78年に巨人へ移籍。75年オフに現役を引退して、そのままコーチとして山下大輔、田代富雄らを指導したボイヤーが、その後継者として紹介したのがミヤーンだった。骨折の影響で肩には不安があったものの、機敏なフットワークなどで二塁守備は抜群の安定感。バットを短く持って小首をかしげる独特なフォームで安打を広角に打ち分け、来日2年目の79年には打率.346で首位打者に輝いている。
ポンセとパチョレックがタイトルホルダーに
80年代の中盤はロッテを解雇されたレオンが中心で、安定した結果を残しながらも「勝負弱い」と言われて85年オフに解雇。後釜に座ったのが、ともに口ヒゲで“マリオ・ブラザーズ”とも言われたポンセとローマンだった。87年シーズン途中にローマンが退団。翌88年に加入したのがパチョレックで、勝負強いポンセは本塁打王に2度の打点王、巧みなバットコントロールのパチョレックは首位打者に輝くなど、低迷する大洋で打線の中軸となった。
90年代に入ると、レイノルズが来日1年目の91年にプロ野球新記録となる11打席連続安打。迫力ある外野守備も魅力だったが、大洋ラストイヤーの92年オフに自由契約となり、横浜“元年”の翌93年に加入したのがローズとブラッグスだった。ただ、ローズはブラッグスの“おまけ”みたいな扱いで、注目を集めていたのはメジャー通算70本塁打のブラッグス。死球に激怒する場面も見られたが、93年には29試合連続安打、翌94年には35本塁打でタイトルを争って期待に応えた。
故障もあって失速したブラッグスは96年オフに退団、優秀な助っ人が系譜に並ぶチームは、助っ人が実質的はローズ1人となった翌97年に急浮上したのは、なんとも皮肉な気がする。
ポンセ 『ラ・クカラーチャ』の明るい調べとともに強打を発揮した“マリオ”/プロ野球1980年代の名選手
1983年に発売されたファミリーコンピューター。学校が終わると近所の空き地で野球をしていた少年たちを一斉にインドア派に転じさせたのは、85年に発売されたゲームソフトの『スーパーマリオブラザーズ』だろう。マリオとルイージという口ヒゲをたくわえた外国人(に見える)の兄弟が活躍するアクションゲームだったが、その翌86年、大洋に口ヒゲをたくわえた2人の助っ人が入団する。
1人は、敬虔なクリスチャンで、(“神主打法”とは違ったパターンで)祈るようにバットを構えたローマン。もう1人が“マリオ”と呼ばれたポンセだった。確かに、球場で彼らを見ると、ファミコンの画面で見るマリオ兄弟のように、やたらと口ヒゲが目立ち、衣服(ユニフォームの背番号)でしか区別がつかないほど。開幕は四番のローマンに続く五番で迎えたが、ローマンが2人プレーでないと登場しないルイージのように影が薄くなっていき(?)、四番打者として勝負強さを発揮して、不動の“マリオ”となっていく。
ただ、晴れれば外で野球、雨が降れば家でファミコン、ということができた少年は、やや裕福な家庭の子であり、当時は大洋が地元チームだった80年代の少年でもある筆者を含めて、ファミコンに親しみがないファンにとっては、あまり“ポンセ=マリオ”という印象はないのではないか。むしろ、高木豊から加藤博一、屋鋪要の“スーパーカー・トリオ”に韋駄天の2助っ人がクリーンアップに続く“スーパーカー・クインテット”と売り出されていたほうが印象に残っている向きも少なくない気がする。
もともと忍者映画や時代劇が大好き。かつてボイヤーやシピン、ミヤーンら強力な助っ人たちを連れてきた腕利きの渉外担当でもある牛込惟浩が、85年オフに長距離砲のレオンを放出した近藤貞雄監督から「走れる中距離打者が欲しい」と言われ、ローマンを獲得した際に、同じブリュワーズにいたプエルトリカンにも声をかけた。親日家だったこともあり、すぐに来日が決定。牛込は「AAA級でシーズン52二塁打を放って“ミスター・ダブル”と呼ばれ、前年は21盗塁を決めている」と紹介した。
確かに、来日1年目の86年は18盗塁。ちなみにローマンも14盗塁を決めていて、それなりに“クインテット”は機能したが、いい意味で期待を裏切ったのが、そのバットだ。2年連続で三冠王となった阪神のバースがいたため無冠に終わったが、27本塁打、105打点、打率.322。長打力に勝負強さ、安定感も兼ね備え、オフに近藤監督が退任したこともあり、その後は盗塁ではなく、不動の四番打者として、ポイントゲッターとしての役割が求められていく。
87年から2年連続で打点王に
迎えた87年。バースと時を同じくしてパ・リーグで三冠王となった落合博満が中日へ移籍、セ・リーグは2人の三冠王によるタイトル争いになるかと思われたが、無冠に終わった2人の一方で、全試合に出場して98打点で打点王に。長打率.616はリーグトップ。35本塁打は自己最多、打率.323も自己最高だった。
翌88年は33本塁打、102打点で打撃2冠。打率は3割に届かなかったが、優勝した中日で最多勝に輝いた小野和幸、巨人のガリクソンからは打率.462、広島で最優秀防御率の大野豊からは打率.500、ヤクルトの尾花高夫に対しては打率.400、阪神のキーオには打率.375と、各チームのエース格を攻略するなど、四番打者としては申し分ない働きだった。
だが、その翌89年からはバットが湿り始める。メガネをかけ、トレードマークの口ヒゲをバッサリと剃り落として、「朝、手入れをしていたら面倒になった」 と語ったが、不振から脱出するための気分転換だったのは明らかだった。それでも89年は不振なりに12盗塁やリーグ最多の7三塁打、9犠飛などでチームに貢献しようとしたが、その翌90年がラストイヤーとなった。
雨で試合が中断すれば水しぶきを上げながら本塁へヘッドスライディングするパフォーマンスも見せた。客席から送られたメキシコ民謡『ラ・クカラーチャ』の明るい調べとともに、印象を残した愛すべき助っ人だった。